アーイシャと知り合ったのはエリスが十歳のころだった。
そのころのエリスは日々の勉学や鍛練に疲れると、得意の隠形を悪用して城を抜け出していた。どこに行くわけでもないが、城下町をほっつき歩いて民草の営みを眺め、気分転換をするのだ。
そんなことを繰り返していると、領主である父がこんなお触れを出した。
『町で我が愚息、エリス・パトリシアを保護した者には賞金を出し、お目付け役の職を与える』
城下町の全住民VSエリスの仁義なきケイドロの始まりである。
しかし、当時から才気にあふれ、神童と呼ばれていたエリスは負けなかった。大人たちの耳目を掻い潜り、余裕綽々の帰宅をかます悪童ライフはしばらく続いた。
しかし、世の中そんなに甘くない。
ある日のことだ。建物の陰から大通りを眺めていると、ポンと肩を叩かれた。
「君、エリス様だよね」
振り返ると、イヌ科獣人の少女が犬歯を覗かせて笑っていた。それがアーイシャだった。
どうやら元々高かった嗅覚をスキルで強化して隠形を見破ったらしかった。
その技巧に敬意を表して抵抗することはしなかった。
アーイシャは意気揚々とエリスを城へと連行した。これで金に困ることはなくなるとニコニコしていた。
が、
「薄汚い獣人族を雇うわけなかろう」
父は一蹴した。
エリスは我慢できずに反駁した。
「例のお触れに獣人を除く旨の文言はありません。父上の論理はおかしいのではありませんか」
いつもの獣人差別かと不貞腐れていたアーイシャは、思いがけない味方の登場に、一転して目を輝かせた。ワンチャンあるのではないか、と期待しているようだった。
しかし、やはりこの世界は甘くない。
「当然の前提ゆえに記載しなかっただけのことだ。失望させるな、エリス」
結局、アーイシャは端金だけ渡されて追い返された。
彼女と会うことはもうないだろう。このような無体な扱いをされるとわかっているなら、もうエリスには近づいてこないはずだ。そう思っていた。
ところが、次に抜け出した時にもアーイシャは現れた。前回のことなどなかったかのように屈託のない笑みを浮かべていた。
なぜ現れたか問うと、
「何となく」
要するに直感的に気に入ったようだった。それからというもの、抜け出すたびに顔を合わせるようになった。
アーイシャと話すようになり、わかったことがあった。
獣人である彼女は、たしかに人族の平均より馬鹿ではあるが言われているほどではないということと、善人ではないが悪人というほどでもないということだ。つまり、見た目と寿命が違うだけで、運動が得意で勉強が苦手な人族と変わらない。
悪魔が獣人だけを殊更に誘惑する合理的理由はないように思われた。過去の大罪だって運命の悪戯のようなものだったのではないか。不幸にも道を踏み外してしまった者がたまたま獣人だったというだけで、獣人族が根本的に悪に寄った存在というわけではない。そう考えたほうが納得がいった。
その考えに至ってから、エリスは次第にアーイシャに特別な感情を抱くようになっていった。彼女のほうも同様だったように思う。
それからおよそ二箇月後のこと、アーイシャが現れない日があった。用事でもあるのだろうと深く考えなかった。
しかし、その次もアーイシャは姿を見せず、エリスは彼女の家を訪ねた。犬小屋をただ大きくしただけという佇まいのそこには彼女の父親がいた。玄関口に立った彼は忌々しげに、
「アーイシャはもういない。帰ってくれ」
とだけ告げて扉を閉ざした。
察した。次期領主であるエリスと親しくしている獣人をよく思わない差別主義者が彼女を排除したか、権力者に気に入られているアーイシャに嫉妬し、又は裏切りと捉えた獣人が私刑を執行したかだろう。
いずれにせよ、彼女は殺されているはずだった。エリスのせいだ。納得いかない部分は多々あったが、それが現実だった。
そして、エリスは学んだ。
世界は弱肉強食でできている。
差別が正当化されるのも──アーイシャが殺されたのも、元を辿ればそこに行き着く。
敗者の種族だから、数が少ないから獣人族は悪なのだ。
勝者の種族だから、数が多いから人族は正義なのだ。
そうでなければ、自ら進んでアーイシャを求めていた自分に何のお咎めもないのはおかしいではないか。彼女との関係にはエリスにも責任があるはずなのに……。
世界を憎まなかったわけではない。人を見捨てて天に帰った神を恨まなかったわけではない。こんな世界などなくなってしまえばいいと願わなかったわけではない。
