そうは言っても。リザードンの背中でキャミィは何度も呟き続けた。チヅル、アイネ、マリカ、三人の少女たちに向けてメッセージを送信しながら、頭の中では雪崩のような「そうは言っても」に追い回され続けた。
そうは言っても、本当に昨日の今日でそこまでするだろうか?
ひどい向かい風に遭い、結局フロンティアシティに到着したのは夜の遅い時間だった。キャミィは真っ暗なジムの近くに着陸し、リザードンをボールに収めた。
そして、ジムが破壊を免れているのを確認すると、逆方向にあてどなく歩き始めた。
閉店している店も多いが、ナイターの試合は行われていて、そのためバーやレストランの一部は客の声援で賑わっていた。べったりとしたマゼンタのネオンに色づいた地面を踏みしめて、夜の空気を鼻で味わいながら、キャミィはずんずん進んでいった。
そうは言っても、そんな勢いで狙われたり襲われたりするだろうか。野生のポケモンに出会うように、悪の組織のしたっぱと目が合い、逃げられないバトルが始まるなど。認めざるを得ないことだが、キャミィは好奇心も感じていた。
カレーで体力も満タン。手持ちは乱戦に強いダブルのまま。いつでもかかってこい。
キャミィは変にきょろきょろせず歩いた。なんでもないふうに、どこが戦場となってもかまわないバトルロワイヤル参加者のように。
最初、頭の上からポケモンが降ってきても反応できるほどキャミィは張りつめていた。やがて肩から、次に指先から力が抜け、ただ夜の散歩をするかのようになった。
何も干渉してこなかった。人通りのない道、いつも通らない道を選びながら、うんと遠回りをしてジムの近所を半周したころ、すっかり気が抜けてしまっていた。
そうは言っても、だよ。とはいえ、タクオの言う通りでもある。こういう時、ポケモントレーナーは、最悪を想定して動くもの。特に自分たちが不利になるわけでなし、これをされたら最悪という状況をケアしたのだ。キャミィとしてもビルの考えに異論があるわけではなかった。ただ大げさに感じ、確かめたかっただけなのだ。
検証の結果に拍子抜けしつつ、絵に描いた半月を閉じるように、キャミィはジムへ戻るために曲がった。最後の試みに、狭い路地裏を通ることに決めた。
その路地裏のちょうど真ん中あたりに来たとき、後頭部で激しい打撃音がした。
キャミィは反射的に前へステップしながら全身で振り返った。ルカリオがキャミィの頭に殴りかかろうとしているのをゲンガーが受け止めていた。攻撃されたキャミィより、防がれたルカリオのほうが驚いているようだった。
「〝シャドーボール〟!」
直ちに反撃を命令できたのは、奇襲を予測していたおかげだろう。ゲンガーはゴーストの霊気の塊をルカリオにぶつけた。次で倒せる、手応えからキャミィは確信した。一方でゲンガーの体力には猶予があった。初手の攻防で、もはや形勢は逆転した。
余裕が生まれると、キャミィの視野は目の前のバトルから路地全体へと広がった。二匹のポケモンの奥に人影が見えた。暗いシルエットしかわからなかったが、人物はルカリオをボールに戻して路地の外へ走り出した。単なる通行人ではないと考えたほうがよさそうだった。
「あいつ」キャミィは最高の男友達の顔を思い浮かべた。「やっぱすごいや」
キャミィはボールを掴み、思い切り放り投げた。長時間の交代戦に耐えられる強い肩を作るため、ジムで遠投のトレーニングを欠かしたことはなかった。ボールは高く、遠く、まっすぐに飛んで、繰り出したガブリアスが腕を振り上げ路地の出口を塞いだ。構えられた〝ドラゴンクロー〟をすり抜けての強行突破は不可能と悟り、人物は立ち止まった。
「もう逃げられないよ」
相手の足が止まると、キャミィは歩いて距離を縮めた。ゲンガーはキャミィのそばを離れず、いざとなったら再びキャミィの後方へ飛び移れるくらい目標に近づくと、襲撃者の影に接続した。
