Kanon Trilogy   作:ミサ菓子折(LRA)

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12月14日(火曜日)

     12月14日(火曜日)

 

 

 数ヶ月前まで走るのが苦手だったあゆに少しは気を使っていた時の習慣のおかげか、名雪はかろうじて歩いても学校に間に合う時間には家を出るように動いてくれる。

 もっとも、俺が起こさなかったらずっと寝てるのは相変わらずだが……

 とにかく、そのおかげでゆっくり3人で話しながら学校に行けるわけだ。

 名雪の努力には感謝しよう。

 少しだけだが……

「そういえば、昨日月宮さんと秋子さんが話してるのを聞いてて不思議に思ったんだが……」

 『今日はいい天気だね』とかありきたりな話をしている名雪たちに話を振る。

「何かあったの?」

「秋子さんが名前で呼ばない人って珍しくないか?」

「そうかな?」

 …やっぱり、秋子さんが他人をどう呼んでいるか、まだ水瀬家で日が浅いあゆにはわからないか。

「そう言えばそうだね。お母さんが苗字で呼ぶ人って月宮さんがはじめてじゃないかな?」

 さすがに秋子さんとの付き合いの長い名雪だ。

 俺の言いたいことにすぐに気付いてくれた。

「そうだったんだ」

「そんな観察力じゃそのうち食い逃げに失敗するぞ。食い逃げは店主という人間の観察から始まるんだからな」

「うぐぅ…もうしてないよ」

「祐一、話逸らしてあゆちゃんをからかわないで」

 名雪に睨まれてしまった……。

 仕方ないだろう、性分なんだから。

「わかったから睨むなって……」

 もちろん全然わかっちゃいないのだが。

「うー」

 …いい加減鈍い名雪でも俺が懲りてないことがわかったようだ。

 低い唸り声を上げて俺を睨んでいる。

「…ちっとも怖くないぞ、名雪」

「うー……」

 俺が思ったとおりのことを素直に言うと名雪はしょんぼりしてしまった。

 そこで怒鳴るとかすれば少しは迫力あるんだがなあ……

 まあ、名雪のキャラじゃない。

「しかし、よく考えてみれば俺月宮さんの名前知らないぞ」

 頭に手を置いて、少し考えるような仕草をしながら言ってみる。

「そういえばそうだね」

 秋子さんがいつも『月宮さん』と呼んでいるものだから本名を聞いた覚えがなかった。

 あゆは『お父さん』と呼んでいるし……

「あゆ、月宮さんの下の名前って何なんだ?」

「え、えっと……」

「お前まさか知らないとか……」

「そんなわけないよっ!」

 いくらなんでもそれはないよなあ。

 父親のことを全く知らない名雪ならともかく、実際に顔合わしてる父親の名前を知らない奴がいるわけない。

「で、なんて言うんだ?」

「…………」

 何故黙る?

「あゆちゃん、言いたくないなら言わなくてもいいんだよ」

「待て名雪、これはそんな深刻な話題じゃないだろ」

「何か深いわけがあるかもしれないよ」

「心配するな、あゆに限ってそれはない」

「うぐぅ、変なこと断言しないで」

「以前こいつが俺に言った深いわけとやらは『腹が減ったから食い逃げをした』というものだった」

「あゆちゃん……」

「うぐぅっ! 名雪さんまでそんな目で見ないで」

 唯一の味方にも見放されたようだ。哀れな奴め……

「というわけだ、おとなしく吐け」

「なんでそうなるんだよ!」

「あゆちゃん、言ってしまったほうがスッキリすることってあるよ」

 …さりげなく俺より凄いこと言ってないか名雪?

「わかったよ……でも笑わない?」

 様子を伺うように俺達の顔を見るあゆ。

「任せろ」

「笑わないよ~」

「うぐぅ…二人とも、もう笑ってる」

 しまった、面白そうなのでついにやけてしまった。

 ちなみに、名雪は単に素の顔が笑顔なだけである。

「まあ、前置きはもういいから。で、実際は何なんだ?」

「前置きって……わかったよ」

 少し間を置いてあゆは躊躇いがちに口を開いた。

 

「……あゆた」

 

「え?」

「だから、『鮎太』だよ。『月宮鮎太』。魚の鮎に太いって書いて鮎太」

 月宮鮎太……。

「…………」

「…………」

 しばらく俺と名雪は何も言わずに固まっていた。

「うぐぅ、どうせなら笑って…」

 笑うなと言ったり笑えと言ったり忙しい奴だな……。

「笑えと言われても…案外普通の名前だったからなあ」

 少々期待はずれというのが本音だ。

「…うん」

 って、お前も何か期待してたんかい名雪。

「せめて『ジョージ』とか『ブッシュ』とかじゃないと笑えないぞ」

「お父さんは日本人だよ……」

「わたしの名前よりもっと変わった名前なのかなって思った」

 そういえば、以前名雪の名前を変わった名前って言ったなあ。

 に比べて『鮎太』なんて俺の名前と比べても別に何の変哲もない名前のような気がする。

「強いて言うなら、親子揃って『あゆあゆ』ってことしか突っ込みどころがないな」

「それで笑われると思ったんだよ……」

「しかし、よく考えたら変だな。普通親父の名前を娘につけるか? 息子ならともかく」

 昔の戦国武将のケースから考えると男が父親の名前から一字をもらうケースは多い。

「まさか…男の子と間違って名前をつけられた!?」

「うぐぅ、ボク女の子」

 本当にからかいがいのあるやつだ。

 すぐ乗ってきてくれる。

「それにボクの名前はちゃんと女の子らしくって考えられてるんだよ」

「そうなのか?」

 どのあたりが女の子らしいのかよくわからない。

 『あゆ』だけじゃあ女の子云々というより、魚のイメージの方が強いが。

 月宮さんの『鮎太』はどう考えても男らしいのに対して、『あゆ』はどう考えても女の子には結びつかなかった。

「お母さんとお父さんがボクに名前をつけるとき、女の子らしいようにって平仮名で『あゆ』にしたんだよ」

「そういえば、平仮名ってやさしい感じがするね」

「うん」

 自分で言うな。

「確かに、平仮名は昔の女文字だからな」

 月宮さんらしい発想と工夫だと思う。

 読みは同じでもイメージがガラリと変わる。

 『鮎』だと、男か魚の名前にしか思えない感じがするから不思議だ。

「あゆ…俺、お前がはじめて女の子らしく思えたよ」

 いや、本当に。

「…今までなんだと思ってたの?」

「珍獣たい焼きイーターうぐぅ」

「うぐぅ…珍獣」

 あゆは涙目で不満そうに俺をじーっと睨んでいた。

「しかし……」

 もうすこしからかおうと思ったが、横で名雪も威嚇するように唸っているので話題を変える。

「あゆはともかく、女の子の名前って言っても名雪と栞は本当に変わった名前だな」

「そうなのかな?」

「女の子らしいイメージはあるけど、普通じゃない感じがする」

 なんというか、こう一般的な女の子のイメージと結びつかないというか……

 シオリにしても普通は詩織だと思う。

「うー」

「いや、名雪も栞もいい名前だって。ただ、やっぱり一般的な女の子のイメージとは違うような」

 何も睨まなくてもいいだろう…名雪。

「どんなのが普通の女の子らしい名前なのかな?」

「そうだな、やっぱり秋子さんなんか分かりやすい。逆を言うと俺の名前だってすぐ男って分かるだろう?」

「言われてみればそんな気がする」

「あゆは……紙に書いたら女の子ってすぐにイメージできるな」

 さっき説明されたせいかもしれないが……。

「うーん、どうすればいいのかな?」

 いや、どうすればいいとかそういう問題じゃないのだが……

「そんなに気になるなら旧名に変えたらどうだ?」

「え? 旧名って?」

「昔の名前のことだ」

「え、名雪さん昔は別の名前だったの?」

「うー、忘れちゃったのかな? 憶えてないよ~」

 アホかこいつら……。

 あゆはともかく自分の名前忘れるやつがどこにいるんだ。

 言うまでもないが、からかっているだけである。

「もう忘れたのか? 再会した時は『花子』って名前だっただろ?」

「そうだったんだ…。それだったらわかりやすいね」

 …少しは疑え。

 どうやらあゆの中では、男は太郎、犬はポチ、猫はタマという図式がしっかりとできているらしい。

「祐一、あゆちゃんに嘘教えないで」

「『憶えてない』なんておかしなことを言うお前が悪い」

「うー……」

 からかわれる原因を自分から作ったことくらいはさすがに鈍い名雪でもわかったとみえる。

 名雪は反論できずに唸っていた。

「俺の周りでどこから見ても女の子の名前とわかるのは秋子さんと香里だけだな」

 そう言ったところで、校門前についた。

 そういや、香里は今日来てるだろうか?

 来てたらこないだの校門前のことは追及しないといけないな。

「行ってらっしゃい、祐一君、名雪さん」

「うん、行ってくるよあゆちゃん」

「知らないおじさんについて行くなよ」

「どうしていつもそんなこと言うんだよ」

 これ性分なり。

 と心の中で扇子片手に愉快そうに言っておく。

「川を泳いで帰るなよ」

「そんなことやるのは祐一君だけだよ……」

 俺でもやらないって。

 そんなことやる奴は……

「既にやっていたのか、マイ・フレンド」

 

 

「何がだ?」

 

 

 噂をすればなんとやら、ちょうど北川がやってきた。

 何故かびしょ濡れで……

「川を泳いで登校か…お前も物好きだな」

「オレの通学路に川はないぞ」

 あったらこのくそ寒い中でも泳いでくるのか?

 相変わらず侮れない奴だ。

「おはよう、北川君」

「おはようだよっ」

「おう、おはよう。しかし、羨ましいな相沢。朝からこんな二人と……いや、なんでもない」

 かなり悔しそうに聞こえるぞ。

 まあ、気持ちはわからなくもないが……

「今度は12人姉妹の家にでも生まれることを願うんだな」

「そうだな。来年の初詣の願掛けはそれでいくか……」

 なんて邪念に満ちた参拝者だよ。

 巫女さん見たさに神社をはしごする奴よりもある意味たちが悪い。

「北川君どうしてびしょ濡れなの?」

 洗濯中のものを着てきた、という感じではなさそうだ。

 少し汚れているようだし……

「学校に行く途中、屋根から半分溶けた雪が落ちてきたんだ」

 悲惨というか漫画のような奴だな。

「寒くないの?」

「無茶苦茶寒い」

「早く教室に入った方がいいよ」

 心配そうにあゆと名雪が北川を気遣う。

 実にほのぼのした光景だ……

 っと

「時間やばくなかったか?」

「あ……」

「走るぞ」

「う、うん、じゃあねあゆちゃん」

 俺と名雪は頷くと同時に昇降口に向かってダッシュした。

「ふ、服が重い……か、体が震える……」

 その後を北川がヨタヨタと情けない足取りで追ってくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 名雪と一緒に教室に駆け込み、見知ったクラスメートと軽く挨拶して席につく。

 問題の香里は…いないか。

 石橋はまだいないのかクラス中の人間が勝手気ままなことをしている。

 おかしいな…チャイムはもう鳴ってるはずだが?

「祐一、あれ…」

「ん?」

 名雪の指差す先を見てみると、黒板に『自習』と書かれてあった。

 『静かに』……とも書かれているが、お約束でそんなものが守られているわけがない。

「さ、寒い……。走るんじゃなかった……」

 と、そこに、凍死寸前状態の北川が転がり込んできた。

 それでも走らなきゃいけないのが遅刻という言葉の強制力だ。

「お? 何だまだ石橋来てないのか?」

「悪運の強い奴だな…お前」

 俺はそう言って黒板を指差してやった。

「自習…か。相沢、何をして遊ぶ?」

「自習と聞いていきなり思いつくことが遊びかい!」

「違うのか?」

 …目がマジだ。

 受験寸前とかいう緊張感はこの男には絶無なんだろうか?

