天使留学 作:おにいちゃん予備軍
「ただいま」
「お邪魔します」
今日から一緒に家に住む天使のミキを連れて家に帰ってきた。うちも当然天使の事を考えて作られた家ではないため、扉は人間サイズに作られており、翼を畳んで窮屈そうにしていた。こればっかりは慣れてもらうしかない。
荷物を自分の部屋に置かずに母さんがいるであろうリビングに向かう。母さんはいつも見ている録画したドラマを止めて、ソファから半身を乗り出してをこちらを見ていた。そして俺の後ろについてきたミキの姿を見ると顔色が悪くなった気がする。
「ミキ・アズライルと申します。
ぺこりと頭を下げたミキに母さんは近づいてそのまま抱きしめた。
「ミキちゃん、そんなに硬くならなくても良いのよ。狭い家だけど自分の家みたいに思っていいから。あと息子が変なことしたらすぐに言ってね、この家から追い出すから」
「教室でじろじろと見てきたり、セクハラ発言されました」
「今すぐ出ていきなさい」
「判断が早い!」
息子の信用がなさすぎる。少しぐらいは弁明を聞いてくださいよ。
──
県外に就職して誰も使っていない姉の部屋を掃除して、ミキが使えるようにした。
……ホームステイすることは事前に決まっていたはずなのに片付けていなかったのはおかしくね。家族三人ともそこまで気が回らないことなんてあるか? 会話してたら絶対誰か気付くだろ。まあ、誰一人として今日まで一切ホームステイについて触れていなかったから話してないんだが。いやでもさ、あのおしゃべりな母さんが話題に出さない……普通の人間じゃなくて天使だぞ。ありえなくね。なんか気になるな……。
頭の中で思考をぐるぐると回しながらトイレを済ませて、部屋に戻る。
扉を開けた先にはミキと別にもう一人。髪は肩にかかるぐらいの長さでミキと違って出るとこは出ている、そして百七十ある俺よりも頭半分ほどでかい。これまた大きな翼を持った切れ目のお姉さんがいた。
「だれぇー?」
声を出した瞬間グラマラスなお姉さんが消えたと思ったら、足を払われて地面に叩きつけられていた。下にはカーペットが敷いてあるがそんなもので衝撃を消えるわけもなく、衝撃をもろに受けて息が漏れた。右手一本で首元を押さえつけられていて苦しい。
『お姉ちゃん、やめて』
おそらく天使語なのだろう。俺には内容の理解できないミキの言葉のおかげか首から手が離れた。何度か咳をして呼吸を安定させる。
首を触ると痛みとともに何かで濡れたような感触がする。首から手を離すと指に血が付着していた。お姉さんの爪が食い込んでいたのだろう。
「うちのラナンが申し訳ありません」
グラマラスお姉さんはラナンさんというらしい。
地面に倒れ伏している俺の隣にミキがしゃがみ込んでくるのが視界の端に映った。
「でも着替中の乙女の部屋に無断で入ってくる貴方も悪いんですからね」
入ったときはもう一人の存在がデカすぎて気付いていなかったが着替えている最中だったらしい。
「あー、それは──」
申し訳ないとひじを使って体を起こそうとしたときに見てはいけないものが見えてしまいそうだったので、反射的に目をつぶって左手で目を隠す。ミキの格好は下が学校の制服のままであり、その状態でしゃがんでいて、俺は地面に伏せていて視点が低い状態。
……後は言わんでも分かるやろ。詰みや。見えるで。パンツ。
一瞬で目を閉じたためしっかりと確認することはできなかった……じゃなくてしなかった。洗濯とかで見てしまうのは耐えられるが、それを着ている状態を目撃してしまえば、絶対普通に接することが出来なくなる。
気持ちを落ち着けるために倒れたままフィボナッチ数列を数えていると、左手の手首を掴まれて軽く持ち上げられる。何事かと問う前に「エイッ」と可愛らしい掛け声とともに指先にざらざらとした湿り気のある感触が伝わってきた。
ラナンさんの驚きの声が部屋に響く。
何とも言えない感触で目を開けるとミキが俺の指を舐めていた。
想像していなかった光景に唖然として何かの見間違えなんじゃないのかと思ったが、指先の感触がそれを否定する。
ぬめぬめしていることから食事をしない天使も唾液は出るらしい。人間とは違って口内を清潔に保つ機能のがメインなのだろうか。そもそも食事しないから口内も汚れることは少ないだろうし、別の機能を持っている可能性もあるか。食事しないのに歯もあるし、良く分からん。
……今日会った天使に指舐められながらも天使の生態を冷静に考察している自分が怖い。
解放された指先には透明な液体が……ばっちいよ。SNSでそういう漫画をお試しで見たときはエッチだと思っていたが、現実だとそうではないらしい。
「うーん、付着物だと味がわからないですね。やはりここは生で──」
そう言って今度は首元に顔を近づけてきたので、誰かさんの唾液でベトベトに汚されていない右手でミキの顔を押さえる。
「ちょ、止まれこの変態!」
「可愛らしい抵抗ですね。誘ってるんですか?」
結構な力で抵抗しているが止まる気配がない。
あきらめて「もう抵抗しないから力抜いて」と言うとすぐに右手への重みが消えた。すぐ近くにあった顔が離れたので、もしかしてただのじゃれ合いで冗談だったのかと安堵したのも束の間、腹部に軽い衝撃を受ける。ミキが俺のお腹に乗ってきた。すごく大きい翼を持っている分重いと思っていたがそうでもないらしい。
