Kanon Trilogy   作:ミサ菓子折(LRA)

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12月15日(水曜日)

     12月15日(水曜日)

 

 

 …………。

「…寒い」

 寒くて当たり前だった。

 何で俺は床で寝ているんだ?

 身体を起こして時計を確認する。

 時刻は6時半。

 ようやく朝日が差し始めたところだ。

 普段は当然ながら寝ている時間。

 しかも昨日寝たのは2時過ぎ。

 で、当然眠い。

 体がそこまで冷えてないところを考えると……

 ちょっと前まではベッドで寝ていて、で、床に落っこちて寒さで目が覚めたのだろう。

 寝ている最中にベッドから落ちたのは初めてだな……

「もう1時間寝よう」

 そう思ってベッドに潜り込もうとすると……

 

「足?」

 

 枕に布団から突き出た足が乗っていた。

 やわらかそうなちっさい足で、『あんよ』という表現の方が正しいかもしれない。

 思わずくすぐってみたくなる。

 じゃ、なくて…

 何で枕に足が乗ってるんだ? ていうか、誰の足なんだ?

 寝起きではっきりしない頭をフル回転させて昨夜の記憶を探る。

 そうだ、確か昨日はあゆと一緒に寝たんだよな。

 で、二人で抱き合いながら寝てたはず……

「何で枕に足が乗ってるんだ」

 考えるまでもない。

 俺はガバッと布団をはねのける。

 案の定、あゆは寝た時とは頭と足の位置を逆転した形で寝ていた。

「普通、180度も回転するものなのか?」

 寝相が悪いにもほどがある。

 どうやら俺はこいつにベッドから叩き出されたらしい。

 しかし……

「なんつう格好だ…」

 180度も回転するような寝相の悪さである。

 となると、服がはだけてるのも当たり前なのかもしれない。

 腹が丸出しで、胸も下の部分が完全に露になっている。

 もちろんブラもない。

 ていうか、それ以前にあゆは普段からブラなんかしていない。

「目のやり場に……そこまで困らないか」

 平和そうな寝顔を見てるとまるっきり子供だった。

 色気とはまったく別次元の存在に見える。

 ていうか、ある意味これはこれでかわいらしい。

「うぐう……」

 ポリポリ

 あゆは奇妙な寝言を上げながら、ズボンに手を突っ込んで腹の下を掻いた。

「オヤジかお前は…」

 まあ、子供っぽい寝姿とのギャップがまた微笑ましくもあるが……

 さて、それはともかく、どうしよう?

 こうまで気持ちよさそうに寝ているあゆを叩き起こすのはさすがに忍びない。

 ていうか、俺と同じ時間に寝たんだから、今起こせば間違いなく寝不足だ。

 

 