 まあ、トランプ広げたりしている連中が見えるこの状況で『勉強』などありえないような気もするが…

「俺は勉強する」

 昨日の午前中は全然勉強してないからな。

 しかし、俺がそう言うと北川はさも驚いたような顔をした。

「相沢…お前熱でもあるのか?」

「頭沸いてるのはお前だドアホ」

「そうか? 水瀬だって…」

 北川につられて隣の名雪の席に視線を向ける。

「くー」

 案の定寝ていた。

 受験直前の自習時間に自主的に勉強しようなんて相当おかしい行為なんだろうか?

 北川の発言に、お休み中の名雪。

 そしてクラスの喧騒を見ていると、おかしいのは本当に自分のような気がしてくる。

「って、元会長はどこ行ったんだ!?」

 この騒がしいクラスを見てあの真面目な元会長がほったらかしとは思えない。

 しかし、クラスを見回しても彼の姿はなかった。

「図書室にでも逃げたんじゃないか? あいつうるさいの嫌いみたいだから」

「……おい」

 なんて薄情な元会長だ。

 ……もとい委員長だ。

 

 

 ザワザワ

 ザワザワザワザ…

 

 

「俺も逃げよう」

 出た結論は俺も元会長と同じ敵前逃亡だった。

 薄情って、人のこと言えないな俺も。

「ところで、いったい何で自習なんだ? 隣のクラスもうるさいが」

 隣どころか学校中うるさい気もする。

「まあ、文化祭の後だからな」

「どういうことだ?」

「打ち上げで羽目を外した連中に関する職員会議だろう」

「なるほどな」

 どこの学校でも祭りの後で大なり小なり人様に迷惑かける奴がいるものだ。

 石橋先生ご苦労様といったところだな。

 帰り間際に校門で石橋達が目を光らしていた理由がわかった気がする。

 とりあえず、2時間目まで自習らしい。

 黒板でそれを確認して教室をさっさと逃げ出すことにした。

 

 

 図書室に向かう途中、勉強道具を持って教室を抜け出す生徒を数人見かけた。

 よかった…俺だけがおかしいわけではなかったらしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…というわけで、受験希望者は模試の結果を持って面談に来るように。あとは昼まで自習だ」

 二時間目に現れた石橋はそう言って、また早々と教室を去っていった。

 

 …………

 ……

 

 俺は返却された試験の成績表を見て固まっていた。

「……マジ?」

 いや、それなりに手ごたえは感じていたけどこれは……

「祐一、どうだった?」

 名雪がそう言って横からぴょこんと顔を出す。

「わ…」

 そして名雪も俺の試験結果を見て固まってしまった。

「何だ? 何かあったのか…って、うおぉ!」

 名雪の様子が気になったのか、北川も後ろから俺の成績表を覗き込む。

 そして、全員揃って固まってしまった。

 その視線の先には……

 校内順位『1位』の表示が。

「凄いよ~。祐一」

 名雪がまるで自分のことのように喜んでくれる。

 こう含みのない笑顔で祝福してもらうのは悪い気はしない。

「しかし、美坂はどうしたんだ?」

 そう、それがどうにも腑に落ちなくて素直に喜べないのだ。

 確かに今回は自己採点で校内5位くらいは狙えるのではないか?

 という自負はある程度あったし、期待もしていた。

 無論香里には絶対負けると思っていたのだが……

 そもそも俺の点数はこないだ名雪に話した予想通りの671点。

 いくら調子が悪くても香里なら軽くこの50点以上は取ってくるはずだ。

 越えられない壁と感じていたものをあっさり知らないうちに越えてしまったようで何だか宙ぶらりんな気分である。

「それはそうと相沢。面談はいいのか?」

「あ、俺からか」

 面談の順番は出席番号順。

 つまり名前順だ。

 見ると他の面談希望者はもう教室を出てしまっている。

「まず。急いで行ってくる」

 俺の後の3人は面談室の前で待機。

 ようは俺が出て行かなかったら寒い廊下で待ちぼうけである。

 後で文句を言われるのはいうまでもない。

 急いで模試の成績表と簡単な筆記用具を持って俺は席を立った。

「行ってらっしゃいだよ」

 名雪…頼むからみんなの前でそういう誤解を招きそうな笑顔と挨拶はやめてくれ。

 嫌じゃないが、やっぱり恥ずかしい。

 

 

 

 

 

 

 昼休み、食堂で輪を囲んだ俺たちの話題は当然、面談で石橋に何を言われたか、だった。

「石橋の奴……オレに何か恨みでもあるのか?」

「酷いよ、あんなに怒らなくても……」

 の、筈だったがなんだか俺以外はさんざんな面談だったらしい。

 しょっぱなから北川と名雪は不機嫌だった。

「お前ら帰ってくるのが妙に遅いと思ったら、二人とも怒られてたのか」

 面談で長い時間かかるやつは決まっている。

 説教を受けるやつか、微妙な成績で志望校を担任と一緒に迷うやつだ。

 で、二人揃って前者だったらしい。

「ちょっと400越えなかった位であそこまで目くじら立てなくてもいいじゃないか」

「400以下って…半分なかったのか北川」

 ちなみに英語・数学・国語が各200点、社会・理科が各100点の800点満点だ。

「国語が14点だったんだ」

「記号問題だけのマーク試験で何でそんな点数が取れるんだ…」

 意図的に正解を外して選ばないと普通そんな点数取れないだろう。

 同じ記号だけ選んで全問埋めても40から70は取れるらしいのに…

 ある意味才能だ。

「で、何点だったんだ?」

「342点」

「どこがちょっと越えてないだ! 余裕で半分ないだろ!」

 石橋が怒る理由もわかる気がする。

 この時期にここまで危機感ないやつと面談してたんじゃあ胃に穴も空くだろう。

 素直に進学諦めてくれる方が担任にとってもありがたいに違いない。

「なあに、社会と理科なら今からでもいくらでも上るって」

「ちなみに社会と理科の合計点は?」

「20点」

 ……そりゃもう下がりようがないだろ。国語も含めて。

 ていうか、数学と英語だけで7割強の300点取ったのか?

 出来てる科目と出来てない科目が歴然としすぎている。

 ネタでやってるんじゃないだろうな?

 なんだかそう邪推もしたくなる極端ぶりだ。

「北川…がんば~」

「そのやる気のない応援は何だ相沢」

「べ~つ~に~」

 真面目に相手すると、マジになってる自分が馬鹿らしくなるだけだ。

 北川は非常に不服そうだったがあえて無視。

 少しはショックを受けて真面目にやって欲しい。

 いや本人の中で真面目かどうかは置いといて、見た目にもという意味で。

 これで一度も赤点取ったことがないというのも驚きだが、赤点を逃れるのと入試を切り抜けるのとは別問題だぞ。

 それを理解してないからこその余裕なのだろうか?

 ある意味、北川のチャンプな態度は惚れ惚れするものがある。

 絶対に見習いたくはないが。

 

「で、名雪はなんで怒られたんだ?」

「うん、酷いんだよ。自己採点から50点も上ってたのに石橋先生ったらカンカンで……」

「待て、それは怒って当然だ」

 北川といい俺の周りにはまともなのがいないのか?

 センター試験は全部記号問題のため、問題用紙に答えを書き込んでおけば正確な自己採点が出来る。

 本番ではすぐに試験結果は返ってこないので、学力だけではなく正確な自己採点ができる技術も要求される。

 といっても、点数計算のミスや解答欄の記入ミスがない限り基本的に自己採点と結果とに誤差はない。

 むしろ誤差が生じる時は圧倒的にマイナス方向に働くことが多いわけだが…

 俺の目の前にいる能天気娘は50点も上ったらしい。

 このセンター試験、大学を受けるための全国共通の資格試験みたいなもので、これの結果が悪いと下手をすると大学の入試から門前払いをくってしまう。

 逆を言うと、これでいい結果を出しておくと有利にもなるのだが。

 そういうわけで50点も違えば受けられる大学も学部も大きく変わってくる。

 つまり、正確な自己採点が出来ないのは致命的ということだ。

 これを本番で誤まったばかりに涙を飲む学生が毎年少なからず存在する。

 …とまあ、普通は採点ミスで点数が上っているのは喜ばしいことであるのだが

 今回の場合は喜ばしいことではない。

 しかも50点という大きな変動。

 それがプラスの方向となると前代未聞に近い。

 ……少なくとも俺の中では。

 そもそも、僅かな誤差があるだけでも小言を言われることもあるのに、50点もやっているとなると担任が怒るのも無理はないことだ。

「でも、50点も上ったんだからいいことだよ」

「何をどうやったらマークミスで50点も上るんだ……」

 まったくもって理解不能である。

 たまたま解答欄をずらして書き込んでしまった答えがそうもうまく当たるものだろうか?

 いや、待て。名雪みたいに人と1メートルほど感覚のずれたやつは解答欄をずらしてはじめて答えが合うようになるのでは……

「祐一、何か今信じられないくらい失礼なこと考えてない?」

「思いっきり考えてる。ていうかお前が信じられん」

「うー」

 真っ向から肯定されて名雪は唸るしかないようだった。

「オレも自己採点だけはミスったことがないぞ」

「お前はその前にミスが起こるくらいの点数を取れ。だいたいお前と名雪の点差200点も開いてるぞ」

 14点や20点なんて採点ミス以前の問題だ。

「何!? 水瀬は500あるのか!?」

「550点だ」

「…マジ?」

 何となく気持ちはわかるぞ北川。

 このいかにも要領悪そうな名雪が中堅大学クラスの点数はクリアしてるんだからな。

 陸上やっててそれだから実は結構勉強の才能があるのかもしれない。

「…あれ? 何で祐一わたしの点数知ってるの?」

 名雪が横で首をかしげていた。

「こないだ帰り道、500点って言ってただろう」

 そこから50点上ったんだから550のはずだ。

「あ、うん。言ってたね」

 ……待てよ?

 確かそういえばその時…

 そうだ、間違いない。

「名雪…お前ひょっとしなくても英語の採点中に寝てたな?」

「え? えっと…」

 英語の試験中寝ていたとか言ってたが、本当はそうじゃなくて…

 俺がそう問い掛けると、名雪はしばらく目を泳がせてから

「……あ、そういえば英語の長文問題の採点中の記憶がないよ~」

 と謎が解けてスッキリしたと言わんばかりの笑顔を見せた。

 俺の方は頭痛がしてきたが。

 俺の周りにはまともなやつはいないのか、ほんとに…

 受験本番を控えた、重要な模試だぞ?

 なのにネタのような点数を取ってる北川と、マイペースの名雪。

 こいつらに緊張感とかいうものはあるんだろうか?

