ポケットモンスター茶 作:光宙
マサラタウンの朝は、いつもより騒がしかった。
今日は、十歳になった子供たちがポケモントレーナーとして旅立つ日。
少年にとって、それは人生で一度しかない特別な日だった。
「マサヒロ! 起きなさい!」
「……ん?」
「起きなさいってば!」
「うわあっ!」
ベッドの上で、マサヒロは飛び起きた。
目の前には、腕を組んだ母親。
壁の時計を見る。
「…………」
数秒間、思考が止まる。
「…………遅刻する!」
マサヒロは布団を蹴飛ばした。
「服どこ!?」
「昨日、自分で準備したでしょう!」
「そうだった!」
「バッグは?」
「ここ!」
「靴!」
「履いてる!」
「逆!」
「うわっ!」
慌ただしい朝だった。
そんなマサヒロの足元を、一匹のポケモンが走り回っている。
「ブイ!」
茶色い毛。
大きな耳。
首元を覆うふわふわの毛。
「イーブイ、待ってろ!」
「ブイ!」
マサヒロは急いで荷物をまとめる。
最後にモンスターボールを確認して――。
「よし!」
「待ちなさい」
玄関へ向かったところで、母親が呼び止めた。
「これを持っていきなさい」
差し出されたのは、包みに入った弁当だった。
「ありがとう!」
マサヒロはそれをバッグへ入れる。
「それから……」
母親は少しだけ真剣な顔になった。
「旅に出る以上、危険なこともあるわ。無茶はしないでね」
「分かってるって」
マサヒロは胸を張る。
「俺にはイーブイがいるし」
「それでもよ」
「大丈夫!」
そして玄関の扉を開ける。
「行ってきます!」
「行ってらっしゃい!」
マサヒロとイーブイは、勢いよく家を飛び出した。
* * *
「急げ、イーブイ!」
「ブイ!」
研究所へ向かう道を走りながら、マサヒロは腕時計を確認する。
「危なかった……」
今日は、オーキド博士からポケモンを受け取る日。
マサヒロにとって、それがポケモントレーナーとしての正式な旅立ちだった。
もっとも。
イーブイは、すでにマサヒロの大切な相棒だ。
幼い頃からずっと一緒にいる。
「どんなポケモンが残ってるかな?」
「ブイ?」
「フシギダネかな。ヒトカゲもいいな。ゼニガメも捨てがたい……」
そんなことを話しているうちに、研究所が見えてきた。
「着いた!」
マサヒロは勢いよく扉を開ける。
「オーキド博士!」
「おお、マサヒロか」
白衣姿の老人が振り返った。
「おはようございます!」
「おはよう。ずいぶん元気じゃな」
「今日は旅立ちの日ですから!」
「そうじゃな」
研究所の中央には、三つのモンスターボールが並べられていた。
マサヒロの目が輝く。
「これが……!」
「フシギダネ、ヒトカゲ、ゼニガメじゃ」
「どれにしよう……」
マサヒロは三つのボールを見比べる。
そのときだった。
「博士ーっ!」
研究所の扉が勢いよく開いた。
「俺も来たぜ!」
入ってきた少年を見て、マサヒロは眉をひそめた。
「……サトシ?」
「マサヒロ!」
「お前、今来たの?」
「そうだけど?」
「……遅すぎだろ」
「うるさいな!」
サトシがムッとする。
マサヒロは肩をすくめた。
「昨日から今日が旅立ちの日だって分かってただろ?」
「分かってたよ!」
「じゃあ、なんで寝坊するんだよ」
「……」
「やっぱりサトシはサトシだな」
「どういう意味だよ!」
マサヒロは小さく笑った。
サトシ。
昔からの幼馴染だ。
悪いやつではない。
けれど――。
マサヒロにとって、サトシはライバルではなかった。
まだ、ポケモンについて詳しいわけでもない。
強いわけでもない。
少なくとも今のマサヒロには、そう見えていた。
マサヒロがライバルとして意識している少年は、別にいる。
シゲル。
オーキド博士の孫。
ポケモンについての知識も豊富で、何をやらせてもマサヒロより一歩先を行っている。
だからこそ――。
いつか絶対に追い越したい。
それがマサヒロの目標だった。
「マサヒロ! お前、何笑ってるんだよ!」
「別に」
「絶対バカにしてるだろ!」
「してないって」
「してる!」
「まあまあ、二人とも」
オーキド博士が二人を止める。
「それよりサトシ。残念じゃが、君が選べるポケモンは一匹しか残っておらん」
「え?」
博士が、一つのモンスターボールを取り出した。
「ピカチュウじゃ」
ボールから白い光が飛び出す。
「ピカ!」
黄色い身体。
長い耳。
赤い頬。
「おお……」
マサヒロは思わず目を輝かせた。
「かわいい!」
「ピカ?」
ピカチュウがマサヒロを見る。
イーブイも興味津々で近づいた。
「ブイ」
「ピカ」
二匹はしばらく顔を見合わせる。
「仲良くなれそうだな」
マサヒロが笑う。
「だろ?」
サトシも嬉しそうに笑った。
「よーし、ピカチュウ! 今日から俺たちは――」
サトシが手を伸ばす。
次の瞬間。
「ピカチュウ!」
「うわあああああっ!」
バチバチバチッ!