舐めやすいように頭を傾けて首を差し出して目を閉じる。
「これが本場の誘い受けってやつですね。薄い本で見ました」
ミキの声は弾んでいた。
ミキでもそういうエッチな本も見るのか、それも異種族の。人間でいうケモナーと似たようなものなのだろうか。
首元に熱を感じることなく、お腹が軽くなったので不思議に思い目を開けるとミキはラナンさんに羽交い絞めにされていて引きずられていた。体に力は入っていないようで気絶しているように見える。
ラナンさんに「治して、また来て」と首元を指さされながら言われたのでいったん部屋を出た。
天使が人間の血を好むなんて話は全く聞いたことがないが、天使全体に言えることなのだろうか。ラナンさんは全く惹かれていないようだったし、ミキだけの特殊性癖の可能性もあるか。
階段を下りて一回にある洗面所で首の傷口を洗い流す。舐められた右手も入念に洗った。また血が流れたりしないように自分の部屋に戻って絆創膏も貼った。絆創膏が綺麗に四つ並んでいるので察しの良い人なら手によってつけられた傷だと気付くかもしれない……なわけないか。
今度はノックも忘れずに行い、どうぞと言われたのをちゃんと聞いてから部屋に入る。
ミキはストライプの薄いピンク色のパジャマに着替えていた。その縦線は胸元で湾曲することはなくきれいにすべての線が平行となっていた。腰あたりまで伸ばしている髪を肩のあたりでシュシュでまとめて前方に流している。
異性の──そもそも種別が違うからそう言っていいのか分からないが──ラフな格好を見て少しドキッとした。
ミキはにこりと笑っていた。ペロリストの症状は治まったらしい。
聞きたいこと、言いたいことはたくさんあるがまずは当たり障りのない話題からいこう。
「そのー、そっちのラナンさんはどちら様で?」
ミキのことをお嬢様といっていたし、ロングスカートの黒のメイド服を着ているから家政婦かなと思いつつも質問する。
「ラナン・アズライル。私の姉です」
当初の警戒心はどこに行ったのか、ラナンさんはベッドに横たわっている。ベッドの上に水色のスライム状のものが乗っているが、翼だけがスライムの中まで入っており、体はスライムの上にある。天使は寝るときに翼をどうしているかと思ったが便利な道具があるらしい。
「へー姉ね、姉……姉!?」
実の姉にメイド服を着せてメイドさんプレイ……だと……。天使って倒錯してるんだな。
「そう、私、姉」
こちらに目を向けずに天井を見たまま、じゃーん、姉ピースとか言って手を挙げていた。ゆ、ゆるすぎる。面白お姉さんか?
ラナンさんの腕は力を無くして倒れていき、ベチャリと音を立てた。
普通のスライムと感触が違うのか知りたいから寝てみたいけど、まあ無理だろうな。
「それでそのお姉さんは何をしにここへ……というかいつからここに?」
帰ってきてからインターホン鳴ってないけどいつの間に入ってきたんだろう。
「一つ目。これ。天使の必需品」
ラナンさんはスライムベッド(仮)をベチャベチャと叩く。たしかにそうか、いままで学校に居たミキが持ってこれるわけない。
周りに段ボールのようなものは見当たらないけどどうやって持ってきたんだろう。
「二つ目。今さっき、こうやって来た」
ラナンさんは頭の上にある輪っかを空中に投げた。
え? それ取れんの?
天使の頭の上に常に位置していてずっと何なんだろうと思っていたが着脱可能らしい。身体の一部とかではなく外付け装置みたいなものだったりするのだろうか。
光の輪は天井の辺に沿って四角形に形を変えた。そしてそのままゆっくりと下に落ちてくる。部屋の中にいる俺たちは輪の中を通ることになるが特に変化はない。何も起きないのかと思っていたが、まばたきをして目を開けた瞬間周りの風景が一変していた。
さっきまでいた部屋があと三つぐらい入る広いスペースにいる。部屋の中にあったベッドや勉強机はそのままあるが、水色の天蓋が付いている大きなベッド、本がぎっしり詰まった三メートルほどの高さのある四つの本棚、誰かの写真が飾られている少し小さめの机。
『お姉ちゃん! なんで私の部屋なの! お姉ちゃんの部屋で良いじゃん!』
この空間に一緒に連れてこられていたミキが未だベッドでだらけているラナンさんに叫ぶ。相変わらず言っている意味は分からないが、その様子から怒っているようにも見える。
『人間を部屋に入れるのやだ』
『あー、出た出た。お姉ちゃんの人間嫌い。貧弱で哀れな人間を嫌う要素なんてどこにあるの? そんなんだから私の下に置かれたのに……学習しないね』
『オスは視線がきもいし、メスは嫉妬深くてうざい。逆にミキがなんであれに耐えられるのかが……ああ、その貧相な身体ならそういうのとは無縁な話か。うらやましいー』
『……良かったじゃんモテモテで。天使にモテないのに番を見つけられそうで安心したよ。人間との結婚式には呼んでほしいなー。劣等種と結婚する天使とか天界始まって以来じゃない? お姉ちゃんのみじめな姿見てみたい』
ミキとラナンさんは二人して笑い始めた。俺を置いて盛り上がっているようだ。状況の説明をしてくれよ……。
ミキの寝具についての説明の際に連れてこられたのでおそらくここはミキの部屋なのだろう。乙女の部屋をこれ以上じろじろ見るのはまずいと思い、俺はその場から動かずに天井を見上げていた。
天井たけー、五メートルぐらいか?
