一日目
「〝オーバーヒート〟!」
キャミィのメガリザードンYがフルパワーの火炎をメガメガニウムに放った。キャミィの金髪のロングヘアがはためくほどの爆風と熱波が叩きつけられた。まつ毛をかばうように手のひらを掲げたが、黒のハーフグローブに覆われた指までちりちりと痛みを感じた。
数秒のち、キャミィは群青の丸い瞳を見開き、悠然と羽ばたくメガリザードンYの尻尾の炎を見た。かなうはずもなかった。瞬間的にメガメガニウムは気絶していた。
スタジアムの音響が試合終了を告げ、メガリザードンYの咆哮が轟くのと同時に、キャミィは腕を上げて勝ち名乗りを上げた。
「ねぇ」
試合終了後、キャミィは控室を出てすぐ声をかけられた。赤いメッシュの入った黒髪のウルフカットに、攻撃的でさえある整ったツリ目。あのメガニウムのトレーナーだった。グレーのバッククロスキャミソールに、黒と白の五分丈レギンス、ピンクのバンドタイプスニーカー。試合中そのままの恰好だった。
これだけは確かめなければという使命感を帯びて彼女は尋ねた。
「なんで最後〝かえんほうしゃ〟を選ばなかったの?」
疑問の解消よりも気持ちの整理を優先する声色があった。隠しきれない苛立ちが八つ当たりめいて、視線だけで切り傷を負いそうだった。
ははぁ、と表情を変えずにキャミィは納得した。答えはすでにまとまっていた。
「いいよ。教えてあげる。その代わり」
白と黒のレイヤードシャツの上に羽織ったウインドブレーカーのグリーンの紐を揺らしながら、キャミィは腰を曲げて自分と身長のそう変わらない相手を見上げた。キャミィの左の泣き黒子を目で追ったのが、赤い目のわずかな揺らぎでわかった。
「デートしようよ。今夜。この後すぐ。予定ある?」
時が止まった。一切考慮していない技が飛んできてプランを見失った、そんな顔で。
ウルトラマリンのくりくりした瞳で上目遣いに微笑んだままキャミィは待った。いつの間にかほとんど身に染みた時間通り、ポケモンバトル一ターンの持ち時間いっぱいの沈黙を経て、返事が返ってきた。
「わかった。いいよ。付き合ってあげる」
キャミィは歯を見せて無邪気に微笑んだ。背筋を伸ばすと、刃を突き付けられたような緊張感はすでになかった。〝つぶらなひとみ〟は、人間相手にも効果がある。
「ところでさ」
声からも切れ味はなくなっていた。
「あんた、男? だよね?」
「そうだよ」
最高の褒め言葉だ。
「僕はキャミィ。君の名前は?」
指先で軽く首をかきながら、少女は答えた。
「うちは、チヅル。ジョウト出身なんだ」
「すごい。チヅル上手だね!」
カラオケマシンの採点が見たこともない点数を叩き出していたが、キャミィは音程とかビブラートのような技術的なことはわからず、そのためチヅル本人を褒めることにした。
「チヅルさ、歌ってるとき、歌詞に入り込んでるって感じして、すごくきれいで、かっこよくて、見惚れちゃうんだよね」
「ん」チヅルはきゅっと唇を締めて頬を赤らめた。表情の変化にとても乏しく、だが頻繁に、とてもわかりやすく雰囲気に出る娘だった。
「うち、まいこはんに憧れて歌の練習したことあるから。ずっと小さいころの話だけど」
チヅルはどこか上の空で、集中できているとは言えなかった。しかし帰りたがっているようには思えず、キャミィもまだ最初の質問に答えていなかった。とはいえ男と遊ぶのも初めてではないだろうとキャミィは感じていた。何か異なる原因がある。
「ねえ、チヅル。考え事、してる?」
キャミィが目の前に立っても、チヅルは遠くにかすむ幻の島を見ているようだった。顔を覗き込まれてようやく我に返り、何か言いかけたチヅルの唇に、キャミィはそっと人差し指を当てた。
「待って。当ててみる」キャミィは目を閉じ、考えるふりをした。あたりはついていた。持ち時間を五十秒残して、キャミィは目を開けた。
「ポケモンのことでしょ。たぶん、僕にした質問の答えとも、違う。でも、メガニウムのことに関係してる。最近ちょっと負けが続いてて、何とかしようとしてるけど、あんまりうまくいかない。機嫌が悪くなることも増えて、どうしたらいいんだろうって思ってる。どう?」
今日二度目の驚きがチヅルの頬にあふれた。チヅルはふいと下を向き、次にキャミィを上目で見つめ返した。「なんで」
「抱え込んでそうな顔してたから。そうかなって思ったら、ほっとけなくて」
キャミィはチヅルの隣に腰かけた。ハイカットスニーカーとおそろいの、ひこうタイプカラーのジャージロングパンツを履いたキャミィを、ソファーが柔らかく迎え入れた。
