ウルトラマリンの夜   作:神里岳

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11話

 七日目

 

「大事な試合の日の朝、こんなふうに寝てることがあるんだ」

 裸のままベッドに寝ていたキャミィは目を覚まして体を起こした。いつの間にかシーツがかけられていて、下半身は起き上がってもまだ布に隠されていた。

「前の日の試合で全力出し過ぎて倒れてるか、次の日の試合について考えすぎて倒れてるときはね」

 ガンシャが手にしているマグカップはコーヒーの香ばしい湯気をくゆらせていた。大人の血管にはみんなこの飲み物が流れているのではないかとキャミィは時々思った。

「若いのね。それ、毎朝そんな感じなの?」

 ガンシャはキャミィの股座で腰まで持ち上がっているシーツを見下ろした。

「お姉さんがそんな刺激的な恰好してるからだよ」

 黒い下着姿の上に直接白衣を羽織っただけのガンシャは、昨日の夜のことを思い出し、内股をもじもじと閉じてキャミィから目を反らした。

「出かける前に、していく?」

 キャミィはシーツが落ちないように片膝を立て、両手で膝を抱いた。

「ううん、いい。気分じゃないみたい。ガンシャお姉さんは、すごくきれいなんだけど」

 整った顔立ちで半裸のまま物憂げに遠い目をするキャミィは、絵画の額縁が失われ描かれていた人物が現実と混ざり合ったような、危うい美しさに包まれていた。

「たまにあるんだ。どんな美女がそばにいても、どんなに体が元気でも、気持ち全部が次のバトルに向いてて、戦うことしか頭にないとき。すごくいいコンディションだよ。今日は決戦日和だね」

 それがいつもの自分と違うことはキャミィにもわかっていた。どちらが本当の自分か、どちらが自分の本質なのかは、キャミィにもわからなかった。

「キャミィって、かわいいけれど、時々なんだか……怖いわ。人間じゃないみたい。勝負の精霊みたいよ」

「んー、それは……ぐっとくる褒め言葉だね」

 本当の自分。それは無意味な質問だった。そのどれもキャミィであるのだから。

「だからこうやって、気に入った子とあったかい時間を過ごすんだ。僕は人間だって、思い出せるもん」

 人間性はキャミィにとってぬくもりであり、安らぎだった。それはもはや本能と区別がつかないほど高度な社会性であり、戦いの館に住まう魂を現世につなぎとめてくれる赤い鎖だった。

「本当に、そういうところよ、ぼうや」

 ガンシャは艶やかな頬にえくぼを浮かべて笑った。

「コーヒー飲む? ミルクはないけれど、砂糖は使い放題よ」

 キャミィは膝を抱えていた片手を離して、ヌードモデルのように胸板を出して腕を張った。どんなに体の力を抜いても、頭の中は今日のバトルでいっぱいだった。

「甘いのがいい。大盛で二……三杯がいいな。お願い、していい?」

 

「ねぇ」

 連れて行くポケモンを入れ替えてジムを出ようとするキャミィに受付嬢が声をかけた。キャミィは立ち止まり、ごく自然に振り返った、そのつもりだった。

「内緒で危ないこと、してないよね?」

 信頼ある仲間たちがここ最近のことをキャミィに断りなくジムに報告しているとは思わなかった。この出来事がほとんど数日のうちに起きたと気づいたのにも驚いたが、受付嬢に引き留められて身を案じられるのは初めてだった。遊びに出かける夜はもちろん、昇格戦に挑む朝でさえ、彼女にこんな顔をさせたことはなかった。

