ウルトラマリンの夜   作:神里岳

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12話

「ま、そう簡単にはいかないか」

 キャミィは道路を埋め尽くすライフル団のしたっぱを見渡して苦笑いした。彼らは襲ってくるでもなく何列も横に並んで道を塞ぎ、キャミィたちを見下ろしてにやついていた。

「ちょっと、マリカたち急いでるんだけど。どいてくれる?」

 マリカが手前の何人かを追い払おうとしたが、スマホロトムのカメラが一斉に彼女に向けられた。ライフル団員の人垣の先頭にいる、黒いシャツに青いスーツ姿の小綺麗な男が前に出てきて、プラチナブラウンのミディアムパーマをかき上げ、大仰に両腕を広げた。

「いやあ、感激だねえ。こんなところでプロトレーナーに会えるなんてさあ」

 明らかに金のかけられた男の身なりは他の団員と一線を画していた。泥中からはみ出た砂金のように、この男の周囲の空間だけが歪んで浮き上がって見えた。

「おいらたちみんな、プロ選手のファンなんだよお。せっかく会えたんだからさあ、記念にバトルしたいなあ。まさかファンのことを邪険にしたりなんて……しないよねえ?」

 周囲を取り囲むライフル団のしたっぱたちは下卑た声で笑った。麻薬ビジネスの成功者か、その関係者か、ともかく彼がこの扇動の中心人物らしかった。ビルが腰のボールに手をかけ、囁き声でキャミィと話した。

「蹴散らすか?」

「いや、待って。あの動画たぶんライブ配信だし、流石に少し考え……る?」

 キャミィの横を通り抜けてチヅルが男の前に進み出た。女子にしては長身なチヅルは、自分より少し背が低いその男を見据えて鋭く言い放った。

「あんた、名前は?」

 男はまたも大げさにお辞儀をした。態度の奥の軽蔑や侮辱がありありとわかった。

「おいらはフェンツ。おいらのパパはちょっと人よりお金と力があってねえ。今日は大事なビジネスがあるから、街で遊んで来いって言われたのさあ。だから、友達を集めて街に出たらねえ、偶然、たまたま、皆様にお会いしてえ」

「もういいよ。わかったから」

 チヅルはすでにボールを握っていた。

「うちが相手してあげる。その代わり、あんたとサシで勝負ね。うちらも予定あるからさ、うちが勝ったら、バトルとかサインとかは今度にして」

 フェンツは値踏みするようにチヅルを見上げた。

「チヅル選手、だよねえ。クールでファンも多い注目株だって聞くけど、生で見ると本当にかっこよくて……ファンに対して愛想のない人だなあ」

 チヅルは顔色一つ変えず、また何も言い返さなかった。小馬鹿にした笑みを張り付けたままフェンツはしばし黙っていたが、やがて返事をした。最初からそのつもりだった返事を、さも心優しく譲歩したように。

「いいよ、その勝負、受けてあげよう。おいらのポケモンなら、もしかするとおたくには勝てるかもしれないからねえ。おいらが負けたら、通してあげるよお。逆においらが勝ったら……パパが贔屓にしてるお店で、朝までみんなとパーティー! どうかなあ?」

 いやらしい口笛や下品な歓声がそこかしこで聞こえた。チヅルは視線だけでキャミィに振り向いた。キャミィと、彼のそばにいる仲間たちに。勝手に話を進めてしまった謝罪と、それ以上の何か、応援か承認か、あるいは信頼か、言葉にできない助けを求めて。

「チヅル」

 顔に出ないチヅルの心へ真っ先に返事をしてくれるのは、やはりキャミィだった。

「いてこませ!」

 親指を立てて微笑む少年の笑顔に、チヅルの胸と唇が締め付けられた。「そうだ! いわしたれ!」マリカが合いの手を入れ、他の友人たちも声援を送った。そうとわかっていないと気づけないほどわずかにチヅルは頷き、想いを秘めて不愛想に向き直った。

