(完結)愛の実証的研究 ~侯爵令息と伯爵令嬢の非科学的な結論~   作:埴輪庭

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20.「お嬢様、旦那様が書斎でお待ちです」

 

ラファエル様からの告白を受けた夜、家に帰ると屋敷の中の何かが違っていた。

 

玄関で迎えた使用人たちの表情がどこか強張っている。視線を合わせようとしない。胸騒ぎがする。

 

「お嬢様、旦那様が書斎でお待ちです」

 

執事の声も心なしか震えているように聞こえた。ラファエル様との時間の余韻は一瞬で不安に変わった。書斎への廊下を歩きながら私は必死に平静を保とうとした。でも予感は的中していた。重い扉を開けると、そこには見たこともない表情の父がいた。

 

 

書斎の暖炉には火が入っていなかった。

 

父は大きな机の向こうに座り、何枚かの書類を睨みつけている。その横顔には抑えきれない怒りが滲んでいた。

 

「お父様、お呼びでしょうか」

 

できるだけ平静を装って声をかけた。父はゆっくりと顔を上げる。その瞳に宿る光を見て私は息を呑んだ。冷たい、計算高い光。今まで優しい父親の仮面の下に隠されていた本当の顔がそこにあった。

 

「座れ」

 

短い命令に私は従うしかなかった。革張りの椅子に腰を下ろすと、父は書類を私の前に投げ出した。それは今日の私とラファエル様の行動を記した報告書だった。モンターニュ子爵邸を訪問したこと。そして帰り道での出来事まで。街灯の下で私が泣いたことまで書いてある。血の気が引いていく。私たちは監視されていたのだ。

 

「お前は何を考えている」

 

父の声は恐ろしいほど静かだった。嵐の前の静けさのような不気味な平静さ。

 

「モンターニュ家の男などと付き合うとは。お前にはもっと素晴らしい運命があるのだ」

 

運命。その言葉に私は震えた。父が私に何を望んでいたのか、今更ながらに理解する。

 

「でも、お父様。私は──」

 

「黙れ!」

 

突然の怒号に私は身をすくませた。父の顔は怒りで真っ赤に染まっている。

 

「王太子殿下が、お前に心を寄せていたのだぞ!」

 

父は立ち上がり、机を叩いた。

 

「なぜそれを無駄にした! なぜモンターニュ如きを選んだ!」

 

その言葉にすべてが繋がった。ペンダントのこと。父の真の狙い。私はただの駒だったのだ。父は神の祝福を私に授けられたものだとは思っていない。自分の野望に授けられたものだと思っている。

 

「お父様は、最初から」

 

震える声で問いかける。

 

「私を王太子妃にするつもりだったのですね」

 

父は一瞬黙り、そして冷たく笑った。

 

「当然だ。そのために、どれほどの投資をしたと思っている」

 

投資。私の存在は父にとって投資対象でしかなかった。涙が頬を伝い始める。

 

「私の幸せは、どうでもよかったのですか」

 

「幸せ?」

 

父は鼻で笑った。

 

「王太子妃になることが、最高の幸せではないのか」

 

違う。それは父の野望であって私の幸せではない。でもそんな言葉を口にする勇気はなかった。

 

 

「もう遅い」

 

父は椅子に座り直し、冷たい目で私を見つめた。

 

「お前がモンターニュ家と関係を深めたことで、すべての計画が台無しになった」

 

彼は書類をまとめ始める。

 

「これだけの準備をしたのに。協力者も雇い、公爵令嬢の失脚も画策した」

 

私は愕然とした。父はそこまでしていたのか。

 

「なぜ、そんなことを」

 

「成り上がり者が生き残るには、力が必要だ」

 

父の声には商人時代の執念が滲んでいた。

 

「男爵位など、所詮は最下級の爵位。だが、王家と繋がれば話は別だ」

 

そして父は立ち上がった。

 

「お前は暫く自室で頭を冷やせ」

 

有無を言わせない口調だった。

 

「外出は一切禁じる。モンターニュ家との交流も、今日限りだ」

 

「そんな!」

 

私は立ち上がった。

 

「お父様、お願いです。ラファエル様は──」

 

「その名を口にするな!」

 

父の怒号が書斎に響く。

 

「お前には分からんのか。我が家の未来がかかっているのだ」

 

私は必死に訴えた。ラファエル様との出会い。共に過ごした時間。そして今日交わした想い。でも父の表情は変わらなかった。むしろますます硬くなっていく。

 

「甘い夢は終わりだ」

 

父は使用人を呼んだ。

 

「アンナを部屋へ。そして、窓には鉄格子を。誰も近づけるな」

 

 

自室へと連行される間、私の頭は真っ白だった。

 

つい数時間前まであんなに幸せだったのに。ラファエル様の優しい笑顔。手の感触。月明かりの下で交わした言葉。すべてが遠い夢のように思えた。

 

