12月10日(金曜日)
夢。
夢を見ている。
毎日見る夢。
楽しい夢。
黒い雪。
黒い夕焼け。
黒一色の世界。
夢の終わりはいつも黒だった。
そして泣き声。
「どうして……」
だけど誰にも聞こえない。
夢の終わりはいつも悲しかった。
だから夢の中で願った。
夢が終わらなければいいのに……
あの冬からもうすぐ1年。
俺の知っているところでも、俺の知らない所でも色々なことがあった。
あゆとの再会。
水瀬家の家族になったあゆ。
秋子さんと月宮さんの苦悩。
月宮親子の和解。
栞と月宮さんの出会い。
親友になったあゆと栞。
それらは決して楽しいことばかりではなかった。
だけど、今となっては暖かな思い出だった。
みんな今は幸せなのだから。
もう悔やむ必要はない。
それなのに、なぜか俺は得体のしれない恐怖におびえていた。
黒い夢。
黒く染まった雪景色の光景が、何かに俺を駆り立てる。
それから逃れるように、俺は勉強に集中していた。
「あの時、あゆを救ってやりたかったから」
今は、そう格好をつけて医学部を目指している。
もう気にすることないのに、とあゆは言うが、『だったらもっと俺と遊んでくれ』と言うことで誤魔化していた。
実際、あゆは来年の高校受験のために猛勉強中だ。
栞と一緒に登校したいからだそうだ。
頑張ってくれと思う。
小学生から高校生への飛び級だから、俺なんかの比じゃないぐらいに大変なはずだ。
一体、俺は何に追われているのだろう?
あの時、何もできずあゆを7年眠らせてしまったこと?
栞の病気に気付かなかったこと?
分からない。
ただ、7年前、あの木の下で無力だった自分……。
それは俺が思っている以上に意味のあることのような気がする。
あの時無力だったために、俺はとんでもない過ちをおかした。
そんな気がするのだ。
わけの分からない罪の意識。
それを振り払うかのように、毎日を生きている。
「受験ごときでナーバスになりすぎなんじゃね?」
と北川には笑われたが、本当にそうなんだろうか。
お前は、もう少し真剣になれ、と返しておいたが。
さすがに12月にもなれば、クラス全体もピりつき始める。
俺もその雰囲気に飲まれているだけなのか?
あゆは目覚めた。
今では辛い7年前の事故も、暖かな思い出になっているはずだった。
だが、あの木の下の記憶はいまだに暖かな思い出とはならないでいる……。
"Kanon Trilogy"
3章 『現実』
12月10日(金曜日)
「寒い……」
あの眠気を誘う目覚ましで、目を覚ますなり俺は呟いた。
この街に来てもうすぐ一年。
この街の生活は楽しいものだが、冬の寒さは絶対好きになれそうもない。
俺は簡単に身支度を整えて部屋を出た。
名雪の部屋の扉を叩く。
……反応なし。
「またか……」
冬はけろぴーとともに冬眠しているのじゃないかと思うくらい名雪の寝起きは悪い。
この一年、名雪と生活しててわかったことだ。
俺は遠慮なく扉を開けて名雪の部屋に入った。
受験勉強で多少寝不足の頭にあの目覚ましの音はこたえる。
鳴る前に起こした方が身の為だ。
俺は部屋に入ると、名雪には眼もくれず窓を開け放った。
寒いことこの上ないが、眠気覚ましにはちょうどいい。
「くー」
「……よくこれで眠っていられるな」
冷水をぶっかけられるのと変わりないこの寒さの中、名雪はパジャマ1枚で寝ていた。
さすがは名雪である。
「どうしたものか……」
と俺は部屋のあたりを見回していいことを思いついた。
窓から手を出し、積もっている雪を手にとり、
名雪の背中に放り込む。
「わっ!?」
さすがの名雪もこれにはびっくりしたようだ。
目をこする過程を通り越して、いきなり目が全開になる。
「何てことするの祐一」
名雪は非難の眼差しを俺に向けながら、背中の雪を取り出して窓の外に放る。
「おはよう名雪。こんないい武器が身近にあるとはな」
「うー」
「明日からは前の方に放り込んでやろうか?」
と俺はにやにやしながら言ってやる。
「わっ、それだけはやめて」
名雪は胸元を押さえながら顔を赤くする。
「まったく、少しはあゆを見習え」
「絶対無理」
即答だった。
実際俺でもあゆの真似は無理だ。
あゆは朝に強いどころか、睡眠時間5時間で十分というから驚きである。
今ごろはもう秋子さんと一緒に朝食の用意をしているはずだ。
最近は簡単な料理にも慣れてきたらしく、あゆの作った目玉焼きが食卓に並ぶこともある。
もっとも、3割の確率でスクランブルエッグに変更されるのだが。
ちなみに更に1割くらいの確率で異物混入(殻)が起こる。
食べられないものを作られるのよりはましだが、それでも当たりをひいてしまった時の精神的ショックは痛い。
その日一日中、歯に嫌な感覚が残ってブルーな気分になる。
「俺は先に下に行ってるからな、名雪も着替えてから来いよ」
「うんっ」
笑顔でうなずく名雪。
今日はもう安心そうだ。
っと、待った!
