「またか」
職員室でそう呟いたのは鬼川鉄矢。リン達から『鉄鬼』と呼ばれている生活指導兼英語担当の教師だ。全身筋肉ダルマなその容姿は、ター〇ネーターを演じた俳優を彷彿とさせる。「またか」というのは、リン達がまた悪戯をしたという事である。鎮圧に向かわねばならないが、その前にコーヒーカップを差し出す手があった。
「コーヒー一杯飲むくらいの時間はあると思うわよ、鬼川先生」
差し出したのは
「水分くらい取りなさいよ。尿路結石になっても知らないわよ」
「尿路結石は勘弁願いたいものだ。どうにも集中するといかんな……有難く貰っておくとしよう」
鉄矢はコーヒーを受け取る。果たして尿路結石の予防になるかは分からなかったが、好意を無碍にする道理もない。
「また悪ガキ四人組でしょう? 大変ね。生活指導も」
「そうでもない。職員室に籠りきりのこの仕事では、良い運動になる」
「良い運動としか思われてないのは、あの子達も癪でしょうね」
セミロングとショートの間くらいの長さの髪を振って光希は鉄矢を労わる。実を言うと、星彩学園の中では数少ない常識人と自認しているこの二人は、よく話す仲なのだ。
「貴方も少しは運動した方がいいと思うぞ、金城先生」
「適度にしているし、私は職員室に籠って仕事をするのが気に入っているのよ。私から書類仕事を奪おうものなら、いくら貴方でも殺すわよ」
「教師が軽々しく『殺す』と口にするな。そういうところだぞ……」
そうなのである。この金城光希という教師。かなり優秀であり、年の割に若々しい美貌を保っているにもかかわらず、何故同僚の教師達からは避けられているのか。理由は彼女がちょっと常軌を逸したレベルの書類仕事狂だからである。少し特殊な形でのワーカホリックとでも言おうか。彼女の情熱は基本的に学校内での書類仕事にのみ向けられており、「何者であろうと私の書類仕事を奪うものは皆殺しよ」と公言しているほどである。実際、教頭の
「
「それについては同意するわ。目上の人間っていうのはアレでしょう? 数学担当のセクハラクソ野郎とか、ヒステリー女とか、支配者面した
「口が悪いぞ、金城先生。本当のことを言うのはそこまでにしておけ」
他に教師がいないから良いものを、と鉄矢は言った。
「早く出世したいものね。学年主任でも教頭でもいいけれど」
「金城先生、怒らないで聞いて欲しいんだが……」
「何?」
「校長その他は貴方が有能であるが故に、今の仕事を続けさせるのがいいと判断したようだ」
「…………」
「というわけで、貴方の昇進は無しだ」
「…………」
「…………」
「……まあ、書類仕事ができるだけマシと思う事にするわ」
「そういうところだぞ、金城先生」
教師ならば、出世するほど書類仕事が増えそうなものだが、詳細は不明である。なお、この学校の教師達は書類仕事の殆ど(自分達のサインが必要なもの以外)を光希に押し付けている。それを熱意を以て受け取る辺り、光希も光希でおかしいというか、そういうところだぞ感が凄いのだが。
「光希ちゃーん、学級日誌置きに来たよー」
と、二人の会話に学級日誌が差し込まれた。差し込んだのは
「とりあえず、霞さん。貴方は私を先生と呼びなさい」
「あ、ごめーん、じゃあね、先生」
「あと敬語も使いなさいね」
因みに、光希はこれでもリン達からは信用されている数少ない教師である。理由は書類仕事にしか興味が無く、悪戯を見逃してもらえるから……などというわけではなく、良くも悪くも生徒に対して平等に接するからである。一般の生徒であろうが、特待生であろうが、権力者の娘であろうが、教師としては平等に接するのである。まあ、それもやはり書類仕事よりも下位の興味であるが故なのかもしれないが。
「或る意味大物だな……霞」
「フレンドリーなのが彼女の長所ではあるけれど、欠点でもあるわね」
「いや、貴方にあの態度を取れるところが大物だと言っているのだが……」
