その男はカラオケボックスの外でずっと待っていたようだった。恨みを持つ相手を待ち構える幽霊のような、瞑想めいた静けさで街路樹の下に佇んでいた男は、キャミィたちを見つけるや命の宿ったように動き出した。
「探したぞ」
不気味な四白目の、瞳孔の長い片目が隠れるほど無造作にグリーンアッシュの髪を伸ばした、背が高く声の低い男だった。黒無地のシャツとレギンスの上から、全身をたっぷりと隠せる紫色のマントを身に着けていて、キャミィたち競技トレーナーが履くのとは規格の異なる巨大なスパイクシューズが道路に爪を立てていた。
男はライフル団のロゴそのままのバッジをマントにつけていた。キャミィたちはボールを手に取り身構えた。
「待って」
男と少年たちの間に立ち、腕を広げて制したのはリクロロだった。
「クロ、知ってる人?」
リクロロは男と睨み合ったまま頷いた。
「壊し屋モーヒ。あたいと同じ、路地裏の人間だ」
キャミィたちはボールを手にしたまま、しばらく立ちすくんだ。モーヒと呼ばれた男はただ黙して立っていた。子供たちの出方をうかがっているようでさえあった。
「モーヒは力が強くて大きなポケモンで建物をぶち壊して、無差別テロや事故に見せかけてターゲットを始末する。わざと派手にやって野次馬を集めたら、そのまま騒ぎに紛れて逃げ切るんだ。モーヒがその気なら、とっくに仕事は終わってる」
「同業者の手口を晒すのは感心しないな」
「あたいはもう殺しはやめたんだ。でも、みんなに手を出すなら、容赦しない」
モーヒとリクロロは身長差がありすぎて、目を見て話すにはお互い首を傾けなければならなかった。モーヒは少し頭を上げ、リクロロの頭越しに彼女へ味方する少年たちを見下ろした。
「友人か」
友人。リクロロがそれを肯定するには、あまりにも馴染みのない響きだった。モーヒはよく知る同業者だったが、友人と呼ぶには程遠かった。リクロロは自信のなさが表に出ないように注意深く表情を保ちながら、目線だけでキャミィたちを振り返った。
何も問題ではなかった。キャミィは頷き、ビルは歯を見せて笑い、他の全員も微笑んでいた。
感じたことのない心地よさの痺れが後頭部を駆け巡った。リクロロはぐっと前を向いて巨人を見上げ、声に震えが出ないよう誇り高く答えた。
「そうだ」
しかめ面のままモーヒは鼻で深呼吸をした。驚きか、それとも呆れや憤りなのか、誰にも分らなかった。
「キャミィ、あたいに任せてほしい」
振り返らず、返事も待たなかった。リクロロはずかずか前に出て、手を伸ばせばつかみかかれるほどの距離までモーヒに近づくと、首をいっぱいに上向かせた。
「少し歩かないか」
オスの巨人とメスの小人が歩いていた。明りのない塔が動いているような巨人は歩幅を合わせたりせず外套をなびかせ、その服装まで体重のように軽そうなジャージ姿の小人がポケットに手を入れたまま大股で早歩きして隣に追いついていた。
二人組の後ろで、六人の少年少女が、つかず離れずの距離を保っていた。通行人たちは異様な二人に滑稽なほど何度も目を引かれている。
「ねえ」
誰にとなくマリカが小声で話しかけた。大声を出さければ二人には聞こえないかもしれない距離だった。
「これって、罠だと思う?」
「罠じゃないよ。賭けてもいい」
キャミィは即答した。「こいつは賭けに強ぇぞ」ビルが曰くありげに言った。
「本当に罠だったら、つまり、クロが僕らを騙してるとしたら、カラオケから出た途端に囲まれてるか、クロの言う通り、建物ごとやられてるかも。それに、相手、モーヒも堂々と待ってたから、〝だましうち〟はない……と思うな」
マリカは口を閉じ、キャミィもそれ以上は言わなかった。どちらにせよ、相手に理性が残っているのは、よいことだった。
「ルカリオはどうしている」
モーヒが横を見ずに尋ねた。リクロロは臆せず、はつらつと答えた。
「元気だ。殺しはやめると伝えた。反対はされなかった」
「そうか」
「モーヒが探していたのは、キャミィ? それとも、あたい?」
