「なかなかいい景色だね」
ビオトープを囲う柵にキャミィは上半身を預けた。「ポケモンにこんなことさせてなければ、もっといいんだけど」
窓のない壁と天井に閉じ込められた人工の湿地帯に、ガラルヤドキングの群れがたむろしていた。一匹のガラルヤドキングが角の穴から生成した物質を手本に、他のガラルヤドキングが同じものを作っていた。群れのそばに成果物を収める箱があり、そこに出来立ての薬を収めると、取り出し口から餌になる木の実が排出された。
「当たりの薬を狙って作り出せるガラルヤドキングにボスをやらせて、群れ全体で同じ薬を作る。ボスだけ人間のポケモンにしておけば育成のコストもかからないし、訓練されてない野生のガラルヤドキングにお手本なしで同じものは作れないから、いよいよとなったら群れを捨てて逃げれば証拠も残らない。完璧な犯罪組織だ」
キャミィは身を乗り出したまま視線を横に向けた。
「ね、ガンシャお姉さん?」
ガンシャは静かに少年の横に立っていた。この「工場」にいる人間は、彼女とキャミィだけだった。
「ガラルヤドキングのボス、お姉さんのポケモンだよね? 鍛えたポケモンで乗っ取った野生の群れをここに連れてきて、暮らしやすい環境とたっぷりの食べ物を用意しておけば居座ってくれる。ミニエーの原料を大量生産してくれる、優秀な研究員が、ね」
「そのとおりよ。一目でわかるなんて、末恐ろしい子ね」
かつてマリカと戦った時に感じた覇気や毒気のようなものが、今のガンシャからは抜け落ちていた。悪の組織の幹部の肩書は今も彼女の白衣にこびりついていたが、対面し会話する姿は、仕事に疲れた社会人のような、普通の、大人のお姉さんだった。
「それで? わざわざ秘密の研究所までモーヒの伝言を届けに来たあなたは、この後どうするの? あのガラルヤドキングたちを一匹残らず叩きのめす? それとも、わたくしを今度こそ捕まえて、薬を作るのをやめさせるつもりかしら?」
踵に力を入れて体をくるりと回しガンシャのほうを向くと、体重をかけていた柵に背中を預けて、キャミィは友人にハンカチを借りるような気軽さで頼み込んだ。
「ガンシャお姉さん、ライフル団を裏切って、僕に味方してくれない?」
ガンシャは眉一つ動かさず肩をすくめた。
「よくもまあ、いけしゃあしゃあと」
それでもやはり、あの日キャミィが知り得たガンシャは、つまらない冗談に怒りで返す女性だった。
「そんな頼みを、幹部であるわたくしが聞き入れると思ったの?」
「うん、わりと本気で。お姉さん、本当はいい人だからね」
「……は?」
腕を上げて柵に肘を置き、足を組み替えて体重を流して、キャミィは自信をにじませて語った。君がどんなに素敵な女性であるかを。
「モーヒさんを気にかけてたっていうのを聞いて、ぴんと来たんだ。もちろん、ミニエーの貴重な被験者だからっていうこともあると思う。けど、モーヒさんの話し方は、どっちかっていうと、つらいときに親身にしてくれたことへの感謝とか、自分の境遇を理解してくれたことへのお礼とか、そっちの雰囲気だったから」
ガンシャは否定も肯定もせず、少年の話にじっと耳を傾けていた。
「お姉さん、モーヒさんに共感してたんじゃない? それか、何かが自分と重なって他人事だと思えなかった。まっとうに夢をかなえられなくて、犯罪者になるしかなかった。他に道はあったのかもしれないけど、少なくともその道を選んでしまった。お姉さんにも、そんな夢があったのかも、って。例えば……」
自分の顔が無敵にかわいらしく見える角度で、首を傾ける。
「エスパータイプのトレーナーとして成功したかった、とかね。道を踏み外したきっかけって、連敗とかスランプだったりする?」
ガンシャが目じりと奥歯に力を入れるのが見ただけでわかった。
「それって、全部ぼうやの想像じゃない」
「そうだよ。けど、もしそうだったら、今ならぎりぎり取り返しがつく」
キャミィはガンシャを見据えたまま、ガラルヤドキングを顎で指した。
「あれ、お姉さんのガラルヤドキング頼みの方法なんじゃないの? 薬のレシピ、他に誰か知ってる?」
「いいえ。工場もここにしかないわ。ボスは漏洩のリスクを極限まで避けるために、わたくしにしか任せなかったもの。それに、まだ完全なレシピを渡せるような段階じゃない。品質テストが終わって、やっと試験的な量産を開始したばかりなのよ」