「すみません、久保田さんのこと忘れて話し込んでしまって」
ミキは申し訳なさそうに頭を下げる。
天使の一般的常識を持つラナンにとってその光景は異質なものに思えた。
天使と人間は見た目上は似た構造ではあるが、内部に大きな違いがある。天使は天界に存在する
ラナンにはどうしてミキがそんな劣等種に対して好意的に接しているかが理解できない。ミキが人間の学校に行くことになったのもミキの提案だった。次期王女として支配する種族の理解を深めるためだと言っていたが、そんなの必要ないはずだ。やろうと思えば全人類を操り人形にすることだってできるのだから。
ミキと人間が穏やかな雰囲気で話している……本当に理解できない。何なんだあの近さは。私だったら天使の輪で上空に飛ばして殺している。
それにあの人間も頭がおかしい。最初は他の人間と同じようにミキに恐怖を感じていたのに、なぜ普通に接している。どんな好意的な記憶を埋め込んでも人間の自我を残した状態だと、本能的に天使に対する恐怖を感じるはず。
目の前にいるのが天使ではなく翼の生えただけの人間だと認識させれば恐怖も消えるが、ミキはあれに対してそんな風にはしていなかった。……異常者に好かれるものもまた異常者ということだろうか。
「ラナン、説明は済んだので戻りますよ」
ラナンは素直にその言葉に従って転移した際に頭の上に戻っていた輪を再度外す。
先ほどと同じように輪の中を通らせて元の部屋に戻った。
「いやー、やばいな。自由に移動できるの便利すぎる」
学校に遅刻しなくて済むし、旅行なんてどこでも行き放題じゃん。
「さきほども言いましたが、移動には生命力を消費しますし、転移先の物質と座標が重なった場合はその物質がはじけ飛びます」
「はじけ飛ぶ……?」
「厳密に言うなら強度の高い物質が該当の座標に存在し、低い物質がはじき出されます。天使なら問題ありませんが、人間の場合は建物と座標が被った場合は肉片になります」
ミキは淡々と恐ろしいことを口にする。
「え、えぐ……」
「天界から人間界は丸見えなので、人間を殺さないように転移しているから心配する必要はないですよ」
ミキの見せる笑顔が何故か怖く感じる。
身の回りの物も併せて移動していたので、ベッドなんかを天界から人間がいるところに移動させて殺すことも可能だってことだよな。つまり生殺与奪の天使に握られているということ……安心できる要素、どこへ。
「ん……その逆の人間界から天界への転移は大丈夫なのか?」
「この世界から天界は見えませんが、同じ強度なら形を保ったままはじかれるので問題は……ああ、そうですね、今回久保田さんが運悪く天使と重なってたら爆散してましたね……もしそうなってたら、そこにいた天使とラナンを殺してたので安心してください」
敵はとってあげますね、と俺の手を取って両手で優しく包み込む。その手のぬくもりは確かに伝わってくるのに冷や汗が止まらない。
「ミキって誰にでもこんな距離感なんですか」
こちらを一切見向きもせずずっと寝たままのラナンさんに問いかける。状況を確認するためにミキを視認して、さっきみたいに引きはがしてください。俺から振り払ったらどうなるのか分からないので。
ラナンさんは顔だけを少し上げてこちらを見た後、すぐに元の体制に戻ってしまった。
妹が会って一日も経っていない男の手を握ってるんですよ。止めてくれても良くないですか。
「そう、ビッチ。誰にも、そう」
あっ、そうなんすね。いろんな男を惑わせてきたんだろうな。
「お姉ちゃん? 嘘つくのはやめようね」
痛い痛い。ミキが握っている手に力が入りすぎてて俺の手が砕ける。
「久保田さんは特別なんですよ」
水色の瞳が俺を射抜く。目を合わせると何かを考える気力がどんどん減っていく気がする。
首を横に振って意識を保つ。
「そこまで気に入られることはした覚えはないけど」
今日一日話をしたぐらいで特別なことはしていないし……もしかして箱入り娘とかで人付き合いに飢えていたとかか?
「あなたにとっての普通が私にとっては特別になったりするんです」
「はー、そういうものか?」
「そういうものなんです」
くしゃりと笑うミキは今日見てきた中で一番綺麗だった。
ミキが普通の女子だったならこの瞬間に好きになっていたと思う。