「あれはキャミィ選手だよねえ。なんだか仲がよさそうだったけれど、これはもしかしてスキャンダルかなあ?」

 キャミィのことをからかわれるのがここまで脳天に来るものかとチヅルは思った。

「いい男だよね」

 ひょっとすると、自分は思ったよりずっと感情的なのかもしれなかった。

「親の金がないとナンパもできない雑魚と違ってさ」

 観衆が大喜びでどよめくのをチヅルはぼんやりと聞いていた、だがそれは意識の外で無意味に揺らめく背景に過ぎなかった。頭に血がのぼっていて、目の前の相手しか気にならなかった。そして、相手も、フェンツも同じ状態のように思えた。

「わからせてあげるよお」

 フェンツは舌の上にミニエーのカプセルを乗せ、自分のポケモンを選んでボールを手に取った。始まる。雑音が静まり、二人はボールを投げた。

「大事なお友達の前で、眼中にない男にめちゃくちゃにされる気分をねえ!」

 チヅルのメガニウム、フェンツのカバルドンがそれぞれの四つ足で道路を踏みしめた。カバルドンの体の穴から砂が噴出し、〝すなおこし〟が視界をかき乱した。

「おっと、いきなりエースの登場かい? 流石に相性が悪いなあ」

 フェンツの顔は砂でよく見えなかった。カバルドンと、メガニウムの後ろ姿ははっきりとわかった。戦える。何も問題ない。

「わかってるじゃん。砂で隠れたって無駄」

 チヅルはゼンブイリングを掲げた。控えめで暴れることが好きな相棒のメガニウムは、主人の高揚そのままに一声鳴いた。

「太陽はうちらの中にある。進化の樹の先頭いくよ、メガニウム」

 メガシンカのエネルギーが駆け巡り、メガメガニウムが花開いた。四層にもなる豊かな花弁が広がり、くるりと巻かれた頭の触角が軽やかに揺れた。

「くっ……戻れ、カバルドン!」

 たまらずフェンツはカバルドンを引っ込め、別のポケモンを繰り出そうとした。相手の準備が終わるより先に、メガメガニウムが攻撃の体制を整える。

「〝ソーラービーム〟!」

 夕陽も月光も遮る砂塵は、メガメガニウムの〝メガソーラー〟の前には障害にもなりえなかった。過剰なまでのエネルギー効率で空の光を集めたメガメガニウムは、フェンツの二番手のポケモンに容赦なく光線を浴びせた。

「ふん……大したことはないねえ!」

〝ソーラービーム〟の降り注いだ場所から飛び出してきたのはヒートロトムだった。電子レンジに潜り込み、ほのおタイプを得たロトムには、さしものメガソーラー砲もダメージを稼げなかった。

「さあて、どうしてやろうかなあ? このまま焼こうかあ? それとも……?」

 フェンツの考えはチヅルにもわかっていた。ヒートロトムの多様さ、攻撃の強力さが、二人のトレーナーに心理戦を強いた。

 炎。電気。攻撃。補助。交代。知識と経験と、直感と……指先の運。いくつもの未来が同時に交錯し、そのうち一つを二人は選んだ。

「メガニウム」

「ヒートロトム!」

「戻って」

「〝オーバーヒート〟!」

 チヅルはポケモンを交代し、その新たに出てくるポケモンをフェンツのヒートロトムが焼き尽くそうとした。爆熱が吹き荒び、それをチヅルのポケモンが吸い込んだ。

 そう、吸収だ。耐えたわけではなく。

「うまいっ」

 マリカが観客の代表のように大声を上げてガッツポーズした。チヅルのグレンアルマが主人を守って立ち塞がり、ほのおタイプの攻撃を〝もらいび〟でエネルギーとして取り込んでいた。

「ちっ! 戻れ!」

 フェンツはヒートロトムをボールへと戻した。その意味をチヅルは、キャミィたち一部の観戦者は推し量った。彼らの違和感が言葉になる前に、次の攻防が始まっていた。

「〝アーマーキャノン〟!」

 両腕のアーマーを合わせて砲身を作り、出てきたポケモンにグレンアルマが灼熱の火砲を放った。攻撃を受けに来たのはカバルドンだった。〝もらいび〟でパワーアップした、グレンアルマ最大級の〝アーマーキャノン〟である。カバルドンも相当頑丈に育てられたようで、並の耐久では一撃のところを耐え抜き〝オボンのみ〟をかじった。

