痛みは無かった。
その光景から、目を逸らせないこと以外は。
その少女は傷を負っていた。首を銃弾が貫通したのだ。魔法に目覚める前に付いた傷故に、それはもう一生消える事は無い。しかし、少女にとってそれは些事に等しいことだった。
目の前に広がるのは、無数の剣、無数の死体、無数の銃……たった今、全てが滅んだ戦場。
天秤は傾いた。
そして、それによって少女は生き残り、何人もの敵達が死んだ。
皆が死んでいた。
泥に穿たれた足跡に、兵士が頭を突っ込んでいるのが見えた。アリスのように不思議の国にでも行こうとしているようだが、生憎とここには白兎はいない。あるのはぱっくりと割れた後頭部だ。赤い花びらを開いて、頭蓋の中身を空に晒している。
そこからさほど離れていない所に、今度は腹が割れた兵士が横たわっていた。開いた腹からはみ出た腸が、ついさっきまで降っていた雨に洗われて、ピンク色にテラテラと光っていた。
開いた眼から、光を失った眼球が覗いている。まるで少女を恨むように。
天秤は傾いた。そして、この惨状を生み出した。少女を生かし、敵の兵士を数多と殺させた。弾丸という『不運』は、少女の生という『幸運』を生み出したのだ。
そして、全てが集積した幸運の中で――――
————少女は慟哭した。
・・・
「へへ、ここまで逃げちゃえばこっちのものさ」
そんなセリフを吐くのは、星彩学園高校一年の少年、
今のうちに身体を休めておこうと、廊下の傍らで座り込む。無論、追手には細心の注意を払いながら。
すると、何処かからヴァイオリンの音が聞こえてきた。そういえばこの近くには音楽室があったなとリンは思い出す。誰かが弾いているのだろうか。リン自身、ピアノが弾けるのもあって音楽は好きだ。
(鉄鬼は、まだ来ないな)
リンは鉄鬼がまだ悪友三人を追っているのを窓越しに遠目で確認して、その音の発信源に向かう事にした。
そして着いた音楽室では、一人の少女がヴァイオリンを弾いていた。その人物には見覚えがある。
リンと同い年の高校生でありながら難関と呼ばれるコンテストで最優秀賞を取り、CDデビューもしている天才ヴァイオリニストだ。その演奏と、神に授けられたのか悪魔に魂を売ったのかとすら噂される美貌で聴衆を虜にした、時の人である。噂では幼少期から政治家などからも演奏依頼が来るとか聞いた事もあった。
「…………」
リンは無言で演奏に聞き入ってしまう。曲目は『タイスの瞑想曲』だった。ジュール・マスネが作曲した歌劇『タイス』の第2幕第1場と第2場の間の間奏曲。その甘美なメロディーによって広く知られている。本来はオーケストラと独奏楽器にコーラスの形であるが、室内楽用の編曲なのだろう。
甘美なメロディーながらも、
やがて、アヤメは弾き終えたようで、外で聞いているリンに目を向け、口を開く。
「音楽室、使いますか?」
「いや、そういうわけではないんだけど」
「……?」
アヤメは可愛らしく首を傾げる。そして、リンは釣られるように心境を話した。
「君の演奏が、あまりにも綺麗だったから」
彼女はふわりと笑って答えた。
「ありがとうございます」
たったそれだけだが、リンは目が離せなかった。勿論、アヤメが類稀なる美貌の持ち主であることも大いに関係しているのだが、それだけではない。何か心の隙間が少しだけ埋まったような、心が少しだけ動いたような、そんな気がしたのだった。
「って、ヤバい! 鉄鬼がもうすぐ来る!」
「鉄鬼」
「鬼川鉄矢先生だよ! 早く逃げないと、捕まる! じゃあまたね~!」
そしてリンは、その場から脱兎の如く逃げ出した。アヤメの長い髪がその時起きた風で少し揺れたほどの速さである。その直後に、「待て天野!」「待てと言って待つ奴がいるかい!」という声が聞こえてきた。
鬼川鉄矢は厳格ではあるが理不尽ではなく、誠実な態度で生徒に向き合っている教師だ。この星彩学園では数少ない良心と言える。その鬼川教諭を怒らせるとは、いったい何をしたのだろうか。ちょっとした校則違反ではない事は確実である。
(捕まえておいた方が良かったでしょうか)
と、アヤメは思ったが、あの様子では程なく捕まるだろうな、とも思った。
「それにしても、『また』ですか。ふふ、次に会う時はどんな話をしましょうかね」
アヤメは新たな友人の予感を感じて、一人笑みを浮かべていた。
一話の文字数、なんと二千字未満。短いですね。しかし、プロローグに書きたい内容は書けましたので、一話はこれで切ろうと思います。