九歳になり少しした初夏のこと、ウィリアムズ領に変な人が移住してきた。特許法の噂を聞きつけてフラウロ帝国から遠路遙々やって来たらしい。
自称・発明家のその青年──といっても三十路は過ぎている──は、イエルと名乗った。顔立ちは端整なのにいつもしわだらけのワイシャツを着ていて髪もリアル無造作ヘアー──そんな、野暮ったい風采をした青年だった。
そして、イエルは錬金術師だった。
錬金術──ゴーレムなどの物体を作り出す魔法のことだが、その作り出された物体は魔法とは別の概念により駆動するという。つまり、ゴーレムを作るのは魔法だが、ゴーレムを動かすのは魔法以外のシステムによるということだ。具体的には、生物の命や魂、感情、肉体、五感を燃料にすることが多い。ある意味、最も特殊な魔法と言える。要求される知識量も膨大で、習熟難易度も群を抜いて高い。真理に最も近い学問と言う者もいるほどだ。尊敬する者も、特に
しかし、イエルは錬金術を使おうとしなかった。
そこが変わっているのだ。普通、錬金術師は錬金術を極めようとする。しかし彼は、錬金術を忌避しているようだった。
「じゃあ何で錬金術を修めたんだ?」
イエルの工房を訪ねて話を聞いた俺は、そう尋ねた。
すると、彼は哀切の色をたたえた。
「逢いたい人がいたんだ。僕は錬金術で彼女を作り出そうとした」
生体ゴーレムというものがある。有機的な肉体を持ったゴーレム、つまり肉人形のことである。
イエルにはかつてベルタという恋人がいた。病で亡くなったのだ。
悲しみに暮れたイエルは、生体ゴーレムという可能性にすぐに思い至った。ベルタが大学で学んでいたのが錬金術だったからだ。
その肉人形を使えば彼女を蘇らせることができるのではないか。
そんな妄執に取りつかれ、錬金術に救いを求めた。
「で、どうなったの?」俺は尋ねた。我知らずスツールから身を乗り出していた。
イエルは影色の微苦笑を洩らした。
「彼女を造り出すことはできたよ。でもね、あれは確かに彼女であって、彼女とはまったく別のものだった──時に、アラン君は哲学的ゾンビというものを知っているかい?」
「俺たち人間とまったく同じ肉体構造を持ちながら主観的感覚すなわちクオリアが存在しないとされる有機生命体のこと」俺は聞き齧りの知識を諳んじ、「──でもあれって、物質厨の主張いわゆる物理主義に対するカウンターという意味以上のものはないんじゃないのか?」
「僕もかつては君と同じように考えていた。クオリアなんてものは弁証論的な方便にすぎず、現実には存在しないとね」
イエルはもったいをつけるようにおもむろに長い脚を組み換えた。俳優めいていて妙に様になっている。
「もしも人というものの成立に、肉体という器と電気信号による機能以外のものが必要だとしたら、それはやはりクオリアだろう──
錬金術というのは有償双務魔法なんだ。得るものと差し出すものが釣り合ってなければならない。そのうえ一度錬成したものに後から手を加えることはかなわない。せっかく錬成した彼女が、クオリアを持たないがゆえに空虚な笑みしか浮かべられなかったら悔やんでも悔やみ切れないからね」
「……成功したのか?」
「見かけ上はね」
「──まさか、その生体ゴーレムは哲学的ゾンビだったのか」
イエルは、「ああ」と顎を引いた。
「錬成の瞬間、僕は僕の
「NTRビデオレターを受け取った純愛過激派の優男みたいな感想やな」
「──え? 寝取られ?」
「戯れ言だ、気にするな──それで、その彼女とはどうなったんだ?」
「あ、ああ」イエルは釈然としないふうながらも話を進めることにしたようだった。「いくらクオリアがないとはいっても人としての機能に問題はない。会話もできるし食事もできる。触れれば温かく、抱きしめれば柔らかい。そんな彼女を廃棄することなんかできなかった。僕は彼女を受け入れ、共に生活することにした」
そこで、イエルは憂いを帯びた自嘲を滲ませた。
「傲慢だったと思うよ。その時には僕自身も哲学的ゾンビになっていたというのにね。
けど、それ以上に愚かだった。クオリアを失うということが何を意味するかまったく理解していなかったんだから」
クオリアを失った人はどうなると思う? ──やる気のある教師みたいな、ちょっと鬱陶しい顔でイエルは問いかけてくる。
視線を虚空にさ迷わせて答えを探してみても、そこには工房の淀んだ空気しかない。俺はかぶりを振った。