「あれって、耐えてはいます、けど」アイネは盤面をよく見ていた。

「だね。オボン込みでも次は耐えないんじゃない?」マリカの計算も的確だった。

「カバルドン、逃げるかな」リクロロは初心者なりに先を読もうとしていた。

「とはいえ、これは一方的な試合運びなのでは」タクオにさえ形勢の傾きが察せられた。

「……キャミィ、たぶん同じこと考えてるよな?」ビルはある種の信用をもって尋ねた。

「たぶんね」確かめる必要はなかった。答えはもうすぐわかるだろう。「カバルドンを倒してほしそう、でしょ?」

「……〝アーマーキャノン〟!」

 それでもチヅルは勢いに乗った。燃え盛る砲弾が再びカバルドンを襲い、ついにじゅうりょうポケモンをへたばらせた。ポケモンの数で先制したのはチヅルだった。少年二人が油断なく見守る中、少女たちは素直な歓声を送った。

「……くくく。ふっふっふっ」

 今もなお攻撃的な熱が迸るグレンアルマを前に、フェンツは引きつった声で笑った。

「ははははは! やっぱりそう来るよねえ! カバルドンは本来もっとずっと倒しにくいポケモン!〝アーマーキャノン〟連打で倒せるなら連発するよねえ!」

 薬物がフェンツに悪魔的な笑顔を作らせた。チヅルは今も仏頂面のままだった。有利に喜ばず、慢心も油断もなかった。岩に水を打ち付けるようにフェンツは一方的な熱狂を放っていた。

「見せてあげるよお……おいらの真打ちを!」

 フェンツが次のポケモンを繰り出した。むしポケモンの羽音が聞こえ、砂嵐の奥で鋭利な針が光を反射した。

「そう来たか」

 ビルはうなった。キャミィも空いた口に手をかざした。

「あれは確かに、チヅルになら勝てると思っちゃうだろうなあ」

 カバルドンの〝すなおこし〟から時間がたち、砂嵐が収まりかけていた。今やフェンツの表情はチヅルにもわかるようになっていた、その逆もまた。

「不思議そうな顔をしているねえ」

 フェンツは無表情のチヅルに決めつけた。

「どうして、おぼっちゃまのおいらの切り札がスピアーなのか、気になるかい?」

 どくばちポケモンが前足の毒針を警棒めいて扱いていた。彼のスピアーは目に見えて小さく、それゆえに生きた暗器のような威圧感をさざめかせた。

「おいらだって、昔はただの虫取り少年だったのさあ。パパが成功するまではねえ。必死で身に着けたよお、成功者としての振る舞いってやつをねえ。そうだよ、おたくの言う通りさあ。パパがおいらになんでもくれる。ポケモンだって、その気になればもっといいのがいくらでも手に入る……」

