ミスティが回復するのを待って──といっても数分程度だが──エバンス伯爵の騎士たちのドッグタグを回収し、彼女の実家へと出発した。もちろん徒歩だ。上級貴族令嬢として生きてきた、つまりは淑やかな軟禁生活を送ってきたミスティの歩調に合わせているから牛歩もいいところである。もし俺がタイパ教の敬虔なる信徒か生粋の大阪人だったら十歩を待たずにキレてたかもしれない。
「ところで、ミスティはどこに出掛けていたんだ?」
ミスティの来た方向にはパトリシア侯爵領がある。元々、俺はそこへ向かっていた。
我がアルマス王国の西端に位置するパトリシア侯爵領は、神聖パイモン皇国とフラウロ帝国に接しており、交通の要衝として非常に栄えている。働き口やビジネスチャンスが多いだろうということで目的地としていたのだ。
「パトリシア領です」ミスティは答える。「エバンス家とは遠戚にあたるので、社交の練習がてら当主のエリス様とお会いしてきたところでした」
そこでミスティは横目で俺を
「エリス様はわたしの美貌と健やかさ、優秀な血、そして知性を高く評価してくださっていて、それでお声掛けいただいたのです」
要するに、社交界デビューの準備だけじゃなくて婚活という側面もあったということだ。
「へー、よかったじゃん」俺は殊更に軽い調子で相槌を打った。「お父さんも喜んだんじゃない?」
エリス・パトリシアは、齢二十一歳ながら辣腕経営者として名を馳せている。眉目のほうもたいへん麗しいらしく、貴公子の格付けに詳しい俺の妹たちが、推しのアイドルを語るかのように熱弁を振るっていた。
「むぅ」ミスティは唇を尖らせた。「アラン様は意地悪です」
「……」
──おいルシフ。
『あんだよ? 今、天使どもにエログロ【自主規制】ョナアニメマラソンを強要してて忙しいんだけど』
何してんのこの神? 畜生がすぎるだろ。ストライキ起こされても知らないぞ。
いやそれどころじゃなかった。
──俺とのロマンスが絶対にありえないことをはっきりと伝えつつ、ミスティの機嫌を秒で直す魔法の言葉はいくらで売ってる?
『んな都合のいいもんどこにも売ってねぇよ。アホか』
くっ、やはり駄目か。
鼻先をつんとさせたミスティは、しかし何かを期待するようにちらちらとこちらを見てくる。
……仕方ないな。お望みの焼き餅をご馳走してあげよう。
なんて、美少女に屈して易きに流れることのない俺は、
「その気持ちには応えられない。諦めてくれ」
言葉の意味を呑み込むような沈黙があって、
「……ぅぅ」
ミスティはその紅眼に涙をたたえた。足も止まってしまっている。
『お、精神的リョ【自主規制】プレイか? っぱ、女は泣き顔が一番興奮するよな、わかるわかる。極上の泣き顔を拝みたいがためにア【自主規制】ル開発してまともなセッ【自主規制──今何回目だ?】スじゃ満足できない体にして結婚適齢期が過ぎたころにリリースするんだろ? わかるわかる』
紛うことなき女の敵。その思考は悪のサディストのそれ。ルシフもぶれないが、
「泣いたって駄目だぞ」俺は俺でぶれない。「ミスティと俺では社会での役割が違う。子供じゃないんだからわかるだろう?」
「ぅぅ、爺やみたいなこと言わないでくださいよぅ、ひっく、でもアラン様ならそう言うと思ってましたぁ、そういうところもしゅき、ぅぅぐすっ」
「じゃあ何で試すようなことしたんだよ」
「だってぇ、アラン様もわたしを憎からず想ってくれてるように見えるんだもん。期待しちゃうじゃないですかぁ」
「それは悪かった。だが、駄目なものは駄目だ」
「どうしても?」
「どうしても」
はぁ。ミスティは気持ちを落ち着けるように小さく吐息を洩らすと、
「そうですよね、取り乱してすみませんでした」
涙を引っ込めた。
俺たちは再び歩きはじめた。
しかし、空気が重い。何か喋ったほうがいいのか?