「えっと、私、君の試合見るの大好きだよ? 悩み事があったら一緒に悩んであげるし、たまにはゆっくりしてもいいから。だからね、ええと」

 受付嬢はまとまりのない言葉をちぐはぐに繰り返した。それがキャミィを先の見えない冒険から引き留めるためだということは年下の少年にもわかった。

 嬉しかった。戦う仲間がいるのと同じくらい、帰る場所で待つ人がいるというのは。

「じゃあさ」

 今や意識する必要があった。キャミィは明るい男の子の顔と声で、旅立ちの街に約束を置いて行った。誓いだった。絶対に無事で戻るための。

「今度、デートしようよ。僕が話したいこと、全部聞いてほしいな」

 驚き、照れ、戸惑い、いくらかの独り言の果てに、受付嬢は頷いた。十分だった。柔和に微笑むと、とっくに決まっていると思っていた覚悟が引き締められた。

「いってきます」

 手を振って歩き出すと、ジムの扉を開けたところで声が追いかけてきた。

「いってらっしゃい」

 ジムの玄関先で、すでにチヅルは待っていた。扉が閉まると、スマホロトムを片付け、ヘッドレスイヤホンを外して、肩のそばで指を丸めてキャミィに挨拶した。

「おはよう。もう来てたんだ」

「おはよ。今の、ジムの受付さん?」

「そうだよ。安心して、何も話してないから」

「ふーん」

 チヅルはかすかにキャミィの匂いを嗅いだ。工場とジムとで一回ずつシャワーを浴びてきたため、身だしなみの香りだけがあった。

「チヅル、頼んだこと、どうにかなりそう?」

「うん。送ってくれたの、見たから。その代わり」

 チヅルは遠慮がちに一度手を引っ込めてから、キャミィの手に触れ、指を絡めた。

「集合時間まで、付き合ってね」

 

「ふー、ちょっと休憩」

 キャミィは公園のベンチに腰掛けた。隣に座るチヅルの肩越しに、夕陽が傾いているのが見えた。

「チヅル、どうかな? それっぽくなってると思う?」

「うん。キャミィ歌うまいし、覚えるの早いから、もうほとんど大丈夫だと思う」

「ほんと? やった。チヅルに教えてもらったおかげだね」

 ほんの数秒、チヅルは無言で固まっていた。嬉しくて反応できないだけだとキャミィは知っていた。

「またカラオケ行こうよ。二人で。今度はデュエットしよ?」

「……うん。楽しみにしてる」

 チヅルは空を見上げた。野生の鳥ポケモンたちがせわしなく飛び交っていて、耳を澄ますと絶え間なく鳴き声が聞こえていた。

「なんかさ、よくわかんないけど野生のポケモンが騒いでるのって、こう……邪な感じ、しない?」

 キャミィもチヅルと同じ姿勢で上を見た。改まって空のポケモンを数えたことはなかったが、なるほど普段より騒がしい気がする。

「確かに、映画みたいかも。僕たちがこれからやろうとしてること、なんとなくわかってるのかもね」

 スマホロトムが着信音を鳴らして飛び出した。通知を開くと、仲間たちから集合地点に向かうと知らせが届いていた。キャミィとチヅルはすでに待ち合わせ場所の公園にいるので、二人は練習を中断して、全員の到着を待った。

 まずタクオが集合時間よりずっと早くやってきた。次にアイネ、リクロロ、マリカと集まり、最後にビルが集合時間ぎりぎりに現れた。

「みんな、揃ったね」

 キャミィは全員の顔をざっと眺めた。顎が引き締まり、自分たちが何をするために集まったか、誰もが理解していた。

「やたら急だったけどな」

 たっぷりと休息していそうな清々しさでビルはにやりと笑った。

「この作戦は、到着が早すぎれば最悪の場合逃げられてしまいますし、遅すぎると間に合いません。集会が始まってから、目標の曲がかかるまでの間の、短い時間が勝負です」

 タクオは常に備えていて、この時間にここへ集合することを提案したのも彼だった。

 キャミィだけではなかった。皆それぞれに気持ちを整えて、あるいは万全に準備をして集まっていた。説明するまでもない、負けられない戦いのために。

「逃がすつもりはない。追い払って済まそうとも思わない。今日、僕たちが集まった目的は一つだ。あいつらを、倒す」

 彼らは、彼女たちは、キャミィに頷いた。

 七人のはるか頭上で、ひときわ大きなポケモンの鳴き声が上がった。一匹のポケモンの声ではなく、だが何匹分かもわからなかった。

「ねえ、これって、ちょっと、普通じゃないよね?」

 マリカはすでにボールに指先をかけていた。公園の上空に黒く巨大なカーテンがうごめき空を遮っていた。

 違う、これは鳥ポケモンの群体。数えきれない空飛ぶポケモンの体で作られた、生きた結界。

「ああ、普通じゃねぇ。どっかにこの鳥ポケモンどもの親玉がいるはずだ」

 ビルはすでにこの幻影の正体を掴んでいた。彼らは外向きの輪になって攻撃に備えた。鳥ポケモンで作ったドームの天井が不意に落ちてこないか、あるいはこの世紀末的な防壁の主が近くにいないか。