「約束の質問に答えてあげる。どうして〝オーバーヒート〟だったのか」
メガリザードンYはメガメガニウムと対峙する直前、すでに弱っていた別のポケモンを〝かえんほうしゃ〟で下していた。〝オーバーヒート〟は〝かえんほうしゃ〟よりも威力に勝るが制度に劣る。そして、一般的にメガリザードンYの〝かえんほうしゃ〟を、メガニウムは耐えられない。たとえメガシンカしていようとも。
チヅルは、この物事に真剣な少女は、安定をとっても勝てるだろうところで、わざわざ攻撃を外すリスクを背負った見栄えのよい大技で仕留められたことに、納得いかなかったのだろう。観客を魅了するために、あるいは自分が気分よくなるために、堅実さを、真剣さを捨てたのだと。
キャミィの意見はまったく異なっていた。
「チヅルとメガニウムに、敬意を示したくなったんだ」
「敬意?」
「うん。あの時、最後に残ったポケモン同士の対決で、チヅルはメガニウムでリザードンに挑む必要があった。メガリザードンYの〝ひでり〟が、まだ全然続いてて、しかも相手は無傷。降参したっていいくらいだ。でも、チヅルは勝負を投げなかった。でしょ?」
少なくとも、チヅルは降参しようとしなかった。でも、戦い続けることを選んだのは、メガニウムを酷い目に合わせたかったからじゃない。
「正直どうでもいい違いだって言うトレーナーは多いと思う。結果は変わらないし、そこに奇跡はないって。だけどね、僕は、かっこいいって思ったよ。なんでもない試合でも、まるで大会の決勝戦みたいに、最後まで勝負に付き合うチヅル。それについてくるメガニウム。手加減なんてありえなかった。こっちも極上の大技で迎え撃つぞって思った。だから、敬意。僕なりの激励、みたいなものかな」
隣に座るチヅルの手に、そっと自分の手を重ねて、キャミィは微笑んだ。
「大事にしてるんだ。大好きなんだね、メガニウムのこと。メガニウムと勝ちたいって、すごくこだわってるの伝わるよ。最高じゃん。君たちはもっと強くなる。絶対にね!」
この日初めて、キャミィはチヅルの奥に光が灯ったように思えた。輝いていた。顔に出ていなくても。
「ん。えっと、ありがと」
直視できなくなったようにチヅルは顔をそむけた。重ねられたキャミィの手から自分の手を引き抜き、今度は上に乗せた。次はうちが話す番。
「うち、ジョウトにいたころからずっとメガニウムが好きで。つい最近、メガシンカできるようになったってわかって、すごく嬉しくて。バトルするためにフロンティアシティに越してきて、一緒にハイパーまで頑張ってきたけど、急に相手が強くなってさ。今日だって、格上相手ってわかったとたん、気持ち、負けてた」
キャミィはダブルバトルではハイパー級の上、マスター級のトレーナーである。二階級マスター到達のためシングルバトルに挑戦し、破竹の勢いでハイパーに上り詰めた。
「最後、ボール投げるかどうかだって悩んだけど、出てきたメガニウムの顔見たら、やるしかないって思って。結局勝てなかったけど、きっと降参してたほうが、メガニウムは悲しんだ……と、思う」
堰を切ったようにチヅルは話し続けた。大雨の中の濁流のように。話しながら、また爪の先で首筋をかいていた。
「うち、自傷癖があってさ。いらいらすると、首が傷だらけになるくらいひっかくの。癖が残っちゃって、今でもよくやるけど、傷になることはなくなったよ。知ってる? メガニウムのにおいには、気持ちを落ち着ける力があって。うちはメガニウムに助けてもらったんだ。だけど、うちはまだメガニウムに恩返しできてない。優しいけど、バトルの大好きなあの子を、最強のメガニウムにするって決めたんだ。なのに、まだハイパーも抜けられない。すごく悩んだし、自分のことも責めた。心の癖は治ってなくて、自分の心いじめてばっかで」
チヅルは向き直り、「今日も、負けた罰で男に連れ回されるのも、あり得る報いか、悪くないかなって、思ったから」
「そっか」
キャミィはチヅルの目を見たままつぶやき、上半身を近づけた。
「ありがとう。聞かせてくれて。抜群にクールな女の子とデートできて嬉しい。大事なことだから、もう一回言うね。チヅル、かっこいいよ。君とメガニウムは、絶対に強くなる。マスター級の僕が保証するよ」
恥ずかしさが少しだけ嬉しさを上回った顔でチヅルは頷いた。カラオケボックスの薄暗い照明に、眼が潤んできらきらした。
「ねえ、キャミィ」
重ねた指を絡めて、チヅルはキャミィの手を強く握った。
「うち、今日、帰りたくないかも」
「寒くない? 暖房つける?」
「ううん、平気」
