「天野君」
翌日、リンは咲に話しかけられていた。アヤメとあのような口喧嘩……というより、リンが一方的に話を切り上げて帰ってしまった以上、アヤメの友人である咲と話すのも少し気まずい。
「……何?」
「昨日アヤメちゃんと何かあったの?」
「ああ、何? 小夜風さんから何か聞いたの」
イライラしたような様子のリンに咲は眉を顰めるが、そのまま話を続ける。
「アヤメちゃんが落ち込んでたから、あたしが余計な気を回してるだけ」
「ふーん、そっか。それで、僕が原因だったらどうする気だったの」
「どうもしないよ。これはあたしが納得する為だけにやってる事だもん。アヤメちゃんに『アイツはやめとけ』って言うつもりも無い。決めるのはアヤメちゃんだしね。まあ、あたしが君への評価をどう改めるかもあたしの自由だけど」
軽い見た目の割にしっかり考えて話しかけてきたんだな、という失礼な感想をリンは抱いた。別段、隠す程のことでもなし、リンは昨日の出来事を話す事にした。
「こういう顛末だけど」
「…………」
「何か言いたそうだね」
「まあ、言いたいことは色々あるけど、これだけ聞いとくよ」
「何?」
「天野君は、つまらない小説はこの世にあった方がいいと思う?」
一瞬、何を聞かれているのかリンは分からなかった。小説。それがどう今の話に繋がるというのか。
「それが何の関係があるのさ」
「いいから。つまらない小説は、この世にあった方がいいと思う?」
あくまでもその質問を繰り返す咲。よほど、この質問で確かめたい何かがあるんだろう。
「じゃあ答えるけど、僕はつまらない小説は無い方がいいと思ってるね」
それを聞いた咲は納得したような表情をすると、リンにこう言い放った。
「それじゃあ、あたしは君には賛同できないな」
「君もか……まあ、君は僕がどう答えようと小夜風さんの味方をすると思ってたけど」
「あたしがアヤメちゃんの友達なのは否定しないけど、今回は天野君の意見を聞いた上でアヤメちゃんに賛成しただけだよん♪」
盲目的にアヤメに従っているだけではない、と咲の口から語られ、リンは更に苛立った。
「僕、何か間違ったこと言ったかな。向上心も持たずに、努力や争いを避けて生きることほど空虚な事もないと思うんだけど」
「1、正しいことが正しいとは限らない。2、何でもかんでも合理化するな。3、ゼロヒャク思考をやめろ」
「屁理屈三箇条みたいなこと言うのやめてよ。くだらない感情論で考えろってこと?」
「君はアンドロイドなのかにゃー? だったらもっと頭を使いなよ。そして常識を取り戻せし」
「常識、ね、はん……」
「鼻で嗤ったな? あと、一応言っておくけど、アヤメちゃんだって傷つかないわけじゃないからね? 耐性は幾らかあるかもしれないけど、傷を負わないわけじゃない。そこはちゃんと承知しておいてね?」
「あのやり取りでどうやって傷つくっていうのさ……むしろこっちが色々言いたいんだけど」
(がまんがまん……一般人には手を出さない……アヤメちゃんや
何度目だろうか。一般人を殴りたいと思った咲。しかし、そんなことをしたらアヤメやゲアカリングの顔に泥を塗る事になるために、理性で歯止めをかけた。アヤメとは友人だが、ゲアカリングとはどんな関係があるのか、それは後々分かる事になる。
「何か言った?」
「なーんにも? これから先に傷つけないように気を付けて、って思っただけ。それと、つまらない小説でも泣ける文章はあるよ。じゃあね」
そう言うと、咲は去っていった。残されたリンは結局、咲の言葉の意味が分からないままに放課後を迎える事になった。
・・・
放課後、アヤメはリンのいる教室に向かっていた。しかし、いつものような楽しげな雰囲気ではなく、足取りも重い。昨日はリンの誘いを断り、そしてリンに拒絶された。自分が誘いを断った事が駄目だったのだろうか、と、自分で何度も考えた仮説が頭から離れない。しかし、自分にあの誘いを受ける事は不可能だったように思う。
アヤメは争いが嫌いだ。ヴァイオリンのコンクールも出場はしたが、心の中では『何故音楽でまで争うのだろう』と思っていた。ヴァイオリニストとして生きるには仕方が無いと割り切ったが、それでも争いに対する根本的な嫌悪感は存在する。仮に争いが必要なものだとしても、それは出来る限り短く少ない方が良い。
そう思うのは間違っているのだろうか。
結論の出ない問題をぐるぐると考えながら教室に入ると、そこにはリンが一人でいた。アヤメは、リンと二人で何度か帰ったことを思い出した。二人で帰る時間はアヤメにとって安らぎの時間だった。咲などの仕事仲間を除いて普通の会話というのは殆ど出来なかった。仕事仲間である以上、会話が成り立たないのでは仕事ができないので当然ではあるのだが、仕事以外で普通に会話をしてくれるリンという少年に非常に好感を持っている。