「両方だ。吾輩は貴様と同じ仕事を受けた。あの金髪の女顔を始末するようにと。今朝、街を歩く獲物を見つけ、だが獲物の隣に貴様がいることに気が付いた。まだ組織には気づかれていないようだが、この有様では今に貴様も賞金首になるだろう」
「……そうか」
「すぐに殺さなかったのは、興味がわいたからだ。あくまでも獲物は一般人のはず。なぜ貴様が獲物を仕留めないばかりか、寄り添って行動を共にしているのかと。だから、後をつけて、待っていたのだ」
「あたいは挑んで、負けたんだ。殺す気だった。キャミィにはかなわない」
モーヒは初めて、心から興味深そうにリクロロを見た。つま先からつむじまで、一本の線を通したようにまっすぐだった。
「でもキャミィはあたいを受け入れてくれた。キャミィの望みは、あたいの望みにもなった。あたいはキャミィにつく。ルカリオと決めたことだ」
ゆっくりと、きしんだゼンマイ仕掛けのようにモーヒは元の位置に顔を戻した。
「貴様は路地裏の外に新しい夢を見たのだな」
過去、罪悪感、うしろめたさが、リクロロをうつむかせた。
「貴様が吾輩たちの世界に転がり込んできたときのことを覚えている。腕前はともかく、たくましい娘だと感服したものだ。いかなる境遇であろうと、生業として、なかなか選べることではない」
「なりたてのころ、世話になった。モーヒはパパの次に厳しかったけど、あたいにルールを教えてくれた。その恩は一生忘れない」
「殊勝な心がけだ」
二人は通りを抜けて、公園に出た。まばらな人影と、トレーニングエリアの空いているバトルコートが視界に飛び込んできた。
「キャミィの世界では、こうやってお互いにわかり合うらしい」
リクロロは奥のコーナーへ歩いていき、ポケットから片手を出すと、一つきりのボールを手にして、唯一の手持ちを繰り出した。ルカリオがすらりと降り立って直立した。
「モーヒ、あたいとバトルしよう。ルカリオが倒れるか、モーヒのポケモン全員やっつけるまで」
追いついた少年たちは、二人が何を始めようとしているのか一目で理解できた。彼らは試合の妨げにならないよう、コートの外で横に並んだ。
「クロ!」
目が合うと、キャミィは握り拳を突き出した。
「ぶっとばせ!」
リクロロは微笑み、キャミィに習って拳を出した。ビルが、アイネが、マリカが、彼の周りから声援を送っていた。がんばれ、と。他人の応援もリクロロにとって初めての経験だった。悪くはなかった。暖かだった。
「リクロロ」
巨人は小人の名前を呼んだ。
「吾輩はカートゥーンが好きだ」
人間を見上げることなどなさそうなモーヒが、さらに大きな人物、あるいは天上の存在と交信するように、ぼうっと遠くを眺めていた。
「特に怪獣映画が好きだ。家もビルも粉砕する、怪獣が、怪人が、怪物が大好きだ。吾輩の夢は、怪獣になることだった。街を、日常を粉々に破壊して、逃げ惑うポケモンや人間の悲鳴を浴びながら力を誇示することに、強く憧れていた」
大いなる意思を受け取り、そこにもう何もいなくなったように、モーヒは厳かに視線を下げ、リクロロと目を合わせた。
「わかるか、リクロロ。吾輩の夢は平和の中にはない。だが、それを求めるものが、怪獣を欲するものが表れた。ライフル団。悪の組織が、吾輩を、破壊者を必要としたのだ」
モーヒは懐から小袋を取り出した。薬剤のカプセルだった。制止する間もなく、モーヒは薬を何粒も一度に飲み込んだ。
「報われる時が来たのだ。貴様は闇の中で黄金の光と出会った。この世界から抜け出すのも好きにするがいい。簡単ではなかろうが、貴様の人生だ。そして吾輩も、吾輩の人生を生きる。吾輩の夢は、壊し屋の本懐は、この暗く救いなき世界にしかないのだから」
モーヒの手がマントの内側へ差し込まれた。左利きだった。ボールを手にする腕は病的に神経が脈打ち、目には異常な充血の赤い網が広がって、邪悪な台座に鎮座する宝玉めいて瞳孔を包んだ。
「この薬は、吾輩の意識を極限まで高めて、指示を通じて戦うポケモンと寸分違わず融合させる。もう止められんぞ。吾輩は壊し屋、ライフル団のモーヒ……」
ボールを投げてポケモンを繰り出し、巨人が開戦の咆哮を上げた。