ガンシャは〝みがわり〟ではなかった。彼女はいまだにライフル団の急所だったのだ。
「よかった。今のはね、賭けだったんだ。作り方まで広まってたら、収集つかないもん」
毒を食らわば皿まで。読み、におわせ、願望を込めて、もう一押し。
「ミニエーの製造がお姉さんにしかできないなら、まだ間に合う。ライフル団のボスを倒して、レシピを闇に葬れば。ガンシャお姉さん、僕はお姉さんを捕まえないし、追い払わない。あいつらと戦うために、お姉さんの助けがいるんだ。お願い、力を貸して。きっと勝つから。お日様の下に戻れるようになるから」
視線を下げるガンシャには哀愁が漂っていた、それはリクロロに感じた決別の痛みではなく、経験に育てられた無気力だった。
「ぼうや」
指先で髪をくるくると弄びながら、ガンシャはキャミィの胸のあたりをぼんやりと見つめて話しかけた。
「この街の何がそんなにいいのよ。ポケモンバトルの、どこがそんなに好きなの?」
キャミィはガンシャの視界に入るように、少し低い位置で片手の指を開いた。
「お姉さんならきっとわかると思うから、ちょっと難しい話をするね。ゲームって概念の定義は、五つの要素でできてるんだ」
「ゲームの、定義?」
「そう」
キャミィは一つずつ指を折りながら、自分の指を見つめるガンシャを見つめた。
「相手がいる。勝つという目的がある。制限がある。選択に意味がある。単なる遊びである。この五つ」
握りこぶしになった指を、また一本ずつ開く。
「相手がいるっていうのは簡単だね。人間同士で対戦しないと一人用のパズルになっちゃう。目的もいいよね、勝ちと負けがあって、勝ちを目指す。ゲームを終わらせる基準にもなるから、勝つって目標は必要だ。制限は、つまりルールとか決められた枠の中で頑張るってこと。対戦相手が勝つために攻撃してくるのも立派な制限だね、こっちの勝ちを遠ざけようとするんだもん。選択と決定に意味があって、自分の考えで状況が動いていくのも、大事な要素だね」
「五番目のは? 例えば賞金がかかっていたら、遊びじゃないでしょう」
「そうだね、僕みたいにジムと契約してるとか、ゲームがゲームで終わらない時もある。でも、お金に関係なく成立して、本質的な面白さが変わらないなら、それはただの遊びとして愛される魅力があるゲームなんだって、僕は思ってる」
再びパーの形に開かれた手を裏返し、キャミィは自分の手のひらを見た。世界を形作る五つの宝を慈しみ、何もない手から力を抜いた。
「ポケモンバトルはね、この五つの要素が全部そろってるんだ。人間とポケモン同士が、勝つために、限られた手持ちと技の制限の中で、作戦を練って最善手を探して影響を与え合う、勝ち負け以外に何もない遊び。競技トレーナーだって、ゲームに負けても生きてるし明日は来る。そもそも、遊んで楽しいって理由だけで、現実的な意味なんてなくても、誰でも楽しめるものなんだ。ポケモンバトルは、ゲームの定義を全部満たしてる、本当のゲームなんだよ」
フロンティアシティ、ポケモンバトルのことを思うとき、キャミィの群青の瞳はいつも、ここではないどこかを見ていた。網膜の内側には常に観客と試合場の幻がしまい込まれていて、ひょっとすると彼の魂の一部はずっとそこに住んでいるのかもしれなかった。
「それがぼうやの答えというわけね」
ガンシャはガラルヤドキングの群れのほうを眺めていたが、彼女もまた時空を超えて異なる景色に自らの本質を旅立たせていた。苦々しい古き日へと。
「残酷だわ。ぼうやの答えは、勝利を楽しめる強いトレーナーの結論よ。たとえ今日負けても明日は勝てる、続けていれば勝ち続けると、自信を持って言えるトレーナーにしか通じない話なのよ。あらゆるトレーナーがそうではないの。勝者がいるということは、敗者がいるということなのだから」
「なんだか身に覚えがありそうだね。お姉さんの大人の経験、興味あるな」
「……つまらない話よ?」
「ん。でも聞きたい。お願い」
「……好きなポケモンだけ六匹揃えて、ランクバトルに挑戦したのよ。でも、好きという気持ちだけでは、スーパーを超えることもできなかった。負けて、負けて、負け続けて、わたくしではこのゲームで成功できないのだと身に染みたのよ」
