天使留学 作:おにいちゃん予備軍
「今日は前々から言っていたようにこの学校に天使が留学してきてこのクラスに配属になる。お前たちくれぐれも粗相のないようにしてくれよ。先生の首というより教職員全員の首がかかっているからな」
まだ春だというのに少し暑く感じる五月上旬、担任の先生は乾いた笑いで俺たちを見渡す。
後半の言葉は耳に入っていないのか周りは「女? 男? どっちだろうな?」、「そもそも天使に性別ってあんの?」と盛り上がっていた。
先生は手を叩いて生徒からの注目を集める。
「静かに。これから自己紹介してもらうから。おーい、入ってきてくれ」
教室前方の扉が開かれ目に入ってきたのは頭の上の輪っかを上にぶつけてのけぞり、さらに大きく白い翼がつっかえて尻もちをついた少女の姿だった。
「あいたた、これだからバリアフリーのなっていない建物は……」
教室内にいるほとんどが今の光景を目にしたが誰一人として笑うようなデリカシーのない人間はいなかった。
天使は立ち上がって制服のお尻の部分をパッパッっと払い、頭を傾けながら翼を折りたたんで教室に入ってきた。
雪を連想させるほどの白く腰あたりまで伸びている髪、透き通った水色の瞳、背中から生えていて膝のあたりまである大きく白い翼、人間では届きえない程の美の暴力が佇んでいた。
常人が関わってはいけないのではないかと思うぐらいに別次元の存在だと感じさせられるが、先ほどのドジを見たことで多少その印象は薄れている。
天使は教壇の前で立ち止まる。
「私は人間種の学校に留学するにあたって、人間の文化・生態について勉強しました。敬語というものがあるらしいですね。敬うべき存在に対しては敬語で話すと学びました」
穏やかに話す天使だが、途中から教室の空気が重くなる。
「先ほど私は『入ってきてくれ』と聞こえたのですが、これは敬語ではありませんよね。そこの方にとって天使である私は尊敬に値しない存在ということでしょうか」
顎に手を当てて首をかしげる天使。その視線に射抜かれて担任は言葉を発することが出来ず、呼吸もままならなくなっていく。
このままでは先生が倒れてしまうと思った俺は自分の机を叩いて勢いよく立ち上がる。
その音を聞いて天使は俺を視界にとらえる。見られているだけで冷汗が止まらなくなる。
「せ、先生は平等な先生です。貴女が天使であり、どんなに上の存在だとしても、学校では一生徒にすぎません。他の生徒と同様に扱った結果ではないでしょうか」
唾をごくりと飲み込んで天使の反応を待つ。
数秒、いや数分経ったころだろうか、重い空気が霧散した。
「それはそれは失礼しました。先生は教職者の鑑なのですね」
先生に対して軽く頭を下げて謝罪する。
先生は「ああ、気にしないでくれ」と震えた小さい声で返した。
天使の意識がこちらから外れたのを確認して座る。
背もたれにもたれかかると下着が汗を吸っていて気持ち悪い。
「では改めて自己紹介を。ミキ・アズライルと申します。将来人間を支配するにあたって、生態系を知っておいた方が良いという理由でこの学校に参りました。以後お見知りおきを」
隣のクラスの声がかすかに聞こえるぐらいで、うちのクラスは静寂に包まれていた。
天使は話を終えたのでじゃべらないし、先生はまだ落ち着いていないのか肩で息をしている。
普通、自己紹介の後は拍手をすると思うが、一度天使の圧を受けたクラスメイトは動けない。
「先生? 自己紹介も終わったので席についても?」
「あ、廊下側の一番前に座ってくだ……くれ」
担任はぎこちない口調で誰も座っていない今日新しく持ってきた机を指さす。
「うーん、私、彼の方の隣が良いのですが、だめでしょうか」
天使の細い指先がある一点を指す。クラスメイトは振り返って俺の方を見てくる。
山田までこっちを見るな。方向的に俺の斜め前のお前の可能性もあるだろうが。
「先ほど発言していた久保田のことであってるか」
「はい、先生の命を助けた彼のことであっています」
その発言には冗談っぽさは一ミリも含まれていなかった。
「あー、中口、前の席になるけど良いか?」
俺は窓際の一番後ろに座っているため、右隣りにしか座席は存在しない。先生から目線で懇願された中口は無言で何度も首を縦に振り、大慌てで机の横に掛けているカバンと机の中に入れていた教材を持って席を移動する。
「あら、一生徒が自由に席を決めることが出来るのも『平等』に当たるのでしょうか?」
天使は先生の方ではなく俺の方に目を向ける。
「……君は綺麗な大きな翼を有している。教室に入ってくる前は翼を広げていたことから、何もないときは開いたままである可能性が高い。端の席だと授業中に窮屈な思いをしてしまうだろうし、一番後ろの席以外だと翼で黒板が見えなくなってしまう。そう考えて貴女が指定した席への変更を許容したのではないでしょうか。生徒全員に対して配慮した結果だと思います」
のどが渇き唾液が出てくる。早く水分がとりたい。
天使がこちらの方に歩いてくる。そして俺の横で立ち止まった。
「そうですね。それは理にかなっています。久保田さんは良く頭が回る方なのですね」
広げられた大きな翼で包囲される。席に座っているため目の前の天使の翼以外視界に入らなくなる。
この現象を引き起こした天使を見上げる。
「人間の学校なんてつまらないものだと思っていましたが、少しは退屈せずに済むかもしれませんね」
大きく開かれた瞳に視線が縫い付けられる。その水色の水晶玉からは俺に対してどんな感情を抱いているかを窺い知ることはできなかった。
天使が聞いたことのない言葉を発した後に翼の織から解放された。
俺はカバンから水筒を取り出し、勢いよく傾ける。一気に飲み込んで息をつく。
疲れた。朝からカロリーが高すぎる。
席に着こうとして天使は翼を自分自身を包み込むように広げた。
ふと制服がどうなっているかが気になったので、少し後ろに下がって天使の背中を注視する。
二個の縦に細に長い楕円から翼が出てきており、楕円の上下にチャックがついていた。
翼を通した後にチャックを閉めているのだろう。
二つの穴は翼にジャストフィットしているわけではないので、翼の付け根の肌色と制服の下に着ているものも見えていた。
……天使の普段着も同じようなつくりになっているのだろうか。背中の部分は蒸れやすいからわざと隙間を開けている可能性もあるな。もしくはまだ成長するから余裕を持った作りになっているのか?