アヤメに話しかけてくる人間はアヤメの能力や、そうでなければ容姿や身体を目当てに話しかけてくる者ばかりだった。それを悪いとは言わない。アヤメとて名誉や金銭のためにヴァイオリンの腕を磨いてきたと言われれば否定は出来ないし、容姿その他に気を使っていることも事実だからだ。
しかし、特に異性に身体を嘗めまわすように見られるのは不快である(故に咲からのセクハラに関しても割と本気で怒っていた)し、能力でしか評価されないというのは少し悲しかった。仕事仲間に関しては咲以外は全員社会人で、友人というよりは本当に同僚という関係であるし。
だから、リンが話しかけてくれた時は本当に嬉しかったのだ。打算抜きで、というと語弊があるかもしれないが、それでも純粋な気持ちで音楽を褒めてくれたのはリンであった。そして、学園内での交流やお出かけ、メッセージアプリでの会話などを通してリンという人物が好きになっていた。
チョロいと言われるかもしれないが、深海魚が数メートル浮上すれば生きられないように、サンゴが数度海水の温度が上昇すれば生きられないように、些細な環境の変化で人もまた変わるものである。
そんなこんなで、アヤメはリンと仲直りがしたかった。だから、教室にいるリンに話しかけようとする、
「あ」
が、しかし、リンはさっさと帰り支度を始めて教室を出て行こうとした。アヤメはその態度にまた胸の痛みを覚えながらも、「待ってください!」と鋭い声で呼び止めた。
「少しだけ、少しだけでいいですから、お話してくれませんか?」
それに対して、リンは相変わらず冷たい態度を取ってしまう。
「何度話したって変わらないよ。僕は君に失望した」
また、アヤメの胸に痛みが走る。
「っ……争うのがそんなに偉いことですか」
「僕はね、強く賢くあり続けて、一人でも望みを叶えられるようになりたいんだ。そのためならいくらでも争うよ。楽園の中で安住することなんかに希望を見出す君と違ってね」
アヤメは胸の痛みに息が詰まる。もう泣きそうだ。
「楽園に安住して何になるんだい? 努力も成長もせずにぬるま湯の中で腐り落ちていく感覚なんて味わいたくないね。ああ、それとも、君にはその感覚が心地よいのかな。だったらごめんね。そういう人間がいるとは聞いたことがあるよ。僕には理解できないけどね」
「理解できない頭で良かった」とリンは付け加えた。アヤメはといえば、心臓をペンチで捻りあげられるような激痛に耐えていた。
「……弱者に寄り添え、とも言う気かな。寄り添った所で理不尽な嫉妬をぶつけられるだけだよ。奴らの論理じゃ強くなる事すら許されない。それは悪魔に魂を売り渡して『悪』に転落する事と同じなんだからね。見捨てるか、さもなくば無理心中しろと要求してくるのが関の山さ」
「…………」
「小中学校の教師や同級生達、あれは傑作だったね。僕を化け物か何かを見るような目で見ていたよ。優秀過ぎて生意気だ、とか、怖い、とか言われたな。あとは感情論で捲し立てるだけだったよ。まさか、君もくだらない感情論で僕を諭す気じゃないよね。そこまで馬鹿じゃないと思いたいんだけど」
アヤメはその言葉を聞いて、一度深呼吸した。否定はしない。アヤメとて稀代の演奏者と持て囃されると同時に理不尽な嫉妬を数多く受けてきた。彼女の家が資産家というだけで没落を望まれた。ああ、分かっている。リンの言う事も正しい。
だが、アヤメには一つだけ我慢ならない事があった。リンは結局、弱者が自分達のもとへ転落するのを望むように、強者の立場へ登る事を強制している。アヤメと同じ苦しみを背負う者が、アヤメを貶した者達と同じ事を言っている。
アヤメの心は傷だらけだった。しかし、その傷だらけの硝子の心が、熱を灯す。
「言いたいことはそれだけですか」
「なに……?」
「言いたいことはそれだけかって聞いてるんです!」
アヤメは瞳に激情を宿してリンに詰め寄った。嘗てない彼女の様相にリンが初めて後ずさる。
「私が馬鹿? そんなことはとうに知ってますよ! いつも人を呪う歌を書きたくて! それで誰かを殺せれば良くて! 生きてるだけでも苦しくて! 最低な、軽薄な、甲斐性無しな論理で語る私は、さぞや馬鹿で滑稽に映ってたことでしょう! 知ってますよ!」
アヤメは呼吸を整えて、尚もリンを睨みながら毒を吐き続ける。
「そんな馬鹿な私から最高級の侮辱を言ってあげます。結局あなたの理想なんて偽物です」
「はぁ!? 取り消せよ今の言葉! 流石に言っていい事と悪い事があるだろ!」
「何度でも言ってあげます! あなたの価値観なんて偽物です! 私からすればチープなセットで人がよく死ぬだけが売りのSF映画と変わらない。私はそのエキストラなんでしょう!? あなたからドラマチックな歌や友情を聞いたところで馬鹿らしくて仕方がない! あなたの全てに頷けばいいんですか!? 心でも売り渡せばいいんですか!? そんなの欺瞞と変わらない!!」
