あれからまた何日か経った。リンとアヤメは毎日音楽室で話しているし、悪友達と馬鹿な事を話したり、アヤメは咲と仲良くそれを眺めたりしていた。時々、アヤメが四人の喧嘩を拳で止める事もあったが。ヴァイオリニストなのに全く以て手を大事にしていないとは、リンの言である。
ある日、アヤメは珍しく自分からリンを訪ねた。いつもは音楽室で待っているのだが、今日は練習を少しだけ早く切り上げて、リンのいる教室へと向かっていたのだ。
実のところ、アヤメはかなり楽しみだった。恋愛感情とまでは言えないにしても、アヤメの心に新たなる音楽を流し込んで来るリンという少年が、次にどんな音を聞かせてくれるのか。
いずれにせよ、いつもは待っているのだが、今回は自分から訪ねてみようと思ったのである。教室に着くと、そこにはいつもの四人ではなく、リンのみがチェス盤の置いてある机の前に座っていた。
「こんにちは、リンさん。今日は貴方だけのようですね」
「ああ、こんにちは。小夜風さん。三人は道場破り。またリベンジ申し込まれたんだよ。僕もだけど」
リン達四人はよく『道場破り』と称して、色々な所に喧嘩を売っている。相手の部活、すなわち相手の得意なもので勝負を挑み、そして勝つ。ということを日常的にやっているらしい。そして、負かした相手からリベンジを申し込まれるというのもまた日常であった。
『僕は運動はあまり得意じゃないから、チェスやクイズと言った頭脳系で挑んでるけどね……って、聞いてる?』
『聞いていますよ。とても良い戦績を収めているそうですね』
という会話も以前にした。
「今日はチェス部の奴らがリベンジを挑んできたんだ。また返り討ちにしてやったけど、
「勝って何よりです」
アヤメはその話を聞いてもあまり興味を示していたようには見えなかった。一応最初は聞いていたのだが、何度目かの時には最早興味すら示さなくなってしまったことはリンにも分かった。
「小夜風さんも僕達の道場破りに加わってみたら? 勝負事で得られる事だって多いよ。特に、比肩する相手との対決はね」
「何度も聞かれている気がしますが、お断りします。私は争いごととは無縁でいたいので」
「コンクールには出場するのに?」
「だからこそ、ですよ。これ以上、争いの種を増やしたくはない」
アヤメはヴァイオリンのコンクールで優勝や入賞を何度もする実力者だ。だからこそ、勝負に貪欲な人間であるとリンは思っていたのだが、どうやらアヤメ本人は違うらしい。
「受験もコンクールも、世の中勝負事だらけですよ。なのに何で、それ以上の争いを起こそうとするのですか?」
「さっきも言ったけど、勝負から得られるものだってあるさ」
「……負ける可能性があっても、ですか?」
「負けから得られるものだってあるよ」
アヤメは一息ついてこう答えた。
「残念ながら、私はそう言った勝負事? には興味が持てないみたいです。無駄とまでは言いませんけど、やはり価値を見出す事ができません。ナタナエルに言われるのと同じように書を捨て、外に出よと言われても、それらに関心事を抱けませんね」
アヤメはそう言ったきり、本を開いて読み始めた。リン達の道場破りは最初、他の三人が暇つぶしにジュースを賭けたのが始まりであり、よくリベンジを申し込まれている。また、リンは腹黒こと白とチェスをやっていた所に挑戦状を叩きつけられたのがキッカケだ。
尤も、相手が仕掛けてきたとはいえ、断らずに付き合っている以上、リン達もまんざらでもない様子ではあるが。
「少なくとも私は、楽に勝てる方がいいです。賞賛すべき敵に出会うよりも」
リンが浮かべていたのは哀しみ、怒り、失望、そのどれか、否、全てであったかもしれない。それほど、アヤメの言葉は彼の神経を逆撫でした。一方、アヤメは澄ました顔で本を読んでいる。恥もプライドも無い自然体。それが余計に腹立たしかった。
何故と聞かれても答えようが無いが、どこか神聖視していた少女の内面が思いのほか俗であったことに失望しているのかもしれない。
「……随分つまらない考え方をしているんだね」
「否定はしません」
「小夜風さんは全てを手軽に手に入れたいのかい? それとも呆れるほど無欲なのかな?」
「そういえば、手軽に手に入れた宝は手軽にあしらわれるものという言葉もありましたね。無論、どちらも違います。ただ、無駄に争いを振りまきたくないだけですよ」
「無駄じゃない。それを分かってもらうためにも、やっぱり参加してはくれない?」
自分達の喧嘩を仲裁した時の腕力的に、アヤメも身体面は決して弱くはないだろう。それを知っている以上、リンはアヤメをこちら側に引き入れたかった。
「勝ちばかりの人生は空虚で哀れな囚人のようなものだと僕は思う。いわゆるチート無双ものなんかは典型だね。あれ程までに虚無な人生もまた無いだろうさ」
誰がそんな事を決めたのか、と問うのも徒労に思えて、アヤメはとりあえず本を閉じて持論を話す事にした。
「空虚である代わりに、傷つく事もありませんよ。争いを無くすのはゲーム理論的に考えて不可能でしょうが、泥仕合の果てに双方に多大な犠牲を出す事は防げます。……少なくとも、読者という安全圏から主戦論を唱えるほどに空虚な事もあまり思いつきませんね」