そもそも目の前の天使は何歳なんだ? 見た目だけだと俺たちと同じ高校生ぐらいのようにも見える。テレビで見た目が老いた天使は見たことがないが、そもそも「老い」が存在しないのかもしれない。
「久保田さんは周りからどう呼ばれているのですか。『命知らずの変態さん』とかでしょうか」
考え事をしながら天使の背中をじっと眺めていると、振り返った天使と目が合った。
いつの間にか折りたたまれた翼は背筋を伸ばしていればぎりぎり床につかないようだった。
姿勢が悪いと地面につくかもしれないが、翼の付け根が背もたれに当たらないようにするには深く座らないといけなさそうなので、そこについては問題はなさそうだ。授業中常に背筋を伸ばした状態でいるのはきつそうではあるが。
「下の名前は
「
「……その言葉の続きには
俺の発言を聞いて天使はくすくすと笑い始めた。
「やっぱりこういう会話はいいですね。天界だと阿諛追従な方が多くて一方的に話すことになりがちなんですよ」
「あゆついしょう……?」
聞いたことのない言葉だ。
「媚びへつらうと似たような意味ですよ」
天界で周りから敬われていてわざわざ人間界に留学にしに来るところを見ると、この天使はもしかしなくてもお偉いさんの家柄ではなかろうか。
「へー、そうなんですね」
漢字についても教えてもらったが、おそらく常用漢字外のものを使っているので高校では習わない言葉だと思う。
人並み以上に──天使にそう表現していいのか分からないが──勉強しているであろう天使に対して心の中で称賛を送る。
──
休み時間に転校生の周りに集まって質問攻めが行われる……なんてことはなく、いつもと比べて教室が静かだった気がする。授業では各先生がびくびくしてたぐらいで問題が発生することはなかった。
今は昼休み、いつにもましてお腹がすいている。
カバンから母親に作ってもらった弁当を取り出す。
そういえば天使は何を食べるんだろう。人間と同じようになんでも食べるのだろうか。
そう思って右を見ると天使は手に収まるぐらいの小さな瓶から錠剤と思われるものを手に出して、口元に運んでいた。
その後は右の翼を机の上に乗せるようにして毛づくろいをし始めた。
「え、昼あれだけですか?」
びっくりして思わず声に出してしまった。
俺の声に反応して天使は首をこちらに向けてきた。
自分の事かと確認するように天使は天使自信を指さしていたので数回頷く。
「天使は食事を必要としません。食べ物から栄養を摂取するのではなく、呼吸によって大気中から栄養を摂取します。まあ、人間界の大気には、天使に必須な栄養が一部含まれていないのでこういうもので補う必要がありますが」
天使は先ほどの瓶を揺らして音を鳴らす。
「へー」
つまり天使にとっては食の楽しみが存在しないということか。生まれ変わるとしても天使にだけはなりたくないな。
「これ食べてみますか?」
中身を取り出して錠剤を手渡そうとしてくるあたり、確認ではなくお願いに近いな。
正直この世のものではないものがどんな味がするのか気になるので受け取って口に含む。
舐めてみた感じは特に味はしないな。ラムネのように甘くないし、薬のように苦くもない。
歯で挟んで力を入れるとすぐに砕けた。中に何かが入っているわけでもないようで、食感も変わらない。
「味がない。天使にとってはおいしく感じたりするんですか?」
「普段はそこまでですね。栄養不足の時に摂取するとおいしく感じます。人間でいう水みたいなものでしょうか」
確かにのどが渇いているときに飲む水はうまいが、天使は人間についてどこまで知っているのだろう。
飯を食べようと箸を持とうとするが、うまく持てず机の上に落してしまい、カランカランと音が鳴った。
ひじを椅子や机にぶつけたわけでもないのに腕がビリビリする。
天使は胸の前で手を叩いて「あ、そういえばそうでした」と何とも言えない顔をしていた。
「天使にとっては栄養でも、人間にとっては害になる可能性があるんでした」
微笑みを浮かべながら「またドジをしてしまいました」と天使はぬかす。
「は? お前ふざけんなよ……」
どっからどう見ても悪いと思っているようには見えない。
「満足感で生き返るからモーマンタイですよね。まあ、腕の痺れだけで死にはしないから安心してもらっていいですよ」
朝の意趣返しのつもりかよ。
舌打ちして天使をにらみつける。
「いいですね、その目。私睨まれたの生まれて初めてかもしれません」