「想像できないよ。クオリアの実感がそもそもないんだから」
イエルは満足げに、しかし暗く微笑した。
「味がわからなくなっていたんだ。
ケーキを食べれば舌は甘味を知覚するのに、その甘味がわからない。
味覚だけじゃない。五感のすべてがそうなっていた。
暮れゆく空を見れば眼球は茜色を知覚するのに、その色がわからない。
楽師の演奏を聴けば鼓膜は旋律を知覚するのに、その音がわからない。
──何が何だかわからないという顔だね。
噛み砕いて言うと、知覚はできてもそこにある事象として認識できないということだよ。どれだけ彼女に触れ、その実在を確かめても、僕には彼女が確かにそこにある現実の存在として認識できなかった。もちろん、今ここにいるアラン君だってそうだよ。僕の世界においてはアラン君は今ここにはいない」
「ええと……」
俺は混乱した。訳わからなすぎ。噛み砕いてないやろ。かえってサクランボの枝結んでるって。知覚するよりまず先にそれを自覚してくれ。哲学かな? 哲学だったわ。
と、今まで壁の
「夜の砂漠を歩くようですな。わかりますぞ。信頼していた部下に
イエルは我が意を得たりとばかりに大いにうなずいた。「まさしくそういうことです」
つまり、どういうことだってばよ? NTR男同士で通じ合うのやめてもらっていいですか? それってNTR男の感想ですよね?
と喉まで出たが、気合いと根性と正義の心でぐっっっとこらえて、世界が散文的に感じられるようになったということだろうと、ひとまず理解しておくことにした。
「僕は絶望した」イエルはシリアスを続けるようだった。「もはや生に意味を見出せなくなっていた。死んだように生きる、まさにゾンビのようで──そしてその苦しみは彼女も同じなのだという論理的帰結が僕をより深い絶望へと落とした。
眠れない日々が続き、僕が自殺を考えるようになるまで時間は掛からなかった。
けれど、そんなことは彼女にはお見通しだった。聡い人だったんだよ。
僕は彼女に諭され、慰められ、生を選択した。幸い、応用技術まで習得した錬金術師は貴重で、錬成した金属や建材を売ったり大学で講義をしたりすることで十分な収入が得られた。相変わらず眠れないことが多かったけれどね、真綿で首を絞められるような緩やかに朽ちてゆく穏やかな生活も悪くなかったよ」
けれどそんな生活も長くは続かなかった、とイエルは語る。
「ある日、彼女がどろどろに溶けてしまったんだ。
その日、僕は大学の講義で錬成を実演するために朝から外出していた。錬金術は発動までにいろいろと準備が必要で時間が掛かる。だから、いつも余裕を持って取り組むようにしていたんだ。
講義を終えて大学を辞去したころにはお昼を過ぎていた。早く帰って彼女の甘やかな体温を感じたかったのだけれど、錬成の疲れから広場のベンチでうたた寝をしてしまった。普段はしないのだけれど、自分が思っていたよりも疲労が溜まっていたんだろう。
目を覚ましたのは午後の四時ごろだった。僕は急いで家に帰った。
玄関扉を解錠し、開けたところで、
『おや?』
おかしいな、と思ったよ。
いつもなら彼女が出迎えてくれるのに、その日は静まり返っていて足音さえ聞こえない。嫌な予感がして部屋を検めていった。一階には彼女はいなかった。
二階に上がり、寝室のドアノブをひねる。しかし開かない。施錠されていたんだ。
僕はドアを叩いて彼女の名を呼んだ。何度呼び掛けても返事はなかった。
うるさく鳴る心臓に急かされてドアを蹴破ると、ベッドの上に血肉が放射状に広がっていた。煮込みすぎたビーフシチューを鍋ごとひっくり返したみたいだったよ。
その “どろどろ” の中に光るものを見つけた。彼女にプレゼントした指輪だった。
僕は寝室を見回した。
すると、壁際の机に鍵──ウォード錠の束と封筒が置いてあった。机にはいつもメモ帳とペン立てを用意してあるんだけど、その手前に並べられていたんだ。
彼女からの手紙に違いない。そう思って封を切ると、やはりそうだった。彼女らしい丁寧な字でこう書かれていた。
『突然のお別れになってしまい、本当にごめんなさい。
けれど、これでよかったのだと思います。
わたしはとてもつらかった。
変わってしまった自分の質感に憂悶しつづけるあなたを見ているのは、胸が張り裂けるような心地でした。
わたしはあなたに幸せになってほしい。