アヤメはあくまで理論的に、時々リアリティラインを修正するために購読している数学書や哲学書のように淡々と言葉を紡ぐ。
「へえ、意外と言うじゃないか。ならド直球に聞くけどさ。小夜風さんはそれが本当に正しいと思ってるの?」
「間違っているかもしれませんね。しかし、他人が勝手に否定していいものでも無いでしょう」
安直な幸せ。容易な勝利。
その世界では願いが叶う。現実で幸福に生きるだけの強さを持てない人間を、掌サイズの楽園に逃がし、複製の幸福を与える。
それを確かに求める人間がいるのだ。
「そう。少なくとも、僕はそれが間違ってると思うわけだ。逃げて、誤魔化して、引きこもってる。他の人と繋がってない」
「それが、問題だと?」
「うん。僕はそういうのを、気持ち悪いと判断する。おまけにその過程で生じる闘いすら楽をしようとする。もはや
アヤメは溜息を吐いた。
天野リンには何かを踏みにじっている意識さえない。その言葉が人間を傷つけることを、弱さを持たないリンは理解できない。
アヤメは出来る限り遠くに意識を向けた。スタインベックが喩えたように、神の怒りによって
「つまらないとか、逃げるとか、誤魔化すとか……」
それらは否定的な言葉だ。きっと正しくはない言葉だ。
「人が必死に幸せになろうとする行為を、悪逆であるかのように言う権利は貴方には無い」
酸っぱい葡萄で、甘い檸檬で、片手の楽園で作られ、守られる幸せだってある。弱い人間の闘い方を端から間違っているかのように表現すべきではない。
「リンさん、別に貴方の人生を否定したいわけではありません。貴方が強敵に挑むことが生きがいだというのならそうすればいい。しかし、貴方は貴方が特殊であることをもう少し自覚すべきです」
世界中の人間が天野リンなら、そのライフスタイルで幸せになれるのかもしれないけれど。彼は人を信用しすぎているとアヤメは思う。誰もが彼のように強くなれると思い込んでいる。
「私だって、片手の楽園をそれほど肯定しているわけではありません。外界との接触を遮断し、無知のままでいるなら知識を求めるべきだとは思います。しかし、その人物から安住を取り上げ、楽園を踏みにじる行為が正しいとは思えません」
エーリッヒ・フロムの言葉に習えば、楽園を追放された人間は歴史の道に出ていく事を強制される。そして二度と、帰る事は許されない。現実的な価値観に従うのならば、それが正常であり、正しいのだろう。
しかし、全ての人間がそれに耐えられるわけではない。蛇にそそのかされて禁断の果実を食べたイヴ。
それ故に、土は呪われるものとなった。それによって、生涯食べ物を得ようと苦しむ。人間に対し、土は茨と
アヤメはリンにそう伝えた。
「…………」
一方、リンはアヤメの言葉にどこか納得できない表情をしていた。それは今話している論考だけのものではない。
リンはある種の天才だ。
天才は常人には見えないものが見え、考えすらもしない方法で効率的に物事を処理していく。
その中で軋轢が生まれた。世間というのは天才と犯罪者以外の全てに寛容なのである。
彼を化け物のように見る同級生や彼の力を利用してくる人間、生意気だと宣う教師……端的に言って、リンは失望していたのだ。天才が多かれ少なかれ直面する問題。
だが、彼には受容者がいた。それが脳筋、腹黒、スパイだったのだ。それを無意識に、アヤメにも期待してしまったのだろう。
だが、アヤメは天才の価値観を否定した。向上心を否定した。後の彼ならばある程度割り切り、アヤメの主張を受け入れる事もできただろうが、今はまだ未熟だったのだ。
一度生じた失望は、止まらなかった。
「ああそうかい……それなら楽園の中で安住してなよ。空虚な人生を送りたいなら送れば良いさ。そうやって傷も何も負わずに、責任からも逃げて、なーんにもない空っぽな人生なんて僕は御免だけど、君はそれが好きなんだもんね」
リンはそう言うと鞄を掴んで帰ってしまった。残されたアヤメは目を伏せ、遅れて帰路についた。リンもまた、違う形でアヤメに理想を押し付け、それに迎合しない彼女を拒絶した。それは、アヤメにとって、多大な精神的ダメージを与えた。ズキズキと痛む胸と、歪んだ景色に気が付かないふりをしながら、アヤメは歩を進めた。
が、しかし、
「うう……」
心の傷とはそう簡単に割り切れるものでもなく、
「うっく……ひっく……」
アヤメの目から涙が零れ、
「うわあああああん……」
一人になった瞬間に泣き出した。好きな人に暴言を吐かれるのは、アヤメを以てしてもつらいのである。
正直、どっちが正しいかと言うとね……とはいえ、私の基準では他人に強制するのはアウトなので、もう少しソフトに矯正しようと思います。アヤメも別に、勝負事に勤しむ事そのものを咎めているわけではなく、それを他人、この場合はアヤメ自身、に強制するなという話でございます。
因みに次回もまたこんな感じの展開が続きます。
読者の皆様はどう思うんでしょうか?