さっきまでおろおろとしていた、緑のジャージパーカーのフードをかぶった頭がにわかに強張り、息詰まる寡黙な絶叫がもたらされた。本当に恐ろしい目に遭うと人は声を出せなくなるのだとキャミィは知っていた。持っていたままのボールが落とされて、グレーのクロスベルトシューズのそばに転がった。パーカーと同じはがねタイプカラーのジャージハーフパンツを履いた膝ががくがくと震え、寒さから命を守ろうと肩を縮めて自分の腕を抱いていた。
今にも崩れ落ちそうな少女、そう、その女の子の前にキャミィは回り込んだ。露出した脚を見て予感し、こおりタイプカラーの真っ白なワンポイントシャツで覆われた華奢な体を目の当たりにして、確信に変わった。
「ゲンガー、少し緩めてあげて。僕はこの子と話がしたい」
察しのいいもので、ゲンガーは眉間にしわを寄せた。キャミィがにこやかな表情だけで再び指示すると、ゲンガーは主人を睨んだまま生命の掌握を弱めた。
「大丈夫。深呼吸して。落ち着いてきたら、顔、見せて」
少女の乱れた呼吸が整うまで、キャミィは何も言わずに待っていた。二匹のポケモンは時折首をもたげ、さらなる刺客を警戒して夜の街に目を光らせていた。
回復は思いのほか早かった。持ち時間が終わる直前に、少し長く息を吐くのが聞こえた。少女はそっとフードに手をかけ、自らの素顔を月夜に晒した。
「かわいい」
キャミィの最初の感想に、小さな口がはっとし、ライトブルーのたれ目が泳いだ。淡い青色のインナーカラーが入ったホワイトアッシュのアシンメトリーストレートは、恐怖に白くなった頬を隠すには短すぎた。うつむくとつむじが見え、折檻を覚悟して待ち受けるような様子も合わせると、実際の年齢より幼そうに感じられた。
「変なやつ」
少女は直視できないまま吐き捨てた。
「さっきまで命を狙われてたのに、そんな優しい顔で、か、かわ……どうしてそうなる」
「命を狙われたくらいで、かわいい子を見る目は変わらないよ」
いよいよ理解できなくなったらしく、少女は毛糸をぐしゃぐしゃに丸めたような唸り声で抗議した。身長差のせいで、少女がキャミィの顔色をうかがうには、かわいらしく目か首を上げる必要があった。
「なんでもいい。あたいの負けだ。煮るなり焼くなり好きにしろ。でも絶対にボスのことは喋らないからな」
キャミィは口角が上がるのをこらえきれなかった。「ボス、ね」わずかな間があり、かぁっと少女の耳が赤くなった。
「名前は? なんて呼べばいい?」
「……リクロロ。クロ、でいい」
「わかった。クロ、それじゃあ僕の好きにさせてもらう」
キャミィは腕を伸ばして少女を壁に追い詰めた。ゲンガーが呆れ、ガブリアスがにやつき、キャミィが微笑んでいる。あらゆる報復に身構える少女の耳元にキャミィは囁いた。
「デートしようよ。朝まで。それで許してあげる」
「キャミィ、やっぱり変なやつ」
顔が変形するほどパンケーキをめいっぱい頬張っているのに、リクロロは口の中にもう一切れ押し込んだ。深夜でも営業しているホテルのレストランで、キャミィは店で手作りされた食後のミックスオレを飲みながら、リクロロの豪快な食事風景を楽しんでいた。
「仕事受けるとき、影の中にゲンガーを隠してたって報告は聞いた。普通、殴り込みの時だけだと思うだろ。なんで普段からそうなんだ。ありえん。おかげで失敗した」
「でも、おかげでクロとデートできたよ?」
「それも変。あたいとデートしても楽しくないだろ?」
「ううん、今ね、すごくわくわくしてる。本物の殺し屋とデートなんて初めて」
「だから、なんでそうなる。だいたい、デートなんか誘って、あたいがその隙にまた襲ってくるかもしれないとは思わないのか?」
別に。ゲンガーがいるから。でもそれは理由の半分。
「僕は、クロが自分で言うほどひどいやつじゃないと思ってるから」
「さっき死にかけたんだぞ?」
「殺すつもりじゃなかったでしょ?」