 袖口のボタンを緩め、フェンツは腕時計を露出させた。もはや財産そのものである金色の機械にキーストーンが埋め込まれていた。

「けどねえ! いや! だからこそねえ! バトルは! おいらが指示しておいらの力で勝たなきゃいけないバトルだけは! 好きなポケモン使うって決めてるのさあ!」

 フェンツのキーストーンがスピアーと結び合った。その絆は紛れもなくコンプレックスだった、それでも彼らは互いを選んだのだ。

「むかつくやつらを刺しまくれ! 退屈な日常に風穴開けろ、スピアー!」

 メガシンカの光を食い破り、メガスピアーが槍を掲げた。眼光鋭く、その体から伸びる毒針はもっと鋭く、ただいるだけで殺気がびしびしとチヅルの肌を叩いた。

「ねえ、あれって、耐えられるかな?」

 マリカが神妙に呟いた。グレンアルマの装甲は〝アーマーキャノン〟の反動に赤熱し、今やその防御力を大きく損なっていた。

「耐えられるわけないよねえ!〝ドリルライナー〟!」

 メガスピアーは両腕の毒針を構えて回転し、直線的な軌道で一直線に突っ込んできた。ガードの下がったグレンアルマでは耐え切れない。チヅルも同じ判断だった。

「そうだね」

 グレンアルマをボールに戻し、この攻撃を受け止めるべくほかのポケモンを繰り出す。

「お願い」

 そのポケモンがチヅルの目の前で攻撃を難なく受け止めて見せると、観客たちは大きくどよめいた。

「気は確かかい?」

 その誰よりもフェンツがショックを受けているように思えた。

「スピアーにメガニウムを投げるなんてさあ!」

 メガメガニウムは全身でメガスピアーの突撃を受け止めていた。だがそれは完全に接触技の間合いで、あらゆる毒針と絶望的な相性差が次の瞬間にもメガメガニウムの体力を奪い去りかねなかった。

「でも平気だったでしょ」

 チヅルはなおも平然としていた。当のメガメガニウムですら動揺していなかった。

「〝ドリルライナー〟で来ると思った。だから任せた。こたえてくれた。それだけ」

「ふん! そのすまし顔がいつまで続くか楽しみだねえ!」

 メガスピアーは助走をつけるためにメガメガニウムから一瞬だけ距離を取った。主人が次に何を命じようとしているか、メガスピアーは本能的に感じ取っていた。

「メガニウム」

「スピアー!」

 フェンツは競技トレーナーではなかったが、まるっきり素人というわけでもなかった。その練度、読みが効く範疇の読みが、チヅルをしてこの勝負を掌握せしめていた。

「戻って」

「〝とんぼがえり〟!」

 メガメガニウムが再びボールに帰還し、チヅルが次のポケモンを繰り出した。三匹目のポケモン、ヒスイヌメルゴンが金属製の殻で攻撃を受け止めた。効果はいまひとつ、だが無傷とはとても言えなかった。相性の悪さをこじ開けるほど鋭利な攻撃。十分なダメージを与えたメガスピアーがフェンツの元へ戻っていく。

「ヒスイヌメルゴン……面倒だねえ」

 フェンツがもう一度ヒートロトムを繰り出した。ヒスイヌメルゴンはじとりと睨みつけて、ヒートロトムもしばし指示を待ちその場に〝ふゆう〟していた。

「……動かなくなったぞ?」

 沈黙に耐えかねてリクロロが声を零した。二人はここまでほとんど即決で指示を出し続けていた。それが今、このバトルで初めての長考に入っていた。

「戦ってるんだよ」

 キャミィはこの後の展開を何手も読んだ。そのどれが運命となってもおかしくない場面だった。

「ヌメルゴン」

「ヒートロトム!」

 決断は下された。わずかな時間、世界は魅入られ、他の音が消えた。

「戻って」

「〝10まんボルト〟!」

 またもチヅルはポケモンを引き、繰り出したグレンアルマがヒートロトムからの電撃を引き受けた。防御力は元に戻っていたが、一回の攻撃で〝オボンのみ〟を食べさせられる程度にはダメージを受けていた。

「はっはっは! そう何度も〝もらいび〟を許すと思ったのかい!」

「そうだね」

 チヅルは何かを確かめるように頷いた。

「でも〝ボルトチェンジ〟は使えない。ヌメルゴンから相棒を守らなきゃいけないから」

「それがどうしたんだい! さっきからずっと交代、交代! 攻撃する気がないのかい! それとも、おとなしくやられてくれる気になったのかなあ!」

 チヅルは指先でかすかに首をかいた。メガメガニウムはいなかったが、その苛立ちは決して劣勢が原因でないことはキャミィにもわかった。

「あんたのヒートロトム〝こだわりスカーフ〟でしょ?」

 ミニエーの影響で表情を変えることは難しそうだったが、フェンツは自分の考えを見透かされることを快く思ってはいないようだった。

「だからグレンアルマに〝もらいび〟されたとき〝ボルトチェンジ〟できなかった。うちがさっきから何も技を使ってないから〝トリック〟で技を縛ることもできない。だけど、ほのお技を打ってまた〝もらいび〟されたら勝負が終わる。こだわってるヒートロトムを引いて、ほのお・エスパータイプのグレンアルマの前にスピアーを出さなきゃいけないから。ヒスイヌメルゴン相手に〝10まんボルト〟って、つまりそういうことでしょ?」