 マジになっている自分が馬鹿らしく思えてくる。

「まったく……本番の時は何度も採点の見直しやれよ」

「わかったよ~」

 信用度21%くらいの脱力を誘う笑顔で名雪はそう答えた。

「はあ……」

 疲れる。

 

 

「ああ、そういえば…自己採点で思い出した」

 ひとしきり疲れたところで重要なことを思い出した。

 いや、目の前の二人にこんな話題どうでもいいかもしれないんだが。

 まずは自分のことをしっかりして欲しいし。

 まあ、それはともかく続きを話す。

「香里のやつどうもマークミスだったらしい」

「美坂が!?」

「ああ、面談の時どうしても気になったから訊いてみたんだ」

 ちなみに、俺への石橋の指導は

 『いい気にならずがんばれ。校内順位は褒めてやるが、まだ20点はないと厳しいぞ』

 というものだった。

「社会が0点だったらしいんだ」

「マジかよ。美坂が0点なんてはじめてのことだぞ」

 驚く北川の隣で名雪も神妙な顔で頷く。

 親友の名雪から見ても香里がそんなミスをする人間には見えないってことだろう。

 実際俺もこの1年香里を見ていて、あいつがミスをするところなんてまったく見たことがない。

 そんな香里がよりによってこんな大事な時期の試験で初歩的なミスをするなんて、

 石橋から訊いた時にはにわかに信じられなかった。

「だけどな……それでもやっぱり香里らしいというかなんというか」

「……?」

「あいつ、社会0点なのに俺と2点差で2位なんだ」

 

 

 コトッ

 

 

 唐揚げを掴もうとしていた北川の箸が落ちた。

 ついでに名雪のフォークも。

「相沢の2点差って、社会抜きのハンデで669点!?」

 あまりの驚きに北川絶叫。

 俺も聞いた時は本気で驚いただけに気持ちはよくわかる。

「石橋から直接訊いた。提出された自己採点では750点越えてたらしい」

 ちなみに800点中の750点である。

「香里凄いよ~」

「化物か?」

「お前らは別の学部だからいいよ。俺なんか同じ医学部志望だから見比べるとぞっとする」

 なんと言うか、いつもどおり素直に1位とっててくれたらここまで意識しなくても済んだだろうに……

 ハンデ付きで辛勝というのは実力の差をいつも以上に見せ付けられた気がする。

 もちろん本人にそんな意識はないのだろうが。

「ってよくよく考えたら、オレにとっては美坂も水瀬も変わったもんじゃないな。驚いて損した」

 そう言って、北川は唐揚げ定食に向かって箸を動かし始める。

 ってこら、お前はもう少し危機感持ってくれ。

 頼むから!

「でも、香里どうしたのかな…なんだか香里らしくないよ」

 名雪が腑に落ちない顔をするのももっともだと思う。

 あの顔面神経痛みたいな顔して机に向かってる香里がそんなくだらないミスをするなんて……

 もちろん、人間誰しもミスというものはあるが、ただ、それでも人前ではミスを見せない、いわゆる完全主義者的な人間は存在する。

 香里はまさにそんな典型的なタイプの人間だった。

 やっぱり、香里は俺たちの知っている香里ではなくなってきているのだろうか?

 

 

 その後はなんとなく空気の重い昼食になってしまった……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ふぁ~あ……午後の授業ってのはどうしても眠いんだよなあ」

「お前は単に午前中遊び疲れただけだろうが」

「つれないねえ。転校したころはお前の方がよく寝てたのに」

「俺は転校したせいで授業がわからないからヤケになって寝てただけだ」

 授業もわかるようになれば面白い教師も出てくるものである。

 ちなみに、今の授業は数学。

 担任の石橋が教壇で熱弁を振るっている。

 が、何故か古代中国の役人試験『科挙』におけるカンニングの壮絶さを語っていた。

 石橋は数学の教師のくせになぜか歴史関係の雑学が好きらしく、授業の合間にそれを面白おかしく語ることがある。

 数学の教え方自体は単調なのだが、この雑学披露が魅力的で生徒を寝かさないような授業時間を作り上げているという意味で面白い教師である。

 が、まあ中にはチンプンカンプンな生徒もいるわけで、その代表格北川が暇を持て余して後ろから俺に話し掛けてきた。

 俺は世界史を選択していることもあって結構楽しんで聞いていたのに、まったくうるさい奴だ。

 まあ、北川は地理を選択しているみたいだから歴史なんかに興味ないのは無理もないかもしれないが。

 チラリと横を見てみると…

「うにゅ……」

 こっちは授業開始からこの調子である。

 石橋の雑談も面白くない者には面白くないようだ。

 って、名雪には関係ないか。

 起きてる時はどんなつまらない授業でも起きてるし、寝ているときはどんな面白い授業でも寝ているからな。

「で、どうなんだ? 本当は眠いんだろ?」

「眠い」

 確かに石橋の話は面白いが……

 昼飯を食べた後というのはどうしても胃が重くて眠い。

 実際、石橋が授業中断する前は半分寝ていた。

 授業が再開されたら今度こそ寝てしまう。

「ほれ、これをやろう」

「ん?」

 銀紙で覆われた薄い板のようなものを俺に差し出す。

「ガムか……」

「おう、眠気覚ましのな。しかもそいつは特別製だ、そのままあの世までいけるぞ」

「待て…これは一体何のガムだ」

 あの世とは聞き捨てならない。

「だから、眠気覚ましだって。効くぞ。オレの知る限りそこらの眠気覚ましガムの数倍の威力だからな」

 どうやら俺のリアクションを見て楽しむ腹らしい。

 銀紙を取って見ると、毒々しいまでに黒っぽい色をしたガムが現われる。

 そこらの数倍の威力というのはすぐにわかった。

 匂いからしてきつい。

 開けただけで目が覚めそうな強烈なミント臭を放っている。

 

「うにゅ?」

 

 その凄まじさは横で舟をこいでた名雪を一時的に覚醒させたほどだ。

「これはマジできつそうだな……」

「最初は涙も出るくらいだが、慣れれば結構刺激的でいいんだぞ」

 そういうものか……

「……っ!」

 意を決して口の中に放り込んでみると強烈な刺激が舌に走った。

 鼻が異常なくらいスッとして、北川の言う通り目から思わず涙が出てしまった。

 とても酸っぱい梅干を食べた時のような感じである。

「ふっふっふ、効いたみたいだな」

「効くなんてもんじゃないぞ、コレ……。まあ、目はバッチリ覚めたが」

「せっかくだ、ちょっとだけ分けてやろう」

 そう言って北川はそのガムを3枚俺に渡してくれた。

 ついでにパッケージも渡される。自分で買う時の参考にしろという意味だろう。

「ありがとよ」

 しかし、こいつに慣れると味覚がおかしくなるんじゃなかろうか……

 まあいいか、それはそれで。

 秋子さんの例のジャムがおいしく思えるようになるかもしれないし。

 

 

 ガラガラッ!

 

 

 突然乱暴に教室の後ろの扉が開け放たれた。

 教室の視線が教卓からそちらに移される。

 話に夢中になってた石橋も、突然の大きな音に口と目を開けたまま静止していた。

「なっ…!?」

「香里?」

「美坂?」

 扉を開けて入ってきたのは香里だった。

 香里は扉を開けたまま足早に俺達の後ろの自分の席に座り、荒々しい音を立てながら手早くノートと筆記用具を出し授業準備を整える。

 その間、俺達はおろか、教室の誰も何も言えなかった。

 全員香里の恐ろしい形相と気迫に飲まれていたのである。

 

 …………。

 ……。

 

 しばらくの沈黙の後、石橋は香里に何も言わずにさっきまでの雑談を切り上げ、授業を再開した。

 香里に開けっ放しにされた扉は、扉の傍の生徒が香里の方を見ながら恐る恐る音を立てないように閉めていった。

 そしてそのまま、恐ろしく何かを欠いたような静かな授業が始められた。

 いつもなら絶えず聞こえるはずの咳の音すらも聞こえない。

 皆息を飲んで黒板の方を見、時折香里の方を横目で伺っては慌てて黒板の方に向き直る。

 当の香里は何も言わず、ただ口をキッと閉じてシャーペンを硬く握りしめているだけだった。

 授業を黙って聴いているというよりは、まるで何かに耐えているかのように、その指を震わせている。

 

 

 だが、俺は横目からはっきりと見た。

 その時、香里は確かに泣いていた……。

 

 

 

 

 

 

 

 結局、その日は香里と話すことは出来なかった。

 というのも、話そうとしても休み時間にはさっさと教室を出てどこかに行ってしまうので話す機会がなかったのだ。

 香里は明らかに俺たちを、いやクラスの全員を避けていた。

 いや…この前あゆに対してとった態度が更に対象を広げているかのように……。

 今日の香里には誰も近づくことのできないオーラが漂っていた。

 

 

「今日はなんだか疲れたね」

「そうだな」

 校門をくぐると同時に名雪が溜息混じりに言う。

 授業のせいで疲れたというより……

 恐怖に似た緊張感に溢れる空間に閉じ込められていたのが原因だ。

「わたし、噛み付かれるかと思ったよ」

 珍しく名雪は本当に怯えていた。

 真後ろにいるために顔が伺えない分、恐ろしさは一際だったのだろう。

 香里が後ろに座ってから名雪は姿勢をピンと正して、一度たりとも頭を揺らしたりしなかったほどだ。

「香里……昔はあんなんじゃなかったのに」

「そういや、名雪はかなり前から香里のこと知ってるんだよな」

「うん」

 かなり前から……

 その言葉を聞いてふと気になった。

「なあ、名雪と香里っていつから親友なんだ?」

「前からだよ」

「そりゃ後ろとか右からとか上からとかだったら怖いな」

 何でこいつはこう真面目な間が持たないんだろう……

「俺が訊きたいのはお前と香里が知り合った経緯だよ」

「うー、普通だよ。中学校に入った時、たまたま席が前と後ろだったから」

「どっちが先に声かけたんだ?」

「うーん、香里…だったと思うよ」

「そうなのか?」

 ちょっと意外だ。

 香里はたかが席が近かったくらいで声なんかかけるようなやつには見えないんだが……

 どうせ名雪が『はじめまして、わたし水瀬名雪って言うんだよ~』って能天気に声をかけたんだと思ってた。

「……何か酷いこと考えてない?」

「考えてるぞ」

「祐一、最近素直すぎるよ~」

 何だ、素直で何が悪い?

「とりあえずだ、中学からの親友なんだな」

「うん」

 それじゃ最近の香里の豹変ぶりも心配になるわけだ。

「でも……」

名雪の表情が曇る。

「最近わたし香里のことがよくわからなくなったよ」

「まあ、こないだといい、今日といい、たしかにな」

 そう言った俺に名雪は浮かない顔で首を振る。

「ううん。そうじゃないよ。もっと前から」

「え?」

「栞ちゃんのことを知ったときから……」

 栞?

「わたし、ずっと香里のこと親友だと思ってた。香里もそう言ってたし」

「『思ってた』って、今は違うのか?」

「わたしは今でも親友だと思ってるよ。ううん、思いたいよ。でも……」

 不安そうに鞄を持つ手が震えていた。

「半年前、香里に妹がいるってはじめて知った時から、わからなくなっちゃった」

「あ……」

 名雪の言いたいことがわかった。

 今まで親友と思っていた香里。

 でも、その実、まったく香里のことを知らなかった自分。

「わたしは、自分のことを香里によく話してたよ。でも、香里は自分のことを全然話さなかった」

 ……お前の場合は親友とか以前に話し過ぎだ。

 転校早々、クラス中に俺との同居を嬉々として話していたという、いとこの少女に半ば呆れた目を向ける。

「……親友だと思っていたのはわたしだけだったのかな?」

 すっかり落ち込んでしまった名雪。

 やれやれ……、こいつは普段能天気な割に考え込むと暗いんだから困ったものだ。

「俺はそうは思わないぞ」

「え?」

「香里は結構一人で抱え込むやつだからな。お前に余計な心配かけたくなかっただけだろ」

 ていうか、強情なんだよな……あいつは。

 もっと素直になれば楽に生きられるのに。

「そう……なのかな?」

「多分な。栞が言ってたことだし間違ってないだろう」

「祐一って栞ちゃんと仲いいんだ」

 なんだか妙に不満げな表情で俺を見る名雪。

「こ、こら、何勘違いしてるんだ! 本当に仲がいいのはあゆだ」

「びっくりしたよ…。栞ちゃんに浮気しちゃダメだよ。栞ちゃんはかわいいくてきれいだけど」

「するか馬鹿!」

「わたし、馬鹿じゃないもん」

 一人で勝手に妄想を進めるな、まったく。

「まあ、栞とも一度はデートみたいなことをしたことはあるが……」

「え……」

「あゆ曰く、『兄妹みたい』だったそうだ」

「あ、それなんだかわかる気がするよ」

 笑顔でうんうん頷く名雪。

 栞って俺達なんかよりはるかにしたたかなやつなのに、なんか妹っぽいオーラが出てるんだよなあ。

 いや、わざと子供っぽく振舞ってるだけか……

 それに騙されるとあの小悪魔のような笑顔で……

 ……やめとこう。

 続きを想像すると怖くなってきた。

 出会った時はあんなんじゃなかったのに、何を間違ってあんなキャラになったのだろう?