リクロロは押し黙った。パンケーキを食べるのに忙しいだけではないようだ。
「路地裏。夜道。背後。頭。〝バレットパンチ〟。完璧だ。なのに……ルカリオ?」
あえてミックスオレに口をつけて、キャミィはもったいぶった。
「ポケモンのチョイスだけ明らかに変だ。高い知能と正義の心を持ち、悪いトレーナーには従わない、そんなルカリオで暗殺業? 僕ならほかのポケモンを選ぶな。だから、それでもルカリオに任せてるとしたら、事情と同じくらい深い絆があるに違いない」
「……」
「これは、僕の勘だけど。クロもルカリオも、人殺しなんかしたことないんじゃない? そりゃ、あんなことされたらただじゃすまないけど、ルカリオが持ち主にそんな重い罪を背負わせるとは思えないんだよね。打ち倒して、怖がらせて、命を狙ってるぞって口封じする。厄介者はおとなしくなって、それで任務達成。こんなところじゃないかな」
友人の言葉が脳内に再生される。ポケモンがトレーナーについてくるのには理由があんだよ。人間様が考えてるより、よっぽど複雑なんだ、ポケモンは。
「ルカリオはクロが殺人犯にならないように手加減してるし、クロもルカリオに本心では殺人なんか望んでない。トレーナーの立場で、間違ってるとわかってる指示を出すのは、狂いそうなくらい気が滅入るから。もちろん、それを聞くポケモンもね。クロとルカリオのどっちか、それか両方が無理をしてるんじゃないかと思った。僕もポケモントレーナーだからさ、そうかもって思ったら、どうしてもクロとルカリオのことが気になって、誘っちゃった」
「キャミィって」キャミィが話す間に、リクロロはパンケーキをすっかり飲み込んでいた。「魔法使い?」
キャミィはかわいらしさに目を細めた。過去が見えるみたいに相手の考えがわかるやつは、きっと魔法使い。
「実はそうなんだ。女の子限定でね」
「ふーん……変なの」
「ねえ、今度はクロの話を聞かせてよ。例えば、殺し屋になったきっかけとか、ライフル団のどこが気に入って仕事を受けたか、とかさ」
あひる口を尖らせて、残ったパンケーキを切り分けながら、独り言のように暗殺者は話し始めた。
「あたいのルカリオ、まだリオルだったころ、パパとママからあたいを守ろうとして進化した」
爆発寸前のオニゴーリのようだった。
「それっきり、あたいは路地裏で生きてる。汚いことは金になるから、どんな相手でも、何でもやった。盗み、脅し、殺し……は、したことないけど。そこまでしたら、ちょっと違うと思うし。だけど、あたいもルカリオも、今の暮らしに満足してる。破れてない服、かびてないパン、臭くないベッド」
安全で満腹な生き物と飢えた生き物の結論は違う。
「ルカリオがあたいにチャンスをくれた。本当の意味で生きるチャンスを。ルカリオと生きていくって決めた。あたいは自由になったんだ」
はたとナイフを持つ手が止まった。「全部手に入れたんだ」六つの三角形になったパンケーキの一つに、リクロロはフォークを突き立てた。
「あたいのやってることは、正義じゃない。そんなことわかってる。それでもあたいは生きるんだ。生きるために殴るんだ。ルカリオが守ってくれた命を、精一杯に生きるんだ」
二つ、三つ、パンケーキの切れ端はそれ以上フォークに刺さらなかった。リクロロは口を大きく開けて、連なった食物を片方の頬にぐいぐいと押し付けると、フォークを咥えて引き抜き、食器を元の姿に戻した。
「だから、雇い主の思想とか関係ない。金払いだけで受けたんだ。ライフル団がやろうとしてる支配とか拡大とか、キャミィを殺すと何ができるかなんて、あたいは興味ない」
きのみを潰して甘く煮たパンケーキのソースが、乱暴に塗りたくった口紅のように赤く広がっていた。リクロロはそれを、舌なめずりして拭いとった。
「〝わるだくみ〟をするのは、臆病なルカリオだけだ」
最後はほとんど喧嘩腰になっていた。生きていく、意地を張って戦っていくのだ、と。