あなたは頭のいい人です。可能性は幾らでもあるはずです。だからお願いです。過去の幻影に囚われ、ありうべき輝かしい未来から目を逸らしつづけるのはもうやめにしましょう。
わたしはもう十分、生きました。とても幸せな生でした。すべてあなたのおかげです。
愛しています。
そしてもし、こんなわたしをまだあなたが愛してくださるというのなら、どうかわたしのことは忘れて、新しい人と未来を生きてください。
さようなら、イエル、わたしの最愛の人。』
読み終わってからしばらくは茫然自失で立ち尽くしていたよ。我に返ってようやく状況が飲み込めた。
現場は家と寝室の二重の密室だった。当然、窓はあるけどすべて施錠されていたし、鍵も僕が持っていた玄関のもの以外はすべて寝室にあり、トリックを弄した痕跡もなかった。つまり、他殺は考えにくい。
考えられる可能性は自殺か事故の二択。
自殺であれば、彼女に甘える僕を
「二重の密室にした目的は?」クリフが質問を挟んだ。
「他殺の可能性を確実に潰すためだろう」イエルは答える。「まかり間違って他人の犯行だと誤解されたら、その人に迷惑が掛かる。特に僕の場合、自分で言うのも情けないんだけど、彼女のことになると物事が見えなくなるきらいがあるから、それを心配したんじゃないかと思う」
「賢く優しい人だったのですな」クリフは感じ入るように言った。
「ええ」イエルは曖昧に微笑むと、「二つのうちどちらが真相かは判然としないけれど、いずれにせよ彼女は僕の生を望んで消えていった。彼女のいない世界にどんな意味があるのかはいまだにわからないし、クオリアはずっとなくなったままだけれど、僕は生きなければならない。
ただ、もう錬金術とは関わりたくない。
結局のところ、錬金術は僕にとっては毒でしかなかった。あるいは、死者の創造は禁忌だったのかもしれない。だからこんな結末になった。
僕は弱い。未練たらしく錬金術にしがみついていたら、また魔が差してしまうかもしれない。もう二度とあんな思いはしたくないんだ。錬金術を封印したのはそれが理由だよ」
必要としてくれる人には申し訳ないと思うけれど。イエルはそう言って話を締め括り、すっかり冷めてしまったグリューワインを啜った。
「……」俺は少し逡巡してから、「もしもの話だが」と口を切った。「もしも第三の可能性があったとしたらイエルはどうする?」
真実だけが人の心を救うわけではない。過去のことをほじくり回されたくないというのなら口をつぐむつもりだった。
「……」イエルはマグカップを丸テーブルに静かに置いた。「その可能性は蓋然性に至っているのかい?」
「相対的には」
イエルは、ふっ、と鼻で微笑し、
「 “ウィリアムズ領には二人の賢者がいる” 」
突然、話題を変えた。
「僕がここに越してきたのは発明家にとって都合のいい環境だからってだけじゃない。行商人が噂していた “賢者” に興味があったんだ。そして、どうやらその賢者の一人はアランという名前らしい」
その声には悪戯めいた、あるいは少年のような響きがあった。
「 “賢者の石” とは訣別した僕だけれど、“賢者” とはそうではない。その叡智にお目にかかれるのならぜひともお願いしたいものだね」
「余計な尾ひれが錬成されているようだが、ご要望とあらば披露いたしましょう」
おどけて答えると俺は、一度唇を湿らせ、推理を語りはじめた。
「イエルは二重密室の目的を、他殺の誤解を防止するためと解釈したようだが、それでは不整合だ」
「他殺だったというのかい?」イエルは問う。
「いいや、他殺の否定は正しい。密室に不審な痕跡がなかったのならば通常は他殺はありえない。
おかしいのはその目的の部分だ。
冷静に考えてみてほしい。自殺にしろ事故にしろ、他殺だと誤解されたくなかったなら、手紙にそう記されていないのはその目的に整合しない。イエルが “彼女らしい丁寧な字” と判断したからには、彼女の筆跡だとはっきりと認識できたんだろう?」
イエルはうなずいた。
「であれば」と俺は続ける「手紙の偽造を疑われる心配もなかったはずだ。仮に突発的な事故だったとしても、寝室のメモ帳を使わずにわざわざ便箋と封筒を用意していたことから、時間的にある程度の余裕があったと推測できる。手紙に一文、『これは他殺ではない。』と記す余裕くらいはあったはずなんだ」
だったら本当の目的は何だったんだい?