「もしかして」

 最初にそれを見つけたのはアイネだった。

「あれがそうじゃないですか?」

 アイネの指したほうへ振り向くと、悪夢を絵に起こして切り取ったような人物が公園と大通りをつなぐ場所に佇んでいた。キャミィたちよりずっと幼い男の子で、黄色いシャツに青い短パンを着て、使い込まれたスニーカーを履き、ライフル団のロゴが入った帽子をかぶっていた。目には光がなく、頬の筋肉が引っ張り上げられて張り付いたような異常な笑顔のまま、こちらに気づいたキャミィたちを指さし、彼を操る悪霊がしゃべっているかのような恐ろしい声で唱えた。

「そして見よ、彼は、鳥を連れて現れる。すべての人とポケモン、彼に刺し通されるままの者たち、鈍き諸族はみな、仰ぎ見るまま胸を打たれて嘆くであろう」

 呪文に応じる使い魔のように、甲高い鳴き声を轟かせて一匹のファイアローが暗黒の雲から降り注いだ。

「みんな、こっち!」

 いち早くリクロロは駆け出し、声に従った仲間たちは辛くも身を隠した。ファイアローは金属製の太いワイヤーを張り巡らせて作られたジャングルジムに衝突する寸前で、直角に近い角度で高度を上昇させ悲惨な事故を回避した。

「その技が、あらゆる先を制さんとするものよりも勝っていることを知っている。その種の強さ、生まれの強さ、努力、特性、性格と個性とを知っている」

 一度その口が開かれると、彼の声はポケモンの群れの騒がしさを貫通して耳に届いた。「なに、あいつ」

 あまりの不気味さにマリカの声が揺れた。

「あたい知ってる。ライフル団の仕事受けたとき、絶対関わるなって言われた連中が何人かいる。ヘーロス、あいつがその一人だ」

 ビルはファイアローを見、遠くに立ち尽くしてこちらを見ているトレーナーを見た。

「俺らよりガキだぞ? あの地獄めいたたんぱんこぞうが、そうだってのか?」

「ヘーロスはライフル団の実験で誰よりもたくさんミニエーをキメてる。薬のやりすぎで現実と妄想の区別がつかないんだ。ヘーロスが言うには、あいつのメガガルーラは世界を滅ぼす黙示録の獣で、ファイアローは終末を知らせる使いの鳥ってことになってる」

 少年少女は顔を見合わせた。

「ヘーロスはファイアローを五匹持ってるって聞いた。ビル、この鳥ポケモンの群れを作ってるのがヘーロスのファイアローだとして、この大きさにするのに何匹いる?」

 ビルは直ちに周囲を見渡し、ぶつぶつとそろばんをはじき、彼にしかわからない計算を始めた。

「三匹じゃ無理だ。絶対に四匹いる。そもそもファイアローは鳥ポケモンを襲うポケモンだからな。この群れはファイアローに従ってるんじゃねぇ、外側に四角く配置したファイアローから、丸いドーム状になるように追い立てられてるんだ」

「無理やり突破しようとすると絶対に戦いになる、ライフル団からしたら傷ついても見捨てられる壁ってこと?」キャミィは声に出すだけで胸に怒りを感じた。

「ああ。だから向こうからは襲ってこねぇ、ドームに必要ないあの一匹以外は、な」彼の友人は、歯をむき出しにして、彼以上に怒っていた。

「それなら、あいつを倒してファイアローの連携をやめさせれば、どうにかなるんだよね?」マリカはどうにか確定した勝ち筋があると信じようとしていた。

「でも、ファイアローにメガガルーラってことはさ、戦ったら絶対に上から殴られるよ」チヅルは冷静だったが、それは現実を直視することでもあった。「しかも、すごい火力で」

 今や全員がジャングルジムの上空を旋回するれっかポケモンを見上げていた。ファイアローとメガガルーラは攻撃力も素早さも高く、先制する手段も豊富なポケモンで、それらと戦えば無傷では済まないことを意味した。ライフル団との決戦は、始まってすらいないというのに。