「……パトリシア侯爵はどんな方だった?」
話題に困った俺は、結局そう尋ねていた。
ミスティはちょっと嬉しそうに口元をニヨニヨさせた。
「気になりますか?」
「まぁ、他意はないけど」
「ふふ」ミスティは淑女らしく微笑し、「秘密です」
え、うざ。
「冗談ですよ、怒らないでください。でもそんなお顔もお美しいです」
そう言ってミスティは頬を染めた。
これが “吊り橋効果” と “恋は盲目” の相乗効果なのか。俺に対してだけは毒舌なシスターズをして「まぁアラン兄は優しいから」「まぁアラン兄は地位があるから」と言わしめ、割と厳しめの母をして「(そっと手鏡を取り上げつつ)殿方の価値は顔の良し悪しで決まりません。気に病むことはありませんよ」と言わしめた俺が美しく見えるとは、何と恐ろしい。
「エリス様は風の便りどおりの素敵な方でしたよ」ミスティは仕切り直すように落ち着いた口調で言った。「わたしのことも気に入ってくださったようでした」
けれど、と続ける。
「父にお願いして断ってもらうつもりです」
「デイビーズ家との関係悪化を危惧しているのか?」
パトリシアはデイビーズ公爵の長女との婚約を、方向性の違いとかいうバンドみたいな理由で破棄し、そのすぐ後にミスティにアプローチし出した。傍目にはミスティが略奪したように見えるかもしれない。それを嫌ったのか、と思ったのだが、
「それもありますが、主な理由は別にあります」
「……」俺のせいなのか?
「アラン様と出逢っていなかったとしても変わりません。ただのわたしの
俺のための白い嘘か、パトリシアがよっぽどタイプじゃなかったか。
「でも大丈夫か?」
強い権力を持つパトリシア侯爵の不興を買うことになるかもしれない。エバンス領の
「ミスティのお父さんって厳しい人なんだろ? 許してくれるか?」
エバンス領は元々厳罰主義で知れていたが、現当主に代替わりしてからより顕著になった。その厳格な人間性が窺えるというものだ。
「それは全然大丈夫です。父は外では怖い顔していますけれど、わたしには甘いんですよ」
そういえば、ミスティはエバンス伯爵が四十も半ばに差し掛かったころにできた末っ子だったっけ。蝶よ花よも、さもありなん。
「わたしからも質問していいですか?」
「どうぞ」
「アラン様はどうして追放されたんですか?」
「……知らないほうがいい。箱入りのお嬢様にはいささか刺激が強すぎる」
ミスティは思案げな色をその瞳に浮かべ、一拍後、
「……そうですか。アラン様がそう言うのでしたらもう聞きません」
いい女だな、と思う。
『お、とうとうヤんのか? 穴間違えんなよ童貞! ギャハハ!』
ルシフは悪い神だな、と思う。
『ギャハハ!』
『暇なんだが』
最寄りの、エバンス領の村まであと十四キロくらいというところで、ルシフが文句を言い出した。疲労の色が濃くなりつつあったミスティとの会話を切り上げ、沈黙の旅路に就いてから二十分ほどが経っていた。
『何も起きなすぎてめっちゃ退屈。黙々と歩くだけの十四歳児どもを眺めるほうの身にもなれや』
じっとしてられない三歳児、あるいは伏線回に耐えられないZ世代みたいなことを言う。
──天使へのパワハラはどうした?
『耐性ついてきて白けた。本気で嫌がってくれねぇと【自主規制】たねぇんだよ。わかるだろ?』
──まったくわからん。
『んなことより、何かしろや。オレを楽しませろ』
──そんなこと言われても俺だって余力は残しときたいし。
『はぁああ、この糞餓鬼マジ使えねぇ。しゃーねぇ、天使どもの【自主規制】ニスとア【ーセ】ナルをウロボロス連結させて遊ぶか』
何言ってるかわからないし、わかりたくもないが、このままこやつを解き放っては天使たちがムカ●人間のような悲惨な目に遭うことだけは確定的に明らか。
俺は溜め息をついて尋ねた。
──ルシフはやろうと思えば俺の思考を読むことができるんだよな? それを制限することはできないか?
『できるぞ。伝わらないように意識するだけでこっちには見えなくなる。てか、そもそも言語化されてない思考は読めねぇし』
──つまり、〈原則として俺が念じたメッセージしか見えないが、見ようと思えば言語化された思考は読むことができる。ただし、言語化された思考であろうと、読まれないように意識されると読めなくなる〉ってことか。
『そうだな』
──なら、チェスでもするか?
チェス──前世でも人気のボードゲームだが、この世界の貴族の嗜みでもある。
なぜか。
花嫁候補の知能を測るのに利用できるからだ。夫人が政治に口出しするのは悪政に繋がるとして忌避される一方で、跡継ぎの知能を担保するために優秀な母体か見定めなければならない。
そこでボードゲームが注目された。
『いいぜ、ちょっとルール調べてくるから待ってろ』
というメッセージからおよそ五分後、
『把握した。早速やろうぜ、目隠しチェス』
と来た。
──大丈夫か? 初心者なんだろ?
