過労死ライン越え(TS)転生者 キャロライン・オーバーは労働の待つ輪廻から解脱したい 作:エテンジオール
多胞体様から破裂音のような音が聞こえて、気がついたら暗くて明るい場所にいた。きっと、生まれ変わったのだろう。おぎゃあと泣こうと思ったが、声が出ぬので考えた。産まれてから泣こう。そうともよくあるよくあることさ。
手、動かない。足、動かない。口、開かない。目、あるのかすらわからない。果たしてこれは本当に生まれ変わったのだろうか。意識的にできることが何もない中で考えて、思いついたのはふたつの可能性。この動けない体が新しい生のあるべき姿ということと、これはまだ産まれる前だということ。
前者であれば、できることは絶望することしかないだろう。ついでにかの多胞体様には騙された。生まれ変わらせる先が、自発的な行動のできない肉塊なのであれば、私はなんのために生まれたのか。労働が嫌だとは言ったが、活動が許されないことは嬉しくないのだ。お母さん、なんで僕を産んだの。……多胞体いわく俺はキャリーちゃんらしいから、どうして私を産んだの。だな。
後者であれば、俺はまだ人間として形成される前ということだ。赤ん坊が、胎児でいるうちから人格が宿るというのは、少々酷ではなかろうか。基本的人権すら与えられていないのに、俺は成人男性相応の思考能力を有している。……なんで赤ちゃんのつるつるな脳みそで思考ができるんだよ。おかしいだろ。魂だか精神だかが高次元に存在していて、この脳は入れ物でしかないとでも言うつもりか。
一旦、後者として考える。理由は、前者だと俺にとってあまりにも救いがないから。後者であっても誰かにとっては救いがないのだが、俺は自分と他者の救いなら自分を取る。……体が動かないってことは、胎児の体が最低限人間の体として成立する前ということ。少なくとも、まだ胎動よりも早い時期だ。それと堕胎可能な時期を考えれば……いや、最後までは言うまい。
自身が無事生まれられるか心配になり、同時に生まれる場所が日本とは限らないから諸々の法律が適用されるかわからず、生まれる直前できゅっと締められる可能性があることにも気が付く。寸前ですらなく、直後かもしれない。基本的人権って知ってる?……適用されないか。胎児だもんね。
不明な空間で過ごすことしばらく。時間を数えるすべもなく、基準もない俺は、早速狂いかけていた。おいおい、産まれる前から発狂するタイプの転生者かよ。珍しいな。あるいは全ての赤ん坊は発狂転生者の成れの果てで、その残滓と呼ぶべきものが生まれながらの個性ってやつなのか?なるほど、産まれる前から他所様の子供に寄生している化け物なら、生まれながらに罪を負っているのも納得だ。それに課せられる罰が労働なら、残滓から出来た赤ん坊にはやっぱり罪がないから酷い話だ。
その理屈でいけば、このまま正気を保つことに成功すれば、俺は自身の罪を自分で贖えるのではなかろうか。そんな意味のない考えに励まされ、多胞体様に祈ることで時間を潰す。転生と、ツルツルのはずなのに回る脳によって、科学への信仰を奪われた俺にとって、信じられるものは高次存在である多胞体様だけだった。
祈っているうちに、体は動くようになっていった。祈っているうちに、明暗が分かるようになっていった。祈っているうちに、音が聞こえるようになっていった。勘違いや偶然なんかじゃなければ、これは俺の体が人間に近付いている証拠なのだろう。少なくとも胎生の動物ではあり、かつ犬などの多頭出産が当たり前なものではない。この狭いゆりかごの中には、自分以外の存在を感じなかったから。
多胞体様に祈りながら、自らの誕生が迫っていることを実感すると、次第にこの環境に対して未練が湧いてくる。働かずとも生きることができて、産まれる前が故に生まれながらに与えられる罰から逃れられている状況。ここにポテチとPCがあれば、もう何もいらない完璧な空間である。水分?体の周りにいくらでもあるんだ。羊水っていってね。