「名雪、目覚ましは止めておけよ」
起こしてやると、名雪は時々目覚ましをかけたまま食事に現れる。
俺は、ドアに手をかけながらそう注意しておいた。
顔を洗ってダイニングに行って驚いた。
「あ、おはようっ祐一君。どうかな?」
「ど、どうかなってどうしたんだお前」
あゆはあの冬の格好をしていた。
赤いカチューシャにダッフルコート、羽リュックそしてミトン。
あの日のあゆが目の前にいた。
「おはようございます祐一さん。あゆちゃんの格好どう思います?」
台所の奥から秋子さんが顔を出す。
「あ、おはようございます。どうって言われましても…どうしたんですかこれ?」
俺はそう言ってあゆを見る。
「前の髪型に戻したんだよ。そしたら秋子さんがこの服を出してくれて」
「月宮さんがあの冬のあゆちゃんを見たいって言うんですよ」
秋子さんは頬に手を置いて微笑んでいた。
……月宮さん、相変わらず子煩悩な人だ。
俺が、あの冬のあゆは(それなりに)かわいかったなんて漏らしたばっかりに。
「まあ、たしかにそっちの方が似合ってるぞあゆ。男の子みたいだしな」
「ボクは女の子だよっ」
あゆが頬を膨らまして憤慨する。
本当はかわいいのだが、あゆにそれを直接言うのは気が引けた。
「ところでどうしたんです? このコートとリュック」
膨れるあゆを無視して秋子さんに訊く。
「コートはあゆちゃんのお母さんの古着で、リュックは月宮さんが買ってたものだったみたいですね」
よく考えたら、何であの時こんな格好だったのかと思ったがそういうことだったのか。
俺があげたカチューシャも、頭の上で輝いている。
多分、秋子さんが手入れしてやったんだろう。全て新品のように見えた。
「うーん、でもなんだかこの格好落ち着くよ」
「前の格好が変すぎたんだ」
「うぐぅ」
あゆは退院のとき、月宮さんと別れて俺との待ち合わせ場所に行く前に髪を切った。
床屋で切ったものだから似合わないなんてどころではなかった。
俺が『似合わない』と言い出したのを皮切りに、栞や月宮さんにも『似合わない』と言われ、
挙句の果てには名雪にまで『ごめん、わたしも似合わないと思う』と言われてしまったぐらいだ。
「あゆちゃん、次はもっと計画的にね」
「うんっ、名雪さんと相談して切りに行くよ」
「名雪と一緒なら前みたいにはならないだろうな。でも名雪みたいにロングにしてみるとかどうだ?」
栞によると、髪を切る前のロングのあゆは綺麗だったらしい。
「だめだよ。なんだか一気に大人っぽくなりそうだし……」
「あ…そうだな」
あゆは、あの冬の日々を克明に覚えていた。
それはまさに奇跡だった。
あの冬の記憶があるおかげで、俺たちは自然に家族のようになれたのだから。
しかし、少し違っているところもある。
あの冬のあゆは大人っぽい自分に憧れている年相応の女の子だったが、
目覚めたあゆの心は『小学生らしくないよ』と俺に言った子供のままだった。
そのため、いきなり大人っぽくなっている自分の姿に戸惑いを感じているようだ。
もっとも、俺から見たらまだ小学6年生と間違われてもおかしくない幼児体型なのだが。
どうしてあの時は大人になりたかったのか訊いてみると、『よくわからない』という答 えが返ってきた。
まあ皆が夢の中にいたような冬の出来事だ。
深刻に考えるだけ無駄だろう。
月宮さんから俺とあゆの関係は認めてもらっているのだが……。
『あゆの心が成長するまでは絶対に手を出さないこと。いいね、祐一君』
という念押しをされている。
『でも、こいつ、よく分からないとか言いながら俺に夜這いかけてきましたよ』
と答えると、あゆは赤面。
月宮さんは、秋子さんともども閉口していた。
『ま、まあ、学生の期間中に妊娠とかさせないように』
『ええ。わたし達は祝福しますけど、苦労しますよ』
大人としては止めざるを得ないが、止めようがないものはしょうがないという印象。
大人って大変だ。
「おはようございます」
今日はばっちり目を覚ました名雪がダイニングに現れる。