「だからそれがどうしたっていうんだよお!」

 フェンツは地団太を踏んだ。

「グレンアルマを見ろお! ヒートロトムの〝10まんボルト〟を耐えるのは、せいぜいもう一発ってところだろうねえ! 対しておいらのヒートロトムはまだ余裕! おたくのヒスイヌメルゴンだって、さっきの〝とんぼがえり〟と、グレンアルマを倒したヒートロトムの追撃を受けたら、もう次の〝ドリルライナー〟は受けられないだろうさあ! そうしたらおたくのメガニウムもろとも上から叩き潰してやるよお!」

 そうだ、その通りだ。観客たちは頷いた、おおむねフェンツの言う通りであろうから。手が読めることと、今が有利なことは、決して勝利そのものではない。

 キャミィは突然、驚くべき事実に気が付いた。ライフル団、彼らは明らかにフェンツの勝利を望んでいた。そうあるべきだった。しかし、彼らの少なくない人数が、バトルそのものに見入っていた。チヅルの秘策、ここからの逆転に興味を持っていた。今、この場の主役は間違いなく彼女で、そこに敵も味方もなかった。

「じゃあ試してみなよ」

 チヅルは手の甲を向けて指を曲げフェンツを〝ちょうはつ〟した。

「この女があんたの思い通りになるかどうか、さ」

 てきめんに効いた。

「ヒートロトム! グレンアルマをぶちのめせ!」

 ヒートロトムは狂える主人の指示を正確に実行した。強力な電気がグレンアルマを痛めつけ、それでもやはりその攻撃は耐えた。生き残った。膝をついてはいなかった。

「グレンアルマ」

 そして、チヅルの仕掛けた奇跡が、ずっと準備していた一手が正体を現した。

「〝トリックルーム〟」

 ギャラリーから咆哮が起こった。チヅルとフェンツを端に巻き込む大きさに摩訶不思議な空間が構築された。ビルは膝を打って笑い、キャミィも手を叩いて笑った。少女たちも言語化しがたい感動を叫んでいた。たった一度の補助技で、世界はまるで変わっていた。

「う……嘘だあ」

 フェンツの顔はまだ笑顔に固められていた、だが喉から絞り出された声は絶望に震え、勘弁してくれと戦慄していた。

「いつから? ずっと? ぜんぶ? じっと? この瞬間のためにい? そんな……それじゃあ、おいらがスピアーを出してからの動き、全部おたくの読みに入ってたってことになるのお? そんな、そんな馬鹿なあ?」

 チヅルはグレンアルマをボールに収めた。あまりの衝撃に、フェンツは対戦相手の行動に気づいてすらいないようだった。

「ねえ」

 チヅルは次のボールを頬の高さで見せつけながらフェンツに声をかけた。

「まだ終わってないよ」

 フェンツは決して我に返ったわけではなかった。屈辱的な憤怒が動物的な暴力衝動を引き起こし、ただ目の前の挑発的な敵を叩きのめそうと突き動かされただけだった。

「う……うおおお!〝10まんボルト〟おおお!」

 ヒートロトムの攻撃はヒスイヌメルゴンに受け止められた。タイプ相性以上に特殊防御の高さがヒートロトムを寄せ付けなかった。〝トリックルーム〟の影響下では素早く動けるポケモンほど動きが鈍くなり、〝こだわりスカーフ〟を持たされたヒートロトムには、もはや攻撃のチャンスもなかった。

「〝りゅうせいぐん〟!」

 ヒスイヌメルゴンは天から隕石を呼び出してヒートロトムに落とした。ドラゴンタイプ最強の攻撃技が発動し、道路を穿つ炸裂音と衝撃波が観客を怯ませた。すべてが過ぎ去ったころには、気絶させられたヒートロトムだけが残された。