「まあ、なんかよくわからんが、栞にとって俺とあゆは命の恩人らしい」

「恩人?」

「俺とあゆに会ってなかったら、今この世にいないんだと」

 入院中約束をしたあゆならともかく、栞の抱えてる病気の重さにも気付かなかった俺がどうしてそこに入ってるのやら。

 俺が知ってるのは、ドラマになったとかいう月宮さんやあゆとの病院での出会いが栞に奇跡の回復を遂げさせたという話である。

「俺は栞に特に何もしてないんだがな」

「ううん、そんなことないと思うよ」

「は?」

 何気なく呟いた一言に名雪が反応した。

 何故かとても優しそうな顔をして……

「祐一が気付いてないだけで、きっと祐一は栞ちゃんを助けてたんだよ」

「……なんでそんな自信満々に言えるんだ」

 特に俺と栞の出会いのことも知ってるわけもないのに、何でそんなこと言ってるのやら。

「祐一はわたしの王子様だったからだよ」

「はぁっ!?」

 またいきなり笑顔で何言い出してるんだ、コイツは……

 とりあえず周りに人がいないのを確認。よし、誰にも聞かれてない。

 こんな発言聞かれたら恥ずかしすぎる。

「名雪、寝言は路上で言うものじゃないぞ」

「寝てないよ~」

「……その年で王子様はないだろう、まったく」

 いや、名雪ならこの年でも『白馬の王子様』なんてもの信じてても不思議ではないが……

 何で俺なんだ?

「香里に初めて祐一のことを説明した時にもそう言ったよ」

「おいっ」

 どういう神経してるんだ、こいつは……

「一つ聞くが……クラスの奴らにもそう言ったんじゃないだろうな?」

「言ってないよ。笑われるだけだから」

「え?」

「香里なら笑わないで聞いてくれると思ったから言ったんだよ」

 何だ? 一応子供っぽいっていう自覚はあったのか?

「で、香里の反応は?」

「最初は呆れられた」

 そりゃ、まあ普通はそうだよな。

「でも、ちゃんと話したら真面目に聞いてくれたよ」

「へえ……」

 そんな子供の戯言みたいなことをよくあの香里が聞いてたもんだ。

 あれ? でも、それって……

「どうしたの?」

「いや、やっぱり香里はお前の親友だよ」

「……?」

「あいつが興味ない話を真剣に聞くやつだと思うか?」

「……あ」

「そういう事だ、安心しろ」

「うんっ」

 まあ、最近の香里の異常ぶりはまったくわけがわからないが、それはまた後々考えよう。

 

 

 

 しかし……。

「何、祐一?」

「いや、何でもない」

 慌てて名雪から視線を外す。

「……?」

 自分のこと話す、って言っても……こいつに悩み事の相談なんかするやつなんかいないんじゃあなかろうか?

 どう考えても事態が好転するとは思えない。

 ていうか、話してる最中に『くー』とかやられそうだ。

 香里が自分のことを名雪にあまり話さないのって、香里自身の性格もあるだろうけど、相手が名雪だからなんじゃあ……

 なんてふと思ってしまった。

 

 

 あれ? そういや

 名雪が俺のこと『王子様』って言ってたが……

 俺、名雪に何かしてやったっけ?

 軽く記憶を探ってみても思い当たる節はなかった。

 …まあいいか。

 どうせ名雪のことだ。大したことでもないだろう。

 と、家が見えてきたので俺の疑問はそこで打ち切られた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 俺が先頭に立って、鍵を開け家の中に入る。

「ただいま……って、何だこりゃ!?」

「わ、おっきなリュック……」

 俺たちを出迎えたのは、玄関を塞ぐぐらいの大きなリュックだった。

 これって、確か登山用の色々入れるやつだよな?

 紐で口を縛るタイプのようだが、今は半開きで中の衣類らしきものが見えている。

 それはともかく、なんでこんなものが玄関を占領してるんだ?

 

 

 バタバタバタ

 

 

「あ、あゆちゃん」

 俺達が帰ってきたのに気付いたのだろう。

 あゆが階段を降りてくる音が聞こえる。

「ちょうどいいところに。おいあゆ、このでかいリュックはなん……」

「うぐぅ、祐一君、名雪さん、怖かったよ~」

 

 

 ベチッ!

 

 

 俺か名雪に泣きつこうとしたのだろう。

 しかし、その前にリュックに足を取られてあゆは盛大にすっころんだ。

「う、うぐぅ」

 普通自分の腰くらいある物につまづくものだろうか?

 とにかくこいつの転び癖は常人の域を越している。

 まあ、単に前方不注意なだけなんだろうが……

「で、何かあったのか?」

 半分開いたリュックの口に頭を突っ込んだままもがいているあゆに訊く。

 どうやら転んで突っ込んだ拍子に何かに掴まろうとして開閉用の紐を引っ張ってしまったらしい。

 首から先が抜けなくなってしまったようだ。

 階段を駆け下りて来た時のあゆの顔を見る限り、緊迫した状況なんだろうが……

「うーっ、うーっ!」

 駄目だ、力が抜ける。

「おーい、大丈夫か?」

 とりあえずリュックをつつきながら訊いてみる。

 すると、あゆはリュックに頭を突っ込んだまま右手で、今降りてきた階段を指した。

 『上に行って』ということなんだろう

「名雪、俺は上に行ってくるから、そいつ救助してやってくれ」

「うん、任されたよ」

 ほっといても大丈夫だろうが、どこか抜けているあゆのことだ。

 運が悪かったら秋子さんが帰ってくるまでこのままもがいてるかもしれない。

 俺はあゆの救出を名雪に任せて2階へ上っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 2階はシンと静まり返っていた。

 

「うぐぅ~~!!」

「わ、わ、あゆちゃん暴れないでよ~」

 

 …やかましいぞあいつら。

 リュックに頭突っ込んだまま抜けなくなるあゆもあゆだが、その救出に手間取る名雪も名雪である。

 大方、リュックの口を緩めるところを逆に締めてしまったのだろう。

「…………」

 しかし、あゆに言われて二階に来たのはいいが……

 どこに行けと言うんだろうか?

 2階廊下で辺りを確認してみるが、これといった異常はない。

 強いて言えば……

 

「うぐっ!?」

 ベチッ

「あ~、だから暴れないでって言ったのに」

 

 お前らいい加減黙ってろ。

 どうやら、リュックに顔を突っ込んだまま暴れた結果、敷居から落っこちたようだ。

 もう放っておこう。

 

 

 強いて言えば……

 あゆの部屋の扉が開けっ放しになってることくらいだ。

 あゆが飛び出してきたのは部屋からだったはずだし、まずはそこから見てみるか。

 俺はそう思って、開けっ放しの扉からおもむろにあゆの部屋に入った。

 

 

 

 

「……はい?」

 そこには確かにおかしなものがいた。

 しかし、怯えるようなものではないとは思うのだが……

「えっと、今日はあゆと遊ぶ約束でもしてたのか?」

 そう、そこにいたのは正座をして部屋の中央に居座ってる栞だった。

「…………」

 栞は扉から横になるように、つまり、俺に横顔を向ける形で座っていた。

「お~い」

 栞がまったく反応を示さないので、もう一度呼びかけてみる。

「…何か用ですか?」

 ……な、なんか無茶苦茶ご機嫌斜めって感じだな。

 こっちの存在なんかまったく気にかけていないような横顔が少し、いやかなり怖い。

「い、いや、何でここにいるのかな? と思って……」

「家出したからです」

「なるほど」

 って、『なるほど』じゃない!

「ちょっと待て、家出って何でだよ」

「お姉ちゃんと喧嘩したからです」

 こっちにまったく視線をやらずに淡々と答える栞。

「お姉ちゃん、って香里とか?」

「お姉ちゃんから謝りに来るまで絶対帰りません」

「おいおい、何があったか知らな…」

「帰りません。いいですね」

「は、ハイ」

 滅茶苦茶怖い。思わず頷いてしまった。

 今まで栞が怒ってるところは何度か見てたけど……

 それは『ぷんぷん』という擬態語がぴったりの、小動物か何かが怒ってるような感じで怖いというよりは、かわいらしいという感じだったが……

「何か?」

「いえ」

 どうやらそれは怒ってみせてるだけだったようだ。

 今の栞はかわいらしいどころか、ひたすら怖い。

 表情をまったく変えずに、ぞっとするような冷たい声で淡々と言葉を紡ぐものだから、いやがおうにも引き込まれる。

 更に言うなら、普段のほんわかした雰囲気とのギャップが大きすぎる。

 まさに完璧な無表情だった。

「…………」

「…………」

 双方共に無言。

「…………」

「…………」

 あゆが怯えてた理由がよくわかった。

 あの姉にしてこの妹あり。

 相手を雰囲気で喰うという意味では、栞のほうがはるかに上だ。

 さっさとこんな雰囲気の部屋から逃げ出したい気分だが……

 こっちを見ているのか見ていないのかわからない、あの無表情な横顔がそれを許してくれない。

 

 

「文化祭の後……」

「え?」

「私はお姉ちゃんに何であゆさんにあんなことを言ったのか問い詰めました」

 栞は独り言のように語りだした。

「帰った後、昨日、そして今日……私はお姉ちゃんに顔を合わせるたびに訊き続けました」

 あれからずっと香里に訊き続けてたっていうのか?

「でも、お姉ちゃんは何も答えませんでした。ただ、『あの子は気に入らない』としか」

 おいおい、それじゃ説明になってないじゃないか。

「それで、喧嘩して家出か?」

「あんなの私のお姉ちゃんじゃないです。私にとってあゆさんは……あゆさんは」

 声が震えていた。だけど、それは悲しみではない。

 静かではあるが、とても激しい怒りの顕れだった。

「私にとってあゆさんはとても大切な人なんです。なのに、なのに、何で理由もなく嫌われなきゃいけないんですか?」

 膝の上に置いた小さな拳が、スカートを鷲掴みにする。

「私、お姉ちゃんが謝るまで絶対にあの家には帰りません」

「……栞、お前」

 知らなかった。

 栞ってこんなに行動力あったのか。

 いつもは自分の意見を滅多に言うことなく状況に身を任せてるようなやつなのに……。

 芯の部分ではとても強い意志を持ってたんだな。

 今や話しかけるのも躊躇われる雰囲気を持った香里を詰問するばかりか、よもやその香里に真っ向から喧嘩を売るなんて……

 しかも、その香里は栞が慕ってやまなかった姉である。

 その姉に絶縁状を叩きつけるなんて……普通出来ないよな。

 裏を返して言うと、そこまでしてもいいと思えるくらいにあゆを大切に思ってくれてるってことなんだろう。

 普段はからかいやすいあゆで遊んでいるだけのようにしか思えなかったが……

 栞、お前は本当にあゆの親友なんだな。

 

 

「そういうわけなので、この家に置いてください」

 にこっ

「は?」

 さっきまでの無表情から一転、いきなりこっちを向いたかと思うといつもの笑顔でとんでもないことを言い出した。

 あまりの豹変ぶりに頭は完全にパニック状態である。

「ちょ、ちょっと待て。気持ちはわかるが、でも家出はまずいだろ」

 香里と喧嘩するのはともかく、家出はまずいに決まってる。

 栞の両親が捜索願でも出したらどうするんだ……

「お洗濯でもお掃除でも何でも手伝います。だから置いてください」

「そういう問題じゃないっ」

「わかりました。だったら祐一さんに夜のご奉仕もします」

「な、ななっ!?」

 よ、夜のご奉仕って!?