「あら、おはよう名雪」
「名雪さんおはようっ」
ダイニングの二人組が挨拶をする。
「あ、あれ? あゆちゃんどうしたの?」
名雪はきょとんとした目であゆを眺める。
「月宮さんの希望であの冬の格好を再現しているそうだ」
「そうなんだ。でもこの格好の方がかわいくて、あゆちゃんって感じがするよ~」
名雪がにっこりしながら言う。
「ありがとう名雪さんっ」
あゆは美人と言われるよりもかわいいと言われる方を好んでいる。
子供のままということもあるだろうが、秋子さんと月宮さんの影響だろう。
俺たちは各々自分の席について食事を始めた。
「……あゆ」
トーストを食べようとしたところで見かねて声をかける。
「何?」
「ミトンは取れ。ついでにコートも」
「あ…あはは、なんだか食べにくいし暑いと思ったよ」
あゆは照れ笑いをしながらミトンを取って机に置き、コートを椅子にかけた。
相変わらずどこか抜けたやつだった。
いつものように、俺と名雪、そしてあゆと一緒に通学路を歩く。
もちろん学校に行くのは俺と名雪だけだ。
あゆは朝の散歩を兼ねて俺たちについてくる。
名雪が寝坊した日は、律儀に一緒に走ってくれるのだから健気なものだ。
しかし、まだ足の弱いあゆはとにかくよくこける。
あゆがこける度に名雪があゆに手を貸すものだから、かえって遅刻してしまう。
まったく、俺も難儀な幼なじみ達を持ったものだ。
……いや、登校の件に関しては名雪が一番悪い。
そもそも名雪が寝坊しなければ、俺もあゆも問題なく歩いていけるのだ。
しかし、一度俺が名雪を置いてあゆと家を出ようとしたとき、あゆは頬を膨らまして動こうとはしなかった。
『名雪さんがまだだよっ』
俺が何度『ほっとけ、あいつが悪い』と言ってもあゆは譲らない。
あゆにとって、名雪は大好きなお姉さんで、離れるのは嫌らしい。
名雪も名雪であゆを妹のようにかわいがっている。
一応二人は同年齢なのだが……
あゆは外見も精神年齢もアレだし、姉妹って言っても違和感が全然ないんだよな。
以前、栞がそんな二人の様子を寂しそうに眺めていた。
仲が良かったという姉妹だが、相変わらず関係はぎくしゃくしたままだ。
さすがに、以前のように『妹はいない』なんて言ってるのを聞いたりはしないが、踏み込んだことも聞けない。
俺はともかく、名雪は香里との距離を測りかねて困っているようだ。
もちろん、以前のように姉と仲良くできない栞も。
『時間が解決すると思います』
とは言っていたが、それでもう半年以上が経過している。
「祐一、明日の文化祭どうするの?」
中ほどまで来たところで名雪が俺に声をかける。
「そうだな、明後日もあるわけだし、俺はとりあえず明日は帰って勉強する」
舞踏会があるだけに、俺たちの学校は文化祭まで変わっていた。
クリスマスパーティーを兼ねた形で、こんな2学期末の時期に開かれるのだ。
当然、それに合わせて期末テストは11月の末に終わっている。
しかし、考えてみれば悪い話ではない。
祭りを盛り上げる1、2年は試験が終わっているので、祭りに集中できるし、受験を控えた3年にはいい息抜きになるイベントだ。
しかも、3年は自由参加となっている。
文化祭の間は出席さえしたら、あとは家で勉強しててもいいのだ。
「名雪はどうするんだ?」
「陸上の後輩達が雪像作るから、その手伝いだよ」
小さくガッツポーズを取りながら意気込む名雪。
クラブはもう引退しているが、こういうイベントには先輩方も駆り出されるということか。
「名雪さん、何を作るの?」
「巨大雪うさぎだよ~」
「……それは手抜きじゃないのか?」
あんな雪の塊、わざわざ先輩方を引っ張り出してまで作るほどの物ではないだろう。
というより、シャベルがあれば一人でも作れるような気がする。
「違うよ。耳とか目とかも雪で作るんだよ」
名雪が不満顔で抗議する。
「何、じゃあ雪うさぎと言うよりはリアルうさぎの雪像か?」
「祐一君、言い方が変」
「ほっとけ、でどうなんだ名雪?」