カップに残ったひとすすりを、キャミィは大切に飲み干した。自分が大人になったら、きっとこういう夜にこそアルコールを飲みたくなるのかもしれない。
「かっこいいなあ」
心臓を開いて取り出したような、真実ばかりの言葉だった。
「キャミィって、不思議」
リクロロは時々、妖艶なくらい言動が幼かった。
「普通、あたいがこの話すると、かわいそうとか、終わってるとか、そんなことばっかりなのに。キャミィは言わない、どうして」
「え? これって、クロがルカリオと一緒に人生を手に入れたって話だよね? 確かに、なかなか聞かない境遇だけど、こんなにかっこよくて、おいしそうにパンケーキ食べてるクロは、幸せを自分でつかみ取ってる、かわいい女の子だと思うけどな」
口ごもって目を反らすことしかできなかった。痛々しいくらい、リクロロは認められ慣れていなかった。自由、生活、誇り、生涯を任せられる相棒、すべてを手に入れた女の子には、ただ人との交流だけ足りていない。
この道を選ばせてしまった、そう背負い込むルカリオの苦悩はいかばかりか。
「クロ。僕も、めったに人にしない話、するね」
「ほう。なんだ。聞かせろ」
「僕は競技トレーナーだけど、クロみたいな子とも、フロンティアシティのスタジアムで一緒にポケモンバトルできたらいいなって思ってるんだよ」
リクロロはあんぐりと開いた口が塞がらなかった。何もない崖を指さして、そこに見えない橋があると言われたように。
「すべての人にポケモンバトルを、っていうでしょ。僕はね、本当にそうだったらいいなっていつも思うんだ。どんな過去があっても、生まれ育ちが違っても、みんな同じルールで、好きなポケモンと、思いっきりバトルできたら、って。そこは居場所で、ふれあいの場で、くたびれるまで喜んで努力できて……友達ができた日には、最高の気分になれる。そんな場所に、誰もが、いつでも、初めてでも、久しぶりでも、いつまででも、何度だって、好きなように参加できる。こんなすごいことあると思う?」
なんて、大げさかもしれないけど。キャミィは控えめに笑った。
「僕はこの街が大好き。一生ポケモンバトルしていたいから。それで、クロみたいな子と出会って、ルカリオの強さにびっくりしながら、今日みたいにデートに誘って。そういう自由、チャンスがさ、クロにもあるんだ。あっていいんだよ。ここはそういう街なんだ。僕はそうであってほしいって思う」
影が揺れるのを感じた。死ぬまで同じ楽しみを追う。キャミィの相棒も願いは一つ。
「だから僕は、薬なんかでトレーナーの未来を奪うライフル団が許せない。この街は僕の夢だから」
ミステリアスな深い瞳は、しばしの間、少年のはるかな眺望だけを描いていた。彼の魂はここにはいなかった。やがて観客の声援が遠のき、眩暈が治まるように視界がじわりと現実に戻ってきた。
「やっぱり、キャミィはおかしい」
目の前に、フォークに刺さったパンケーキのかけらが差し出されていた。
「でも、面白い。あたい、嫌いじゃない」
ほら。この素敵な瞬間に、クロの昔話は関係ないんだよ。
キャミィは口を開けて舌を伸ばし、柔らかいパンケーキを受け取った。
「おいしい」キャミィは膨らんだ頬をほころばせた。彼は甘いものと、女の子が食べさせてくれるものが大好きだった。「こんなおいしいパンケーキ初めて!」
リクロロもそれを見て微笑んだ。目を細め、口の端で笑っていた。
「クロ、笑うとすごいかわいい。今の顔とか最高!」
リクロロはほとほと褒め言葉に耐性がなかった。目のやり場をなくし、残った二切れのパンケーキを乱暴に刺して、そっぽを向いたまま頬の内側に押しやった。
「ところで、クロはこれからどうするの?」
忘れていた宿題を思い出したように、リクロロの横顔に気まずさが滲み出た。「暗殺の続き」が最初の返事でないというだけで、キャミィとしては十分なのだが。
