弟子の不祥事の責任を取って辞職した錬成学最高権威の教授。田舎で『普通の子』を育てていたら、大成して償いに来た「元教え子たち」が毎日『嫉妬』と『後悔』で勝手に曇っていく 作:Student
エレナはもう十分過ぎるほどに多くの命を救ってきた。
だからこそ、もう何かに縛られる必要はないと、彼女の罪悪感を解くつもりで告げた。
――だが。
「ぇ……」
彼女の表情が凍りつくように固まった。
「せ、んせぇ……? なにを、言ってるの……? あたしは……」
彼女の視線が激しく宙を彷徨う。
差し出された手のひらの上で、大精霊ウンディーネの召喚石が寂しげな水色の光を放っている。
「ひッ……ぅ、……」
エレナの顔から血の気が引いていく。
召喚石が虚しい音を立てて、彼女の手から溢れた。
彼女は喉元を細い指で掻きむしり、その場に崩れ落ちる。
「はっ、はぁ……っ!」
激しい過呼吸だ。
酸素を無理に取り込もうとする、浅くて早い呼吸音が室内に響き渡る。
「エレナ!」
僕は急いで駆け寄り、彼女の華奢な身体を抱きとめた。
そのまま近くの使い古されたソファへと運んで横たわらせる。
「僕の呼吸に合わせなさい。まずはしっかり吐いて……大丈夫だよ、僕がここにいるから」
かつて学院の教授だった時代。学業のプレッシャーで押し潰されそうになっていた学生たちを落ち着かせた時のように、彼女の背中を摩り続けた。
彼女は涙と汗で濡れた顔で僕の衣服を掴み、何度も小さく頷いている。
しかし、呼吸の乱れが治らない。
普通の過呼吸ではなさそうだ。
もしかすると、精神的なショックが深すぎたのかもしれない。
「クロエ、精神安定の薬液を作ってくる。その間、エレナを見ていてくれないか?」
「うん、わかった。うちがこの人の側におるよ」
エプロン姿のクロエが、エレナが横たわるソファの側に駆け寄ってくる。
僕は一刻も早くエレナを楽にするために、素材棚から必要なものを見繕う。
薬液作成に用いる「月見草」を摘みに、僕は裏庭へと急いだ。
◆
裏庭へと続く扉が閉まる。
頭の中がどうにかなりそうだ。
あたしは『生命錬成学の母』と呼ばれるほどの功績を挙げたのよ?
魔術師としての素養がなくて公爵家ではゴミも同然だったあたしが、先生の教えだけを胸に世界の誰もが羨む権威にまで登り詰めたのよ?
――すべては、先生のため。
あの日、先生の大切な精霊を殺してしまったあたしを責めもせず、これから出会う命と向き合えと教えてくれた先生の隣にもう一度立つために。
この大精霊ウンディーネの召喚石を携えて、先生を迎えに来たのだ。
これを手土産にすれば、王立学院の上層部も、先生を再び錬金術科の教授として復職させることができる。
もし仮にそれが叶わなくとも、あたしには別の策もある。
今や王立学院で生命錬成学の准教授であるあたしの「公式の補佐官」つまりは「助教授」もしくは「講師」として、あたしが用意した最高の研究環境で、一生あたしの側で暮らしてもらうことも可能なのだ。
コネだけしか使い道のないクソ女なんて、もう誰にも言われないように。
――あたしが、先生を『
そう信じてどんなに辛い日も乗り越えてきたのに。
長い付き合いだし、先生の真意は聞かなくてもわかる。
もう罪の意識に囚われず、自由で幸せな人生を歩みなさいという、どこまでも純粋で温かい真心。
でも違うの。違うのよ、先生。
あたしの願いは、自由に生きることじゃないの。
先生の隣にいることだけが、あたしの幸せなのに。
先生と一緒に、毎日議論を重ねて、毎日研究を進めていく日々。
それなのに先生は、あたしの人生から先生自身を綺麗に切り離そうとしているように見えた。
先生がいなかったら、あたしはまた独りぼっちになってしまう。
「はぁ、はぁ……っ!」
涙で視界が滲む。
過去への後悔と目の前の絶望で頭が割れそうだ。
ソファの上で身を震わせるあたしの視界に、地味なエプロンを付けた少女が映り込んだ。