「うーん、わたしは手伝いだからよく聞いてないけど、多分そうだと思うよ」
「だとしたら面倒だな。本当の雪うさぎだったら雪を丸めるだけでいいから簡単だけど」
「簡単じゃないよ~」
「そうか? じゃあ見てろよ」
俺はそこの車に積もっていた雪を無造作に取ると、手の上で軽く形を整えた。
そして、そこにあった適当な植物から耳と目の材料をいただく。
僅か数分で、雪うさぎが完成した。
「どうだ、即席だから多少形は怪しいけど」
「わ、祐一うまいね。わたしはもっと苦労だよ」
「それは名雪が不器用なだけだ」
「わたし、不器用じゃないよ~。あの人形だって……」
「あー、裁縫は得意かもな」
名雪の抗議を真面目に相手していると日が暮れるので適当に受け流す。
「うー」
名雪が不満げな顔で俺を見つめていた。
そういえば、あゆはどうしたんだ? こういうときは必ず名雪に加勢するんだが……
「できたよ。どうかな?」
あゆがそう言って俺たちに向かって両手を突き出す。
雪うさぎだった。
「わ、あゆちゃんもうまいよ」
「見ろ名雪、料理の下手なあゆでもこんな短時間で作ってしまうんだぞ。やっぱり名雪が不器用なんだ」
「料理とは関係ないよ!」
「うー、そうなのかな」
「うぐぅ、名雪さんも納得しないでよ」
「それはそうとこれは何だ?」
俺は、あゆの雪うさぎの尻の方に刺している葉っぱを指して訊いた。
「何って……尻尾だよ」
「…こいつ実はウサギじゃなくてウナギ犬だろう?」
「ウナギ犬?」
「いや、なんでもない。とにかくうさぎにそんな尻尾はない。とれ」
「え、ちぎるの? 可哀想だよ」
「そうだよ」
二人は同時に頬を膨らませて抗議する。
別の生物にされているうさぎを哀れに思うのは俺だけか?
というか、なぜ雪うさぎごときで非難の目で見られなければならないんだ?
「ああ、もう分かったからどうにでもしろ」
ヤケクソ気味にそう言って自分の作った雪うさぎを誰かの家の生垣の根元に置く。
名雪とあゆはまだ何か言いたそうな目をしていたが、俺にならって雪うさぎをその隣に置いた。
「で、あゆはどうするんだ文化祭?」
「え、ボクも行っていいの?」
再び歩きながら文化祭の話を再開する。
「日曜だけだけどな」
「え? 土曜日もあるんじゃないの?」
「土曜日は学校の生徒だけなんだよ」
「一般参加は日曜日だけだ」
「そうなんだ」
「で、どうするんだ? あゆが行くなら俺も行ってもいいぞ」
「えっ、祐一君は行かないといけないんじゃないの?」
「3年は帰って勉強しててもいいんだ。正直俺はやばいしな」
「わたしも手伝いが終わったら帰るよ」
「どうしよう? 祐一君の勉強の邪魔はしたくないし」
「馬鹿、勉強ってことならお前の方が心配なんだよ。だからあゆが行くなら俺も行ってもいいって思ってるんだ」
勉強というと、中学を飛び級しようとしているあゆのほうがやばいのは言うまでもない。
「うぐぅ、馬鹿じゃないもん」
「拗ねてる暇があったら答えろ。どっちなんだ? 行くのか? やめるのか?」
「……文化祭ってことは祐一君と学校に行けるんだよね?」
「まあそうなるな」
「じゃあ行くよ。祐一君と学校に行けるのはこれが最後だもんね」
「今だって同じようなものだろう?」
毎日一緒に登校してるのだから。
「違うよ!」
「そうか?」
「祐一、あゆちゃんをいじめちゃ駄目だよ」
名雪が俺を非難するような目で睨む。
「別にいじめてないぞ」
「でも祐一が悪い。あゆちゃんを困らしてるんだから」
「そうだよ」
「だから自分で自分をさも当然のように擁護するな」
俺はあゆの頭をポカッと軽く小突いた。
「うぐぅ、いじわるだよ」
「で、名雪。土曜日はともかく、日曜日お前はどうするんだ?」
「手伝いが終わったら一緒にまわるよ。いいかな?」
「俺は構わないぞ」
「ボクも。はやく手伝い終わってね」
「うん、任せてよ」
とても不安になるような間延びした声で名雪が答える。
……はっきり言って、こいつを陸上部から連れ出したほうが陸上部の連中も作業がはかどるんじゃないか?