ホテルの部屋に入ってすぐキャミィはシャワールームの設備や備品の場所を確認した。その間チヅルはベッドに腰かけて、ただキャミィを眺めていた。黒髪の少女は少なからず期待していたが、金髪の少年を急かそうとはしなかった。互いの間に、奇妙な信頼関係が芽生えていた。
「そういえばさ」
「ん?」
「デートに誘ったってことは、うちのこと、ちょっとはその、いいなって思ってくれたんでしょ。うち、自分でいうのもあれだけど、愛想悪いし、めんどくさいところも、あると思うし。今更なんだけど、よかったの?」
「そういうこと聞いちゃうところもひっくるめて、かわいいからに決まってるじゃん」
さらりと口説いてしまったが、チヅルはまんざらでもなさそうだ。頭の中に並んでいる「かわいい」のラベルが張られた別の瓶の蓋を取って、キャミィは中身を披露した。
「戦う女の子が好きなんだ。スタジアムでバトルしてる子、真剣にポケモンと向き合ってる子、勝ってる子も勝ちたい子も、僕の好み」
隣に座って、チヅルに寄り添い、キャミィは甘く低く囁いた。
「チヅルはその全部だから、すごくかわいい」
もしもチヅルに尻尾が生えていたなら、思い切りぶんぶんと振っているところだろう。いや、こいぬポケモンならそうかもしれないけど、チヅルは猫っぽい気がする。どっちも好き。かわいい。たまらない。
「チヅルはあんまり顔に出ないかもしれないけど、心の中がすごく素直で、きれいな女の子だよ。そういう女の子に触れるとね、僕の心もすごくぽかぽかするんだ」
「……そうやって、何人も女の子と遊んでるんだ」
「ん、そうだね。でも別に決まった彼女はいないよ。バトルのほうが大事だし、僕はまだ引退する気はないからね」
「ふ。何それ。戦って勝った女の子を戦利品みたいに持ち帰るのが趣味なの?」
「それは……そんなこと言ったら、想像しちゃう。こんなにかわいい子を勝ち取ったって思うと、ぞくぞくして、どきどきして、朝までだって気持ちぶつけちゃうよ?」
キャミィの指先がチヅルの頬を撫でた。ウルフカットの毛先を撫でると、首をかしげるようにしてチヅルの頬が手のひらに甘えた。
「いいよ。うちのこと、気のすむまで、使って?」
キャミィは微笑み、チヅルをベッドに押し倒した。少年の影が少女の体を覆っていた。
「チヅル。今日は僕の勝ちだ。望み通り、チヅルの傷になってあげる」
赤い目がさまよい、次に青い目と視線が交わったとき、かすかな首の動きでチヅルは答えた。
キャミィは唇を奪った。金の髪が垂れ下がり、チヅルの視界を閉じ込めた。
シャワーから戻ると、先に入浴を済ませてベッドで待っているはずのチヅルはどこにもいなくなっていた。アロマの香りだけを残して、夜に溶けてしまったように。
テーブルの上にメッセージカードが置いてあった。厚紙に似た質感のそれを手に取り、キャミィは裸のまま椅子に腰かけて背もたれに体重を全部任せると、黙ってカードの文字を読んだ。
「今日はありがと♡
話聞いてくれてめっちゃ嬉しかった♡
それにすごい気持ちよかったよ♡
よかったらまた連絡して♡
次はゴム使い切るくらいしよ♡」
丸っこい字で書かれた連絡先の番号を指でなぞって、キャミィはにんまりと笑った。
「ヘイ、ロトム」
自分のスマホロトムに呼びかけ、ポーチの中から出てきたロトムに、キャミィは指示を出した。机に置いたカードの内容は、わざわざ言うまでもなかった。慣れたものだった。
「このカードの写真とって、連絡先保存しといて」
登録が終わると、キャミィは再びカードを拾いあげ手書きの文字を眺めた。ついさっきまで肌を重ねていたチヅルの存在を確かめるように。
突然、冷気がキャミィの体を包んだ。風が吹いたわけではない。冷房をつけたわけでもない。室内から冬へといきなり放り込まれたかのような、気配としか言えない悪寒。
キャミィはカードを弄びながら、背後に振り向き、話しかけた。誰もいないところに、椅子の背もたれから頭を出している自分の影に。
「そうは言っても、最後までやらせてくれたんだから、お前もこの子は大丈夫だって思ったんでしょ?」
キャミィの影が揺らぎ、鋭い目がぱちりと開いて、刺々しい耳が伸びた。
ゲンガーがキャミィの影から頭だけを出して、物言いたげに影の持ち主をにらみつけると、一言だけ鳴き声を発した。その真意はわからないが、ゲンガーは再び影の中に戻り、着せられた寒気も脱がされた。
「大丈夫だって」
椅子に座り直し、キャミィは誰にとなく言った。
「あの子はポケモン続けるよ。人生預けられる相棒が、ちゃんとそばにいるんだから」