猛烈な電撃がサトシを襲った。
「サトシ!?」
サトシの身体が大きく跳ねる。
そして――。
ドサッ。
床に倒れた。
「…………」
マサヒロは数秒間、黙っていた。
「…………ぷっ」
「笑うな!」
「いや、だって……!」
マサヒロは腹を抱えて笑う。
「ポケモンもらって最初にやることが感電って……!」
「笑うなって言ってるだろ!」
「ははははっ!」
イーブイまで、
「ブイ!」
と楽しそうに鳴いている。
「イーブイまで笑うな!」
オーキド博士は困ったような顔をしながら、二人を見ていた。
「まあ、これもポケモンとの出会いじゃ」
「こんなの出会いじゃないだろ!」
サトシが叫ぶ。
マサヒロは笑いながら、三つのモンスターボールへ視線を戻した。
フシギダネ。
ヒトカゲ。
ゼニガメ。
「博士」
「なんじゃ?」
「俺はどれを選べばいい?」
オーキド博士が三つのボールを見る。
「実はな――」
博士は少し困ったように笑った。
「先ほどまでに、他の子供たちが二匹を選んでいったんじゃ」
「え?」
「残っているのは一匹だけじゃ」
マサヒロは目を丸くした。
「じゃあ……」
博士が一つのモンスターボールを指差す。
「フシギダネじゃ」
「フシギダネ……」
マサヒロはボールを見つめた。
最初からフシギダネを選ぼうとしていたわけではない。
ヒトカゲもいい。
ゼニガメもいい。
できることなら三匹とも一緒に旅をしてみたかった。
けれど。
「……じゃあ、フシギダネにします」
マサヒロはボールを手に取った。
「うむ」
オーキド博士が頷く。
「それが君の最初の一匹じゃ」
「はい!」
マサヒロはボールを見つめる。
「最後に残ってたのがフシギダネなら……これも何かの縁だよな」
そしてボールを前へ掲げる。
「よろしくな、フシギダネ!」
ボールが開く。
白い光が弾けた。
「ダネ!」
現れたフシギダネが、元気よく鳴いた。
「おお……!」
マサヒロはしゃがみ込んで、フシギダネと目を合わせる。
「俺、今日から旅に出るんだ」
「ダネ?」
「一緒に頑張ろうな」
「ダネ!」
フシギダネが嬉しそうに鳴く。
その隣からイーブイが顔を出した。
「ブイ!」
「ダネ?」
二匹は顔を見合わせる。
イーブイが鼻を近づける。
フシギダネも鼻を近づける。
「……ははっ」
マサヒロは笑った。
「仲良くできそうだな」
「ブイ!」
「ダネ!」
* * *
研究所の外。
旅立ちの準備を終えた少年たちが、それぞれの道へ向かおうとしていた。
サトシの隣にはピカチュウ。
マサヒロの隣にはイーブイとフシギダネ。
「じゃあな、マサヒロ!」
サトシが手を振る。
「ああ」
「俺、絶対ポケモンマスターになるからな!」
「……へえ」
マサヒロは少し驚いた。
さっきまでポケモンに電撃を浴びせられていた少年が、そんなことを言っている。
「頑張れば?」
「なんだよ、その言い方!」
「だって、まだピカチュウとも仲良くなれてないだろ」
「これからだよ!」
「まあ、せいぜい頑張れよ」
「マサヒロだってな!」
サトシが拳を突き出す。
「俺もチャンピオンになる!」
「……」
マサヒロは一瞬だけ黙った。
「俺が目指してるのは、シゲルを倒してチャンピオンになることだから」
「シゲル?」
「ああ」
マサヒロは拳を握る。
「俺のライバルはシゲルだ」
「じゃあ、俺もいつかライバルになってやる!」
「……無理じゃない?」
「なんだと!」
サトシが怒る。
マサヒロは笑った。
「じゃあ、頑張ってみろよ」
「絶対だからな!」
「はいはい」
二人は別々の道へ歩き始めた。
マサヒロは振り返らない。
今の彼にとって、サトシは幼馴染。
少し変わったやつ。
それだけだった。
――このときは。
かくして少年は前を向いた。
その背中を追うように、二匹のポケモンが走り出す。
マサラタウンから始まる、長い長い冒険。
その第一歩が、今――踏み出された。