「あたいはしくじった。正直、キャミィのことは倒せそうにない。情が移ったからじゃないぞ。キャミィが強いからだ。こんな男にはかなわない」
実に男心をくすぐる告白だが、その嬉しさを伝えると話が進まないので、キャミィは黙っていた。
「でも、失敗したって報告に行くのも……嫌だ。キャミィは知らないかもしれないけど、人に殺しを頼むようなやつらは、失敗したやつにはどんなひどい仕打ちをしてもいいと思ってる。囲んで殴られるか、ポケモンを盗られるか、それとも……」
キャミィは想像した。仕事を果たせなかった手下を使えないやつだと罵り、罰を与えてやると拳を振り上げる悪党を。想像できてしまった。そしてふと考えた、ガンシャは今、どうしているのだろう。
「それでも、キャミィのゲンガーに食われそうになった時のほうが何倍も怖かった。あれに比べたら、戻ってぶたれたほうがずっとましだ。だからもう、あたいはキャミィに逆らえない。ちゃんと言わないと。戻って……」
空っぽのフォークを、手のひらが赤くなるほど強く握りしめていた。続く言葉は意志にあふれていた。これまで一度だって試したことのない、助けを求める勇気に。
「嫌だ。戻りたくない。キャミィ、助けて。あたい、あんなところ帰りたくない」
魔法使いは女の子のためにちゃんと奇跡を用意していた。キャミィはポケットに手を入れて、グーのまま自分の顔の横に挙げた。
「じゃあさ」指を開き、輝きを見せつける。部屋番号のプレートがぶつかり、鍵が音を立てた。「このまま、僕とお泊り。しちゃおうよ」
キャミィがシャワーを済ませてインナー姿で戻ってきても、リクロロはちゃんと部屋で待っていた。髪はとっくに乾かして、ホテルに備え付けのパジャマではなく、さっきまでと同じシャツとハーフパンツの姿だった。
「キャミィ」
リクロロの手にはボールが握られていた。こうして眺めていると体操着の学生みたいだとキャミィはぼんやり思った。ほの暗い宿命を何も背負っていなければ、きっと。
「今からあたいがすること、黙って見ていてほしい」
キャミィは頷いた。けじめが始まるのだ。リクロロに絶対必要で、いつかやらねばならないこと。それがたまたま今夜だった。
ボールが開き、ルカリオが姿を現した。リクロロの無二の相棒は目をつぶっていて、眠りから覚めたように緩やかに開眼した。
ルカリオというポケモンは不思議なもので、リクロロがまだ何も話さないうちから、驚き、案じ、自責の念にうなだれ、資格がないとわかっていながらも手を差し伸べずにいられないかのように、恐る恐る腕を持ち上げていた。
「ルカリオ」
下から支えるように手を重ね、小さい体でしゃがみ、ルカリオを見上げると、きっぱりと自分の声でリクロロが告げた。
「殺しは今日で終わりだ。もう人を殴らなくていい。あたいはもう一回生まれ変わる。前もできたんだ、今度もできる。だから、ついてきてほしい」
それだけでよかった。ルカリオはまた目を閉じて、頭をリクロロの額に重ねた。はどうポケモンとの絆に言葉はいらなかった。それでも、いや、それゆえに、リクロロが声に出して宣言したことは、キャミィも想像しえない儀礼的な重みがあるのだろう。
「ありがとう。よろしく頼む」
かすかなはずの声が、ホテルの室内を力強く駆け巡った。ルカリオもまた短い鳴き声で返した。底の知れない泉の残響のような。
「キャミィ」
リクロロが立ち上がった。キャミィは殺されかけた時よりよほど少女から熱を感じた。儀式は終わった。ここからは戦いだ。
「ライフル団と戦うなら、あたいも仲間に入れて。報酬はいらない、キャミィの好きな街、あたいも好きになりたい。そしたら……」
リクロロは口ごもった。彼女にとって最初の、最大の難関に。
少女は前に踏み出すと決めていた。
「今日みたいに、またデートして」
厳かに見守っていたキャミィは、贈り物の魔法を身に着けたプリンセスのお誘いに、春を待っていた蕾のように華やかな笑みを表した。