「あの」

 恐怖は隠せていなかった。それでも、意を決し、アイネが手を上げた。

「私がやります。私が、あの子と戦います」

 キャミィたちがざわめいたのは、アイネを侮ってのことではない。彼女の秘密を、その悲しみが癒えていないことを知っているからだ。

「アイネ、あんたピクシーは」

 マリカが言い終わる前にアイネは首を振った。希望はその手になかった。今はまだ。

「私、思うんです。いつかまたピクシーに会えるとしたら、どんなときなんだろうって。私が何と戦っているとき、あの子はそばにいてくれるんだろうって」

 アイネはボールを手にして、話し続けた。ピクシーに語りかけるように、自分に言い聞かせるように。

「それはきっと、今みたいに、強くて、怖くて、わけがわからなくて、逃げ出したい気持ちでいっぱいの相手と戦わないといけないときに、それでも自分から立ち向かっていったときだと思うんです。今日は、他のどの日よりも、そういう日なんです」

 アイネはボールをしまって、もう一度全員を見渡した。恐ろしさ、それが大きいほど、勇気を出す相手にふさわしい。アイネにはわかっていた。

「それに、ファイアローとメガガルーラなら、私の戦い方は相性がいいんです。私は勝ちます、勝ち目があるんです。だから、私に任せてください」

 アイネはキャミィを見て、ぐっと拳を握り返事を待った。オーディションの合否を待つアイドルのように。誰も異論を挟まなかった。キャミィに委ねられていた。

「アイネ」

 キャミィはアイネの肩に手を置き、力を込めて、見つめ合った。

「信じてる。頼んだよ」

 アイネは目の奥に熱を感じた。好きな異性から得られる信頼とは、こんなにも胸が躍るものだろうか? アイネはキャミィの目を見ていたが、視界の端で友人たちが鼓舞するのがわかった。全身に力がみなぎり、アイネは肩を縮めて頷いた。

 次の瞬間、体中を巡るエネルギーに身を任せて、アイネはボールを掴みジャングルジムの隙間をスライディングで飛び出していた。ツインテールを揺らして立ち上がると、安全基地から出てきた敵を捕捉したファイアローが攻撃を仕掛けていた。

「悔い改めよ! 愛あるものすべて、叱り、懲しめよう!」

 先発はもう決まっていた。アイネが両手でボールを投げ、ポケモンがファイアローの前に立ち塞がる。

「〝コスモパワー〟!」

 技の指示は〝ブレイブバード〟の激突の後に聞こえた。ミミロップが〝オボンのみ〟にかじりつきながら、神秘的な力で全身を満たした。

「なるほどね」

 チヅルは呟いた。競技トレーナー全員が一目でアイネの作戦を見抜いた。

「間に合うかな? めちゃ痛そうだったけど。〝オボンのみ〟あれば大丈夫そう?」

 マリカの見積もりはおおむね当たっていた。ミミロップは木の実の回復を挟み、次の技までは耐えられそうな気配だった。

「見よ、開かれし門が天にある。ここに上り、これから後に起こるべきことを目にせよ」

 ファイアローは攻撃の勢いのまま通り過ぎ、すぐに急上昇、急旋回、急降下した。攻撃の反動により傷ついていようとも、ファイアローの攻撃はミミロップより速かった。激しい衝突音がして、ミミロップは弾き飛ばされた。大方の予想通りミミロップは立ち上がった。しかしダメージは軽くはなかった、次はないように思えた。

「大丈夫? いい子!〝バトンタッチ〟!」

 ミミロップがバトン状の物体を生成しアイネのボールに戻った。次のポケモンがバトンに触れれば、ミミロップが積み上げた力を引き継がせることができる。

「次です! クエスパトラ!」

 迷いなく二つ目のボールを投げ、出てきたクエスパトラがバトンを受け取った。ミミロップの能力アップを受け継ぎ、それでも油断ならない猛攻が続いていた。

「ほふられるポケモンこそは、力、富、知恵、勢い、誉れ、栄光、賛美を受けるにふさわしい!」

 ファイアローは三度同じ攻撃を繰り出してきた。ひこうタイプの通る相手には機械的に〝ブレイブバード〟を繰り返している、キャミィはそう感じた。このトレーナーは、またそのポケモンですらも思考停止していた。強敵ではなかった、しかし打撃の強さだけは変わらなかった。〝コスモパワー〟で耐久が上がっていても、クエスパトラでは何回も受けられない。

「〝まもる〟!」

 クエスパトラは守りの体制に入った。どのポケモンも、訓練によって技一回分のわずかな時間を回避や受け身に集中させることができる。クエスパトラは〝ブレイブバード〟を受け流し、ファイアローは構わず同じ技を放ち続けた。

