一か月後
「いやー、目が回るくらい忙しかったよ」
忙しすぎて何をしたかもよく覚えていない日々が待っているなど、ほんの一月前のキャミィは思ってもみなかったことだ。
「取材されて、会見して、公式戦に出て、インタビュー受けて、大会出て、たまになんもない日はどこ出かけてもチェキやらサインやらで、いっそメタモンに代理でも頼もうかって、ちょっと本気で思ったもんね」
「はは、キャミィさんはすっかり有名人ですからね」
タクオは眼鏡を直しながら手の奥で静かに笑っていた。
「もっと静かなお店のほうがよかったでしょうか?」
誰が座っているのか気づいたミニスカートの女の子たちにひらひらと振った手を、キャミィはそのままタクオにも向けた。
「ううん、ここがいい。僕がタクオさんと最初にお茶した、思い出のお店だからね」
「ええ、僕もなんだか気が付くとここに通っている気がします」
眼鏡越しにタクオが遠い時間を眺めているのがキャミィにもわかった。「あの日のことが懐かしいですね」
「なあに、思い出話がしたくて僕を呼んだの?」
「ううん、まあ、ある意味そうですね。だって、これは集大成みたいなものですから」
タクオは自分の鞄から一冊の本を取り出して見せた。きちんと装丁された書籍の表紙には、フロンティアシティの運河を跨いだ対岸の港を背景に、線路の上を並んで歩いている四人の女の子の後ろ姿が描かれている。
「ウルトラマリンの夜」
キャミィは本の題名を読んだ。タクオは誇らしげに頷いて、喋る前にコーヒーで口を濡らした。
「自分は、あの日の出来事を詳細に語ることができる数少ない人間です。あれから時間もたち、様々な考察や、荒唐無稽な憶測まで飛び交うようになってきました。事件から一月になります。これを機に、今こそ事実に即したドキュメンタリーを……」
こほん、とわざとらしい咳払い。
「キャミィさんたちのレポートを、しっかり書き残しておきたくて」
キャミィは本を開いて中身に目を通した。あの時の質問ってこれか、と、文章の端々からタクオに時々メッセージで脈絡もなく尋ねられた世間話の理由が察せられた。チヅルの献身、アイネの愛嬌、マリカの情熱、リクロロの忠義、ビルの勇気、そのすべてがタクオの誠実な言葉で尊厳を込めてまとめられていた。
そして、もちろん、キャミィの信念、彼が見てきた叫びたくなるような喜びと悲しみ、彼と仲間たちの息遣いすら感じられる意地と根性も、この若き語り手によって一編の冒険譚となっていた。
「これさ」
キャミィは前書きと目次を読み終わると、本を閉じて表紙の少女たちを撫でた。
「ここに写ってるの、本人だよね?」
「ええ。写真撮影の理由を話したら、皆さん喜んで協力してくださいました」
「やっぱり。この表紙、すごいかっこいいよ。僕、保存用の本って買ったことないけど、これ表紙だけでも飾っておきたいくらいだもん」
「それは……素直に嬉しいですね。がんばってスケジュール調整したかいがありました。何しろ、皆さん競技トレーナーですからね」
「そうそう。みんな、ね」
キャミィは最も背が低い表紙の少女の頭を撫でた。
「クロが競技トレーナーやるって言ったときは、グループで大盛り上がりだったよね」
「自分はそれよりモーヒさんがジムを立ち上げたことに驚きましたよ。リクロロさんは立ち上げメンバーですからね」
モーヒはあれだけ暴れたにもかかわらず、犯行の証拠を完全に隠蔽あるいは破壊して、事件の捜査線から華麗に姿を消していた。彼の稼業を鑑みるに、証拠隠滅の専門家が人脈にあるのも自然だろう。詮索はするまい。
事件後、モーヒは一軒のジムを設立した。そこは半ばトレーナーの芸能事務所のようになっていて、ヒーローショーやエキシビションマッチの仕事を多く取る方針だと聞いた。
またこのジムはモーヒやリクロロのように路地裏の暴力しか知らないトレーナーの更生や社会復帰を掲げていて、フロンティアシティから補助金も出ているという。