思い出すだけでも目の前が真っ暗になるポケモンバトルの深淵。どこが水面かもわからず、浮かび上がろうともがくほど沈んでいく、潜ったものにしか知りえない暗黒の深海。
「そういう時だったわ。ライフル団のボスになる男、テデコカと出会ったのはね」
戦いの海の海底で、ガンシャは悪魔の誘惑に屈したのだ。
「彼はこの街を憎んでいたわ。そうとしか思えない、ほとんど病気のような執念を感じたの。この街には、わたくしのような弱者がたくさんいて、みんな自分を傷つけた街に復讐したがっていると。あらゆる弱者を、チャンピオンになれないトレーナーを支配して、街のあり方を否定すること。それが彼の話してくれた、ライフル団の目的」
互いに彼方を見つめたまま、賑わう港の少年と、荒涼とした水底の女は、自分の言葉を瓶に詰めて流し合った。
「それ、お姉さんはどう感じたの?」
「あの日のわたくしは悲しみに暮れていたわ。それこそ、世界を呪うほどにね。行き場のない暗い気持ちを、思い切りぶつけられる相手を探していたの」
「それで、薬で街を壊そうってアイデアにつながったんだね」
「ボスは恐ろしい男だったわ。ガラルヤドキングがドラッグを作れることに気が付いて、ミニエーの構想に辿り着いたのも、あの男よ。今思えば、実験に協力してミニエーを発見してしまったとき、わたくしの分水嶺はそこだったのでしょうね。良心と怨嗟とを天秤にかけたとき、わたくしの手元に残ったのは、繰り返される敗北からくる、無力感と、怒りだった」
それはキャミィの知らない感情だった。人生を投げ出してしまったものだけが見いだせる止まない大雨に水面はうねり、太陽が差し込む余地は微塵もなかった。
「ぼうや。覚えておきなさい。ポケモンバトルの世界にはね、勝利のためにつまらない好みやこだわりを捨てられず、失敗と挫折から抜け出せない、弱いトレーナーが大勢いるのよ。確かに、ポケモンバトルは究極のゲームなのかもしれないわ。けれど、その、ゲームとしての正しさ、無慈悲なほどの完成度に疲れてしまった人もいるということ、わかっておきなさい。ライフル団は、そうした彼らの無念を吸って育った組織なのだから」
しばしの間をおいて、キャミィは柵に寄りかかるのをやめた。
「お姉さんに何があったかは、わかったよ。話してくれてありがとう」
キャミィはガンシャの正面を向いた。キャミィの髪は、わずかな照明の中でもひときわ明るい、鉛色の嵐を切り裂く金色の雷霆だった。
「でも、それはお姉さんが、ライフル団が、トレーナーからバトルを楽しむ未来を奪っていい理由にはならないんだ」
稲妻の閃光は、日光を遮る荒天の中で、なおも光だった。少年はずっと、そうやって戦いの闇の中に輝いてきたのだ。
「ゲームの定義の最後の一つ。ポケモンバトルは、ただの遊びなんだ。ジムの契約とか、大会の優勝とか、そのトレーナーが強いかどうかだって、そういうの全部、本当はおまけなんだよ。だから、誰でも、いつでも、何度だって、ポケモンバトルを遊ぶ権利がある。バトルが好き、バトルがしたい、その気持ちを、どんな他人にも否定できないみたいに、また遊びたい、また頑張ろうってバトルを楽しむ可能性を、人間やポケモンから取り上げるなんて、誰もやっちゃいけないんだよ」
「そうやって対戦に明け暮れているあなたたちこそ、わたくしのような弱いトレーナーを負かして勝ちあがっているんじゃない。そんなふうにまたバトルしようと思える日なんてくるのかしら? わたくしのように、それを繰り返して心折れ、復讐を選ぶほど悲しみに暮れていたとしても?」
「お姉さんの手持ちは、今もエスパータイプ統一だった。それが答えじゃない?」
ガンシャはしばし黙り込んだ。次に口を開いたとき、零れたのは後悔と懺悔だった。
「もっと早くぼうやに出会っていたら、わたくしもこうはならなかったのかしら」
来た。救難艇が難破船を救う、これが唯一のチャンス。
「ガンシャお姉さん。僕はね、お姉さんが思うより、もっとすごい男だよ」
キャミィはガンシャの隣に歩み寄り、少しかがんで、うつむきがちになっていた視界へ力ずくで入り込み、自分の胸に手を当てた。
「まだ間に合う。今からでも引き返せる。お姉さんが、僕を信じてくれるなら」
少年の明瞭な声と力強い視線が浴びせられた。ガンシャは目を反らせなかった。放心しているようで、その実は深く考える途中だった。