「キャミィさん、教えてください」タクオはキャミィに理解の助けを求めた。「先ほどからその、アイネさんは防戦一方のようなのですが」

「さっき、アイネのポケモンが〝バトンタッチ〟って技を使ったでしょ。アイネの手持ちのポケモンは、一匹のポケモンを最強にするために、残りのポケモンは〝バトンタッチ〟に覚える技の全部を賭けてるんだ。つまり、今は時間を稼いでる。クエスパトラがもっと〝かそく〟するためにね」

 アイネは耐えていた。忍耐が必要だった。攻撃は苛烈で、相手は直視すると正気を失いかねないほど空虚だった。

「誰が立ち続けることができようか。大いなる日が、すでにきている」

「よし……〝めいそう〟!」

「大いなるものが勝利の印を我らの額に押すまでは、あらゆるポケモンをもそこなってはならない」

「もう一度〝まもる〟!」

「キャミィさん」アイネとヘーロスのバトルを観戦していたタクオが、ぽつりと言った。「これは、ポケモンバトルなのでしょうか?」

「違うと思う」キャミィは即答した。「トレーナーは勝負のことを見てなくて、ポケモンは勝手に技を出してる。目を瞑って適当な技を連打するのと一緒だよ。それはゲームでもスポーツでもない。あれはポケモンバトルじゃないよ」

「でも、ちょっとやばいよ。アイネ、あんなに頑張ってるのに」とチヅル。

「あっちパワーあるかんね。ああいうので勝てちゃう試合ある」とマリカ。

「それ、結局は強い技で殴るのが強いってことじゃないのか?」とリクロロ。

「読み勝って連打で勝つ形に持っていくのは腕だ。あれは違ぇ」とビル。

「そうだね……この感じだ」

 キャミィはこの嫌悪感の正体を見つけ、仲間たちに告げた。

「みんな、よく見ておいて。あれが、ライフル団に、ミニエーに負けた後の世界から来たトレーナーだよ」

 それでもこれは勝負の体を成していて、もはやクエスパトラも限界だった。〝まもる〟は連続で使うと失敗するリスクが高く、そのためアイネは次の〝バトンタッチ〟を指示しなければならなかった。

 すなわち、アイネはこのバトンを引き継ぐべきエースを呼び出す必要に迫られていた。アイネのチームはそのためだけに調整されていたので、他の選択肢はありえなかった。

「クエスパトラ……」

 これだ。結局この作戦を通すためにアイネのポケモンは招集され、この選択をするためにアイネは指示を出しているのだ。

「〝バトンタッチ〟!」

 クエスパトラがバトンを生成し、自らはボールへと戻った。

「おお、災いよ、地に住む邪悪な人々よ。なおも終末の御使いの〝はやてのつばさ〟が吹き荒ぼうとしている」

 現実のファイアローの攻撃はクエスパトラの行動よりも遅れた。粘つく時間の中で審判の猛禽が旋回して向かってくるのをアイネは見た。彼の妄想に関係なく、アイネにとってはまさに栄光と滅亡の分岐点だった。ここでポケモンを出せなければ、次にあの技に貫かれるのは自分自身。

 お願い。お願いです。どうか。もう一度。あなたに会いたい。あなたと勝ちたい。両手で握ったボールに、ありったけの願いを込めて。恐れてはいなかった。ここで通じ合えなかったとしても、運命を受け入れるつもりだった。

 アイネは目を見開き、三匹目のポケモンが入ったボールを投げた。

「出てきて、私の、相棒のピクシー!」

 宙に浮いたボール、迫りくるファイアロー、永遠のような一瞬の光景がアイネの目に焼きついていた。

 時は流れ、三つの音が同時に聞こえた。ボールが開く音、バトンを受け取る音、終末の鳥の攻撃をポケモンが受け止める音。

「やった!」

 観戦していたキャミィたちが最初に叫んだ。アイネはまだ奇跡の衝撃から立ち直れず、その長い耳と丸まった尻尾と短い羽根を眺めることしかできなかった。

 ピクシーが鳴き声を発した。そこでアイネは実感した、私は、私たちは試練に打ち勝つことができたのだと。

「ピクシー! ありがとう! 私のポケモンでいてくれて、本当にありがとう!」

 アイネのすべてはここに報われた。満ちていた。世界は完璧だった。

「見よ、この後、なおも災いが来る」

 ファイアローは攻撃の反動が積み重なり、今にも墜落しそうだった。だが、それでも、頑なに〝ブレイブバード〟の構えだった。ひょっとすると、このファイアローは、これと〝フレアドライブ〟しか技を覚えていないのかもしれなかった。