「祐一、何かものすごく失礼なこと考えてない?」
「いや、至極当然のことを考えていたんだ。まあ気にするな」
「気にするよ~」
相変わらず間延びした声で抗議する名雪。
俺は少なくともこの抗議になってない抗議の声は気にならない。
ゆえに無視。
「ね、祐一君」
「なんだ?」
「栞ちゃんも呼んでいいかな?」
「栞か、俺は別にいいけど、香里が連れて……いや、それはないな。そうだな、呼んでやれ」
「うん」
栞のことは香里に任せておけばいい。
……とは言い切れないのが困ったところだ。
香里は、いまだに俺たちに栞のことをろくに話してくれない。
姉妹の現況は全て栞の口から聞いたものだ。
下手をすると、文化祭のことも知らせていないのじゃないかとさえ思う。
「うー」
「どうした?」
名雪が顔をゆがめて渋い顔をしている。
「……背中がかゆい」
今朝の雪で背中にしもやけをもらったらしい。
運悪く、手が届かない位置だ。
「自業自得だ。前にいれられなかっただけありがたく思え」
「うー」
そのあと校門に着くまで、名雪はあゆに背中をかいてもらいながらぶつぶつ文句を言っていた。
校門前であゆと分かれて教室に入る。
「げっ、相沢」
出くわすや否や、慌てて時計を確認する北川。
「どういう意味だ?」
言いたいことがよくわかっているので、俺は声を強張らせながら訊ねる。
「よかった、遅刻じゃない」
「チャイムが鳴ってたとしても、ここに石橋がいなければ遅刻じゃないだろ」
「それもそうだな」
北川は腕を組んで満足げに頷いていた。
「でも5分前に入れたのは久しぶりだね」
「そうだな…確か前に日直とか抜きで5分前に来れたのは……」
いつだ?
「相沢が来てからは10度目だ。ちなみに、相沢が来る前含めて水瀬が5分前に来れたのは15度目」
「お前はストーカーか?」
よくそんなくだらないデータをとったものだ。
「そんなわけあるか! 水瀬の知り合いの間じゃ有名だぞ」
「何、マジか?」
「英語の田中が語尾に『ね』をつける回数が、一時間に200回以上というのと同じくらいに有名だ」
それは俺も知っている。
授業中に暇な奴がカウントしていたらしい。
「名雪」
「何?」
俺は問答無用とばかりに名雪の右頬をつねった。
「ひゅういひ、いはいよ~」
「文化祭の美人コンテストに向けてアピールポイントでも作っているのか?」
思い返してみれば、あゆが水瀬家に来てから、こんなに余裕を持って登校できたのは今日が二度目だ。
つまり、それ以外の日はほとんど走らされていたことになる。
北川から具体的な数字を聞くと、名雪の迷惑ぶりに少しばかり腹が立った。
「なるほど、水瀬が去年ベストスリーに入ったのはそれでか…」
「そんなわへなひひょ~」
北川の話だと名雪は去年、校内美人ベストスリーに選ばれたのだとか。
まあ、容姿はあゆが見とれるだけあってなかなかだしな。当然といえば当然か。
「どうでもいいが、教室でそれは恥ずかしくないか?」
「…………」
周囲から俺と名雪に何ともいえない視線が降り注いでいる。
『いとこ同士にしても仲いいよね~』と茶化すような視線が。
落ち着け、ここで名雪の頬から慌てて手を離したら脈ありと思われてしまう。
俺は更にもう一回堂々と名雪の頬を引き伸ばしたあと、ゆっくり手を離した。
「いきなり酷いよ」
「酷いのはお前だ。毎朝俺だけじゃなくて、病み上がりのあゆまで走らせやがって」
「うー」
さすがにこれには反論できないらしい。名雪は唸るだけだった。
「そういや、去年2位の美坂は今日も休みか?」