 俺にはあゆが……いや、でも少し、いやいや、かなり嬉しいかも……

「お兄ちゃん♪」

「はうっ」

 だ、ダメだ。

 僅かに残ってた理性もぶっ飛びそう……

「…………」

 にこにこ。

 こ、この野郎……

 危なくもう少しで『いつまでもいてくれ』って言いかけたじゃないか。

 最後の最後で、いつものあの策略家のような作り笑顔が出たおかげで理性が復活してくれた。

「栞、その笑顔には騙されないぞ」

「そうですか? 押し倒し寸前まで来てたような感じでしたけど?」

 にこー

 悪魔かこいつは……。

 悔しいが図星だ。

 

 

「それで、ここに置いてもらえませんか?」

 ふざけるのはやめたらしい、真剣な表情で栞は再度そう訊いた。

「いや、だからそれはまずいだろう。だいたい、そういう事は秋子さんに……」

 

「了承」

 

「ありがとうございますー」

「…………」

 いつからそこにいたんですか、秋子さん?

 ていうか、今の栞のお願いは俺じゃなくて、いつの間にか扉の前に立っていた秋子さんにしたものだったのか?

「うふふ、これでこの家もまた賑やかになりますね」

 いつのものポーズでたおやかに微笑む秋子さん。

「秋子さん!」

「冗談です」

 まったく、犬や猫を家に拾ってくるのとはわけが違うんですよ……

「栞ちゃん」

「はい」

 改めて真剣な顔で向かい合う二人。

 ここからは真面目な話だ。

「栞ちゃんがここにいることは、あなたのおうちに連絡しておきます。それでいいですか?」

「はい、でも……」

「わかってるわ。香里ちゃんには言わないで欲しいのでしょう?」

「はい。すみません、我儘言って」

「いいのよ、栞ちゃんはあゆちゃんの大切なお友達ですからね」

 

 ベチッ!

 

「うぐぅ、やっぱり重いよこれ」

「栞ちゃんどうやってこんなの持ってきたのかな?」

 階段の方から二人の声と妙な衝突音が聞こえてきた。

 何やってるんだ、あいつら……。

 まさか、まだリュックでもがいてるんじゃないだろうな?

「あゆちゃんでしたらわたしが帰ったときに解放してあげましたよ」

「そうですか」

 つまり名雪じゃ助けられなかったわけだ。

 まったく……名雪に期待した俺が馬鹿だった。

 そう思ってると、名雪とあゆが二人で玄関にあったでかいリュックを抱えて部屋の中に運び込んできた。

 家から、おそらくは栞一人で持ってきたリュックに二人がかりって、ちょっと大げさ過ぎないか?

「重かったよ~」

「栞ちゃんよくこんなの一人で持ってきたね」

 リュックを部屋の真ん中に下ろした二人は、ふうっと溜息をつく。

「二人ともお疲れ様」

「お前ら、少し大げさだぞ。栞一人で持ってきたリュックくらい……って、うお!?」

 たしなめるつもりで片手で担ぎ上げようとしたリュックは予想外に重かった。

 ていうか、下手するとこれは持ってきた栞の体重と同じくらいありそうだぞ!?

「栞、お前一体どうやってこんなもの持って来たんだ?」

 リュックから手を離し、栞に訊く。

 どう考えても、細身の栞が担いでこれるような重さじゃないぞこれは……

「あはは、おうちを出るときに部屋にある物とか必要なものを全部詰めてきたんですけど……」

 苦笑しながら続ける栞。

「そのとき私よっぽど怒ってたのか、リュックの重さなんか忘れてたみたいなんです」

「うちに来た時、一度玄関に下ろしてからは運べなくなっちゃって大変だったんだよ」

 火事場の馬鹿力か。まったく、とんでもないな……

 そんな力を出せるくらいまで、あゆのことを大切に想ってくれているのかと思うと少し嬉しかったが。

「それでは、わたしは栞ちゃんのおうちに電話してきますね」

「お願いします」

「名雪とあゆちゃんは栞ちゃんの荷物の整理を手伝ってあげてちょうだい」

「うん」

「うん、秋子さん」

 秋子さんに一緒に頷く二人。

「あれ? 二人とも栞がここに来た理由知ってるのか?」

 リュックを運んできた時といい、今の返事といい手際がよすぎる。

「うん、さっき下であゆちゃんからお話聞いて、で、お母さんが『うちに泊めてあげましょう』って」

 下で既に了承済みだったのか……

「では、わたしは電話をかけに行きますね」

「あ、俺はどうしたら?」

 部屋を出ようとした秋子さんに尋ねる。

「そうですね……、長電話になるかもしれませんからわたしの代わりにお茶でも入れてもらえますか?」

「わかりました」

 俺は頷いて秋子さんと一緒に一階に向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 しかし、あっさり決まってしまったけど……

 家出してきた少女をかくまって本当にいいんだろうか?

 本人は嫌がってもこういう場合は家に帰すほうが筋ってもんじゃあ……

 秋子さんについて一階に向かう途中、俺はそんなことを思っていた。

 

「祐一さん」

 

「え?」

 一階の廊下に出たところで、無言で歩いていた秋子さんが突然声をかけてきた。

「わたしが栞ちゃんをこの家に置くことに納得していませんね」

「え、いや、そんなことは」

 そんなことは大有りなわけだが、まさか家主の秋子さんに意見を言うわけにもいくまい。

 しどろもどろする俺に秋子さんは『いいのよ』と言うように微笑んだ。

「顔がそう言ってますよ」

「う……はい、そうです」

 駄目だ、やっぱり秋子さんの前では俺の隠し事なんて無駄なのだ。

 俺は観念して素直に頷いた。

「帰る家がないならともかく、やっぱりこういう場合は家に帰すべきじゃないでしょうか?」

 姉妹喧嘩で家出だなんて栞の両親だって心配するに決まってる……と思う。

 世間体とか、大人の理屈であまり好きな言葉じゃないけどそういうものもあるだろう。

「それで、あの子が本当に家に帰るかしら?」

「え?」

 秋子さんの表情が強張るのを見て、こちらも緊張する。

「祐一さんも見たでしょう? あの子の決意の強さを」

「はい……」

「あの子はここに置いてもらえないなら、野宿でもしますよ」

 『そんな馬鹿な』と言いたかったが、たしかにさっきの怒りに体を震わせていた栞のことを思うとやりかねない。

 あの重いリュックもその意思の強さだけで担いできたわけだし……

「あのリュックの中には、着替えの服以外にも寝袋等が入っていました」

 それであんなに重かったのか。

 しかし、ということはここを追い出されたら本気で野宿も考えていたんだな。

「あんな小さな女の子にそんなことをさせるわけにはいきませんよね?」

 と、頬に手をあてにっこりと優しく微笑む秋子さん。

「はい。すみません、余計なこと気にして」

「いいのよ。ちゃんとお客さんとしてもてなしてあげてくださいね」

 やっぱり秋子さんは凄い人だ。

 事情をちょっと訊いただけでそこまで予想して『了承』するなんて。

 

「そういえば」

「はい?」

「あゆちゃんがいるのに浮気しちゃ駄目ですよ」

 ぶっ!

「な、な、なんてこと言うんですか!?」

 また、この人は笑顔でなんてこと言うんだ……

「お兄ちゃん♪」

「はうっ」

「あら、わたしもまんざらじゃないみたいですね」

「……勘弁してください」

 ていうか、いつから俺と栞の会話見てたんですか?

 いや、秋子さんがいたから栞は俺をからかってみせたのか!?

「冗談です。でも、栞ちゃんがかわいいからって手を出しちゃいけませんよ」

「当たり前です」

 まったく、何てこと言うんだ、秋子さんは……

 そんなことするわけ……

「…………」

 と思ったところで、小悪魔のような笑顔をした栞の顔が頭に浮かぶ。

 やる、あいつなら絶対にやる。

 あゆの前で俺を誘惑してからかって遊ぶに決まってる。

「あらあら、これからしばらく賑やかになりそうですね」

 天使の顔をした鬼と悪魔がいっぺんにやってきたような複雑な気分だった……

 

 

 

 

 

 

 

 

 秋子さんのことだから、手際よく済むだろうと思っていたが……

 その予想通り、栞の水瀬家滞在の件は10分足らずで話がついた。

 さすが秋子さんだ。

 

 

 そして、今俺たちは少し遅めの夕食の席についている。

 栞が来て、一人分食事が余分に必要になったので秋子さんが急遽献立を変えたからだ。

 しかし、5人で食卓を囲むと、またなんだか明るくなった気がするな。

 ていうか、この家は5人くらい人がいてちょうどって広さじゃないかと思う。

「で、栞はどこに泊まるんだ?」

 全員で『いただきます』をしたあと、栞に尋ねる。

「ボクの部屋だよ」

「あゆの部屋って……寝にくくないか?」

 あゆの部屋は、あゆの好みでベッドが置かれていない。

 つまり、床に直に布団を敷いて寝るようになってるのだ。

「そんなことないよ、ボクはよく眠れるもん」

 あゆはどうか知らないが、俺は床で寝るよりはまだソファーの方がマシだと思う。

 床は布団を敷いててもやっぱり固い。

「大丈夫です。一度、そんな和風な寝方を体験してみたいと思ってましたから」

「なんだ? 栞ってベッドでしか寝たことがないのか?」

 ちなみに、俺は修学旅行で床で寝るとはどういうことか嫌というほど味あわされた。

「私は物心ついたときから病院が多かったですから」

「あ、そうか。すまん」

「いいですよ。もう昔の話ですし」

 栞はこともなげにそう言ってのけた。

 もはや昔のこととはいえ、栞がそのために失った物は多かったはず。

 俺ならこんな平然としていられるだろうか?

 そう思うと栞の落ち着いた物腰には感心してしまう。

「まあ、寝心地悪かったら言ってくれ」

「え、祐一が栞ちゃんにベッド貸してあげるの?」

「いや、名雪が貸すんだ」

「え?」

 一瞬何のことかわからず、名雪の動きが止まる。

「それじゃ、わたしはどこで寝ればいいの?」

「お前は別にどこで寝ても大丈夫だ」

 どこで寝ても大丈夫というか、どこでも寝られるというのが実生活で証明されている。

「無理だよ~。わたしはベッドじゃないと寝られないもん」

 嘘つけ、今日も教室で盛大に寝てただろうが。

「あー、わかったわかった。けろぴーも持っていっていいからベランダで寝ろ」

「けろぴーが凍っちゃうよ~」

 お前は平気なのか? お前は?