偽物とは、おそらく言葉通りだけの意味では無いのだろう。リンと同じく、アヤメも失望しているのだ。友人と思っていた人物が、そして、恋愛的な好意まで抱いた人物が、結局自分の事など背景としてしか見ていなかったことに。リン自身がどう思っているかはこの際重要ではない。少なくともアヤメはそう認識してしまったのだ。
「じゃあ……じゃあ小夜風さんの価値観は本物だって言うのかよ! 僕の考えを頭ごなしに否定できるだけの根拠がさあ! あるのかよ!」
一方、リンも必死だ。自分が培ってきた価値観を頭ごなしに否定された。その怒りは並の物ではないだろう。珍しく声を荒げるほどに。
そして、アヤメは怒りを滲ませながらも相対的に冷静に答えた。
「当たり前でしょう。私の価値は自明です。証明なんて思い出せるわけもない。思い出せないならこの痛みは魂です。わざわざ誰かと闘わずとも、価値を比較せずとも私は私です。神様なんて知りません。心まで醜い私です。世界は私の物です。それが私の音楽です」
「……狂ってるね。論理が破綻してる。理解できない」
「ええ、そうでしょうね。言葉で共有できる程度の物が音楽だなんて言えるわけが無い。言葉も論理も証明も、全て捨ててこそ音楽です。その価値も知らない貴方に、分かって堪るものですか」
斯くいうアヤメとて、普段は理論と数式によってモノを考える人間だ。しかし、それだけではどうしても説明できないものが幾つもあった。それが魂であり、音楽だ。
「全てがロジックで説明できるなら、夜が死ぬたびに歌など歌いませんでした。訳も分からず花緑青の涙なんて流しませんでしたし、ヒ素で血を吐くような痛みなど味わわなかったでしょうね」
「色々言ってるけど、結局全ては感情論じゃないか」
「では、貴方の強さを他者に強制する論考は、感情論ではないと?」
「そうさ。論理的に考えて最適解だろう。強く賢くあることが間違いなわけないじゃないか」
「そうでしょうか? 弱さとは感度です。或る事象についての良好な感度が弱さと呼ばれる。痛みに対する感度、恐怖に対する感度、そして哀しみに対する感度……人は哀しみに弱くあるべきです。哀しみに対する感度が良好であるということは、それだけ優しいという事なのですから。人の優しさには、それだけで無条件の価値が有る」
それを聞いて、リンは鼻で嗤った。
「弱者の戯言だね。優しさだけでは何事も成し遂げられない。そして、人は成長し向上する生き物だ。弱いままであっていいはずがない。正義は議論の種になるけど、力は非常にはっきりしている。そのため人は、正義に力を与える事が出来なかった。正しいものを強くすることが出来なかった。だから強いものを正しいと定めた」
「パスカルですか。貴方がそうする分にはそうすればいいと思いますよ。しかし、私はもう叶いませんが、優しい人でありたいとは思います。少なくとも、私は誰かがパスカルを引用したら、用心するべきだと学びました」
リンは、アヤメの発言の中で気になる事があった。パスカルに対してオルテガで反論してきた事、ではなく、「私はもう叶わない」という発言だ。アヤメの中ではアヤメ自身は強者、言い換えれば優しくない人間であるという自覚があるのだろうか。
「そう、平行線だね。僕には小夜風さんの言葉は弱者の戯言としか思えない。それでも僕の信念を覆したいと思うならさ……」
「何でしょう」
「僕と勝負しようよ。小夜風さんの得意なもので、僕を打ち負かせばいい。それすら出来ないのならば、その言葉はやはり弱者の戯言だよ」
アヤメは少し考える。ここでアヤメがリンを打ち負かしたとしても、それは結局、『勝った方が正しい』ということになりはしないだろうか。それはアヤメの理想とは程遠いけれど、『正義に力を与える事が出来なかった』のはアヤメも同じ。そういう意味では、アヤメもまたその理想に反する者だ。
アヤメは、目の前の友人、好きな人を繋ぎ止めるために、
「分かりました。それでは一週間後に、先日お出かけした森へとお越しください」
理想を、一つ捨てた。
タイトルと咲が言っていた『つまらない小説』は『つまらない人生』と言い換えても成り立ちます。チェンソーマンでも主人公(?)が第一部ラスボスに対して似たような問いかけをしてました。
前回の『チート無双もの』発言にもかかっていますが、どんなにつまらない表現であっても表現を規制していい理由にはなりません。同じく、いくらつまらない人生であっても無くなるべきではない、と咲は言っているのです。リン君の思い浮かべる世界がどれだけ良いものでも、傍から見てどれだけつまらない人生であっても否定するべきではない。と、咲はリン君の意見を拒絶したのでした。