(完結)愛の実証的研究 ~侯爵令息と伯爵令嬢の非科学的な結論~ 作:埴輪庭
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王都アルカディアの高級街に佇む『銀の薔薇亭』は貴族たちの密やかな権謀と重要な会合に使用される格式高いレストランだった。
頭上で煌めく水晶のシャンデリアが放つ柔らかな魔術光は磨き上げられた大理石の床の上に水底のような複雑な光の紋様を描き出している。薔薇の香りと、微かな魔術の焼ける匂いが混じり合う空気は重く、そして甘い。
エルンスト・フォン・ヴァイスベルクはグラスの脚を指で弄びながら、灰色の瞳で向かいの席に座る銀髪の令嬢を見つめていた。今日この場所に彼女を呼んだのは二週間前に正式に決まった婚約について、重要な話があったからだ。いや、正確にはその枠組みをどう壊すか、あるいはどう作り変えるかについてだ。
「セシリア嬢、改めて我々の婚約について話したい」
セシリア・ド・モンフォールは青い瞳に知的な冷ややかな光を宿したまま、音もなくティーカップを置いた。白磁の肌に魔術光が儚げに反射する。
「はい、エルンスト様。私も同じことを考えていました」
エルンストと呼ばれた黒髪の青年は、まるで学術会議で画期的な理論を発表するかのような真剣な表情で身を乗り出した。
「周知の通り、この婚約は両家の魔術研究における相乗効果を期待したものだ」
「ええ。ヴァイスベルク侯爵家とモンフォール伯爵家は、共に魔術の深遠な階梯を昇らんとする同士ですもの」
セシリアはまるで論文の要旨をまとめるかのように冷静に状況を整理した。
「魔術の発展のために最も効率的な組み合わせでしょう」
「その通りだ。だが私は考えた」
エルンストは声を潛め、テーブルの上の影に指を走らせた。
「より大きな──そして実りある成果を生み出すにはより深い関係性が必要ではないかと」
「深い関係性、ですか」
「そう。そこで提案がある」
エルンストは一呼吸置いた。胸の奥で理屈では説明のつかない鼓動が早鐘を打つ。それを意識の下に押し込め、彼は宣言した。
「私は君を愛するつもりでいる」
セシリアは一瞬だけ瞬きをした。長い睫毛が震え、青い瞳の奥で何かが揺れる。だが彼女はすぐにその動揺を理性の膜の下に沈め、冷静さを取り戻した。
「つもり、とおっしゃいましたね。興味深い表現です」
「そう、つもりだ」
エルンストはいつもの魔術理論を語る時のような、熱っぽくしかし少し強張った口調になった。
「考えてみたまえ、セシリア嬢。歴史上最も偉大な魔術的発見の多くは深い信頼関係にある者たちによってなされている」
「第三世紀の『双子の月理論』を確立したレオニードとカタリナ夫妻ですわね」
セシリアが記憶の書架から例を挙げた。
「それに空間転移術を完成させたアルベルトとソフィアの師弟の逸話──いえ、恋話も有名所でしょうか」
「うむ。彼らに共通するのは単なる協力関係を超えた精神的結合だ」
エルンストの目が熱に浮かされたように輝いた。
「だからこそ──我々も政略結婚という枠組みをより生産的なものに昇華させるべきではないか、と思うのだ」
その時、隣席からグラスが割れる鋭い音がした。二人の視線が自然とそちらへ向く。紺色のドレスを着た伯爵令嬢が白磁のように白い手で震えながらナプキンを口元に当てていた。その瞳には絶望という名の深い淵が開いている。
「リシャール様……三年間の婚約をたった一度の舞踏会で破棄なさるのですね」
向かいに座る青年貴族は罪悪感と逃避願望が入り混じった目で視線を逸らしている。
「エリーゼ、これは突然のことではない。アンナ嬢と踊った瞬間、私は真実を悟ったのだ」
「一度踊っただけで私との三年間を無下にするほどの真実ですか!それは結構な事ですわね!」
その痛々しい光景にエルンストとセシリアは同時に眉をひそめた。肌を刺すような冷たい空気が隣席から漂ってくる。
「非論理的だ」
エルンストが吐き捨てるように呟く。
「三年間の蓄積を数分の接触が上回るとは」
「もし魅了術だとしたら?」
セシリアは声を潛めた。青い瞳に警戒心が鋭く宿る。
「いや、それはありえない」
エルンストは即座に否定したが嫌な汗が背筋を伝う感覚があった。