「栞ちゃん、寝辛かったら言って下さいね。わたしのベッドを貸しますから」

「はい、ありがとうございます」

 元より貸す気のない二人の問答を無視して、合意は一瞬で成立した。

「でも、秋子さんはどうするの?」

「そうですね、あゆちゃんと一緒に寝ましょうか」

 頬に手をあて微笑む秋子さん。

「う、うん」

 あゆは恥ずかしそうにうつむきながら答えたが、まんざらでもないようだ。

 こういう甘えたがりなところはまだまだ子供っぽい。

 

 

「あら? 栞ちゃんお料理口に合わなかったかしら?」

「えっ、あ……その」

 秋子さんが気付いたように、栞の皿はまったく減っていなかった。

 今日の夕飯は特に変哲のないハンバーグ。

 もちろん秋子さん特製なので味は折り紙つきだ。

 冷蔵庫に蓄えられていた挽肉を出して作ったものだとか。

「お肉は苦手ですか?」

「いえ、そんなことはないです。おいしいです」

 たしかに少しだけかじった跡がある。

 いや、よく見ると付け合せの温野菜やご飯とかも少しずつだがついばんではいるようだ。

「……ちょっと、ごめんなさいね」

「あっ」

 秋子さんは怪訝そうな顔をしながら突然立ち上がり、栞の傍に寄り額に手を伸ばした。

 すると、栞の顔があっという間に赤みを帯びてくる。

「37度5分というところですね」

 なんだ? 栞のやつ体調が悪いのか?

「駄目よ、疲れているなら休まないと」

「すみません」

 いかにも熱っぽそうな顔をして栞は申し訳なさそうにうつむいた。

「あ、ボク部屋に布団敷いてくるよ」

 あゆはそんな栞の様子を見て、慌てて席を立つとぱたぱたと自分の部屋へと駆け上がっていった。

 ……あの慌てぶり、少し心配だな。

「名雪、あゆがひっくり返ってないか心配だ。栞を連れて行くついでに見にいってやってくれ」

 本音を言うと名雪なんかに任せるのは心配だが、男が栞を寝かせるところまで面倒を見るのは失礼だろう。

「う、うん。じゃあ、栞ちゃん」

「……はい」

 栞は名雪に手を引かれて、おぼつかない足取りで食堂を出て行った。

 あいつ、相当無理してたんだな……

 

 

「栞、本当は病気が治ってないんじゃ?」

「あの子は病気が治ったというだけで、体は弱いそうだから。緊張が抜けて疲れが出たのね」

「大丈夫なんでしょうか?」

 このまま数日寝込むってことは……

「一晩休めば大丈夫だと思いますよ。ただの疲労ですから」

「はあ、なるほど」

「それにしても、本当に強い子ね」

 秋子さんはそう言って微笑んだ。

「え?」

「栞ちゃん、わたしに言われるまで元気なふりをしてましたから」

「……ああ」

「顔色まで誤魔化されたのははじめてでしたが」

 しかし、それを見破った秋子さんも凄いと思う。

 俺なんか、いやあゆでさえまったく気付いてなかったんだから。

 

 

 その後、栞を部屋に寝かせたあゆと名雪が戻ってきて、夕食が再開された。

 ちゃんと世話してやれるのか心配だったが、杞憂で済んだようだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夕食を終えた俺とあゆはあゆの部屋にやってきていた。

 言うまでもなく、栞の様子を見るためだ。

 ちなみに……名雪は例によってもう寝てしまった。

 栞の荷物整理と、さっきの介抱がトドメとなったらしい。

 『ごちそうさま』のあたりから既に目が半分閉じていた。

 

 コンコン

 

「栞ちゃん、入るよ」

「……はい、どうぞ」

 寝てるかな? と小さくノックして、ゆっくりドアを開けるあゆに栞の返事が返ってくる。

「なんだ、起きてたのか」

 部屋に入ってみると、栞は足に布団をかけた状態で体を起こしていた。

 廊下の光だけで十分に部屋の中は見渡せるので、栞を刺激しないように部屋の電気はつけないでおく。

 しばらく横になって休んでいたせいか、栞はさっきのような熱っぽい顔はしていない。

 俺もあゆも少し安心した。

「寝てなくていいのか?」

「はい、まだ寝る時間じゃないですから。それに……」

「それに?」

「歯を磨かないで寝たら虫歯になっちゃいます」

 口に指を当てて、お茶目に言ってみせる栞。

 しかし、口調にいつもの覇気がない。

 いつもなら、『あゆさんと祐一さんのラブシーンを見るまでは眠れませんよ』くらいのことを言って俺達をからかう筈だ。

 そんな気力もないのだろうか? 今の栞は少し翳りを持っているように見える。

 物静かで、どこか精巧な人形のような雰囲気がして、それでいて何か懐かしいような……。

 そうだ、出会った時の栞はこんな感じだったんだ。

「見破られちゃいましたね。元気なふりは得意だったんですけど」

「いや、俺はすっかり騙されてたぞ。秋子さんが鋭すぎるんだ」

「うん、ボクも全然気付かなかったよ。栞ちゃん元気だと思ってた」

「あはは……あゆさんと祐一さんはもっと酷い病気の時でも誤魔化せたんですから見破れるわけないですよ」

 栞はそう言って、静かに笑う。

 そういや、俺達は栞が重病を抱えてるのにまったく気付かなかったんだよな……

「でも……、気付かれたくなかったです」

 栞は落ち着いてはいるが、どこか憂いを含んだ声でそう言う。

「何で!? 体調悪いのに無理しちゃいけないよ。栞ちゃんは体弱いんだから」

 病気には人一倍心配性のあゆが詰め寄った。

 あゆにとって病気は、母親の悲しい記憶を思い出させるものだしこの反応は当然だと言える。

「強く……なりたかったんです、私は。あゆさんや祐一さんのように」

「え?」

「私がもっと強かったら、誰も苦しまずに済んだんです」

「おいおい、よくわからないが、それは自己犠牲が過ぎないか?」

「いいえ、私は弱かったんです。手を伸ばせば奇跡は掴めたのに、目の前の大きな崖が怖くて手を伸ばせませんでした」

「それって、あの時の病気のこと?」

 あの時とはもちろん1年前のことである。

「はい。今立っている場所には闇しか待っていないことを知っていながら……私はそこを動けませんでした」

「仕方ないよ、栞ちゃんはほとんど助かる見込みがないって言われてたんだから」

「違うんです、あゆさん」

「え?」

「確かに私が助かったのは奇跡です。でも……その結果はいつでも望めたはずなんです」

 何の話だろう? 栞の治療の決意の話だろうか?

「私がもっと前に決意していれば、お姉ちゃんもお父さんもお母さんも苦しまずに済んだんです」

 でも……

 私には勇気がなかったから……

 後に続く言葉は容易に想像できた。

「私は、あの時私に勇気をくれたあゆさんのように自分で輝いてみたいんです」

「えっ、ぼ、ボク?」

「祐一さんもですよ」

「え? 俺、なんかしたっけ?」

「気付いてませんか? 知りたければ、月宮さんの書いた本を読んでみるといいですよ」

 栞はそう言って、部屋の隅にあるあゆの机を指差した。

 そこには薄い本が数冊置いてあった。

「あ、あれ栞ちゃんのリュック整理してる時に出てきたお父さんの本だ」

「たまたま持ってきちゃったんです。1冊あれば十分ですし、余ってる分はあげますよ」

 なんだ、本って言うから分厚いのを想像してたが、こんな薄い本だったのか。

 これなら数時間もあれば十分読み切れる。せっかくだし頂いておこう。

「んじゃ、せっかくだしもらっとくか。気になるし今日読もう」

 俺は机の上から文庫サイズのその薄い本を一冊抜き取った。

 それに続いて小さな手が下から伸びる。

「ボクも」

「ちょっと待て、何でお前がいるんだ? お前の親父の本だろう?」

 見てないわけないだろう。

「うぐぅ、お父さんの出してる本なんて何冊もあるから読んでられないよ~」

 ああ、そうか、月宮さんは学者だったな。

 本を出したからといって取り立てて騒ぐほどのことではない。

「それに、勉強が忙しくて見てられなかったんだよ」

「そうだったな、すまん」

 俺も勉強が忙しくてそんな暇がなかったわけだからその気持ちはよくわかる。

 というか、このくらいのサイズでなければ読む気にはならなかっただろう。

「でも……」

 俺たちが本をとったところで栞は俺達のほうを見ながら言った。

「私は後悔していません。あゆさんや祐一さんに会えたのも、あの時の私の弱さのおかげですから」

「こいつの前方不注意のせいじゃないのか?」

「うぐっ!?」

 俺はあゆの首根っこを掴んで栞の前に突き出してやった。

「何するんだよっ」

 不意をつかれたあゆがばたばた手足を動かして俺の手を振りほどこうとする。

「やかましい、あの時は栞だったからともかく、怖いお兄さんとか老人だったらどうするつもりだったんだ」

「え、えっと……逃げる」

「お前、犯罪者の資格大有りだな」

 車なら『当て逃げ』もいいところだぞ。

 それにそもそも、栞と初めて出会った並木道も食い逃げの途中迷い込んだ場所だ。

「うぐぅ、違うもん」

 ぷーっと頬を膨らまして怒るあゆ。

 

「あ……あはは、やめて下さい。お腹が裂けちゃいます」

 

 気がつくと、俺達のやりとりを見ていた栞が腹を抑えて思いっきり笑っていた。

「な、何だ? 何がおかしいんだ?」

「あゆさんと祐一さんです」

 笑いを必死に堪えながら言う栞。

「失礼なこと言うな。この珍獣うぐぅならともかく俺は『おかしい』とか言われる筋合いはないぞ」

「そうだよ、祐一君はともかくボクは『おかしい』とか言われるところはないよっ」

 言って顔を見合わせる俺とあゆ。

「…………」

「…………」

「何ぃ!? 名雪やお前に『おかしい』なんて言われるほど落ちぶれた覚えはないぞ」

「何で名雪さんまで入ってるんだよ!? それに落ちぶれたってどういう意味!?」

 俺のまわりじゃお前らのやることなすことが一番変だ。

「言葉どおりだ。なら訊くが、俺のどこが『おかしい』?」

「え、えっと……」

 言葉に詰まってうろたえるあゆ。

「見ろ、すぐに出ないってことは出まかせじゃないか」

「違うよ!」

「ほぉ、じゃあちゃんと説明してもらおうか」

 嫌味っぽく笑いながら、あゆに迫る。

 するとあゆは、恥ずかしそうにうつむきながら、小さな声でごにょごにょと言い出した。

 

「いつもはいじわるなのに、時々やさしくて、泣いてるボクにただ一人ずっと構ってくれた……」

 

「え?」

「うぐぅ、な、何でもないよっ。ぼ、ボク下で本読んでくるね」

 照れ隠しのつもりか、あゆはさっきの本を持って部屋から飛び出して下に降りていった。

「…………」

「…………」

 部屋には俺と栞だけが残された。

「ちょっと、あゆに悪いことしたな……」

 あんな恥ずかしいこと人が見ている前で言ったら俺だって逃げ出すと思う。

 たしかに、あゆから見た俺は変な奴だったのかもしれない。

 好きなんだけど、どうしてかあいつはからかいたくなってしまうんだよなあ。

 素直に優しくしてやれる気になるのは、決まってあゆが落ち込んでる時だけだ。

「私はあゆさんと祐一さんのやりとりがおかしいって言いたかったんですけど」

 苦笑しながら言う栞。

 冷静に考えればそうだ。勢いだけで物を言ってて気付かなかったが……

 思い返して考えると、俺とあゆの会話はまわりから見たらさぞかし滑稽だろう。

「個人だけで見るなら、祐一さんの言う通りあゆさんの方が『おかしい』ですけどね」

「絶対そうだよな」

 あいつと名雪の場合はどう考えても、世間一般でいう『天然ボケ』だ。

「ええ、私も色々見ましたから。モグラさんへの特攻とか……」

「は?」

「いえ、その本に書いてありますよ」

 意味ありげに笑う栞。

「…………」

 あゆのやつ、栞の前で何やったんだ?