俺は時計と香里の席を見比べる。
もう3分前だ。香里が来る気配はない。
「みたいだな」
俺は淡白に答える。
はじめ、香里が休み始めた頃はみんな騒いだものだが、今では当たり前のようになっている。
慣れというのは恐ろしいものだ。
「美坂出席日数やばいらしいけど、大丈夫かな」
「え、そうなの?」
名雪がびっくり、といった表情で言った。
「ああ、なんかそういう噂を聞いた。あと5日とか」
確かに、この数ヶ月香里は休みがちだ。
勉強のし過ぎで体調をよく崩しているのは知っているが…
最近は人付き合いを煩わしく思って来ていないような節がある。
「香里が留年なんて悪い冗談だ」
「だろ?」
「香里……」
名雪は不安そうに誰もいない机を見つめていた。
「ここんところ美坂は学校に顔出してないし、今年は水瀬がコンテストで優勝かな?」
「去年の一位はどうしたんだ?」
「あー、去年の一位はもう卒業してる。一位で当然って感じの人だった」
「そんなに凄かったのか?」
「前の3年の卒業式で答辞やってた人だ」
「ああ、あの人か…納得」
人の容姿を一目見て判断するのもなんだが、確かに卒業式の答辞に立った女生徒は別格だった。
全てにおいてほぼ完璧にまとまった姿、そして行動の端々から感じられる礼儀正しさ。
それでいてそれを嫌味と感じさせない穏やかで優しげな声。
かったるい卒業式の行事進行にあくびをしていた全員の目がその瞬間輝いたのを覚えている。
男子も女子も関係なく。
あのとき隣に座ってた名雪も見とれていたくらいの絶世の美女だった。
まるでどこかのお嬢様、いやお姫様みたいな人だった。
いや、実際お嬢様だったらしいが。
「しかし、名雪が美人コンテスト優勝候補か……信じられないな」
「わたしも、去年は気が付いたら選ばれていたんだよ」
「寝てただけじゃないのか?」
「うー、違うよ」
あゆが言うように、名雪が綺麗だというのは納得できるが、身近にいるとあまり実感が湧かない。
「一部の連中がやってることだからな、どうしても有名な奴が選ばれるんだ」
「名雪はやっぱり奇行で有名なのか?」
「奇行って何?」
名雪が頬を膨らましながら尋ねてくる。
「色々だな」
脈絡なく寝ること、天然なこと、猫を見ると人格が変わること、ぱっと思いつくだけでもこれだけある。
最近ではいちご中毒とかいう属性まで付加されたらしい。
いうまでもなく、食堂のAランチと百花屋のイチゴサンデーを食べまくっているのが原因だ。
「まあ、それもあるだろうが、やっぱり陸上と見た目だろうな」
「北川君までなんだか酷いこと言ってない?」
「褒めているんだ」
「え、そうなんだ。ごめんね」
あっさり騙されるなよ……
半分は間違いなく馬鹿にしてる発言だったぞ。
そう思っているとチャイムが鳴り、同時に石橋が入ってくる。
俺達は話を切り上げて自分の席に戻っていった。
といっても俺達の席は去年からほとんど変わらず、今学期は去年と同じ配置になっていた。
いや、北川は誰かと席の交換して俺の後ろ、つまり香里の隣に来たらしいが。
ホームルームの間、北川が小声で話しかけてくる。
「相沢、お前もし投票用紙もらったら誰に投票するんだ?」
「俺は名雪か香里しか知らん。ここのところ香里は怖いし、入れるなら名雪だな。お前は?」
「オレは多分美坂だと思う。よっぽどのダークホースでも出てこないかぎり、あの二人がトップだろうな」
「二人とも色々と有名だからな。しかし、そのコンテスト、どこが主催してるんだ?」
「たしか写真部だ」
「写真部?」
何故にそんなマイナーそうな部が?