「災いは来ません。世界の終わりを旅するのは、もうおしまい」

 勝てるに決まっていた。アイネとピクシーは今まさに世界の終わりを生き延びたのだ。それに比べたら、薬物の幻想で形を成した黙示録など、恐れるに足りなかった。

「ここからは、私たちのステージです!」

 アイネはゼンブイリングに触れた。グッズのメンテナンスを欠かしたことはなかった。まさに今日の日のために。過去が成熟し、完全な今となる救いの日のために。

「スポットライトを独り占めです! 主演のピクシー! 私とワルツを!」

 メガシンカの輝きがピクシーをくるみ、満月から誕生したかのようにメガピクシーが煌めいた。巨大化した妖精の羽が重力を無視する力場をとらえ、メガピクシーは発達した耳を揺らして浮かび上がった。

「口にはモモンのように甘く、腹にはチーゴのように苦い。受け取り、食らうがよい」

 ファイアローが迫ってきた。ミミロップもクエスパトラも受け止めるだけで精一杯だった。メガピクシーは涼しい顔で待ち構えていた。

「〝つきのひかり〟!」

 鳥ポケモンの分厚い群れの先からでも、メガピクシーはしっかり天の加護を受け取った。傷が癒え、その体力は更なる〝ブレイブバード〟を弾き返して余りあった。

 攻撃を仕掛けたはずのファイアローのほうが、メガピクシーに弾き飛ばされて不規則な軌道で空中をさまよい、風を掴みそこなった紙飛行機のように力なく転落した。度重なる攻撃の反動で、ついに動けなくなったのだ。

「よくできました! えらいですよ、ピクシー!」

 腕を振って喜ぶアイネに、メガピクシーも鳴き声で答えた。妖精が一回転すれば、主人も地面の上でくるりと回った。

「アイネ、別人みたい」

 チヅルの声は友人への祝福にほころんでいた。

「別人だったんだ。さっきまではね。あれがきっと、本当のアイネなんだよ」

 キャミィも視界が輝いて見えた。終末の縮図の光景は、今や妖精のお立ち台だった。

「害する者ものがあるのなら、その敵を滅ぼすであろう」

 ヘーロスは倒れたファイアローをボールにさえ戻さなかった。

「女は子を持ち、その子は御座へと引き上げられた。この子は神の名のもとに、すべてのポケモンを制するべきものである」

 ヘーロスは公園の短い段差の上に立ち、そこからボールを滑り落とした。それは確かにガルーラだった。おなかの袋には健康な子供がいて、しかし親は場に出て間もないながらも殺気立っているようだった。

「ねえ、ビル」キャミィは尋ねた。「あんなトレーナーでもメガシンカさせられる絆って、なんだと思う?」

「ガルーラだからだ」心底気に食わないという顔だった。「悪魔の手に堕ちていようが、必死でてめぇの子供を守るんだよ」

 ヘーロスの短パンのポケットからキーホルダーが取り出された。粗末なおもちゃのようだったが、はめ込まれた石は紛れもなくキーストーンだった。

「誰がこのポケモンにかなおうか! これぞ黙示の獣、メガガルーラである!」

 熱心な扇動者のように高らかな宣言がなされた。ヘーロスはトレーナーとさえ呼べない破綻者だったが、それでもメガシンカ現象が起き、幼い主人をかばうためにメガガルーラの親子が牙をむいた。

「刈り取るべき時が来た!」

 メガガルーラもすでにトレーナーの言葉にまったく耳を貸さなかった。あるいは、最初から期待していなかった。だがその〝おやこあい〟は本物だった。

 まず親が、そして子が続き、二段構えの〝ねこだまし〟を放った。音からして爆竹じみて強烈だった。さしものメガピクシーも宙でぐらついた。

「激しい怒りが世界を満たすであろう!」

 メガガルーラが選んだ技は〝すてみタックル〟だった。親子で左右から挟み込む、逃げ場のない二重の連携がメガピクシーを囲んだ。

「大丈夫! もう一回〝つきのひかり〟!」

 ミミロップが残した防御力と、クエスパトラがつないだ素早さが、メガピクシーを生存せしめた。先手での回復が間に合い、どれが足りなくても終わっていた。激烈な衝突を経て、メガピクシーの体力はそう変わらず、メガガルーラの反動だけが残った。