『へーきへーき、何とかなるべ』
──まぁいいけどさ。
『あと、パッパとやりてぇから六十秒ブレットな』
六十秒ブレットとは互いの持ち時間が六十秒の超早指しルールのことだ。神はせっかちなのか? 初心者が、それも目隠しでやっていいことではないんだが。
けど、ま、やりたいというなら、やりますか。
というわけでブレット&ブラインドチェスが始まったのだが、棋譜を延々と綴られても大半の人は困るだろうから対戦結果だけを並べさせていただく。
一戦目から五戦目までは俺の圧勝。六戦目から十戦目まではまだ余裕の勝利。しかし十一戦目から少しずつ厳しくなっていき、二十戦目にはとうとう俺のキングが討たれてしまった。
『よっわ、カスやん。お前初心者にこんな短時間でやられて悔しくねぇの?』
正直ハチャメチャに悔しい。ルシフが尊敬できる人物だったらすんなり現実を受け入れられただろうが、ルシフはルシフだから全然納得できないし、したくない。何とか粗を探してイーブンに持ち込めないだろうか。
──神は人間とは基礎スペックが違うんじゃないのか。
『そりゃあそうだろ、上位存在なんだから──つっても知能の上限値は変わんねぇけど』
──でも学習と成長のスピードは段違いなんだろ?
『今、お前が体験したとおりだな』
──だったらアンフェアじゃないか。
ノーカン! ノーカン!
『いいやこれはアンフェアじゃないね。才能や環境は人それぞれ。その中で最大の努力をするのは普通のことだ。金持ち天才ニートと貧乏暇なし凡人じゃ成長スピードが違うのが道理だろ? だがよ、だからって天才と凡人で土俵を分けたりはしねぇ。つまりはそーゆーこった』
──才能の差と存在としての差を一緒にしちゃアカンでしょ。そういうの何て言うか知ってるか? 詭弁って言うんだよ。
『てめぇのほうこそ論点先取してんじゃねぇか。〈存在間の成長スピードの差と個人間の才能の差は同一視できない〉って命題を勝手に真として話進めんなや。普通に考えて、上限値に差がないなら実質的には才能の差と同じことだろーが。てめぇの主張は成立しねぇから』
──上限値が同じでも、限られた時間の中で顕在化できる最大値は成長スピードに依存するんだから、存在レベルで隔絶した差があるなら事実上、存在レベルでの上限値の差ってことになるだろ。単なる才能の差の
人はこれを “才能(要領)の差” と呼ぶ。
『負け惜しみが最高に心地いいなぁ! ギャハハ!』
くっ、何とかして一矢報いたい。
俺は起死回生の妙手がないか灰色の脳細胞を搾った。
そして思い及んだ。俺の隣を重い足取りで歩く令嬢の台詞に。ミスティはこう言っていた。
“エリス様はわたしの美貌と健やかさ、優秀な血、そして
つまり、優秀と言われるパトリシアをチェスで上回った可能性が高い。なら、俺を仲介者として──その場合ミスティは俺が対戦相手と思うわけだが──ミスティとルシフに対戦してもらえば、ギャフンと言わせられるのではないか。
──ルシフは俺以外の人の思考もわかるのか?
『それは無理。〈神スキル〉の効果を実現するための派生機能だから読心対象は〈神スキル〉持ちだけだ』
おっし、それなら。
「ミスティ」
「ハァハァ、何でしょうか?」
「少し休まないか? 疲れたろ」
「え、でもこれ以上遅れたら悪いですし」
「だが、無理していざというときに動けなかったら困るだろ?」
「まぁそれはそうですね」
「ああ、だから休もう」
「すみません、ありがとうございます」
「それで、その代わりと言っちゃあ何だが、体を休ませてる間にオレとチェスで一戦交えてくれないか? 全力全開の本気で」
「え……」
ミスティははたと立ち止まり、慣れない運動で薄く色づいていた肌をじわじわと朱色に塗り替えていく。
事ここに至って俺は、ようやく自らの失着を悟った。
貴公子から令嬢へのチェスの真剣勝負の申し込みは、 “あなたとの将来を真剣に考えている。もし僕に勝てるようなら真剣交際に関係を進めたい” という意思表示にほかならない。
俺はもう貴族じゃないが、ミスティは類推解釈したようで、
「不束者ですが、よろしくお願いいたします」
そしてこの娘さん、勝つ気満々である。てか、勝って当然と思ってる節まである。
俺はそんなに弱そうに見えるのか?
え? 結果? 負けたよ、俺つまりルシフが。
ミスティちゃん、チェスが始まった瞬間、雰囲気変わってさ、何ていうか、こう、神の一手に至ろうと身命を賭してる感じをバシバシに出してきてさ、お前は
え? ルシフはギャフンと言ったのかって?
言ってないよ。舌打ちだけくれてどっか行った。
え? 真剣交際に進んだのかって?
進んでないよ。だって身分が違うんだもの。
「ひどいです。わたしの乙女心を弄んだんですね。あんまりです。わたしの心と体はアラン様専用になってしまいました。もう戻れません。アラン様に捨てられたらわたしはどうやって生きていけばいいのですか? 死んでしまいます。
いいですか、今更何を言おうと “もう遅い” のです。
責任取ってわたしと幸せな家庭を築いてください」
いろいろ抗議されたが、無理なものは無理である。すまぬ。