モーヒが裏稼業を続けるかはわからないが、これが壊し屋の隠れ蓑だとしたら、なんておしゃれな秘密基地だろうと、正直ときめいたのをキャミィは覚えている。
そして、ガンシャも。いずれガンシャがモーヒのジムに合流することになるとキャミィはリクロロ伝いに聞いた。
彼女はミニエーの開発者として自ら名乗り出た。解毒剤のレシピを無償提供し、患者の訪問診療に従事することで、社会的刑罰を大分免除される取引をしたという。ミニエーの量産にレシピが間に合わなかったのは、彼女がボスに黙って解毒剤の開発を優先したからだそうだ。
しばらく会えなくなるからと、ガンシャは出頭する前にキャミィへ手紙を出していた。今時珍しい紙のメールである。嵐の海から太陽の下へ連れ戻してくれたことへの感謝と、再び人生を続けていく決心とが、先生が塾帰りの生徒に宛てるような丁寧な文字で綴られていた。文章の最後には、口紅のくっきりとしたキスマークがつけてあった。この証が薄くなって消えかけたころ、手紙の続きを話しに、また会いに行くわ。
キャミィはガンシャに触れたときの、大人の女の救いとなった感触をまだ覚えている。モーヒのジムに加入後、もしかするとガンシャはまたエスパータイプ統一のトレーナーとして活躍する日が来るかもしれない。怪獣王と悪の科学者は、表舞台でそれぞれの夢を追う機会を、見事な力技で切り開いたのだ。
「そういえば、タクオさん、独立するんだって?」
少し恥ずかしそうにタクオは後頭部をかいた。
「そうなんです。今回のことは、どうしても雑誌の記事ではなく独立した本にしたくて。執筆するうちに、自分はどうやら記者ではなくて作家をやりたいのだと気づいたんです。これを書くにあたっても、今の上司に何度も相談させていただきましてね。フリーになるのに不安がないと言えば嘘になりますが、後悔はしないことにしていますよ」
ライフル団との戦いを経て、あるいは本を書ききったことによってか、タクオは出会った頃よりも笑うようになり、また笑顔も自然なものとなっていた。
「その本は差し上げます。キャミィさんのおかげで書けた本でもありますし、自分からのささやかなお祝いでもありますので」
「え? いいの? めっちゃ嬉しい。ありがと!」
我が子のように本を抱きしめるキャミィは、贈り物に喜ぶ年相応の男の子だった。
「はい。キャミィさん、シングルバトルマスター級到達、おめでとうございます」
「よう」
キャミィの物語の交差点に立っているのが宿命かのように、ビルはその公園で街の運河を眺めていた。ライフル団と戦うために彼らが集まった、あの公園だ。キャミィは片手を上げて返事をし、ビルの隣で水辺の柵に寄りかかった。
「ビル、地元に帰るのって明日だっけ?」
「ああ、手続きとかでちょっとな。ついでに家族に顔見せてくるよ」
「いいね、ちょっとしたバカンスだ」
「そんなんじゃねぇよ、ただの里帰りだ」
日没前のフロンティアシティが欠伸したようなフェリーの汽笛が川面にさざめいた。
「お前さ」
水面にコイキングが跳ねるのを少年たちはそろって見つめていた。
「いつかゲンガーが通用しない環境が来たら、どうする?」
キャミィは餌を求めて野生のポケモンたちが水に潜るのを見ながら、自分も考えを伝えるにふさわしい言葉を探した。
「僕はプロだから、勝つためにポケモンを選ぶ。いくつもある勝ちの可能性の中に、ゲンガーがいるなら、喜んで連れて行く。主流じゃなくても、ちょっと頑張れば勝てるところにいるなら、いくらでも研究する。僕はゲンガーが好きだから。あと、僕のゲンガー最強だから。気に入った勝ち方で勝つの、たぶんビルが思ってるより、やる気が出るんだよ」
問題は、そうではなくなったときのことだ。
「だけど、勝つには厳しいとわかったら、好きから離れなきゃいけないこともある。活きないとわかっていて試合に出すのは、ポケモンに対しても失礼なことだから。そうなったら……僕はきっと好きより勝ちを選ぶ。僕は、プロだから」
そこまで話して、キャミィは気持ちを切り替えるために鼻で息を吐き、口元で笑った。