「……ピクシー!」

 そして、この、戦いとも呼べぬ対戦に、アイネが信念の刃を振り上げた。

「私が指示するまで〝つきのひかり〟を浴び続けて!」

 決定的だった。メガガルーラは全力のタイプ一致技を以てしても、メガピクシーの月光の先まで攻撃を届けられなかった。ならば、反動ダメージの累積を含めて、メガガルーラを一撃で倒せるところまで持っていく。戦いの主導権はアイネの手の内だった。

「人々とポケモンは天を呪い、悔い改めることはない!」

「いいえ! 私たちは、お互いの間違いを認めあってここにいます! 他の誰が何を言おうと、私とピクシーの絆は本当です!」

「淫婦どもめが!」

 恐ろしい光景だった。攻撃しなくなったメガピクシーは暴力に打たれるばかりで、攻撃しているメガガルーラはみるみる消耗していった。アイネは信頼に報いてくれるポケモンへの感謝から、ヘーロスは薬物の高揚による妄信から、どちらも笑顔で戦い続けた。

「キャミィ」リクロロはキャミィの裾を掴んだ。指が震えていた。「あたい、怖い」

「大丈夫。きっと」キャミィはリクロロの指に自分の手を添え、そっと握り返した。

 神が本当にいるのであれば、それは無慈悲に、まったくむごいことに、アイネに更なる試練を課した。

 都合三発目の〝すてみタックル〟がメガピクシーの急所をとらえた。キャミィとビルは呻き、少女たちは声にならない悲鳴を上げた。アイネは自分の鳩尾を打撃されたかのように息詰まり、両手で頬を抱えた。

 メガピクシーは耐えていた。気絶寸前だった。止まりかけの独楽のようだった。〝つきのひかり〟を足しても、〝すてみタックル〟の入り方次第では、あるいは。

 メガガルーラも、この反動で体力が射程圏内に入った。素早さが上昇している今なら、普通に打ち合えば先手を取って勝てる。今のメガピクシーでは絶対に耐えられないであろう、メガガルーラの〝ふいうち〟を考慮しなければ。

「どっちだ?」ビルが叫んだ。メガピクシーの攻撃、それを読んで〝ふいうち〟、読みで〝つきのひかり〟、読みの〝すてみタックル〟、読みなら攻撃。「どっちだ?」

 一瞬にしてバトルは制御下を離れ、アイネは生きるか死ぬかの選択を突き付けられた。キャミィも理解した、アイネとピクシーを引き裂いた出来事は、盤石の勝利のために築いた蓄積が崩壊する、この悲劇の繰り返しだったのだと。彼女はそのどこかで心折れ、再会した彼女たちが再び試されるときが、あまりに早く来てしまったのだと。

「ああ、災いよ。裁きのときは一瞬にしてきた」

 ヘーロスの妄言がアイネの耳を滑り降りていった。勝負はまだわからない、だが彼は場を見てすらいなかった。

「すばらしい! 世々限りなく、裁きに焼かれる煙は立ち上る」

 アイネは呼吸の音がおかしくなっているのを感じた。うるさいくらいに脈が速く、背を熱が駆け上がり、自分の視界は他人のもののようだった。

「未来に約束されていないものはみな、火の池に投げ込まれるのだ」

 メガガルーラがにじり寄ってきた。手を出せば必ず攻撃が届く間合いである。

「これは始まりであり、終わりである」

 膝が震えて今にも崩れ落ちそうだった。頬から血の気が下がるのがわかった。このまま勝負の決着を待たずに失神してしまうかもしれなかった。

「アイネ!」

 その絶望の先、本当の冥府の一つから自分を救った少年の声が、アイネを呼んだ。

「ピクシーがついてる!」

 メガピクシーが鳴いた。あの日アイネが聞いた、この世が破られる悲しみはなかった。代わりに、支えていた。アイネの心を。ともに選ぶ結末を。

 アイネは包む両手で頬を叩いた。気合いを入れ直すと精神と肉体の感覚が戻ってきた。このバトルをコントロールすることはもはや不可能だったが、それでも選ぶことはできた。終わってない。終わらせない。残された時間は多くなかった。相棒の聴力だけが拾える、ごく小さな囁きで、アイネは自分のカードを選んだ。