「なぜだあ!」

 フェンツの声に気力は戻っていなかったが、それでも悲鳴は出た。ヒスイヌメルゴンがにやりと口を開けると、尖った〝りゅうのキバ〟がのぞいた。

 すでにフェンツの頭は情報を処理する能力を失っていた。獣じみた声とともに、残されたメガスピアーが繰り出された。

「くたばれえ!〝ドリルライナー〟!〝ドリルライナー〟あああ!」

 メガスピアーもまた〝トリックルーム〟下では最も遅いポケモンの一匹だった。スローモーションで迫るメガスピアーに対し、チヅルは悠々とヒスイヌメルゴンを戻した。

「あんた、一つだけいいこと言ってたね」

 チヅルは別のボールを手に取り、この交代戦を終わらせるべくポケモンを繰り出した。

「自分の力で勝たなきゃいけないバトルだけは、好きなポケモンがいいんだって?」

 メガメガニウムが降り立ち、再び〝ドリルライナー〟をキャッチした。今度こそ、介入の余地のない、安全な、確実な状況だった。

「同感だね」

 メガメガニウムはすでに花弁に必要なエネルギーをため込んでいた。触角の上に熱が集まり、日照りの熱の球体となった。

「〝ウェザーボール〟!」

 天から降り注ぐ熱球は〝メガソーラー〟によってほのお技となり、メガスピアーの弱点を突いた。耐えるはずもなかった。歪んだ時空の中、焼き落とされたメガスピアーがゆっくりと墜落し、ちょうどそこで時空の流れは元に戻った。

 決着の瞬間、地鳴りのような喝采が上がった。メガメガニウムは自らの皮膚に降り注ぐ称賛の振動に浴し、喜びを露わにして鳴き声を響かせた。チヅルはキャミィに視線で振り返り、肩越しに控えめなブイサインを見せた。動画がとられていなければ抱きしめてキスしてあげるところだった。キャミィは満面の笑みでピースを返し、チヅルは体温が上がるのを感じながら前を向いた。

「うちの勝ち。約束通り、通してもらうからね」

 団員のうち何人かは自分たちが彼女に敵対していたことを忘れていた。そして明らかに迷っていた。こうも素晴らしいバトルを見せられて、その立役者との約束を反故にするのか? この達人たちが本気で押し込んできたら、打ちのめされるのはどっちだ?

 忠実なしたっぱたちが躊躇する彼らを押しのけて前へ出た。いくつもの敵意が向けられ、彼らが手にした無数のボールからポケモンが解き放たれようとした。

 その瞬間、突如キャミィたちの足元の道路が揺れた。〝じしん〟? キャミィは素早く見渡したが、目視できるポケモンの中に、この技を覚えるポケモンはいなかった。

 突き上げる振動はどんどん大きくなり、そして道そのものが跳ね上がった。フェンツの後方で、轟音と悲鳴と、地獄のような砂埃が上がった。クッキーめいて砕かれたアスファルトもろとも人間が跳ね飛ばされ、地中からボスゴドラの咆え声が存在を主張した。

 本能的な恐怖が軍団を散り散りに引き裂いた。状況を理解し、なおも抵抗しようとするわずかな人間の頭上で、分厚い何かが夕陽を遮り、街に夜が訪れた。茜色の逆光に黒々と映える三つ首と六つ翼のシルエットから〝あくのはどう〟が降り注ぎ、そのサザンドラは人間の狙い方を心得ていた。ここにトレーナーを守ってくれるポケモンバトルのルールはなく、また足止めを目的としていた道路には横道もなく、ライフル団員は建物の中に駆け込むか、封鎖を放棄して壊走するしかなかった。

「命まではとらん。疾く去るがいい。去らぬものは道路と混ざり合い挽肉となるがいい」

 人間の影が飛び出してきて、声の主がチヅルとフェンツの間に降り立った。

「怪獣王!」

 キャミィが呼びかけても巨人は振り返らなかった。壊し屋モーヒはサザンドラとともに堂々と姿を現した。大混乱の中で今やカメラの呪縛は効いておらず、キャミィたちの声もかき消されてマイクには届かなかった。