ちょうど人肌な、温かい水の中で浮き続ける感覚。その心地良さを理解できるようになった頃には、積み重ねた祈りによって、俺は立派な信奉者となっていた。この世に神はいる。この世かはわからないが、神はいる。神は人の形なんかしていないし、人間ごときが正しく認識できるほど低次元な存在ではない。よって、前世の世に蔓延っていたあらゆる宗教は虚構であり、偽りである。正しい信仰とは次元を越えた先にあり、多胞体様こそが救いの主なのだ。
今世の世界にどんな宗教があるのかは知らんが、決してこの信仰が負けることはないだろう。だって、俺は自らの身で奇跡を実感しているのだから。この転生という奇跡自体が、俺の信じる神の証明なのだから。天地を造った神がなんだ。人の至った仏がなんだ。森に生きる精霊がなんだ。所詮三次元で表現できる程度の存在が、多胞体様に敵うはずがない。水をワインに変えようと、蜘蛛の糸で極楽浄土に招こうと、スピリチュアルパワーで敵部族を片端から呪い殺そうと、そんなものは幻想である。
産まれる前から得体のしれない存在の狂信者という、今世の両親にとってこの上なく親不孝な存在になりながら、俺はこのまま生まれずにいたいと願う。罰から逃げたいという、極めて人間的な願望だ。そんな、親不孝に親不孝を重ねた存在になりながら、生まれるのは一瞬だった。 ママ上を無駄に苦しめるのは本望じゃないからだ。
早速課せられた罰に泣き、叫びながら疲れて眠る。明るすぎる光はまぶた越しにも眩しくて、触れる全てが苦しかった。そして何より、労働が待ち構えていることで心が苦しかった。
泣きに泣いて、あやされにあやされて、ようやく理性が苦しみ以外を認識したのは、おそらく数日経ってから。まだ眩しい世界をおそらくキラッキラな瞳で見渡して、目が合ったのは金髪の美人さん。オーバーさん家のキャリーちゃんを産むだけあって、実に日本人離れした容姿だ。
なるほど、こいつが俺のお母様か。そう思って、よっす、おらキャリー!と赤子らしからぬ知性をお披露目しようとしたところで、喉からは
小学校で嘘を教えられていたことに、俺は大層傷付いた。傷付くあまり、その後のことが全て脳みそから吹き飛んで、気がついたら卒乳していた。齢一歳である。人間は心に深い傷を負うと、呆然としたまま記憶を失い、赤子のようになるらしい。……もちろん嘘だ。実際には美人さんなお母様からの授乳に心頭滅却し、さらに赤ん坊扱いへの羞恥に心を無にした成果である。聖徳太子の逸話を信じてる人なんているわけないじゃんね。現実見ろよ、現実。
脳内であれば好きなように嘘をつけるという、素晴らしい現実に歓喜しながら頭の中で適当なことを考えつつ、つるふにゃな脳みそに言語を叩き込む。まだ一歳の俺に認識できる言葉は極わずか、自分のお名前であるキャロライン、お母様を指すママ、お父上を指すパパを筆頭に、300くらいだ。左右に5本ずつ生えているお指の親指以外では数えるのに足りなかったから、おそらくそのくらいだろう。小学生の覚える英単語が700程度らしいので、小学生の英語力の半分程度である。うーん、なんもわかんねえな。数と名詞がいくつかくらい。あと、指の数的にこの世界は十進数を使ってそうね。
さすがにオーバーさん一家が揃って両手の欠指症を患っていることはないだろう。両親だけならヤなかんじで詰められている可能性もゼロではないが、俺はそうではない。さすがに茫然自失状態でも赤ちゃんお指が落とされたら気が付く。……そもそもこんな美人なお母様が指落とされるようなヘマするわけねえだろ!
そんな益体もないことを考えながらぐずり、両親にいないいないばーのようなことをされてあやされる。赤ん坊の発達が全世界で共通だとすれば、遊び方や遊ばせ方が似通うのも自然。いないいないばあが共通なことも自然である。わーい、きゃりー、たのしーい!