そして、唐突に、キャミィへ背を向けて、歩き出した。
「ついて来なさい」
ミニエーの工場はガラルヤドキングの生息地に外枠をただ取り付けたようながらんどうの建物で、仮眠室を兼任している研究所くらいしか部屋らしいものがなかった。ガンシャはキャミィを招き入れると、散らかり気味の机の引き出しから鍵を取り出し、薬棚の錠前を開けて、紙切れと錠剤の入った小さな瓶を取り出した。
「この薬をモーヒに渡して」中身の見えない茶色い瓶をガンシャはキャミィの手に握らせた。「ミニエーの特効薬よ」
実際の重さ以上にキャミィの手首が力んだ。
「そんなことできるの?」
「誤解しないで。普通、薬物中毒に特効薬なんかないわ。ミニエーをガラルヤドキングが作っているからできることよ。禁断症状を緩和して、神経組織を……まあ、細かいことはいいわ。薬物を服用した快感の記憶は消せないから、依存症に打ち勝てるかどうかは本人次第よ」
キャミィが両手で瓶を握りしめると、錠剤が瓶の中でぶつかって音を立てた。
「それでも、これ、すごい大きな希望だよ。お姉さん、ありがとう」
「お礼なんていいわよ。ポケモンの力を借りていようと、人間に制御できないものは科学の力じゃないわ。ボスには内緒なのだから、くれぐれも内密に届けて頂戴?」
人として、科学者として、あるいはポケモンとともに生きる人間として、ガンシャの声には責任がぶら下がっていた。災厄の蓋を閉じたものは、いつか封が破られたときのために、災いの底に希望を残しておくべきであると。
「それと」キャミィが瓶をしまい込むのを待って、ガンシャは続けた。「スマホロトムを出しなさいな」
キャミィは頷き、ガンシャのスマホロトムから情報を受け取った。
「明日の夜、今送った場所で、ライフル団の集会があるの。幹部の定例会を兼ねているから、そこに必ずボスが現れるわ」
探し求めていたコンパスは、助けるために乗り込んだ船で、地図と一緒にあったのだ。
「ここって、ライブハウス?」
「そうよ。ボスは音楽が趣味なの。会議の後は、手下や、裏社会の人間を集めて、朝まで大騒ぎよ。ボスは用心深いから、本格的に動き出したら次はいつ会えるかわからないわ。対決するつもりなら、ここしかないわよ」
音楽会場。ある意味そこはスタジアムと同じ空間だった。ひしめく観客、リアルタイムで上がっていくボルテージ。しかし客層は堅気ではなく、そこで行われるバトルも安全な試合やパフォーマンスでは終わらない。
危険極まりなかった。キャミィの心はわくわくと暴れだしそうだった。
「ありがとう。僕を助けてくれて。信じてくれて。きっと救い出してあげるからね、お姉さん」
「本当に」ガンシャは肩を縮めて両腕を抱いた。「お願いよ」
キャミィはそっとガンシャの左右の肩に触れた。びくりとガンシャの胸から上が揺れて、少年と女は見つめ合った。
「ガンシャお姉さん、ライフル団の連中に、ひどいことされてない?」
この密会は何もかもガンシャの予定外のことだったが、その中に心配されることが書き加えられることは、なおのこと想定外だった。キャミィの誠実さと人懐こさが、結果的にガンシャの心の緊張をするりと解きほぐした。
「おかげさまでね。薬の作り手のわたくしのことは、組織も大事にしたいみたいだから。もっとも、ぼうやと戦って失敗したせいで、ほとんどここに軟禁状態だけどね」
「よかった、乱暴されてなくて」本心からの安堵だった。「人に殺しを頼むようなやつらは、手下が失敗したらどんなひどい仕打ちをしてもいいと思ってるって、友達が言ってたから」
キャミィは片手を肩から首に這わせて、ガンシャの頬に添えた。
「キャミィ」
ガンシャは少年の名前を呼び、その手に自分の手を重ねた。たしなめるように、でなければすがるように、女の指が握りを強めた。
「わたくし、あなたよりずっと年上よ?」
かわいさとかっこよさの両立する上目遣いを、彼はよく心得ていた。
「いけない?」
乙女心など、ガンシャはとうに死んだものと思っていた。悪行の犠牲となり、もう再開できない家族のようだと。
「悪い男」
ガンシャは体ごと抱き着いて、口紅でキャミィの唇を塗った。キャミィはガンシャの背に腕を回し、もどかしく撫でながら抱き返した。荒波が引いていき、二人は静かに揺れる海辺のそばで存在を確かめ合った。