「怪獣王モーヒだ!」
サザンドラがけたたましい雄叫びを叩きつけた。モーヒの闘志がそのまま伝わっているかのように、きょうぼうポケモンは波動の勇者に咆え猛った。見てくれのタイプ相性など本当の怪獣の前には毛ほども驚異にならないと言わんばかりに。
「貴様のルカリオの強さは知れている! 吾輩の怪獣たちが退治されようなどと、万に一つもありえん!」
リクロロは少しも怯まず、怯えず、湖面を見つめるように落ち着いていた。
「だろうな。わかってる。だからだ、モーヒ。あたいは、今ここで、あたいを超えるんだ」
小人はずっとポケットに入れたままだったもう片方の手を出した。光っていた。輝いていた。絆の光だった。
「クロ」
キャミィは誰にも聞こえない声で囁いた。
「ぶちかませ」
リクロロはむき身のキーストーンを握ったまま、ルカリオに拳を差し出した。
「咆えろルカリオ! 不屈の心で、見えない明日に適応しろ!」
メガシンカの輝きがルカリオを覆った。そして、光の繭を内側から打ち破ったかのようにメガルカリオが現出した。
「馬鹿な」
モーヒにとって、この出来事は青天の霹靂だった。
「貴様のルカリオは、ずっとメガシンカ不全だったはず」
「理由は二つ。あたいもルカリオも、力に迷いがあったから。それと……」
リクロロにとっては、覚醒だった。決別で、裏切りだった。
「メガルカリオの闘争本能は、絶対に加減できないからだ!」
殺し屋の本性を悟り、壊し屋は自らの信頼や矜持が軋む音を聞いた。メガシンカによって素早さが逆転し、メガルカリオの先手から試合が始まった。
「〝きあいだめ〟!」
メガルカリオは深く息を吸い、精神を統一して気合を込めた。
「〝つるぎのまい〟じゃないですね」とアイネ。
「うわー、暗殺者っぽ」とマリカ。
「でも、ここで攻撃しないのって」とチヅル。
「言ってやるなよ、初心者の初陣だぜ」とビル。
「え、っと、何が起きてるんです?」タクオはキャミィに解説を求めた。
「ルカリオは今、攻撃の準備に時間を使った。サザンドラは、ルカリオの弱点を突く技をたくさん覚えるんだ。〝きあいだま〟〝だいもんじ〟〝だいちのちから〟……」
キャミィは祈るように脳内でダメージ計算をした。絶望的だった。
「どれが飛んできても、やばい」
答え合わせの時が来た。モーヒはサザンドラに命令した。
「〝きあいだま〟!」
サザンドラの三つの首が支点となって、かくとうタイプのエネルギーの塊が膨れ上がった。よりにもよって候補の中で最も威力の高いものだった。観戦していた少年少女は息をのんだ。エネルギー弾が発射され、衝撃と土煙がメガルカリオの姿を飲み込んだ。
「……〝インファイト〟!」
煙を引き裂いてメガルカリオが飛び出し、勢いのままサザンドラの懐に飛び込んで滅多打ちにした。拳、蹴り、メガシンカによって発達した手足の棘も駆使した致命的な猛攻撃の威力は、かくとうタイプに弱いサザンドラを一撃で墜落させるのに十分であった。
視界が晴れると、メガルカリオの踏み込みの足跡が残っていて、その手前にエネルギーの炸裂痕があった。当たらなかったのだ。メガルカリオの立つ位置より前に着弾し、直撃していなかったのだ。
マリカが胸に手を当てて息を吐き出しながらぼやいた。
「もー、怖すぎ、見てるだけで寿命縮む」
逆にキャミィとビルは、危機を脱した興奮が恐怖に勝っていた。
「いや、だが、よくかわした。えらいぞ」
「うんうん。ここからは反撃だ」
リクロロは目の前の戦いに集中していて、外野の会話に耳を傾ける余裕などなかった。打ち倒されたサザンドラを、モーヒは淡々とボールに戻した。
「なるほど。やってくれる」
そして、次のボールを選び取った。壊し屋のポケモンは一体ではなかった。
「だが、その虚栄、いつまでもつかな!」
ラムパルドが砂埃を巻き上げながら重量級の巨体で地面を踏みしめた。ボールから出たばかりにも関わらず、肥大化した頭蓋骨を振り乱して攻撃の予備動作に入っていた。
「〝こだわりスカーフ〟か?」
今度こそビルも肝を冷やした。キャミィもつられて叫んだ。