「もともとは写真部が運動クラブの大会で撮った写真を使ってでっち上げたイベントらしい」
「なるほど」
「なんか冗談企画だったのが受けて毎年毎年エスカレートしていったんだとか」
…つくづくよく分からん学校だ。
そんなコンテストがあると知ったときも思ったことだが。
「ま、日曜日参加するならのぞいてみたらどうだ? 結構面白いぞ」
「そうだな、日曜は参加予定だし、最初で最後の文化祭楽しませてもらおうか」
喋っているうちにホームルームは終わり、授業が始まった。
校舎のいたる所から金槌や、のこぎりの音がする。
1・2年が文化祭に向けて最後の大仕事をしているのだろう。
3年はいつもどおり授業だが。
学校が終わると俺は名雪と一緒に一直線に家に向かっていた。
数ヶ月前は商店街にもよく寄っていたが、最近は帰って勉強が多い。
最初の関門、センター試験はもう目の前だ。
「なあ、名雪お前この前のセンター模試の自己採点どうだった?」
俺は名雪に来週返却予定のセンター模試の自己採点の結果を訊いてみる。
「500点ちょうど……」
名雪は伏し目がちに答えた。
「お前試験中寝てただろう」
「……英語のときにちょっとだけ」
寝てなかったら550くらいは、いってるはずだ。
どう考えても鈍そうなのだが、名雪は受験界でも平均的な成績だったりする。
「本番大丈夫なのか?」
いくら練習とはいえ、普通この時期の試験で寝ていられるはずもないのだが、そこはやはり名雪。
睡眠に関しては、一般論なんか通じない。
「12時間寝ておくから大丈夫だよ」
名雪はにっこりと微笑む。
俺は12時間も寝てたら色々忘れてしまいそうで怖い。
試験前は6時間くらいが妥当だろうな。
「祐一はどうだったの?」
「あ、俺か? たしか671だったと思うぞ」
「わ、凄いよ。前から30点あっぷだね」
「まあな、部活やってた名雪と違ってずっと勉強してたわけだし。でもまだまだ合格は遠いぞ」
文系の連中からすれば決して悪い点ではないのだが、医学部志望だと話は別だ。
本番までにせめて一度くらいは700以上を取りたい。
はっきりいって今回は運がよかった方だ。
冷静に見て、本番では650くらいが俺の実力だろう。
「あゆちゃんのおかげだね」
名雪が、何が嬉しいのかニコニコ微笑みながら言う。
「おかげじゃない。あいつのせい」
「勉強できるようにさせてくれたのに、そういう言い方しないの」
「いや、そんな意図はないだろ。俺が勉強に集中できてるのは……」
集中できてるのは……何だ?
何故かふいに不安な気持ちが沸き上がる。
その気持ちを振り払うかのように、俺はかぶりを振った。
「まあ、そうなのかもしれないな。結果的にってやつだが」
「あゆちゃんのことになるといつもそうだね」
「うるせえ」
そんな様子を見ながら、名雪は何が嬉しいのか微笑んでいた。
「この近くにある国立大学の医学部に行くんだよね?」
「まだ行けると決まったわけじゃないぞ」
「それはわたしも同じだよ~」
「せっかくこの近くに大学があるわけだし、そこにしない手はないだろ。だいいち一人暮らしなんて親父達が認めてくれるとは思えないしな」
もっとも近くとはいえ電車で1時間はかかるのだが。
「じゃあ大学も一緒に行けるね」
「二人とも通ればな」
「祐一…夢がないよ~」
「事実を言ったまでだ」
名雪もこの街の大学を受けるつもりだ。
学部はセンターの結果次第。
つまり、大学には入れればそれでいいのだ。
将来は大学で陸上でもやりながら適当に考えるつもりらしい。
できるなら教育学部に行きたい、と言っていたが。
「まあ、俺もあゆや名雪と一緒にいられるほうが嬉しいぞ」
「うんっ、そうだよね」
名雪は笑顔で頷いていた。
正直、俺はもうこの街を離れたくなかった。
水瀬家は俺の居場所なんだと思う。
一度は嫌った街なのにな……
そう思うとなんだか皮肉で笑えた。
「あら、わたしといるのは嬉しくないんですか?」
「うわっ!?」
「わ、お母さんだよ」
いつの間にいたのか、秋子さんが後ろに立っていた。
全然気配を感じなかったぞ。
「そ、そんなことないですよ。もちろん、秋子さんがいてこその水瀬家じゃないですか」
「今更言い訳ですか?」
秋子さんは目を閉じながら穏やかに言う。
……無茶苦茶怖いです。
「い、いえ、いるのがあたりまえで…というか秋子さんが水瀬家で……」
もはや何を説明しているのか自分でもわからない。
「冗談よ。先に帰って夕飯の用意をしてますね」
秋子さんは頬に手を当ててにっこりと微笑むと、早足に家へ帰っていった。
「び、びっくりした」
「買い物の帰りだったみたいだね」
「これからは秋子さんに関する言動には気をつけよう」
噂をすれば影…の的中率はあの人に限って100%の気がする。
「はい、祐一」
「ん?」
名雪が何かを俺に差し出す。何だ?
