地下の冷気は、巨大な鉄扉を隔てた先で、刺すような重圧へと変貌していた。
放水路の暗渠を抜けた最奥部、旧地下変電所の広大な吹き抜け空間。天井から垂れ下がる無数の切断された高圧ケーブルが、青白い放電の火花を時折散らし、足元を満たす油混じりの濁水に燐光を落としている。
だが、大気を震わせているのは漏電の火花ではない。
空間そのものが帯電し、肌の産毛が逆立つほどの濃密な呪詛の嵐――「数秘紋・雷霆」。
死徒ロアが幾重もの転生を経て研ぎ澄ましてきた、神代の術理を思わせる魔術の気配だった。
「……いるわね。奥の配電ステージよ」
アルクェイド・ブリュンスタッドが、濡れた金のショートヘアを払うことなく低く呟いた。
彼女の真紅の瞳は、暗闇の奥、二階層ほど高くなった鉄骨のバルコニーを見据えている。志貴に十七分割されたダメージは、先ほどのグール狩りの間にも癒えきってはいない。その華奢な肩の上下動には、隠しきれない疲労と、抑え込むほどに苛烈さを増す「血への飢え」が滲んでいた。
「アルクェイド。貴女は前へ出過ぎないでください」
シエルの硬質な声が背後から響く。
法衣の下から取り出されたのは、彼女がこの三咲町の戦いのために用意していた最大の切り札――概念武装『第七聖典』。巨大な鉄塊のような銃身と、有角の獣の骨格を模した銃床を持つ異形の破邪兵器が、彼女の腕の中で重々しい駆動音を立てていた。
「今の貴女の霊力では、ロアの雷撃結界を一撃受けただけで霊基の再構築が追いつかなくなります。……トドメを刺すのは貴女でも構いませんが、前衛の突破は私が引き受けます」
「ふん。教会の使い魔の分際で、偉そうに真祖に指図するんじゃないわよ」
アルクェイドは忌々しそうに口元を歪めたが、シエルの指摘が的を射ていることは誰よりも理解していた。
今の彼女の霊力は、全盛期の十分の一にも満たない。志貴の直死の魔眼によって削り取られた傷は、真祖の不滅性をもってしても即座には埋まらないのだ。
そして――その二人のやり取りの横で、与野飛鳥はブレザーの袖をまくり、静かに水たまりを踏み締めていた。
「飛鳥くん……」
シエルの蒼い瞳が、すっと飛鳥の横顔へと向けられた。
その眼差しには、先ほどまでの絶望や疑念の濁りはない。しかし、代わりに宿っていたのは、痛いほどの祈りと、身を裂くような心配だった。
「……本当に、大丈夫なのですか? さっきの数十体の変異種……あれだけの死徒の呪詛を一度に呑み込んで、身体に異変はないのですか?」
シエルにとって、飛鳥の持つ『起源:捕食』は、未だに理解の範疇を超えた未知の力だった。
死徒の呪詛とは、人間を侵し、魂を腐敗させる猛毒だ。それを数十体分も丸呑みにしたのだ。いくら特異体質とはいえ、いつその精神が怪異の毒気に呑まれて狂乱してもおかしくはない。
飛鳥はシエルの視線に気づき、ふっと目元を緩めた。
「心配いりませんよ、シエル先輩。さっきも言ったでしょう? 俺の炉心は、ああいう下品なゴミを燃やすために最適化されてるんです。……むしろ、少しお腹が温まったくらいです」
「強がりを言わないでください……! どんな力であれ、無茶を重ねれば代償は貴方の魂に返ってくるのですよ!」
シエルの声が、微かに上擦る。
第七聖典を構える彼女の手が、ほんの少し震えていた。
かつて自分自身がロアの器となり、内側から魂を蝕まれて破滅した記憶。目の前で笑う無垢な後輩が、自分と同じように「人外の力」に侵食されて壊れていくのではないかという恐怖が、彼女の胸を容赦なく締め付けていた。
(……この人は、どこまでもお人好しだな)
飛鳥は胸の奥で、苦笑混じりに息を吐いた。
代行者として数多の異端を容赦なく撃ち殺してきた冷徹な戦士が、たった一人の後輩のことになると、こうも脆く、痛々しいほどに人間らしくなる。
その不器用な優しさが、飛鳥の内なる『捕食』の獰猛な衝動を、どれほど静かに鎮めてくれているか、彼女自身は夢にも思っていないのだろう。
飛鳥は一歩近づき、第七聖典を支えるシエルの細い手首に、そっと指先を添えた。
「先輩。俺は絶対に壊れませんよ。……先輩が点ててくれたお茶の味を忘れるような化物には、絶対になりません」
「飛鳥、くん……」
皮膚と皮膚が触れ合う。
その瞬間、シエルの指先から、彼女が無意識に溜め込んでいた極度の恐怖と、ロアへの怨嗟の毒気が、スッと飛鳥の体内へと吸い上げられていく。
ドクリ、と飛鳥の魂の炉心が小さく唸り、それを純粋な温もりに変えて溶かした。
シエルの呼吸が、ふわりと落ち着きを取り戻す。
「……まったく。口ばかり達者になって……」
シエルは眼鏡のない素顔を赤く染め、俯き加減に呟いた。けれど、その瞳の奥には、確かな戦意と、後輩と共に生きて帰るという揺るぎない覚悟が灯っていた。
その時だった。
――バチッ……ギィィィィンッ!