「でも、僕がゲンガーを好きなことに変わりはないだろうし、もしそうなったら今みたくボディガードに専念してもらうのもいいかな。実際いつも助かってるし、別にバトルだけがポケモンと生活じゃないから……」
とはいえ、キャミィもゲンガーもバトルに勝ちたくて惹かれ合ったのだ。
「ねえ、どうかな。ゲンガーをメンバーから外したら僕は食べられちゃうと思う?」
リラックスが伝播したように、ビルも穏やかな笑みを浮かべた。
「大丈夫だろ。お前がバトルする限りいつかまた出番があるって、そいつはわかってそうだからな。むしろ、また活躍できる日が来るまで、逃がしてもらえねぇと思うぜ? それよか、ゲンガーにモチベあるのに半端なとこで研究やめるほうが危ねぇだろうから、気をつけろよ」
ビルの意見を肯定するように、キャミィの足元から鳴き声が聞こえてきた。少年たちは顔を見合わせ、キャミィがわざとらしく口角を上げた。
「ふふん、それは大丈夫。僕って諦め悪くて欲張りだから」
「は、違ぇねぇ」
二人と一匹はそろってころころと笑った。キャミィは最高の親友との何気ない時間を、人工の鳴き声を上げたフェリーが見えなくなるまで過ごした。
「じゃあな。俺は行くぜ。戻ったら飯でも行こうや」
ビルが手すりから離れ、キャミィもそれに合わせて自分の両足に体重を戻した。
「なんせ今夜はお楽しみなんだろ?」
意地悪くにやつく友人の笑顔に、キャミィはあえて屈託なく微笑んだ。
「うん。ずっと楽しみにしてたんだ」
明るい赤の絨毯が敷かれたホテルの廊下を、ふかふか歩く。足音を吸うのだ。こういうときはあえてゆっくり歩くのが乙なものと思っているが、足元から伝わる感触がおかしくて、内心はしゃぎながらキャミィは指定された部屋を目指した。
そうとも。今日は特別な日なのだ。ちょうどレッドカーペットのようなこの通路にふさわしい、天下一のごほうびが待っている。
栄誉を手にするに至った理由は、なんといっても自分とポケモンの強さだった。それを思い返すたび、キャミィは頭からつま先までうずうずと誇らしくなり、言い逃れできないほど男の喜びを感じた。
廊下を一つ曲がり、歩きながら部屋番号を数える。四〇三。ここだ。かっと背筋をよじ登ってきた興奮に力が入りすぎないよう、注意深くノックする。
あんな冒険の後でもなお長いと感じられる数秒だった。扉が開き、それまで何も音が聞こえなかったことから防音がしっかりしている部屋だなとキャミィはぼうっと考えた。
「待ってた」
試合に出るときと同じスポーツウェア姿のチヅルは、それだけ言うとキャミィの返事も聞かずに彼を部屋の中へ引き込み、胸元へしがみついて、ドアが閉まるより先に唇を合わせた。キャミィはチヅルの肩に手を添え、湿っぽい音をさせながら、突き出された舌先に何度も触れた。やがてチヅルのほうから離れ、頬を染めた無表情が熱っぽくキャミィを見つめた。
「みんなもう揃ってる。入って」
キャミィは微笑んで頷き、いよいよ英雄気分でチヅルの前に立って部屋の奥へ進んだ。
「あ! きたきた! キャミィー!」
マリカが巨大なベッドに座ったまま腕を振って、同じベッドでくつろいでいたアイネとリクロロが立ち上がっていた。彼女たちもチヅルと同じく試合中の装いだった。着飾った私服と同じくらい、この格好がキャミィの好みであると知っていたからだ。
「みんな! 会いたかった!」
キャミィが両手を伸ばすと、アイネが飛び出してキャミィに抱き着き、そのまま唇を求めた。「あー! ちょっと!」とマリカが抗議するのもかまわず、アイネは腕を回して甘えながらキャミィに胸を押し付け、キャミィも甘ったれる妹をあやすようにアイネの背筋をさすった。
「えへへ。キャミィくん、二階級マスター到達おめでとう!」
砂糖をかき混ぜたような声と笑顔を独占しながら、キャミィはピンクのツインテールをひと房撫でた。
「ふふ、ありがと! おっきい夢が一つかなっちゃった!」