 手に持った、その『Angel Promise』という題名の薄い文庫本を不審気に眺めてみる。

 読むのが楽しみなような、怖いような……

「…それなら俺も読んでみよう。じゃあな栞。無理しないで今日はゆっくり休めよ」

「はい」

 俺はそう言って部屋を出ようとした。

 しかし、扉のところで足を止めて振り返る。

 

 

 

「栞……あゆはどうか知らないが、俺はお前が思ってるほど強くないぞ」

 そう、俺は強くなんかない。

 あんな体になってまでも俺に会いに来たあゆに対して……

 俺はその悲しい記憶から逃げていた情けない人間だ。

 あゆが俺に会いに来てくれなかったら……俺はきっとあゆのことなんか思い出しはしなかっただろう。

「いや、俺はひょっとしたら栞よりもずっと弱いかもしれない」

 死に至る病と闘い、奇跡を掴んだ少女……

 たとえあゆと出会ったから闘病の決意が出来たのだとしても、闘い抜けたのは他でもない栞の強さだ。

 俺にはそんな強さは……

 

「違いますよ祐一さん」

 

「え?」

「私の言ってる強さは、自分の強さのことじゃないです」

 栞は落ち着いた表情で言葉を続ける。

「私が憧れているのは、誰かに分けてあげられる強さのことです」

「誰かに分けてあげる強さ?」

 よく分からない。

「そうですね、例えばあゆさんの笑顔を見ているとなんだか世界が明るくなってくる気がしませんか?」

「分かりにくい例えだな……。でも、なんとなく分かるぞ」

 あゆの笑顔見てると不思議と晴れた気分になってくるんだよな。

 で、愉快になってついからかいたくなるわけだが。

「もっとわかりやすく言うと、誰かの太陽になってその人を輝かせる強さ……ですね」

「……太陽」

「私はあゆさんや月宮さん、お姉ちゃん、祐一さん達に光をもらって輝くことが出来たんです」

 輝くことが出来た……とは栞の掴んだ奇跡のことだろう。

「俺が栞を輝かせたのか?」

「はい、祐一さんは気付いてないだけでちゃんと私に光をくれていましたよ」

 栞はそう言って、俺の手にある本を見る。

 そこに書いてあるということだろう。

「でも、私はまだ誰にも光をあげられていません」

 栞はそう言って、少し悲しそうにうつむいた。

「お姉ちゃんを苦しめました。お父さんやお母さんも。ひょっとしたら祐一さんも我儘で苦しめてたかもしれません」

「……栞」

「皆からもらった命、来なかった筈の時間、私はもう後悔したくないんです」

 栞はそう、とても安らかな笑顔をして言った。

 しかし、その直後うかない顔をする。

「それで、あゆさんや祐一さんのようになりたくて今日まで頑張って来たんですけど……」

 そして自嘲じみた声で続ける。

「その結果がこの様です。やっぱり、私じゃ駄目なのでしょうか?」

 この様とは、香里と喧嘩して水瀬家に転がり込んだことだろう。

「さあな……。だけど、栞は間違っていないと思うぞ」

「え?」

「あゆが今、一生懸命勉強している気力の源はお前じゃないか」

「そう……なんでしょうか? あゆさんは元々頑張り屋さんだと思いますけど」

「いや、栞と会った日とかは特に元気なんだよあいつは」

「そうなんですか」

「それに、俺も栞と話してると楽しいぞ」

「わ、告白ですか?」

「違う! 行き過ぎだっ」

「そうなんですか……ドラマでよくある告白台詞に似てたものですから」

 照れ隠しに笑いながら、栞はそう言った。

「でも……」

 栞はそこで口に指を当ててこちらを見る。

「私は祐一さんのこと好きですよ」

「え? それって……」

 冗談だよな? と言おうとしたところで栞がそれを遮って言葉を続ける。

「はい、告白です」

「ちょ、ちょっと待て!」

 何か間違ってるぞ、絶対。

 いつもの如くからかってるのか?

 いや、さっきから栞は至極真面目だ。

 ってことは本気で俺を?

「別にあゆさんから祐一さんを取る気なんてないですよ。私を何だと思ってるんですか」

「いや、てっきりそう言う意味かと」

「あゆさんと祐一さんとの間に入れる人はいませんよ。だから私の恋は絶対に叶わない恋なんです」

 そう言ってにっこり微笑む栞。

「栞、お前さっきから爆弾発言連発してるぞ。それに絶対なんて何で言い切れるんだよ」

 俺とあゆが別れる可能性だってあるわけなのに……

「祐一さん、祐一さんはあゆさんと喧嘩したことはありますか?」

「喧嘩? うーん……ないな」

 考えてみるとあれだけからかいまくってるのに喧嘩したことはない。

「あゆさんに不満はありますか?」

「……ないな」

 同じく、考えてみても不思議なことにまったく思い浮かばなかった。

「そういう事ですよ。1年近くも一緒にいて喧嘩も不満もないカップルなんてほとんどいませんよ」

「うーむ、言われてみると確かにそうだな」

 何故かあいつとは後にも先にも、喧嘩や不満といったものはないような気がする。

 というか、お互いほとんど遠慮することない付き合いしてるしなあ……。

「『腐れ縁』なんて言いますけど、私は羨ましいです」

 ぐあっ、『腐れ縁』かよ。

 まあ、『お似合い』の裏返しは『腐れ縁』なんだろうが……

「でも、やっぱりあゆさんは凄いです」

「え?」

「あゆさんの笑顔を見てると、私の恋なんて叶わなくてもいいやって不思議に納得できてしまうんです」

 まったく含みのない笑顔で栞はそう言った。

「それに……あゆさんには祐一さんしかいませんけど、私にはまた別の機会があると思いますから」

「そっか、きっと栞なら俺なんかよりいい相手が見つかると思うぞ」

「それに関しては心配いりません。自信満々です」

 薄明かりの中えっへんと言わんばかりに胸を張る栞。

 なんというか、そう躊躇なく強がって見せられる栞はとてもかわいらしいと思った。

 

 

 いや、よく考えてみれば、最近の栞はずっとそうやって強がっていたのかもしれない。

 本当の栞は……体の弱い、小さくて細い体をした、見た目通りの繊細な女の子なのだ。

 最近図太い神経になってきたと思ってたが……

 間違っていた。

 栞、お前は、自分を明るくするためにその小さな体で精一杯強がって見せていたんだな。

 その底抜けの明るさはよく考えたらあゆと同じだった。

 で、やたらいい性格をするようになったのは俺の請け売りということだろう。

 どうりであゆに絡むわけだ。

 あゆへのからかいぶりなんか、ほとんど俺じゃないか。

「栞、お前って本当に変なやつだな」

 誰よりも繊細で弱くて、それでいて誰よりも強情で強い。

 思いっきり矛盾だらけだ。

「わ、そんなこと言う人、嫌いです」

 だけど、それが栞の魅力なんだろう。

 栞といると、あゆとはまた違った形で勇気づけられる。

 俺なんかより、いや誰よりも弱いはずなのに、強く振舞える栞の姿を見れば誰だって勇気づけられるだろう。

「冗談だ。じゃ、俺はそろそろ自分の部屋に戻るわ。これを読みたいしな」

 俺は右手に持った本を掲げて、あゆの部屋を出る。

 と、思い返して振り返り、あゆの部屋を覗きながら栞に声をかけた。

 

 

「栞、叶うといいな、お前の望み」

 誰かに分けてあげる力……

「はい」

 凛とした表情でそれに答える栞。

 だけど、もうその望みは叶っていると思うぞ。

 まだ読んでないが、この本を読んだ人や、栞の出たドラマを見た人たちはきっと……

 部屋を後にしながら俺はそう思ったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 栞からもらった本には栞と俺達の出会いのシーンから始まっていた。

 あの時……

 俺は栞をただあゆに巻き込まれただけの、ごく普通の少女と思っていた。

 しかし、実際はそうではなかったのだ。

 あの日の栞は、大好きな姉に余命幾ばくもないことを告げられた挙句、そんな妹と残り少ない時間に耐えられなくなった姉に見捨てられ、一人孤独に絶望の底をさまよっていたのだ。

 もし、あの時あゆが体当たりで栞を巻き込んでいなかったら……

 もし、その後俺たちが馬鹿をやっていなければ……

 栞はその日自殺を完遂するつもりだったのだ。

 出会った時のどこか怯えた表情の意味はそれだったのだろう。

 そして中庭での出会い。

 頼れる姉を無くした栞は俺達の姿を求めて学校にやってきて、そして俺と出会った。

 俺としては、初めて会ったときの寂しげな顔がどうにも気になって少し構っていただけだったのだが……

 まわりに頼る人が誰もいない栞にとって、俺との会話の時間がどれほど大切だったのかよくわかる。

 栞は、俺以外に気軽に話が出来る人がいなかったのだ。

 栞の病気を知っている人は皆、栞との間に距離をおいた。

 両親や姉でさえも。

 どんなに寂しかったことだろう。

 栞は生きているにも関わらず、既に死人のような扱いを受けていたのである。

 俺はちょっと気になったので、成人の日に学校に足を運んでみたりしただけだったのだが……

 栞にとっては、その『ちょっと気にかけてもらう』ことがとても力になっていたのだ。

 栞の言っていた『俺からもらった強さ』というのは、そのささいな日常のことだったのだろう。

 俺はほんのちょっと栞のことが気になっただけだ。

 しかし、その『ほんのちょっと』が思いがけないほど誰かの力になることはあるのかもしれない。

 疑問に思っていた俺が栞にしてやったこと……

 その後の物語はあゆから聞いていた話から想像できるものだった。

 まあ、栞とあゆ、月宮さんとの関係がよくわかったので、無駄な時間ではなかったと思う。

 あゆの説明はどうもはしょりすぎでわかりにくかったからなあ……

 

 それにしても、あいつ栞の前でも転んでたのか。

 もぐら叩きのグローブといい、生傷の絶えない奴だ。

 ……あいつ、包丁とか大丈夫だよな?

 最近秋子さんと並んで料理をしていることが多いらしいだけに少し、いやかなり心配である。

 まあ、秋子さんが傍にいるなら大丈夫か……

 さて、一息ついたところで勉強しよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そろそろ疲れてきたな……

 そう思って時計を見ると12時過ぎ。

 軽く柔軟体操でもして、もうちょっとだけ頑張るか。

 ついでにトイレも行っとこう。

 そう思って伸びをした時

 

 コンコン

 

「ん?」

 扉が小さくノックされる音。

「今日こそ秋子さんだ!!」

「だから何でそうなるのっ!」

 嬉々とした俺の弾んだ声に、即突っ込みを入れるべく部屋に乱入するあゆ。

 もちろんあゆだろうと想像はついていたが。

「いや、冗談だ。で、どうしたんだ?」

「……部屋で栞ちゃんと一緒にいるのがちょっと怖くて」

 俯き加減に、小さな声であゆはそう言った。

「怖い? 栞が?」

「うん、栞ちゃんやっぱりお姉さんと喧嘩したこと凄い悩んでるみたいなんだ」

「それで、さっきからずっと怖い顔したまんまで」

「そうか……」

 今日知った栞の本心。

 あいつはいつものように振舞ってみせていたけれど……

 きっと心のうちでは、香里とこれっきりになるのではないか不安で堪らないに違いない。

 多分、今あゆの部屋にいる栞は今日ここに来たばかりのあの顔をしているんだろうな。

 はっきり言ってあの雰囲気の中、栞と二人っきりになるのはかなり怖い。

「なんとなく昨日のボクを見てるみたいで、そっとしておいてあげたほうがいいかなって」

「そうだな」

 そのうち疲れて寝るだろうし、明日にもなればある程度は気持ちの整理もつくに違いない。

 

 

 寝る?