「……たい焼き」
「お母さんが渡してくれたんだよ」
俺が慌てふためいている間にそんなことを……
「あゆちゃんへのおみやげのおすそ分けかな?」
「だろうな。あいつはたい焼きなら5匹くらいは当たり前だし」
秋子さんが持っていた紙袋は結構膨れていたような気がする。
「5匹……わたしそんなに食べられないよ」
……イチゴサンデー5杯を食べた後に夕飯まで食べている奴が何を言ってるのやら。
そして、予想通りというか、家に帰るとあゆがホクホク顔で三匹目のたい焼きをかじっていた。
ふぁーあ、もう1時か。
トイレに行って寝るとしよう。
俺は勉強を切り上げて廊下に出た。
当たり前だが、名雪は寝ていた。
あゆは、と……電気の光が漏れている。
まだ起きているのか、頑張っているな。
俺はそう思いながらトイレに行った。
その帰り、あゆの部屋を通り過ぎようとすると……
「うぐう……」
何だ…独り言か? 難しい問題でもやっているのだろうか?
「うぐう…うぐう」
ちょっと待て。
『うぐう』ってなんだ?
あゆの口癖は『うぐぅ』だったはずだ。微妙に発音が違う。
「あゆ、入るぞ」
とりあえずノックしてお邪魔する。
「うぐう……」
案の定、あゆは机に突っ伏していた。
「やっぱりいびきか」
風邪をひいたらまずいし、今すぐ叩き起こしてやろうと思ったが……
「さぼってるわけじゃないしな、あと一時間は寝かしてやろう」
とりあえず、俺は部屋に戻って少し作業をしてからあゆの部屋に戻った。
「これでよし、と」
俺はあゆの耳元に、音楽再生機を置いておいた。
「…俺、受験生なのに何やってんだ?」
ふと、自分のやっていることが馬鹿らしく思えてきた。
いや、馬鹿らしいどころか、馬鹿そのものかもしれない。
「寝よ」
俺はそそくさとあゆの部屋から出て、眠りに入った。
…………。
……。
「うぐぅーーーーーーっ!!」
突如闇をつんざく絶叫が聞こえたかと思うと
ガラガラガッシャーン!
何かが階段を転がり落ちる音がした。
想像をはるかに上回る反応だった。
「死んで…ないよな」
あの音だし、その可能性もある。
俺は慌てて部屋を飛び出し、階段を降りた。
「うぐぅ…い、痛いよ」
どうやら無事のようだ。
と、そこで電気がつく。
「何事よ?」
騒音で目を覚ましたパジャマ姿の秋子さんだった。
「あゆが寝ぼけて階段から落ちたみたいです」
「違うよ、音楽が」
痛みで冷静さを取り戻したらしい。
「音楽?」
「これのことじゃないですか」
ポインポインポイン、ポイン・ザ・バイ。ポインポイン……。
「スーパーのポイント倍押しデーのBGMですね」
秋子さんはあっさり言い当てた。
しかし、あゆは不満顔だ。
「違うよ、ボクが聞いたのはもっと怖い……」
「怖いか? ポイントが?」
「そんなわけないよ!」
むきになって反論するあゆ。
だが、その頭に秋子さんの手がおかれる。
「はいはいそこまでよ。あゆちゃん、怖い夢を見たのね」
「うぐぅ…なんだかそんな気がするようなしないような」
「あゆちゃん、わたしと一緒に寝ますか?」
「え、ううん、いいよ。まだもう少し勉強するから」
「そう、あまり無理をしたら駄目よ」
「うん」
秋子さんは、少し残念そうな表情をして部屋に戻っていき、それに続いてあゆも自分の部屋に消えた。
……ふう、どうやら事なきを得たようだな。
証拠隠滅のために、ポイント倍押しデーのBGMを持っていてよかった。
実際にタイマー再生で鳴ったのは、回収済みのお化け屋敷のBGMである。
ホラーゲームのBGMでもよかったのだが、ステレオタイプなものの方が効果があるのでは?
と思って、実行してみたのだが……まさかここまで効果があるとは。
あゆの怖がりも相当なものである。
文化祭でお化け屋敷に連れて行くのはやめておこう。
どんな怪我をするかわかったものではない。
…………。
……。
どこに行っていたんだ主人公!
僕達はキミを待っていた!!
てな感じでようやくKanonの主人公、相沢祐一に視点が返ってくる三章。
そしてこの章は今までの1章2章の数倍の長さを誇ります。
つまり、ここが本当の物語の始まりというわけですね。
勘のいい人なら、最終日が何日になるかは予想がつくのではないかと思います。
そう、このこの物語は、『彼女』のための物語なのです。