「なんのつもりだあ、裏切り者があ」

 膝をついて地面にくずおれていたフェンツが首だけモーヒを見上げ睨みつけた。顔からは力が抜け、薬物で緊張していた頬の皮は老け込んだように垂れ下がっていた。

「それは違う。貴様らが吾輩と慣れ合い、あまつさえ飼いならしたつもりでいたなら、考えを改めろ。戦う相手が同じだったにすぎない。何者にも怪獣を縛ることはできん」

 サザンドラの羽ばたきにマントをなびかせ、モーヒは無感動にフェンツを見下ろした。やがてその視線だけが動き、彼自身がもたらした混沌を眺めた。

「吾輩は彼奴らの仲間と戦い、破れた。貴様のように、互いの主張を賭けて。そして吾輩は誓ったのだ、もはやライフル団に味方することはないと」

 リクロロが口を挟もうとするのを、キャミィは人差し指で止めた。

「無論、彼奴らの一味となったわけではない。吾輩は誰にも味方しない。だが、吾輩を倒せるほどの猛者たちが、貴様らごとき弱敵に侮られるなど、我慢ならんのでな」

「調子に乗るなあ!」

 フェンツは咆えた。

「今更正義の味方気取りかい! そいつらを助けたところでおたくはおいらたちの同類! その罪は消えないんだよお!」

「罪? なぜ贖罪の話になる。これは個人的な〝うっぷんばらし〟よ」

 モーヒはとっくにフェンツへの興味を失っていた。見向きもしなかった。

「怪獣の歩まんとするところは押しなべて荒れ地となり、道となるのだ。道の前でも後ろでも、彼奴らがどこへ行こうが、知ったことか」

 キャミィも気が付いた。稼業の技を行使してまで、怪獣王が〝みがわり〟を買って出てくれているのだと。

「みんな! ここは危ない! 前に逃げよう! 道路の向こうに!」

 仲間たちもはっとし、実際ここにいるのは極めて危険だった。ビルを先頭に、少年少女はモーヒに簡単な礼を告げながら道路の端を駆けた。モーヒのポケモンは今も道路を破壊していたが、障害物が逃げ道を塞ぐ恐れのある建物や、向かってこない生き物に対しては攻撃しなかった。

「モーヒ」

 リクロロが声をかけると、モーヒは昔馴染みに視線だけよこした。

「こんなつまらんところで捕まるなよ」

 モーヒは厳めしい顔のまま鼻で笑った。

「夢半ばであろう。振り返るな。行け」

 リクロロは唇で笑い、そのまま砂煙の中へ跳んだ。リクロロを目で追うモーヒの視界にキャミィが割り込んだ。

「言っておくが、借りを作ったつもりはないぞ」

「知ってる。怪獣は自分の意志で好きに暴れるだけ、でしょ?」

 モーヒは微笑んだ。わかっているじゃないか。

「そんな怪獣王に、これは人間からの〝プレゼント〟!」

 キャミィはモーヒに瓶を放り投げた。モーヒは受け取り、ラベルのない瓶に詰め込まれた錠剤を不思議そうに眺めた。

「お医者さんから伝言ね。薬が切れてつらくなっても、それ飲めば病気が治るかもって」

 モーヒにとって、その薬はキャミィが感じたよりもはるかに重かった。事実の重量に腕が下がり、目線が下がり、モーヒは瓶の先に人類の明るさを見た。

「人間」薬など飲まずとも、本気で笑ったモーヒには凄みがあった。「この街を救ってみるがいい」

 キャミィはピースサインを投げて走った。最後に残ったチヅルは、足元で呆然と崩れ落ちたままのフェンツに、無骨で頑丈で力強い銀貨のような声をかけた。

「あんたさ、スピアーと意地張ってる時が、一番いい男だったよ」

 フェンツの肩が震えるのがわかった。チヅルはメガメガニウムをボールに戻し、敗者の横を回り込んでキャミィの後に続いた。慟哭が追いかけてきて、やがてそれも失速して煙の中に捨て置かれた。

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