「魅了術は第一級禁呪だ。発覚すれば魔術師資格の永久剥奪どころか、極刑もありうる。それにリシャール子爵は相当な魔力の持ち主のはず」
セシリアも同意した。
「我々貴族は幼少期から対魔術防御を叩き込まれています。生半可な魅了など通じるはずもありません」
そう、生半可な魅了など通じるはずもないのだ、とエルンストは考え込んだ。指先が無意識にテーブルの縁を叩く。
「だとすると、これは純粋な感情の変化なのか?」
「しかしあまりにも急激すぎます。不自然ですわ」
二人が小声で議論している間に隣席の伯爵令嬢は立ち上がった。
「お幸せに、リシャール様」
優雅に、しかし悲しみと諦念を隠しきれない足取りで彼女はレストランを後にした。残されたリシャールは逃げるようにグラスを煽る。
エルンストはその痛ましい様子を観察しながら、セシリアに向き直った。
「もし仮に禁呪を使える者がいるとしたら」
「王国にとって重大な脅威ですね。難易度自体はそうでもないのでしょうが──」
「うむ、実際考えづらい話ではある。リスクが大きすぎるからな」
そう、魅了の禁呪は確かに使おうと思えば、それなりに練達した魔術師ならば誰でも使えるだろう。しかし使わない。理由は倫理的な問題と、技術的な問題だ。魅了の禁呪を行使する事自体は容易くとも、それを精神に浸透させることは難しい。要するに抵抗が容易なのだ。更にいえば、余りにも容易く露見してしまうというのもある。
「禁呪による影響ではないにせよ、あのリシャールという青年の精神に、なにがしかの異変が起こっている事は間違いないだろう」
エルンストの言葉にセシリアの表情が引き締まった。だがすぐにその瞳の鋭さを和らげる。
「でも今はまず我々の話を」
「そうだな」
エルンストは話題を戻した。実際、見知らぬ令息、令嬢の婚約がどうこうなることよりも、自分達のそれのほうが重大事ではある。心臓の鼓動が再び早くなる。
「私の提案は我々の婚約期間を愛の実証的研究期間とすることだ」
セシリアは少し首を傾げた。銀髪がさらりと流れる。
「つまり、感情を意図的に構築し、その過程を学術的に記録すると?」
「正確には既存の好意的感情を発展させ、それが真の愛と呼べる状態に至るかを検証する」
エルンストは準備していたかのようにしかし内心の動揺を隠すかのように早口で説明を続けた。
「君も認めるだろう? 我々は既に優れた研究パートナーだ」
「それは事実です」
セシリアは素直に認めた。その声には確かな信頼が滲んでいる。
「あなたの『十三層構造理論』に対する私の古代文献からの補強は学会でも高く評価されました」
「君の解読がなければ、理論の実証は不可能だった」
エルンストは真剣な表情で続けた。声が少し震えたことに彼自身が驚いた。
「この知的な結びつきを感情的な結びつきにまで発展させることができれば」
「研究における相乗効果は計り知れない、ということですね」
「その通りだ!」
エルンストは興奮を隠さなかった。いや、隠そうとしなかった。理屈である方が今の彼には安全だったから。
「しかもこれは魔術史上でも稀有な実験となる。愛という感情をリアルタイムで観測・記録した例はない」
セシリアの瞳に学者としての興味が宿った。それは未知の魔術書を開く時の光だ。
「確かに愛に関する研究は回顧的なものばかりです」
「詩人の感傷的な記述や哲学者の抽象的な考察に留まっている」
「でもエルンスト様」
セシリアは慎重に言葉を選んだ。その青い瞳が真っ直ぐにエルンストの灰色の瞳を射抜く。
「感情は制御できるものでしょうか」
「完全な制御は不可能だろう。だが方向付けは可能なはずだ」
エルンストは自信を持って答えた。いや、自信を持たなければならなかった。
「適切な刺激と環境を用意すれば」
「刺激と環境……例えば?」
「定期的なデート、贈り物の交換、共同作業の増加」
彼は指を折りながら数え上げた。まるで実験の手順書でも読み上げるかのように。しかしその声が微かに震えていることにセシリアは気づいていた。
「そして何より重要なのは互いを深く知ること」
セシリアはふと微笑んだ。それは硬い氷が溶けるような、優しい表情だった。
「既に私たちはお互いの研究については誰よりも理解し合っています」