そのままアイネを抱き寄せ、耳元で「今日、もう一つ大きな夢がかなうけど」と低く囁くと、その声色だけでアイネはふにゃふにゃと力が抜け、キャミィにベッドへと落ち着けられた。
「ずるい! マリカも!」
体が空くなりマリカが飛びついてきて、両手で頬を包み、唇を押し付けた。感情を叩きつけるような勢いだけの短いキスをして、顔を離してにこりと見つめ合うと、キャミィも浅く抱き返して、小刻みについばむような優しい接触を繰り返した。最後にもう一度強く触れて、ひとまず満足そうにマリカは離れた。
「あー、もう、ほんと大好き。キャミィとなら毎晩でもいい」
「僕も。毎日だって会いたいし、一晩中でも遊んでいたいよ」
マリカはご機嫌に微笑み、キャミィの隣に立ってリクロロのほうを向かせた。
「今日はね、クロちゃんからも報告があるんだよね?」
水を向けられると、リクロロはどきりと身を縮めた。目を泳がせながら、恥ずかしそうに「たいしたことじゃない」と言うので、キャミィは「いいよ、聞かせて?」と促した。恥じらいと遠慮の板挟みで小さくなっていたリクロロは、やがて押し出されたように声を絞り出した。
「昨日、シングルのスーパー級に上がった。それだけ、なんだ」
おずおずとした上目遣いと目が合ったとたん、キャミィはリクロロを抱きしめていた。マスター級の男にこんなこと言っても、とか思ってたの? とんでもない!
「すごいじゃん! やったね! おめでとうクロ!」
「だから言ったでしょ?」横からマリカの妙に得意げな声が聞こえた。「キャミィは絶対褒めてくれるって」
「……うん」
リクロロはキャミィの胸板に額をこすりつけた。話したいことがたくさんあった。
「ルカリオのほかに、カイリューとキラフロルを育てたんだ。ほんとはキラフロルのとこカバルドンがいいらしいけど、メガシンカするのはルカリオだから、カイリューは〝ラムのみ〟持たせて〝りゅうのまい〟させたくて、そうすると物理ばっかりだろ、キラフロルにしたんだ。そしたらめちゃめちゃ勝てて、昨日昇級した。驚かせたくて、黙ってた」
うんうん、と、キャミィはリクロロを撫で続けた。定石を学び、自分なりの考えを取り入れ、対戦を楽しんでいる。上等の初心者だ。ベテランからしてみれば宝のような新参者が、いじらしく喜びを分かち合ってくれる。ああ、なんという贅沢!
「じゃあ、今日はクロのお祝いでもあるんだね」
キャミィは小さな体を掴んで、そっと抱擁を解いた。
「僕からごほうびあげる。目を瞑って?」
リクロロは幼く頷き、期待にときめいたまま目を閉じた。キャミィはそっとかがんで唇を食み、舌を伸ばして優しくリクロロの口に入り込んだ。両手を自分の太ももの横に添えて、リクロロはされるままにしていた。この男に任せておけば安心して気持ちよくさせてもらえるとわかっていた。
「……ふ」
今日も、リクロロが息苦しくなるタイミングの直前ぴったりに、キャミィは口を離してリクロロに呼吸を思い出させた。
「もっとすごいごほうびは、これからあげるね」
息つく暇もなかった。操られたように胸が高鳴っていた。全部お見通しだった。
キャミィはそろりとリクロロの前を離れ、ベッドに背中から飛び込んだ。柔らかな寝台が彼の体を緩やかに跳ね返し、その振動が収まると、キャミィは大きく腕を広げた。
「おいで!」
アイネとマリカが腕の中へ飛び込み、チヅルとリクロロが足元に寄り添ってきた。キャミィは両脇の少女たちに頬擦りして、腰回りにいる少女たちの頭を撫でた。
「すごいじゃん。四人同時だよ? 男の夢だね!」
マリカはにまにまとキャミィの頬をつついた。
「プロのトレーナーになって、悪の組織を潰して、女の子に囲まれて……次は何を目指すのかな?」
夢のような男でいること。この世のすべてを謳歌すること。キャミィが目標としてきた人生は今、若いままに殿堂入りを迎えようとしていた。
それでも、冒険はどこまでだって続いていく。キャミィは答えた。
「それはもちろん、チャンピオン級!」
体に隠されたキャミィの影の中で、ゲンガーが笑った、そんな気がした。