泣いてみせるだけでいくらでも構ってくれるちょろい両親のいないいないばあを心の底から楽しみつつ、お母様の首筋についた赤い跡から、護衛?対象になる妹ちゃんの誕生が遠くないことを察する。このグズりは、両親の時間を奪うことで
そんなこんなの遅滞行為には失敗し、一年後にはお母様のお腹は大きくなっていた。推定かわいい妹の生成中である。ついでにお父上のお腹もプニついてきた。幸せ太りである。
この一年で成長したのはお父上のお腹だけではなく、俺の語彙力もだ。中身的には第二言語だったとしても、新品なこの脳みそにとってはれっきとした第一言語。転生者の余計な記憶のせいで発語が遅れるなんて悲劇は起きず、キャリーは元気にお喋りができる。
「キャリー、あなたはお姉ちゃんになるの。産まれてくる子に優しくしてあげてね」
お母様の近くに絵本を持っていき、キャリーにかまって!とわがままを言うと、愛おしそうにお腹を撫でたお母様にそう言われる。もちろん、お母様が撫でていたのは自分のお腹で、俺のお腹ではない。
おっけーママ上、キャリーはいい子に愛でるわよ!産まれてくる子はあらゆる苦難から守ってみせるわ!と、頭の中では無駄に饒舌な決意表明。ママ上に頼まれなくったって、俺が心からの信仰を捧げている多胞体様からの命令だ。消極的には自分の命より大切に、優しくしてやるとも。
「素敵なお返事ね。ふふっ、キャリーはお姉ちゃんになるの、楽しみ?」
俺の返事を聞いて嬉しそうに笑うお母様。えくぼがチャーミングだね。それはさておきどちらかといえば恐怖を感じています。多胞体様がわざわざ俺を転生させる以上、まだ見ぬ妹ちゃんには恐ろしい未来が待っているはずなのだ。正直想像もつかないが、本格的な労働が始まることだけは確か。ごめんな、ママ上。キャリーは妹が生まれてこないことを願っている。
けれど、優しい表情をしているお母様に、そんな言葉を伝えられるわけがない。この場においての正解は、自身の内心を偽って、楽しみだと伝えることに他ならない。だから俺はお母様に向けて、満面の笑みでたのしみっ!と口にする。途端に小さな心臓が痛覚的な意味で苦しくなって、俺は倒れ込む。
「キャリー?……キャリー!どうしたの!?」
突然、齢二歳の娘が胸を抑えながら苦しみだしました。直前まで元気にしていたのを見ていた母親の反応を答えよ。なんて設問があれば満点を取れるであろう反応を見せてくれたお母様と、正直そんな呑気なことを考えていられる余裕のない俺。これがいつも(頭の中で)している悪ふざけであれば冗談で済む話だが、肉体的な苦痛と伴っている以上冗談ではすまない。
心配して覗き込むママ上の表情を見ながら、意識がブラックアウトする。そしてその直後、俺の目の前には慈愛の表情を浮かべたお母様の姿があった。
「素敵なお返事ね。ふふっ、キャリーはお姉ちゃんになるの、楽しみ?」
直前までのことが無かったかのように、同じ質問を繰り返すお母様。この時、俺のスベスベな脳細胞が唸りをあげる。実際に起きたことと、いと素晴らしき多胞体様からのお言葉を照らし合わせて、後者を全面的に信じることで仮説を補強。
「うん!キャリー、お姉ちゃんになるのたのしみっ!」
その証明のため、先程と同じ言葉を口にすれば、途端に苦しくなる心臓。予想できていた分、あまり苦しくはな……ごめんやっぱ苦しいわ。心臓止まって苦しまないわけがないじゃんね。そして此度も心配そうに覗き込むお母様の姿を焼き付けて、
「素敵なお返事ね。ふふっ、キャリーはお姉ちゃんになるの、楽しみ?」
……うーん、限定的な未来予知ってそういうことか。