目顔で結論を急かすイエルを、
「まぁそう慌てなさんな。順を追って一つずつ説明していくから」
と落ち着かせ、
「彼女が密室にした目的を読み解く鍵は、やはり手紙にある。通常の理解力があれば確認は不要だと思うが、念のため手紙から読解できる彼女の心情について述べておく。
一つは “クオリアを喪失した自分について悩むイエルに対する憐憫” 。
そしてもう一つは “イエルに幸福になってほしいという願い” 。
いずれもイエルへの性愛に基づいている。
ここまではいいな?」
イエルとクリフが不揃いにうなずく。
「よろしい。では、そこから演繹される彼女の目的は何かな?」
「……」イエルは戸惑うように思案し、「僕にクオリアを取り戻させようとする、と言いたいのかい?」
腑に落ちないという口ぶり。
だが、
「そう、それが自然な帰結というものだ。
ベルタは大学で錬金術を専攻していたんだろう? であれば、やろうと思えば “自身の命を対価にしたイエルのクオリアの錬成” も不可能ではなかったはずだ」
錬成そのものの対価(≒手数料)も必要だろうからほかのものも用意していた可能性は否めないが、核となるのは命(≒原材料費)だろう。
「……」言葉を咀嚼するようなわずかな間があって、「よしんばそれが可能だったとして、今現在、僕のクオリアは失われたままという明確な事実がその可能性を反証しているよ」
「うん、そこだよ。俺はそこに致命的な錯誤が潜んでいると思っている」
イエルの顔に不可解の色が満ちる。「錯誤も何も、今ないのがわかるんだけれど」
「でもそれってさ、換言すると、“不存在の知覚” ということだよね?」
「それがどうしたんだい?」
「そして、内観における “不存在の知覚” とは “存在の不知覚” ということである」
イエルの長いまつ毛が二回大きく瞬いた。
「いや待ってくれ。アラン君の言いたいことは論理としてはたしかにわかる。“存在の不知覚” という状態は、
「哲学的で難解な言い回しに脳をやられてすぐには気づけなかったが、その感覚は俺にも覚えがあるんだ」
イエルは目を見開いた。「本当かい?」
「ああ。自分語りは割愛するが、結論から言うと、今のイエルの状態──もとい、
「というと、精神医学の?」
ああ、と首肯し、
「現代医学では強いストレスなどが原因で起こるとされている。その患者は、現実が現実でないように感じたり、自分の存在感が稀薄に感じたりする。鬱病との併発も珍しくない。そして不眠は鬱病の代表的な症状の一つだ。今のイエルに当て嵌まるだろう?」
「たしかにそうとも取れるのは認める。実際、睡眠障害はあるから鬱病の気も否定できない。
けど、それなら、僕が確かに知覚したクオリアが抜ける感覚はどう説明するんだい?」
「その時は実際に喪失したんだろう」
「いやそうではなく」イエルは焦れったそうに、「僕が言いたいのは、仮に彼女の錬金術によりクオリアが戻ってきたとしたら、その入ってくる感覚がしていたは……ず──まさか! いやそんなこと……」
「そう、その日、イエルは珍しくうたた寝してしまった。その間に戻ってきていたら気づかなくても不思議はない」
イエルは唖然としているが、俺は続ける。
「〈クオリアの知覚はその出入りの時にしかできない〉
これはイエルの証言から帰納的に導かれる法則だよ。
この法則を前提条件にして演繹すると、今のイエルの状態は “クオリア喪失による実在感の喪失” か、“解離症状としての現実感の喪失” かの二択になる」
「わかった、その論理的推論は受け入れよう」イエルは降参というように両手を上げた。「けれど、だからといってどちらか一つに絞れているわけじゃない。彼女が錬金術により僕にクオリアを取り戻させた可能性の反証が反証されただけだ。命を対価に差し出した錬金術的な自殺か、一般的な自殺か、不慮の事故か依然として判然としないし、そもそもの問い──密室の目的の説明にもなっていない」
「そうでもないよ。彼女が錬金術により事実上の自殺を図った可能性を残せただけで、もうほとんど答えは出ていると言っても過言じゃないんだ。
俺は密室の目的を、錬金術的な自殺と一般的な自殺、そして事故の場合で検証してみた。
すると、錬金術的な自殺が最も整合することがわかった。