興奮しているのか翼をバサバサと動かしており、天使の右側の席を借りて飯を食べていた中口に翼がヒットし、中口はその勢いのまま後ろの教材を入れるロッカーに頭をぶつけて椅子から落ちていた。
ぶつかったことに気付いたのか天使は「もう、汚いですね」とデカいタオルで翼を拭いていた。
中口……不憫すぎるだろ。
「──あら、こんなところに両手が痺れて満足に食事もできない人間さんがいるではありませんか」
天使はしらじらしくのたまい、俺の前の席に座る。
「一時間もすれば元通りになると思いますが、それだと昼休みが終わってしまいますね。どうしましょう……私が餌付けしてさしあげましょう」
両手を使ってうまい感じに箸を右手にのせようとしていたのに箸を奪われた。
「まずは何が良いですか。これでいいですね。ほら、口を開けて下さい」
聞いてきたくせに俺の返事を待たずにうずらの卵を箸でつかんで口元近くまで運んできた。
天使は食事をしないのから箸なんて使わないはずなのに、掴みづらい卵をいとも簡単に……!
……俺はこの行為を受け入れていいのか? 相手はいきなり毒になるものを与えてくる奴だぞ。飯を食べさせてあげたから代わりに変なことをしろと命令されるかもしれない。そもそも高校に入学してから一か月と少し、人間関係の形成途中でこれを受け入れると天使とペアのように扱われて、孤立するかもしれない。可愛い娘と二人なら問題ないかと一瞬思ったが、こいつは何を考えているかわからない奴だ。次の日には俺に興味を無くしている可能性だってある。
──待てよ、そもそもこの天使は女なのか? 顔立ちは女、声も女、制服もスカートを着用している。だからって女であると断定はできない。胸のふくらみがあれば女だと確信できたかもしれないが、こいつにはない。
あとで実は男だなんて分かったら、俺の人生はバラ色ではなく薔薇になってしまう。
「その前に大事なことを一つ聞いてもいいか」
手に唾がかからないように体を傾ける。
「いいですけど」
天使は卵を弁当箱に戻して箸をおく。
「君は生物学上
そう聞いた途端、体が重くなる。天使の表情も無表情へと変わる。明らかに青筋を立てているのが分かる。
朝の時と同じように翼で周りが覆われた。聞き方ミスったか?
「手入れを欠かしていないこの翼が! オスのもののように矮小で空も飛べない羽とでも言いたいんですか!?」
デカい声が翼に反射して余計に響く。「私の大きくて白く綺麗な自慢の翼を味わいなさい」と両翼で頬をぺちぺちと連打される。羽毛の部分ではなく上部の骨が通っている部分でたたかれているため少し痛い。
気が済むまで叩かれた後に天使の性別での違いについて聞いた。天使のオスとメスで一番違う点は翼の大きさらしい。昔天界ではオスは歩いて地上から、メスは空を飛んで空中から散策することが多かったらしい。その結果進化の過程でオスの翼は次第に小さくなっていったとのことだ。
そんなこと当然俺は知らないので、勘違いで怒ってすみませんと謝られた。
「あと、翼以外の特徴は人間と同じですね……ん? それなのに聞いてきたってことは私の体が男かもしれないってことですか? その、あれが小さいからこいつ男の可能性ないか? って」
制服の上からだと分からないが小さいというよりないといった方が正しくないだろうか。
沈黙していると「やっぱり変態さんじゃないですか!」と怒りの鉄槌を食らった。
鉄槌のおかげで痺れがとれたので弁当は睨まれながらも自分で食べた。
──
天使が俺以外の誰かとしゃべることはなく、放課後を迎えた。天使がやってきたのだから別クラスから気になったやつが乗り込んできてもおかしくなかったが、誰一人として来なかった。
この学校は部活は強制参加のため、文芸部に所属している。文芸部といっても元はどの部活にも入りたくない生徒が立ち上げた部活のため、特定の日に集まることはしないし活動は一切ない。
残る理由もないので帰ろうとすると翼で行く手を阻まれた。
「なに?」
別に何か約束した覚えはない。
「待ってくださいよ。今日からホームステイするのに私を置いていくんですか?」
……ああ、そうだった。
「悪い悪い。完全に忘れてた」
「普通こんな大事なこと忘れますか!?」
ひどすぎますとプンスコ怒っているミキを見て笑ってしまった。
天使と同じ学校・家での生活は大変そうだと思っていたが、彼女とならうまくやっていけそうな気がする。