事前の下調べで、先生が「捨て子」と一緒に暮らしていることは把握している。
先生がこの田舎街で拾った、何も持たない、どこにでもいる『普通の子』。
先生がいなくなった途端、あたしの心の奥底に沈んでいた本来の高慢さが泥水のように溢れ出した。
こんな惨めな姿、見られてたまるか。
「……こっち見ないで」
あたしは涙を乱暴に拭い、ソファに横たわったまま、冷え切った瞳でその少女を睨みつけた。
床にはあたしの全てを費やした水色の召喚石が、無様に転がっていた。
「あたしは世界最高峰の錬金術師なの! 先生はあたしが用意した最高の研究室に招いて、あたしが支えるの!」
威嚇するように虚勢を放つ。
――けれど。
目の前の少女は怯まなかった。
それどことか、表情ひとつ変えない。
彼女は床に転がったウンディーネの召喚石を靴の爪先で小突いてから、こちらを見た。
その瞳はゾッとするほどに「冷ややか」だった。
「綺麗な石やね。……でも、先生には必要ないね」
妙に落ち着いた片田舎の訛りが狭い室内に響く。
「あなたがどれだけ偉い人なのか知らんし興味ないけど、なんで先生の大切な友達を殺した奴が、そんな偉そうにあの人の隣に立てると思うてんの?」
心臓が恐怖で跳ね上がる。
なんで。
どうしてこの子があの事件を知っているの?
「いくら功績を挙げたからって、先生の心に傷を負わせた事実は消えへんよ?」
少女がこちらに顔を近づけてくる。
彼女の澄んだ瞳の奥にある仄暗い闇が、あたしの全身を縛りつけた。
「あなたは先生を傷つけた。……先生の隣には、先生を傷つけてない『普通の子』のうちがおればそれでええんよ」
一番触れられたくない過去の罪。
あたしが先生を傷つけた。
返す言葉が何一つとして出てこない。
あたしがどれだけ研究業績を持っていようとも、王立学院の准教授だろうと、過去は消せない。無かったことにはできない。
「……ひ……ぅ……っ!」
また呼吸の仕方がわからなくなる。
「はっ……はぁっ! ……く、苦しい……っ!」
息ができない。
空気を吸っても胸の中が空っぽになってしまい、窒息の恐怖が頭をよぎる。
「……せ、せん、せぇ……た、す……けて……っ」
指先が冷たくなり、じわじわと痺れが広がっていく。
感覚の消えかかった両手は指が不自然に突っ張って硬直していた。
床に転がった召喚石を拾うこともできない。
動かない。息が、できない……っ。
死の恐怖で涙が溢れ、視界がぐちゃぐちゃに滲む。
もう先生の名前を呼ぶこともできなかった。
ソファの上でまるで陸に打ち上げられた魚のように無様に身を捩りながら、盛大にのたうち回るあたしを、少女はただ静かに見下ろしている。
興味なさげな表情で、彼女はあたしの苦しむ姿を淡々と観察していた。
◇
「待たせたね、薬を作ったよ」
採取と錬成を終えて急いでアトリエに戻る。
「エレナ様、大丈夫っ!? 先生、早くお薬を!」
クロエが半泣きになりながら、エレナの手を握って励ましている。
僕はすぐに駆け寄り、過呼吸で苦しむエレナの背中を優しく摩りながら、上体を起こす。
「焦らなくていいから、ゆっくりこれを飲んで」
そう声をかけながら、錬成した薬液を彼女の青白い唇から口腔内へと慎重に流し込む。
激しい発作の症状は次第に治っていく。
「ありがとう、クロエ。助かったよ」
「ううん、うち、これくらいしかできんから……先生のお役に立てて嬉しい!」
クロエの頭を優しく撫でる。
彼女はいつものように「えへへ」と嬉しそうに目を細めた。
僕は穏やかに呼吸しているエレナへと視線を戻す。
彼女がこうなった原因は、おそらく「あの記憶」が原因だろう。
すべては、数年前――。
王立学院でのあの『事件』から始まり、そして最後に、エレナの手によって俺の親友の精霊は亡くなったのだ。
あの逃れられない過去を、彼女は思い返していたのだろう。