何となれば、錬金術の発動には時間が掛かるからだ」
イエルの口が、「あ」と零した。「 “彼女は僕が予定外に早く帰宅してきた場合に錬成の邪魔をされるのを防ごうとした” ……」
「おそらくね。
イエルの生体ゴーレムの錬成が不完全で、そのために自壊すると彼女が悟っていたならば、錬成物には後から手を加えられないという錬金術の性質上、見咎められようと止められることはないわけだから邪魔されないように対策する必要はない。
一般的な自殺も似たようなもので、短時間で不可逆的な死に至る方法を執れば見咎められること自体まずないだろう。密室にする必要性は低い。
他方、彼女が錬金術を使おうとしていた場合、準備している間に止められたら不発に終わってしまう。そして、一度それを見られたらイエルに警戒されてやりにくくなってしまうことが予想される。だから、不意の帰宅にも対応できるように寝室に鍵を掛けた。ドア越しならば、不審がられても適当に誤魔化して錬金術の証拠を隠蔽することができる──すなわち後日に再挑戦できるが、ドアを開けられて目撃されたらもう誤魔化せない。メンヘラ気質のイエルのことだ、TLコミックのヤバめ溺愛イケメンよろしく監禁してこないとも限らない。そうなったら仄暗くも甘やかに爛れた淫欲生活まっしぐら、彼女の動機──イエルの救済は遂げられない」
「それならそうと手紙に認めてくれてもよかったのに、少々意地悪ではないかな? 死者を悪く言いたくはないが、そのせいでイエルが誤解してしまっては救済にはなりますまい」
「理由は二つある。
一つは計画をイエルに悟られないようにするため。
丁寧な字で長々と手紙を綴っていたことからも、あらかじめ用意していたことが窺える。ということは、手紙はどこかに隠していたということだ。つまり、見つかった場合に備え、錬金術についてはあえて言及しなかった。一般的な自殺や事故を容認していると思われるのも困るだろうが、手紙の文面をよく思い出してほしい。あの書き方だと、イエルの行く末を案じ、心を鬼にして失踪したとも取れる。死別を企図していたとバレた場合よりもイエルの精神的ダメージは少ないだろう。錬金術の再挑戦もしやすいだろうし、何よりイエルの傷が小さくてすむという利点がある。
もう一つは極めてシンプル。
ただ単に伝わらないわけがないと思い込んでいたんだ。イエルは普段はうたた寝などしない。その前提条件を真として組み込んでしまっていたんだ。盲目的にね。だから、クオリアが戻ればイエルはそれを知覚し、遺体のどろどろを発見して手紙を読めばあの程度の情報量でも正しく伝わると信じて疑わなかった。
男女には、特に気心の知れた二人にはよくあることさ。ある種の甘えにより必要な言葉を怠り、悲しいすれ違いに陥ってしまう──愛というのは儚く脆いものだと知っているはずなのにね」
「うぐっ」クリフは、どうしてか胸を押さえた。まるで胸懐の古傷を抉られたかのようではないか。
また俺何かやっちゃいましたぁ? ──へへっ。
おっといけない。“正義の心” どころか “人の心” まで危うく喪失するところだったぜ。
ごほんっ。
咳を払って空気を仕切り直すと、イエルに向き直った。
「どうかな、〈巨像の錬金術師〉におかれましては “賢者の叡智” にはご納得いただけましたかな?」
ふぅー、とイエルは長く息を吐いた。
「まずは礼を言わせてほしい。ありがとう。アラン君のおかげで僕は彼女──ベルタの真情に触れることができた」
「うん、そこでお願いがあるんだけど、いいかな?」
「? 何だい? 僕にできることなら最大限努力するよ。アラン君は恩人だからね」
「イエルの錬金術の封印を解いてほしい」
「……」
「イエルは優秀な錬金術師だ。その錬成物に救われる人はたくさんいる。
病気のこともあるだろうし、無理にとは言わないが、少しずつでもいいから以前のように “真理の一端” を我々に見せてほしい」
沈黙の工房。
ややあって、イエルは再び息を吐いた。
「わかった、逃げるのはもうやめるよ」
「うん、ありがと」
「……初めからこれが目的だったのかい?」
「いいや、ただの未必の故意さ」
「人はそれを自白と呼ぶんだよ」
俺が肩を竦めると、イエルは笑った。柔らかく、軽やかに。