「約束する。この事件が解決したら、一緒に遊ぼう。何度でもね」
今夜ここまで安心しきったリクロロを見られたことに、キャミィも胸をなでおろす思いだった。ルカリオがキャミィの前で、胸に手を当て、頭を下げた。彼の言う遊びが何を示しているかなど、この忠臣には筒抜けなのだろう。それでもルカリオは礼をしてくれた。言葉など不要だった。
キャミィはかがんだ。このルカリオの性別はわからなかったが、男として伝えた。
「クロをお願い。君が頼りだ」
気持ちを読み取り理解する。尋常でない能力だった。ルカリオは歴戦の番兵のごときにたくましい咆哮で強く短く返礼した。キャミィもまた大きく首を縦に振り立ち上がった。
「クロ、実はちょうど明日ライフル団との戦いに備えて集まることになってるんだ。紹介するよ。一緒に来てくれる?」
「わかった。殺し屋だってこと、隠さなくていい。あたいはできることをやるだけだ」
キャミィは人差し指を立てて、リクロロの唇に触れる手前で止めた。
「殺し屋だった、でしょ。ここからは、僕に協力してくれる、ちょっとだけライフル団に詳しい、普通の女の子。いい?」
リクロロは笑いかけ、顔を前に出して鼻先で指に触れた。
「キャミィ、ずるいやつ」
二人は鈴のように笑い合い、リクロロはルカリオをボールに戻した。それをテーブルに置くと、少女はお尻からベッドに飛び込んで座った。
「ゲンガーは、しまわないのか?」
リクロロの隣に座り、キャミィは少女の髪をそっと撫でた。今度はキャミィが言うべきことを言わなければならない。
「ごめんね。ゲンガーは戻せないんだ」
「は?」
「僕が、んー、例えばちゃんとゴムを使っているか、とか。そこで選手として終わっちゃうような間違いを犯したら、そのまま僕の命で償う約束になってるんだよね」
唖然としていた。さもありなん。まともに話したことなどほとんどない。
「なんだそれ。じゃあ命がけであたいのこと口説いたのか? というか、キャミィいつもゲンガーに見られながらするのか?」
「あはは、ゲンガーは僕らのやることそのものには全然興味ないよ。ちょっかいも出してこないし。なんていうかこれは、僕が誠実に遊んでいるかどうか、確かめてるだけなんだよね。ベッドのそばに自分のポケモンのボール置いてても、別に気にしないでしょ?」
「いや、それはそうだけど……」
「それと、もうひとつ。僕はクロの遊び相手になってはあげられるけど、彼氏にはなってあげられない。つまり、お付き合いや結婚は、考えないでほしい。わかってくれる?」
飛躍しすぎだろう、なんて反論を予想していたが、リクロロはむしろ想像もしていなかった可能性について考えさせられ、かえって平常心を失いかけていた。
「わ、わかった。どっちみち、キャミィにも、キャミィのゲンガーにも、あたいは逆らえない。言う通りにする」
「ありがと。いい子だね」
髪を触っていた指先で耳の裏を撫でると、リクロロはくすぐったそうに肩をすぼめた。ついさっきまでパンケーキでいっぱいだった頬にほんの少し力を加えると、細く背の低い女の子の顔が上向いて、キャミィと見つめ合った。
「あ、あのさ」
「ん?」
「あたい、体、きれいじゃない。あ、いや、シャワーは浴びたけど、そうじゃない。ルカリオも診てくれてるから、病気とかはしてないはずだけど。その、売りとかもやってて、だから……」
ぐっとキャミィの反対の手がリクロロの腰を引き寄せた。
「クロ、きれいだよ。きれいでかわいい」
泳ぎ回る視線をねじ伏せて降参させるには十分過ぎた。リクロロは、恥ずかしそうな、泣きそうな、嬉しそうな、感情のカクテルに酔わされていた。
「キャミィ、ほんとに変わったやつ」
次に見せた笑顔が、今夜最も愛嬌にあふれていた。
「でも、あたいが知ってる中で、最強のオス」
我慢の限界だった。キャミィは抱擁を強め、密着したリクロロの唇を吸った。