「裁きよ、来たれ!」

 メガガルーラが飛び込んだ。メガピクシーはすでに月光を集めていた。アイネの指示通り、攻撃のために。

「〝ムーンフォース〟!」

 声高らかにアイネは選択した技を叫んだ。メガガルーラの〝すてみタックル〟が決まろうかというその刹那、優しく鋭い月の光がおやこポケモンを飲み込んだ。クエスパトラの渡した〝めいそう〟が、要求する火力にメガピクシーをこたえさせた。

「あ……」

 メガガルーラが確かに倒れるまで、アイネは動けなかった。

「ああ……!」

 メガピクシーが振り向き、アイネに鳴いてみせた。自分も気絶しかけているだろうに、笑顔に一点の曇りもなかった。

「ピクシー!」

 アイネは飛び出し、浮遊しているメガピクシーに抱き着いた。満身創痍のメガピクシーは少女を持ち上げる力も残っておらず、アイネは地に足をつけたまま頬を擦り付けた。

「ありがとう! 私のピクシー! 大好きです! 愛してます!」

 トレーナーとポケモンは黙示録を生還した喜びに震えた。ヘーロスがふらふらと降りてきてメガガルーラに近づいた。アイネとメガピクシーも気づいたが、この予言者に戦う力が残っていないとわかっていた。

「ま……」

 ヘーロスは薬物の効果が出過ぎていた。異常な笑顔を変えることができなかった。

「ママぁー!」

 おどろおどろしい顔面のままヘーロスは倒れたメガガルーラに縋り付いた。トレーナーが戦意を失ったことでドームを維持するファイアローの統率が乱れ、弾けた水風船のように野生の鳥ポケモンは散り散りとなった。残されたファイアローは主人のもとへ集結したが、泣き喚く主人に寄り添うばかりで、とても戦える状態ではなかった。

「アイネ! やったね! ピクシー最高だったよ!」

 安全が確保され、キャミィたちは防空壕から這い出てきた。アイネは近づいたキャミィの腕を掴んで引き寄せ、メガピクシーと一緒くたに抱きしめた。

「キャミィくん」

 アイネは同じポケモンに頬をうずめる少年の名前を潤んだ目で見つめて呼んだ。

「ありがとう。私をここまで連れてきてくれて。おかげで、またピクシーに会えました」

「どういたしまして。こっちこそ、最高の相棒が活躍するとこ、見せてくれて嬉しい」

 二人は笑い合い、それを見ていたピクシーも笑った。警戒心の強いようせいポケモンは、主人の味方は誰か、主人が誰に心を許しているのか、ちゃんとわかっていた。

「こら」追いついてきたマリカがアイネに覆いかぶさり、もみくちゃにした。「心配! した! もー! ほんとよかった!」

 チヅルとリクロロも集まってきて、アイネの復活と健闘を称えた。キャミィは喜びを分かち合う少女たちからそっと離れた。ビルがヘーロスの様子をじっと見ていることに気がつき、薬物の仮面がへばりついた中毒者の末路を隣で眺めた。

「ママ、だとよ。ほんとの母親は、どうなっちまったんだろうな」

 目で見なくても親友が並んで立っていることにビルは気づいていた。「おい。この事件、今日でケリつけるぞ」

「うん」顔を見ずとも親友が怒り狂っているとキャミィはわかっていた。「絶対に」

「あの」

 少年たちは同時に振り向いた。アイネは哀れみに眉を下げていた。

「そっとしておいてあげてください。敵同士だから連れていけないというのも、そうなんですけど。こういうとき、独りで自分を見つめ直す時間が、必要ですから」

 アイネはヘーロスのそばに近寄り、胸に手を置き短い祈りを捧げた。ファイアローたちが距離を置こうとしたが、それもすぐ関心を失っていた。ヘーロスはガルーラの親に突っ伏して発狂めいて嘆き、アイネに気づいてさえいなかった。

「どうか、あなたも、戻ってこれますように」

 気が済むと、アイネは可憐に振り返った。月の光を取り戻した少女は、あざとくかわいらしい、メルヘンなヒロインだった。

「行きましょう。平和を取り戻しに」

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