「どういう意味よ」
書類仕事狂である光希は当然仕事を邪魔されると怒る。今はたまたま仕事の手が止まっていたが、咲は仕事中だろうと関係なく話しかけるのだ。鉄矢はそれを見て『大物だ』と評したのである。
「それでは、俺は悪ガキ共の鎮圧に向かうとしよう」
「いってらっしゃい」
光希は既に椅子に座って書類仕事に向き合っていた。この状態で話しかければ鉄矢とてただでは済まない。いや、肉体的にはどうもならないであろうが、わざわざ光希の怒りを買う事もないだろう。
・・・
そして結局、悪戯をしたリン達は鉄矢に鎮圧され、反省文を書かされることとなった。放課後の教室で仲良く反省文を書く四人を眺めるのはアヤメと咲と鉄矢である。
「すまんな二人とも。結果的に見張りのようなことをさせてしまっている」
「いえ、用事もないですし良いですよ」
「コイツ等見張ってないと、また何かやらかしそうだしね~」
「流石にさっきの今で何かしようとは思ってないよ」
「この前から数日でやらかした人間の何を信用しろと?」
リンの返答に、アヤメが笑顔で質問する。流石に期間が短すぎたと思ったのか、リンは閉口した。両手で頬杖をついてこちらを眺めるアヤメは大変可愛らしいのだが、リンとしても目の前にいて凝視されると少々落ち着かない。しかし、言うべきことは言っておかねばとリンは口を開いた。
「一応、やらかしたことに対して罰は受けるべきだとは思ってるからね? そこまで恥知らずじゃないよ」
「そもそもやらかさないでください。今日は天野さんと二人で帰る予定だったのに。はあ……」
「確かにこの日にやらかしたのは悪いと思ってるよ」
「いや、この日にというか、参謀はこのごろ毎日小夜風さんと一緒に帰ってるじゃないですか」
「おまけに週末は出かけたんだろ?」
「なんだかんだ一緒にいる時間多いよねえ」
いつメン三人がリンに探るような目つきで尋ねる。確かにそれだけ一緒にいるとなれば、ただの友人関係ではないのではないか、とも思うだろう。
「僕と小夜風さんは普通の友達だよ」
「そうですね。まあ、多少好意的に見ていることは否定しませんが」
「アヤメちゃんって話が合う人は基本的に好意的に見るからね」
アヤメは頬杖を解除して、手を膝の上に置くとこう言った。
「この気持ちが何にせよ。大切に育てていきたいとは思っていますよ。ゆっくり育つものにしろ、急速に育つものにしろ……」
「急速に育つ。なんてこともあるのかい?」
「音楽にはレントもアダージョも、アレグロもプレストもあります。速さそれ自体は良いものでも悪いものでもない。問題はどのように旋律を作るか、そして奏でるかです」
アヤメは音楽に喩えて感情を、ひいては友情や恋愛について説いた。その感情が速いか遅いかは問題ではない。重要なのはその内容の方だ、と。
「レント……アダージョ……ってなんだ?」
「音楽における速度を表す用語だよ。小夜風さんが使った用語は順番に『遅い』から『速い』に変わっていったね」
アヤメの使った喩えがよく分からなかった一滋は素直に聞く。知ったかぶりをせずに、素直に疑問を呈するあたりは彼の性格がよく表れている。
「へえ、音楽ってのはそんな用語もあるんだな。俺はてっきりBMIで全部表すのかと思ってたぜ」
「脳筋、それ肥満度」
「BPMですね。確かにそう表わす事もありますが、速度記号は数字だけで表すことができない「重々しく」「活発に」といった曲の表情も説明することができます。例えば、先程使ったレントには、気楽に、という意味もありますね」
一滋は再度「へえ」と返すと、再び反省文の執筆に戻った。しかし、リンはあまり納得いっていないような顔をしている。
「うーん、友情はともかく、恋愛感情はゆっくりと育っていくものじゃないかな。あんまり急速に育つイメージは無いよ」