 

 

 あゆの姿をじーっと見つめる。

「あゆ、訊くまでもないかもしれないが……、それは何だ?」

 俺はあゆが小脇に抱えてるものを指して言った。

「枕と勉強道具だよ」

「いや、それは見ればわかる。何でそんなもの持ってきてるんだ?」

 いや、これも訊くまでもない。

 訊かなくともこいつの単純な思考回路くらい読める。

「え? 祐一君と一緒に勉強して一緒に寝ようと思ったんだけど」

 まったく躊躇いなく言うものだからこっちが面食らう。

 多分何も考えてないんだろう。

 一緒に勉強はともかく、年頃の健康な男女が一緒に寝るっていうのは……

 なんて、あゆにはまだわかるわけないか。

 まあ、わかってたところで問題あるまい。一応恋人同士なんだから。

 あゆの外見を見てると無意識的に『一応』と入れてしまう自分が何故か情けなかった。

「それに、前に栞ちゃんが『恋人同士は一緒に寝るものです』って言ってたから」

 ……あいつ、あゆになんてことを吹き込んでやがる。

 こいつは絶対に『一緒に寝る』のがどういう意味かわかってないぞ。

 しかし……。

 追い返すのはもったいない。

 せっかくだから栞のご好意に甘えてしまおう。

 それに、追い返してもこの時間じゃ秋子さんや名雪は寝てるはずだ。

 と、自分の行動を色々と正当化する理由をつけてはいるが……

 本当のところとても嬉しい。

 前のように1階のソファーで寝るという選択肢もあるが……

 失念していたことにしてしまおう。

「まあ、あゆは小さいから二人で寝ても大丈夫か」

「うぐぅ、わざわざ『小さいから』なんて言わないでよ」

 やはりどこか素直に言えず、余計な言葉をつけてしまったため、あゆが拗ねる。

「それで、勉強って何するんだ? 俺とあゆじゃそもそも勉強内容が違うだろ」

 俺は大学受験、あゆは高校受験である。

 一緒に勉強することなんて……

 …はっ! 深夜それなりに仲のいい男女が二人で密室にいるってことは

 お医者さんごっこ…とか?

「うん、ちょっと数学で困ってたんだ。祐一君理系だったら教えてくれないかな?」

 そんなわけないだろ。

 もしそうだったら話がうますぎる。

「何がそんなわけないの?」

「おうわっ!? な、何故それを!?」

「え?」

 何のことか合点がいってないあゆの顔。

「いや、なんでもない。あゆくらいの数学なら多分大丈夫だぞ」

「うぐぅ、また余計なこと言う~」

 危ない危ない……。

 思わず自分の飛躍した思考に小声で突っ込み入れてしまってたようだ。

 『お医者さんごっこ』なんて単語があゆの耳に入ろうものなら……

 秋子さんや栞に何を言われるかわかったもんじゃない。

 名雪は……

 『わたしも一緒にやるよ~』と、別の意味で危ない反応を返してくれそうでこいつも危険だ。

 知りすぎなのも、無知すぎるのも怖いな……

「じゃ、トイレ行ってから教えてやるから、あゆはそこに座って待ってろ」

 そういうと、俺は名雪が昨日置いていったままにしたちゃぶ台を指して部屋を出ようとした。

 が、すれ違おうとした瞬間あゆに袖を掴まれる。

「…何だ?」

「えっと…」

 もじもじ。

「…わかった、そのままついて来い」

 まったく、いい加減トイレくらい一人で行けよ。

 極度の暗所恐怖症のあゆは自分の部屋で寝るとき、豆球をつけて寝ているらしい。

 

 

 

 

 

 トイレから戻ってきた俺は、あゆの見せた数学の問題に唸っていた。

 いや、さすがに『わからん』なんてオチはないが……

 あゆのやつ、高校受験の数学のレベルをとっくに超えたところを勉強している。

 できるとは訊いていたが……これほどとは。

「で、わかったか?」

「うんっ、こうすればいいのかな?」

 スラスラスラっ

 うわっ、俺より計算速い……

 あゆは普段の鈍くささとは裏腹に、軽快な筆捌きで計算をこなしていく。

 マジでこいつ頭いいんだな。

「できたっ」

 あゆは嬉しそうに計算式を書き込んだ紙を掲げる。

 達成感に対する満足そうな顔。

 きっとこいつは何かが出来れば更に次の段階に挑戦したくなるタイプなんだろう。

 羨ましい限りだ。

「ありがとう、祐一君。祐一君って教えるのうまいね」

「あゆの理解が早いだけだ」

 この調子なら飛び級の高校入試も問題ないだろう。

「ん…もう2時か。そろそろ寝るか、あゆ?」

 あゆを教えていて楽しかったのか気付くと深夜2時だった。

 そろそろ寝ないと学校に行く時間に起きられない。

「うん、そうだね…ふぁーーあ」

 あゆは小さい身体で精一杯背伸びしながらあくびした。

 パジャマ姿のせいかどこか子供っぽくて微笑ましい。

「じゃ、電気消すぞ。お前は先に奥に入ってろ」

「うん」

 俺はあゆが布団の奥に入るのを見届けて明かりを消した。

 

「うぐっ!?」

 

 っと、いけない。あゆがいたんだった。

 俺は天井の蛍光灯をいじって豆球だけつけた状態にしておいた。

 そして、あゆに続いて俺も布団に入る。

 

 

 あゆの身体は小さいため寝心地は普段とほとんど変わらない。

 あゆもあゆで俺に気を使ってるのか壁にピッタリと張り付いて、俺のためにスペースを大きく空けてくれていた。

 

 …………

 ……

 

 お互いしばらく無言。

 あゆの小さな呼吸が聞こえてくる。

 あゆは俺に背中を向けており、表情は伺えない。

 ううっ、これはもう我慢すべき状況じゃないよな?

 俺とあゆは相思相愛なんだからちょっと強引にやったって……。

 名雪も秋子さんも寝てる。栞も寝てるだろう。

 よしっ!

 あゆの背中に向かい合う形で、俺は身体を横に倒した。

 そしてそーっとあゆの身体に手を伸ばす。

 ちょっとあゆの身体に触れた瞬間……

 

「祐一君」

 

 背中を向けたままあゆが小さく俺の名前を呼んだ。

「な、何だ?」

 これからやろうとしてた行為の後ろめたさに声が上ずる。

「えっと…ボク、よくわからないけど、祐一君なら後悔しないよ」

「…………」

 ちょっと待て。

 そりゃどういう意味だ?

「あゆ、お前意味分かってて俺と一緒に寝るって言ったのか?」

 わかってるなら、もうお互い合意の上なんだから遠慮する必要はない。

 ていうか、おっかなびっくりの自分がむしろ情けない。

「ううん」

「おいおい…」

 やっぱり栞の『恋人は一緒に寝るもの』というのを言葉どおりの意味で受け取っていたか…。

 栞の奴、中途半端にしか教えてなかったな。

 

 まあ、手取り足取り意味を教えてたらそれはそれで問題だが……。

「で、ボクが『そんなの恥ずかしいよ』って言ったら…『祐一さんは喜びますよ』って」

 ナイスだ栞!

 …じゃ、ない! 何企んでいるんだあいつは……まったく。

 

『それに……あゆさんには祐一さんしかいませんけど、私にはまた別の機会があると思いますから』

 

 それとも、あいつなりの思いやり、なのか?

 俺とあゆをもっと親密にしようという。

 あゆもわかってはいないようだが、後悔はしないと言っている。

 じゃあ、迷うことはない…よな?

 

「あゆ……」

「あっ」

 俺はあゆに手を回して抱き寄せよせた。

 それに対してあゆが小さい叫び声を上げる。

 そのままあゆをぎゅっと抱きしめた。

 さらさらした髪からシャンプーのいい香りがする。

「…………」

 しかし、改めてこう胸に収めてみると……

 あゆの小ささがよくわかる。

 いつも活発に動き回っているのでそこまで意識しないものの…

 今俺の胸に抱かれておとなしくなっているあゆはとても小さかった。

 こんなに小さいやつを俺は強引にどうこうしようとしてたのか?

 そう思うとなんだか情けなくなってきた。

「祐一君?」

 俺がぼーっとしてるのであゆが恐る恐る声をかけてくる。

 別に、焦ることはないよな?

 俺は緊張で胸に溜めていた息を一気に吐き出した。

「やめだ、やめ。明日も早いし寝るぞあゆ」

 そう言ってあゆに回していた手を緩める。

「えっ?」

 そう、何も焦ることはない。

 あゆはここにいるわけだし、もうどこにも行くわけでもない。

 こいつがちゃんと理解するまで待ってやったっていいじゃないか。

 それに

「今、万一間違いがあったら栞とお前の約束が駄目になるからな」

 高校に入る前に『お母さん』になったら、栞と一緒に高校に行く約束も無理になるだろう。

 あの本を読んで、栞とあゆにとってその約束が大切なものか改めて知った。

 俺としても二人を応援してやりたい。

「どういうこと?」

 あゆは不思議そうに疑問の声をあげる。

「意味がわかるまではまだ子供だな」

「うぐぅ。子供、子供って…そりゃあボクは祐一君から見たら子供だけどさ」

 ちょっと拗ねたように頭を更に向こうにそらすあゆ。

 俺はそんなあゆをゆっくり抱きしめてやる。

「別に子供でいいじゃないか。子供には子供のかわいらしさってものがあるしな」

 小さくてやわらかい身体。

 今はこうやって抱いてるだけで満足だ。

 こいつは俺の彼女かもしれないが、今はまだ俺の娘みたいなものだ。

 しっかり守ってやらないとな……

「…うん、今はまだボクもこの方が安心できるような気がする」

 あゆはそういうと身体をこっちに向け、笑顔を見せて正面から俺に抱きついた。

 『今は』というのは、これが恋人同士の抱擁ではないとあゆも少しは自覚しているということだろう。

 でも……

 今はこれで十分だ。

「おやすみ、あゆ」

「おやすみっ、祐一君」

 俺達はお互いにお休みを言いあって目を閉じた。

 ああ、あったかいなあ……。

 

 …………。

 ……。

 

 

 

 




受験ネタを入れてるのは、時期的に仕方ないというのもありますが、この緊張感がこの物語の『ある人』の悲しみや孤独感に繋がっていったんだと思います。
月日は進み、人は変わっていくのに一人だけ変わらないで取り残されてる感じ。
それは辛いものだと思います。

ちなみに文系の私には関係ない話でしたが、医学部志望の方々は国語の成績に本当に一喜一憂されておりました。
医学部志望と言っても、超優秀な人ではなく、医者の子供とかで嫌でも医学部を目指さないといけない方です。
毎度毎度『国語が当たった』だの『外れた』だので、20点だとか30点をたたき出している方々がいました。
他の科目は9割も超えてくるのに、それだけできる人たちが、なんで国語だけできないのかと不思議に思ったものです。
ていうか、英語はできるのに国語ができないのが本当に謎。
北川君には、そんな当時の私の理系人間を理解できない感情が含まれてます。
……いえ、今も分かりませんけど。

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