「だが人間としての側面はどうだろう?」
エルンストは問いかけた。
「君の好きな食べ物、嫌いな天候、子供の頃の思い出……そういったことを私はほとんど知らない」
「確かに」
セシリアは考え込んだ。視線がテーブルの上の模様を彷徨う。
「私もあなたの研究以外の面については……」
「だからこそこの実験には意味があるのだ」
エルンストは熱を込めて語った。もう、理屈の仮面を被っているのが苦しくなっていた。
「単なる政略結婚で終わらせるには我々はあまりにも相性が良すぎる」
セシリアはしばらく黙って考えていた。レストランの喧騒が遠く海の彼方のようだった。やがて、彼女は顔を上げた。決意を宿した青い瞳がエルンストの心を鷲掴みにする。
「一つ質問があります」
「何だろう?」
「もし実験が失敗したら? 愛が生まれなかったら?」
エルンストは真剣な表情で答えた。嘘はつきたくなかった。
「その時は少なくとも友情と尊敬に基づいた関係が残る。それは政略結婚としては上等な結果だ」
「なるほど」
「それに──」
彼は少し照れたような、しかし隠しきれない本音を吐露するような表情を見せた。
「失敗する気がしない。君といる時の知的な高揚感は既に特別なものだから」
セシリアの頬がほんのりと赤く染まった。魔術光のせいだけではない、生々しい熱がそこにあった。
「それは私も同感です」
「では?」
「お受けいたします」
彼女は微笑んだ。それは春の陽射しのように暖かいものだったが、どこか挑戦的だ。
「共同研究者として、そして実験対象として」
「素晴らしい!」
エルンストは子供のような純粋な喜びを見せた。胸の奥で爆発しそうな感情をどうにか言葉に変換する。
「早速、研究計画を立てよう」
「まず必要なのは初期状態の測定ですね」
セシリアはすでに研究モードに入っていた。しかしその声には先ほどまでの冷たさはなく、鈴が鳴るような軽やかさがあった。
「現在の好意度、親密度、信頼度などを数値化しておく必要があります」
「測定方法も標準化しなければ」
「古代の『心魂計測術』を応用できるかもしれません」
「ああ、第九文書に記載されていたものか」
二人は熱心に議論を始めた。
給仕が新しい料理を運んできてもその湯気や香りに気を止めることなく、言葉の応酬は続く。
「ところでセシリア嬢」
議論の合間にエルンストが言った。ふと、隣席の虚無が目に入る。
「先ほどの隣席の一件、気になることがある」
「アンナという女性のことですね」
「もし本当に魅了術が使われているとしたら」
エルンストの表情が真剣になった。学者の目ではない、魔術師としての警戒心が滲む。
「それも貴族の防御を突破できるほどの」
「前代未聞の事態です」
セシリアも声を潛めた。
「第七位階以上の術者でなければ不可能でしょう」
「しかもそれを堂々と使うとは」
「事が大きくなるようならば、いずれ調査が入るかもしれませんね」
「ああ。だが今は」
エルンストは微笑んだ。その笑顔には先ほどの不安は影を潛め、未来への希望が灯っていた。
「我々の研究が優先だ」
「もちろんです」
セシリアも微笑み返した。
二人は顔を見合わせて、同時に笑い出した。レストランの他の客たちは奇妙な恋人たちだと思っただろう。料理もそこそこに難しい理論を語り合う若い男女。だが二人の間に流れる空気は確かに温かかった。冷たい大理石の上で二人だけの魔術円が描かれているかのように。
やがて日が暮れ、魔術灯が通りを青白く照らし始めた。
夜風が二人の間を吹き抜ける。
「実り多い夕食だった」
エルンストは満足そうに言った。その声には安堵と期待が混じっていた。
「ええ。次回は具体的な実験手順を」
「それと、君の好きな食べ物も聞かせてほしい」
セシリアは少し驚いた顔をした。青い瞳が丸くなる。
「実験の一環として?」
「いや」
エルンストは首を振った。夜風に吹かれ、黒髪が揺れる。
「純粋に知りたいんだ」
セシリアは優しく微笑んだ。それはどんな理論よりも美しいと、エルンストは思った。
「甘いものが好きです。特に蜂蜜菓子」
「覚えておこう」
そうして二人は立ち上がり、レストランを後にした。二人の影が魔術灯の下で一つに重なり、長く伸びていった。