「あら、そうでもありませんよ。ビゼーの『カルメン』やシェイクスピアの『テンペスト』など、急速に育つ恋愛は多くの作品に残されています」
「それって現実的じゃないってことじゃないか」
「ある程度はリアルも含まれていると思いますがね。急速に育つ衝動的な恋。そういうのも現実には存在します。勿論、天野さんがゆっくりと恋愛感情を育てたいというのであれば、否定は致しませんが」
「恋愛って結婚を前提としてするものだよね? あまり衝動的に決めるべきものでもないと思うんだけど」
リンのその発言に、咲は少し驚いたような反応をする。
「わお、結構重いんだね、君」
「重いかな。だとして軽い方が問題じゃない?」
「あんまり重いとその場から動けなくなっちゃうよ~。あたしなんかはその時楽しければいい派だから、恋愛も結婚とかまでは考えないにゃあ」
「霞さんはそれでいいのかもしれないけど、相手によっては傷つくだろ、それ。やっぱり遊びで付き合うとか、滅びるべきだと思うんだ」
「うっわ過激派。でも学者の新説はティータイムから生まれるっていうし? 遊びでもなんでも付き合ってみないと分からない事はあるんじゃない? もしかしたら、そこから真剣な交際に発展することだってあるかもしれないし」
「そんなこと、あり得るの?」
リンは心の底から不思議そうに咲に聞く。傍で聞いていたアヤメも、恋愛に向いていないのがリンなのか咲なのか、断定はできなかった。とはいえ、アヤメもアヤメで恋愛への持論はある。
「結婚を前提にしていようといなかろうと、衝動を抑えようとも抑えられないのが難儀な所でもあるのでしょう。誰にも理解の出来ない狂気による恋愛にせよ、欠けた片割れを探すための恋愛にせよ」
言い切ると、アヤメはリンを見て続ける。
「恋愛観、死生観は人それぞれです。現に、古代ギリシャの時代から哲学の世界でも答えは出ていませんし」
「恋愛に哲学も何もあるの?」
「ありますよ。哲学も、音楽も」
アヤメは再び両手で頬杖をついてリンを見る。リンとは何度も会話をして、今では文通もしている。アヤメとしては、リンに惹かれているという自認もあった。純粋な気持ちでヴァイオリンの演奏が綺麗だと言ってくれた。ただそれだけと言ってしまえばそうだろう。しかし、人を好きになるのに必ずしもドラマが必要であろうか。
プラトンは言っている。説明できる理由のある恋愛は、結局快楽に導かれた故の恋愛であると。分かりやすく言えば、惹かれた理由が『容姿』であれば、更に上位の容姿を持つ者に平然と乗り換えるであろう。快楽を基にした恋愛とはそういう事である。これは『性格』や『経済力』であっても同じだ。無論、『ドラマティックな理由』であってもそれは成り立つ。
恋愛に理由はある。しかし、その理由は説明、言語化出来ないものであるべきなのである。故に、恋愛とは狂気なのだ。
「だから、反省文なんて早く終わらせて、一緒に帰りましょう? また沢山、お話したいです」
「わ、分かったよ……」
リンは反省文の執筆を終わらせるべく、より一層集中した。
「霞さん、小夜風さんはもしかして参謀のこと……」
「かもね」
「なんでだ?」
「週末に何かあったんでしょうかねえ」
「その可能性も無くはないけど、案外理由なんて無いのかもね。もしくは言語化できないか。って同じか……とにかく、納得できる理由を探そうとしても、答えは返ってこないんじゃないかにゃあ」
その後、四人は反省文を書き終えてそれぞれの帰路についた。咲としてはアヤメと一緒に帰りたかったのだが、アヤメとリンがなんだかいい雰囲気(アヤメからの一方的なものではあるが)だったので、空気を読んで別の道を帰った。
はい、書類仕事狂の金城先生。いかがでしたでしょうか。根は常識人ですよ、根は。ただ書類仕事に対する情熱がおかしいだけで。教師という仕事は書類の嵐と聞いたことがあるので、或る意味彼女にとっては天職かもしれませんね。