「最速スカーフラムパルドは、メガルカリオをぎりぎり抜けるんだ!」
キャミィの絶叫は集中していてもリクロロの耳に届いた。
「もう遅い!〝ばかぢから〟!」
ラムパルドが猛然と迫るのを、リクロロは不可思議なほど冷静に見つめていた。時の神にかどわかされたように、あるいはトレーナーの自分までもが波動に目覚め、元の次元と異なる意識の流れに紛れ込んだように。
無論それはルカリオの思考速度だった。長年連れ添った相棒の呼吸が、リクロロに同じ景色を見せていた。確信だった。まだ間に合う。
「〝バレットパンチ〟!」
メガルカリオの〝てきおうりょく〟から放たれる鋼鉄のジャブがラムパルドの鼻面を叩いた。向かってくる巨体めがけて、向こうからの加速も乗せた打撃だった。文字通り拳銃の発砲のような恐ろしい音がこだました。メガルカリオの腕は健在で、ラムパルドはもんどりうって転げまわった。激痛に悶絶するずつきポケモンはやがて動かなくなり、再び立ち上がることはできなかった。
「ねえ、今の、どっち?」
チヅルは顔に出さないまでも、今にも冷や汗があふれ出そうだった。
「わかんない」
キャミィは笑っていた。笑うしかなかった。「でも、すごいよ」
急所だったのか、それとも乱数の上振れなのか。それはもはや重要ではなかった。メガルカリオはあらゆる敵を一撃で仕留めているが、その一つ一つが絶体絶命の居合や早撃ちに等しかった。試合はリクロロの圧倒的優位で、さもなければ敗北だった。
「……そうか。よもや、これほどとは」
誰よりもモーヒがそのことをわかっていた。モーヒはラムパルドをボールに引っ込め、次のポケモンを出す前にリクロロへ声をかけた。
「リクロロ。次のポケモンが、吾輩の最後のポケモンだ」
薬物の反応がピークを迎えていた。モーヒの顔面は筋組織が極度に強張り、しわ一つに至るまで硬い石材に彫り込まれたようだった。怪人だった。人間ではなかった。
「確かに、貴様は大いなる力に目覚めたようだ。もはや腕力ではその勇者にかなうまい。ならば、さらなる絶望にて、貴様の希望を打ち砕こう」
モーヒがボールを投げ、三匹目の、終の怪獣が聳え立った。
「この、絶対防御を以て!」
ボスゴドラが大地に立ち、コートを揺さぶるその重量はラムパルドよりも大きかった。
モーヒはマントの前をはだけた。呪いの首輪のようなアミュレットが下げられていて、巨人は自らの首を絞めるように中央に据えられたキーストーンに触れた。
「ボスゴドラ! あまねく打撃を跳ね返し、物理にて絶対の君臨を知らしめろ!」
巨体を誇るボスゴドラのメガシンカに伴う光は膨大で、その下に現れる本体もまた巨大だった。城か砦か要塞か、巨獣メガボスゴドラが小人と勇者の視界を支配した。
「これ、って……もう……」
アイネの息詰まった声は彼女の胸中をそのまま絞り出したようだった。彼女たちは知っていた、完全状態のメガボスゴドラを物理攻撃で突破することはほぼ不可能であり、メガルカリオの耐久力ではその反撃に耐えられはしないと。
「まあ、普通はね」
異論はなかった。キャミィもだいたいその通りだとわかっていた。
「でも、ほら。クロの顔。まだやる気だよ」
リクロロと、彼女のメガルカリオは、同じ姿勢で立っていた。肩の力を抜き、反撃に徹しようと待ち受けるメガボスゴドラを一人と一匹はじっと見つめていた。勝つための道筋が、そうすることで見えるはずのないものが透視できるかのように。
「ルカリオ」
リクロロは無言のまま、メガルカリオに多くのことを語りかけた。正確には言葉ではなく、駆け巡る思い、色づいた意志のようなものを。波動が爆発的に増大し、闘争本能に溢れていようと、はどうポケモンとの絆に言葉はいらなかった。
ルカリオ。ここまでついてきてくれた。ここで戦ってくれる。ここからまた歩き出す。
「お前を、信じる」