部屋に入るとすぐに鍵の音が響いた。振り返ると、使用人たちが申し訳なさそうな顔で立っている。

 

「お嬢様、申し訳ございません」

 

年配の侍女が涙を浮かべていた。

 

「でも、旦那様のご命令ですので」

 

私は力なく頷いた。彼女たちを責めても仕方がない。

 

窓に近づくと、既に職人が鉄格子を取り付けている最中だった。職人はこちらを見なかった。金槌の音が一定の間隔で響き、その音が止むたびに窓の外が一本ずつ細くなっていく。かつて自由に開け放っていた窓が牢獄の窓に変わっていく。外の世界との繋がりが一つずつ断たれていく。

 

 

ベッドに座り込み、震える手でペンダントを握りしめた。

 

もう祝福の力はない、ただの装飾品。でもこれだけが今の私の拠り所だった。セシリア様が浄化してくださった時のことを思い出す。エルンスト様の冷静な分析。二人の優しさ。きっと助けを求めれば力になってくれるはず。でもどうやって? この部屋からどうやって連絡を取れというのか。

 

涙が止まらなかった。せっかく掴んだ幸せが父の野望によって引き裂かれていく。ラファエル様は私がいなくなったことをどう思うだろう。心配してくれるだろうか。それとも私が彼を裏切ったと思うだろうか。考えれば考えるほど胸が締め付けられる。

 

 

翌朝、朝食は部屋に運ばれてきた。

 

銀の盆に載せられた豪華な食事。でも何も喉を通らない。

 

「お嬢様、少しでもお召し上がりください」

 

侍女が心配そうに声をかける。私は首を振った。

 

「手紙を、出すことはできませんか」

 

小さな声で尋ねる。侍女の顔が曇った。

 

「申し訳ございません。旦那様が、一切の通信を禁じておられます」

 

最後の希望も断たれた。私は窓辺に立ち、鉄格子越しに外を眺めた。いつもと変わらない王都の朝。人々が行き交い、鳥が飛び、太陽が昇っていく。でも私だけがこの檻の中に閉じ込められている。

 

ふと庭を見下ろすと、見慣れない男たちが立っていた。明らかに監視の為に雇われた者たち。逃げ道は完全に塞がれていた。

 

 

数日が過ぎた。

 

毎日が同じことの繰り返し。朝食、昼食、夕食。そしてただ待つだけの時間。本を読もうとしても文字が頭に入ってこない。刺繍をしようとしても手が震えて針が持てない。ただラファエル様のことを考えて過ごす日々。彼は今、何をしているだろう。きっと心配しているに違いない。でもどうすることもできない。

 

ある日の午後、廊下から足音が聞こえてきた。いつもの使用人とは違う重い足音。扉が開き、父が入ってきた。

 

「気は変わったか」

 

冷たい声で問いかける。私は黙って首を振った。

 

「強情な娘だ」

 

父は溜息をついた。

 

「お前の母も、同じように強情だった」

 

母の話が出るのは久しぶりだった。私が幼い頃に亡くなった母。優しくて、いつも私の味方でいてくれた人。

 

「母なら、きっと私の気持ちを分かってくれたはずです」

 

その言葉に父の顔が歪んだ。

 

「だから早死にしたのだ」

 

その一言に、私は返す言葉を持たなかった。

 

「現実を見ろ、アンナ。この世界は力がすべてだ」

 

父は窓の外を見つめた。

 

「商人時代、どれほど蔑まれたか。金があっても、地位がなければ虫けらも同然だった」

 

そして振り返る。

 

「だが、お前が王太子妃になれば、すべてが変わる」

 

その瞳には狂気じみた執念が宿っていた。私は恐ろしくなった。これが本当の父の姿なのか。

 

 

父が去った後、私は決意を固めた。

 

このままでは本当に一生檻の中で過ごすことになる。何か方法があるはずだ。窓の鉄格子を調べてみる。頑丈でとても外せそうにない。扉も同様に内側からは開けられない。

 

でも諦めるわけにはいかない。ラファエル様との約束がある。また図書館で会う約束。東方の詩集を一緒に読む約束。そしてこれからもずっと一緒にいるという約束。

 

夜になって、私はある計画を思いついた。危険だけれど試してみる価値はある。明日の朝食の時、侍女が部屋に入ってくる瞬間。その一瞬の隙を狙って──

 

でも本当にできるだろうか。使用人たちに迷惑をかけることになる。父の怒りは彼女たちにも向かうだろう。そう思うとできなかった。自分の優しさが嫌いになった。優しさは檻の中では何の役にも立たない。

 

葛藤に苛まれながら私は眠れない夜を過ごした。月が窓から差し込んでいる。あの夜と同じ月。でも今は鉄格子に遮られて、その光も檻のように見えた。

 

私は小さく呟いた。

 

「ラファエル様、助けて」

 

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