頭上の鉄骨を震わせ、紫紺の電弧が爆発した。
突風が吹き荒れ、足元の濁水が津波のように逆巻く。
バルコニーの影から、ゆっくりと姿を現したのは、見慣れた三咲高校の男子制服を纏った少年だった。
だが、その佇まいは、遠野志貴のそれとは決定的に異なっていた。
眼鏡は投げ捨てられ、露出した双眸は蛇のように細く、冷酷な狂気と知性を宿して濁った黄金色に発光している。
右腕からは、青白いプラズマのような魔力の触手が何十本も立ち上り、周囲の鉄骨を触れる端から溶解させていた。
遠野四季――その肉体を完全に掌握し、受肉を果たした死徒ロア。
「――久しぶりだな、アルクェイド。そして……哀れな我がかつての半身、シエル」
ロアの唇が、嘲弄の弧を描いて吊り上がった。
声は遠野四季のものだが、その響きには千年にわたり転生を繰り返してきた怪異の、底知れぬ傲慢と冒涜が満ち満ちていた。
「見苦しいな、アルクェイド。あの七夜の出来損ないにバラバラに刻まれ、そこまで霊基を削ぎ落として這いずり回るとは。……お前が私の前に立つなど、もはや笑い草にもならん」
ロアは視線を滑らせ、第七聖典を構えるシエルを一瞥した。
「そしてシエル。自らを殺すこともできず、教会の人形として私の足跡を追い続ける亡霊め。……今代の私の器は、遠野の反転の血肉だ。この肉体が生み出す生命力と雷霆の術理は、過去のどの器よりも完璧だ。お前たちの錆びついた鉄杭などで、今の私を止められるとでも思っているのか?」
「黙りなさい、ロア……!」
シエルの全身から、殺意の魔力が噴流となって立ち上った。
「貴方のその醜悪な転生の輪廻を、今夜この場所で完全に断ち切る! 私の魂に刻まれた罪も、すべて貴方の消滅とともに終わらせます!」
「終わらせる、か。……笑わせるな」
ロアの黄金の瞳が、ふと、シエルの斜め前――無造作に立つ与野飛鳥の姿を捉えた。
ロアの眉が、わずかにピクリと動いた。
「……何だ、その小僧は。教会の増援か? いや、霊気の波長が違う。……おい、シエル。まさか貴様、人間の子供を盾にしてここまで連れてきたわけではあるまいな?」
ロアが鼻で嗤い、右手を無造作に掲げた。
「まあいい。どのような雑魚であろうと、我が雷霆の前に炭屑となる運命に変わりはない。――数秘紋・雷針(スクワイア・ボルト)!」
ロアの指先から、数万ボルトの紫紺の電撃が、大気をプラズマ化させながら一直線に放たれた。
音速を超える雷の槍。直撃すれば、人間の肉体など一瞬で蒸発し、周囲のコンクリートごと消滅する必殺の魔術行使。
「飛鳥くん――ッ!!」
シエルが悲鳴を上げ、第七聖典を盾に前に飛び出そうとした。
だが――。
「先輩は、撃つ準備だけしててください」
飛鳥の静かな声が、雷鳴を裂いて響いた。
少年は、逃げることも、避けることも、身構えることすらしなかった。
ただ、歩み出るように一歩前へ踏み出し、放たれた紫紺の雷撃の切っ先へと、自らの右手を無造作に差し出した。
――その刹那。
飛鳥の魂の深奥にある『起源』――『捕食』の炉心が、最大出力で咆哮を上げた。
カチリ、と世界の法則が噛み合わなくなる音がした。
飛鳥の掌を中心に、視界のすべてを飲み込むような、完全なる「無の孔」が展開される。
神代の雷霆、数百年研ぎ澄まされたロアの大魔術、空気を焼き尽くす高密度のプラズマ――そのすべてが、飛鳥の掌の数センチ手前で、信じがたい力場によって急激に歪められた。
ゴォォォォォッ――!!
大気が悲鳴を上げ、紫の雷光が、まるで排水口へと吸い込まれる激流のように、飛鳥の右手のひらの中へとなだれ込んでいく。
「――な……に……!?」
ロアの嘲笑が、凍りついたように止まった。
飛鳥の全身の血管が、青白い光を帯びて微かに脈打つ。
バキバキ、ゴクン。
体内深くで、異形の炉心が神代の雷霆を噛み砕き、その魔術構造を完全に解体して、純粋なエネルギーへと変換していく。
飛鳥のブレザーの裾が微かに風に揺れただけで、少年の肉体には焦げ跡一つ、擦り傷一つ生じていなかった。
飛鳥はゆっくりと掌を握り込み、喉の奥から立ち上る魔力の燐光を小さく吐き出した。
「……なるほど。下等なグールと違って、千年の呪詛は流石に味が濃いですね。少し塩辛いですが、腹の足しにはちょうどいい」
飛鳥の切れ長の瞳が、暗闇の中で捕食者の冷徹な光を放ち、配電ステージの上のロアをまっすぐに見据えた。
「死徒ロア。……先輩を傷つける前に、お前のその千年の魔力、魂の芯まで残さず俺に喰わせてもらいますよ」
地下の巨大空間が、信じがたい怪物の宣戦布告に、静まり返った。