メガルカリオは構えた。波動の伝わる頭部の房が持ち上がり、神経の通った尻尾のように揺らめいた。両手は力を抜いてただ下げられており、体幹に捻りも加えられていない。メガルカリオを知らなければ、それはただ立っているだけに見えた。使い手にとっては、次の爆発への完璧な備えだった。とはいえ、戦いへの欲求に乾くメガルカリオがこれだけの脱力をするというのは並大抵ではなかった。
「覚悟はできたようだな」
モーヒは見抜いていた。今まさに、メガルカリオは攻撃の準備を整えたと。
「いい仕上がりだ。さあ、打ってこい。そして、屈するがいい」
モーヒは両腕を広げた。まったく同じように、メガボスゴドラも両腕を。
「来い」
薬物にブーストされた彼らの一体感もまた、ほとんど波動の域に達していた。
「来い……」
誰もが固唾を飲んでいた。誰もがこの瞬間を生きていた。
「……来い!」
メガボスゴドラが咆えた。
「打て!」
リクロロの号令で、メガルカリオの筋肉が点火した。メガルカリオは無数の打撃を放ったが、それは嵐に抵抗するむしポケモンのように無益だった。何事もないかのようにメガボスゴドラは攻撃を受け止め続けていた。
この無呼吸連打が終わるとき、メガボスゴドラを倒せていなければ、その時は。長く、短く、怪獣の血液のように熱く重い時間が流れた。メガルカリオの〝インファイト〟が鋼の分厚い皮を打つ音だけが絶え間なく続いた。
そして、最後に、メガルカリオは足を回してメガボスゴドラの頭部に生えている角を狙った。攻撃は先端を掠め、金属の針を玉で叩いたような甲高い音が響いた。角は折れずにあり続け、メガボスゴドラの首は傾きもしなかった。
メガルカリオは酸素の限界を迎え、膝をついて呼吸を整えた。酸欠の瞬間はろくに体も動かず、立ち直る前にメガボスゴドラの攻撃が待っていた。
「今……」
モーヒは呟いた。言葉にならない理解を、かろうじて音にしたようだった。声の出し方すらも失ってしまったかのような。
「何を、したのだ?」
メガボスゴドラは動かなかった。動けなかった。ひどく酔ったまま悪心をこらえるように虚空を見つめたままだった。
「ルカリオがメガボスゴドラを倒すには、どうにかして内側に衝撃を伝える必要がある」
リクロロも満足に話せていなかった。メガルカリオの消耗に共感しすぎて、呼吸も脈拍も早すぎていたから、硬く、ぎこちなく、かろうじて答えていた。
「鉄、に限ったことじゃないのか、あたいはわからない。とにかく、メガボスゴドラの体の中で、叩くと一番ぶるぶる震えるのは、角の先、すごい端っこのほう。少しでも中に寄せると、芯で止まって震えが来ない。その、ぎりぎりのところを叩いて、波動でその震えを広げる。そうすると、さっきのあの蹴りの衝撃が、角から頭に渡って、脳に届く。ほかのかくとうポケモンにはまねできない、ルカリオにだけ狙える急所」
メガルカリオは空気を取り戻し立ち上がった。メガボスゴドラが攻撃できるタイミングは、とうに終わっていた。
「波動式暗殺術……腹部を殴り続けて意識を反らし、わずかな、いや、ありもしない急所を狙って?」
「知らない。ルカリオがうまくやった。あたいは任せただけ。信じただけだ」
メガボスゴドラは目を見開いたまま、ぐらりとその巨体を滑り落とした。足元が揺れ、立っていられるポケモンはメガルカリオのみとなった。
その瞬間、これまでの緊張と集中のすべてが勝利に変化し、リクロロの脳と脊髄を焼き尽くした。命が焦げ付くような高揚に耐え切れず、精神は幼さに追いやられた。
「やっ……」リクロロが腕を締めてガッツポーズをするのと同時に、メガルカリオが勝鬨を上げた。「た!」
大音響の拍手と歓声が降り注いだ。リクロロはびっくりしすぎて肩をすぼめた。いつの間にか見知らぬ観客たちが何人もコートを取り囲んで、好き勝手に小人とメガルカリオを褒めたたえていた。
「クロ!」
キャミィが駆け寄ってきて、その金髪の少年は勢いよくリクロロを抱きしめた。
「すごいよ! かっこいい! 本当によくやったね!」
少年の胸の中で、リクロロは実感した。あの称賛、この抱擁、全部自分へと向けられたものだと。
正々堂々と戦い、勝利し、認められる。甘美だった。これこそ人生だった。
「うん。あたい、頑張った。ルカリオと、キャミィのおかげだ」