だが、それを実行に移そうというつもりはなかった。
自分には守るべきものがある。勝者が正義というのなら、自分はその責任を果たさなければならない。正義を束ねる者として世界を管理し導くのが使命であって、破壊などもってのほかである。
この邪悪な思いは胸の奥底に封じて生きていこう。そう結論した──はずだった。
「人の子よ、神が力を授けよう」
ある夜眠りに就くと、かの女神を彷彿させる白銀の光の玉が夢の中に現れ、そう言った。アーイシャが亡くなってから十年以上が経っていた。
その声は何人もの声が重なったような耳障りな響きだった。ゆえに、性別も年齢も不明だった。
「あなたはルシフ様なのですか」エリスは尋ねた。
「あのような【最もインモラルな女性侮蔑語】──人格破綻者と一緒にするでない。我はルシフとは別の、正しき心を持った “外なる神” である」
信じられなかったが、
「
「その力で何をしろと言うのですか」
「汝は汝の欲するところを為せばそれでよい。その心に従うのだ」
神を自称する光の玉は一方的にそう告げると、吸い込まれるようにエリスの胸の中に入っていった。
何が何だかわからなかったが、目を覚ますと理解させられた。
あの光の玉は本物の神、あるいは悪魔だったのだと。
ステータスが異常な値を表示しており、スキルも増えていた。そのスキルがまた異常だった。この世界を創造し、ルールを定めたとされる女神を嘲笑うかのような奔放な性能で、同格の存在でもなければこのような力を与えることはできないだろう。
そうして気づいた。
黒い願望の封が解かれ、心を支配していた。ただ憎しみが、恨みが、抗いがたい破壊衝動だけがあった。
世界を壊そう。そのための力が自分にはある。
自分でも驚くほど滑らかに決意していた。
左腕のすぐ横で、超高密度の電荷的エネルギーを球体状に圧縮し、空気分子をバラバラにして掻き回す。閃光が爆ぜ、極小のプラズマ球が出現する。
速度は温度だ。
莫大な電荷的エネルギーを流し込みつづけて電子と正イオンを操作し、際限なく加速させつづける。
熱を、青白い光を撒き散らす。その様は擬似的な太陽のようで、ともすれば自分が人の域を超越して神になりつつあると錯覚してしまう。
雷化状態のエリスの右側を飛行するアランが、擬似太陽を見て顔を引きつらせた。
「流石にそれは狡いって! 超大玉プラズマラセ●ガンとかお前マジでいい加減にしろよ!」
と、みっともなく喚き散らしつつも彼は加速し、と同時に放出魔力── “魔力の鎧” の密度を上げた。まだ諦めていないようだ。
完全無欠のスキルなど存在しない。だからこそ逆転の芽が必ずある。そう考えているのかもしれない。耐え忍べばチャンスは来る、と。
甘いよ、アラン君。
“外なる神” に授かったこの力は世界のルールに縛られない。エリスの電気操作スキルに隙などない。
さようなら、〈知恵の賢者〉よ。
エリスは擬似太陽を動かし、アランに叩きつけた。
“魔力の鎧” が溶かされ、通常の雷を遥かに凌駕する熱エネルギーに焼かれ、一瞬のうちに灰となる──瞼にはっきりと浮かんだその未来予想図は、しかし裏切られた。
「──!?」
エリスの心臓が、肺や胸骨ごと消えていた。右側から狼に食いちぎられたように胸部が大きく抉れている。右腕も二の腕から先がない。擬似太陽も吹き飛ばされたようだった。細かな紫電が空に散っている。
耐性を貫通されたのは理解できなくはない。エリスの雷化透過の耐性はEXだが、これは規格外のものをまとめた表記、つまりその幅は理論上は無限。アランのスキルがこれを上回る貫通効果を具えていたとしても不整合はない。“神” の名を冠するのだからそういうこともあるだろう。
疑問はそこではない。
おそらく後の先を取られたのだろうが、その挙動がまったく見えなかったのだ。
なぜだ?
今の自分は雷と同じ。反応速度も思考速度も秒速15万キロ級。ほんの数秒前までのアランは対応できていなかった。
だからこそ〈罪には罰を〉に懸けて旧ウィリアムズ領を目指していたのではないのか。
擬似太陽を出現させてからはマッハ10000を超えていた。しかし、ほんの0.2秒にも満たない刹那のこと。まだ旧ウィリアムズ領には遠い。現在地はエバンス領の上空だろう。
なぜだ。何が起きた。何をされた。
──いや待て。エバンス領?
何かが引っかかった。
しかし、駄目だ。意識が朦朧として思考が進まない。
ふっと世界から光が消え、エリスの意識は闇に呑まれた。