清潔で柔らかな陽だまりのクッションを、リクロロは一度だけ味わったことがあった。それを思い出し、彼の胸の内はそれ以上の居心地だった。
仲間たち、できたばかりの友人たちもやってきて、キャミィは独り占めしていた彼女をさりげなく仲間たちに引き渡した。リクロロは大声で感動を伝えられたり、頭をめちゃくちゃに撫でられたりした。どれも素敵だった。笑顔があふれた。
キャミィはそのままモーヒのほうへ歩み寄った。モーヒは、自らも力尽きたように気絶したメガボスゴドラへ寄り添っていた。薬物の反動もあるのか、顔面から力が抜けて生気はなく、会話ができるかもわからなかった。それでも、彼は声をかけた。
「モーヒさん、聞こえる?」
キャミィは耳を澄ます仕草をした。催促するでもなく、モーヒと、彼の怪獣たちの健闘をたたえる声もあふれていた。結果は無傷のメガルカリオの圧倒、だがその過程で生じたリクロロの強運も狂気も、モーヒの無念でさえも、人々は知っていた。次は勝てるだとか、運がなかっただけで本当はそっちの勝ちだと意見するものさえいた。もちろん、怪獣マニアのポケモンへのこだわりや、怪獣さながらの戦いぶりへの激励も。
「なんと身勝手な」
モーヒにはわかっていた。痛いほどわかっていた。それでも結果だけがすべて。勝者は常に、その瞬間の一人だけ。
「そうだね。だけどみんな、モーヒさんのバトルを楽しんでた。それって、また怪獣に会いたいってことだよ。また全力で暴れるところが見てみたいって」
モーヒは改めて周囲を見渡した。トンネルから出たばかりの電車で光に眩みながら景色を眺めるように、目を細めて。
敗者への評価が聞こえた。怪獣の再来を望む声を見た。モーヒの戦いを、その存在を、多くの人が受け止め、口々に素晴らしいと。
素性を何も知らないくせに。貴様らが目撃した怪獣は、欲望を満たすために悪へ手を貸したというのに。そうすることでしか、この夢はかなわないはずなのに。
「悪いことなんてしなくても、モーヒさんは怪獣になれる。なってもいいんだよ」
キャミィの隣にリクロロがやってきた。モーヒが膝で立っていてもなおリクロロは見下ろすことができなかった。モーヒの頬は薬物にやつれていたが、目には力が残っていた。
「じゃあな、怪獣王。次はスタジアムでバトルしよう」
合いの手が上がった。そうだ、もう一度戦ってくれ、次は勝てる、またスタジアムで。
モーヒの目が揺らいだ。キャミィも、リクロロも、モーヒ本人も、それが涙とすぐには気づかなかった。喜びと、同じかそれ以上の悔しさに、巨人はうずくまって咽び泣いた。
「クロちゃん」
会話が途切れたところで、マリカが多少申し訳なさそうに話しかけた。
「ごめんね、疑って。許してくれる?」
「ん。許す。というか、あたい怒ってない」
「ほんと? よかった、ありがと! それじゃあ今度から一緒に悪者退治だね!」
あっ、とマリカが自分の口元に手を当てた。モーヒは片手をあげ、たった今の非礼を許すと、流れるままの涙もかまわずキャミィを見た。
「キャミィといったな。リクロロが世話になった」
涙の痕が、戦士の戦化粧のように赤い線になっていた。キャミィは悪の怪獣王に敬意をもって受け答えた。
「どういたしまして。けど、全部クロが選んだことだよ。いっぱい褒めてあげて?」
「ああ。だが、リクロロ一人では、この未来は訪れなかったことだろう。吾輩のよく知る勇者が認めた男よ、その度量を見込んで、頼みがある」
「うん? なあに、聞かせて?」
「吾輩はこの仕事を降りる。もうライフル団に与することもないだろう。だが一人だけ、心残りとなる人物がいる。吾輩があの薬、ミニエーを使うにあたり、よく気にかけてくれた。恩人なのだ。おおよその居場所を知っている。吾輩の代わりによろしく伝えてくれ、もう会えないだろうが、感謝していると。そして、いつでも身を案じていると。彼女からは貴様のことも聞いている。吾輩の名を出せば、耳を貸すだろう」
彼女?
「わかった。その人の名前、聞いてもいい?」
「ガンシャという。ライフル団の幹部だ」