 仕方ない、刺激しないように脇にやって寝直すか……

 俺はそう思ってあゆに手を伸ばした。

 と、同時にあゆの目がパチッと開く。

 身体を起こし目をゴシゴシ。

 続いて両手を広げて、大きく伸び。

「うーん、と。おはようっ、祐一君」

「あ…ああ、おはよう」

 普段名雪の寝起きの悪さに手を焼いてるせいか、ここまで寝起きがいいやつをみると調子が狂う。

「祐一君って早起きなんだね」

 ベッドから俺を見上げて感心するあゆ。

「誰のせいだと思ってるんだ、お前の寝てる場所をよく見ろ」

「え?」

 あゆはきょとんとして、俺とベッド周りを眺める。

「お前は夕べその方向で寝てたのか?」

「あっ……」

 ようやく悟ったらしい。

 そして、涙目で俺に頭を下げるあゆ。

「ご、ごめん、祐一君」

「…まったく、寝相が悪いにもほどがあるぞ」

「うぐぅ、やっぱり慣れないベッドで寝たからかも」

「床で寝てたら違うのか?」

「うん、頭と足の位置がひっくり返るところまでは行かないよ。手と頭くらいだね」

 手って、90度も回転してれば十分寝相が悪いだろう。

 と、待てよ……。

「名雪の部屋で寝たときはどうだったんだ? あと秋子さんとも時々一緒に寝てるよな?」

「えっと、あれ?」

「どうした?」

「普通に起きた気がする」

「おいおい、ベッドから叩き出された奴は俺だけか?」

「あ、でも、秋子さんには『寝相が悪いのね』って言われたことがあるよ」

 …………。

 ああ、そういうことか。

 秋子さんのことだ。きっとあゆが変な方向に行くたびに、元の体勢に戻してやったのだろう。

 昔俺がこの家に来た時も、よく蹴飛ばした布団を何度もかけ直してくれたりしたものだ。

 名雪は…無意識下でも快眠というベクトルに行動の全てが向けられるようなやつである。

 大方あゆに弾かれたら弾き返すという壮絶な拮抗状態を作り出したのだろう。

 …ある意味壮絶だが、とてつもなく次元が低く思えるのは気のせいか?

「ま、朝からいい物見れたからいいけどな」

「いい物?」

 俺の目の先にはあゆのはだけたパジャマが…

 その視線の意味を理解して慌てて、前のボタンをとめるあゆ。

「うぐぅ、変な目で見ないでよ~」

 あゆは顔を真っ赤にして照れていた。

 もっとも、照れてるだけで怒らないところがやっぱり子供っぽい。

 相手が名雪や栞だったらしばらく口をきいてくれないだろう。

 まだまだあゆはその手の羞恥心に疎い。

「自分から見せたんだろうが」

「うぐぅ」

 さすがに、これには反論できないようだ。

「まあ、それはともかく…今からどうする? 寝るなら自分の部屋に行ってくれよ」

 名雪はまず俺達より早く起きないだろうし、秋子さんは俺達を起こしに来たことなんてないので安心だが…

 栞の行動は読めない。

 ていうか、あゆと一緒に寝てるところであいつに乱入されたら様々な意味でたまらない。

 秋子さんなら恥ずかしいだけで済むが…

 あいつの場合、後であることないこと構わず周りにばらまきかねない。

「ボク? いつもの時間だからこれから台所」

 俺がそんな心配をしていると、あゆはベッドから降りてこともなげにそう言った。

「台所?」

「うん、秋子さんと朝ご飯の準備」

「ああ…変なもの作るなよ」

 殻付き卵焼きとか。

「うぐぅ…それは昔の話だよ。今は朝ごはんほとんどボクがやってるんだから」

 不満げに横を向いて、文句を言うあゆ。

「何? マジか?」

「うん」

 秋子さんについて皿運びとかしてるだけで、料理は少しだけだと思ってた。

 でも、よく考えたら最近朝食が以前より華やかになったような……。

 彩りのいいサラダとかがパンについて出されたりしている。

 あゆが秋子さんを手伝ってるおかげで秋子さんにも余裕が出来たってことだろうか?

「今日はボクがお味噌汁で、秋子さんが塩鮭だよ」

「へえ」

「じゃ、ボク行ってくるね。祐一君はいつもの時間までまだ寝るの?」

「ああ」

「ごめんね、ボクのせいで起こしちゃって」

「気にするな、まあ味噌汁に卵の殻とか入れないように頑張ってくれ」

 俺はそう言ってあゆがのいたベッドに潜り込んだ。

 これ以上1分も睡眠時間を無駄にしたくない。

「うぐぅ、卵を割るの以外は大丈夫なんだよ~。あれだけはどうしても苦手で」

「そういう事にしておこうか、じゃ、おやすみ」

「秋子さんみたいに片手で割ろうとしたらどうしても潰れちゃうんだよ~」

 あゆがまだごちゃごちゃ言ってる。まったく、早く寝かせてくれ…

 って、何!? 片手で割ってたのか?

「両手でやれ、馬鹿!」

「うぐ、馬鹿は酷いよ」

「どうでもいいから早く寝かせてくれ。お前も秋子さんを待たせるな」

「あっ、うん、ごめんね。じゃ、ボク行ってくるから。おやすみ、祐一君」

 あゆはそう言い残すと、パタパタと部屋を出て行った。

 

 

 しかし…あゆが料理か。

 あの殺人料理しか作れなかったやつがなあ…。

 しかも今日はあいつが味噌汁を作るらしい。

 今の話だと、今までも多分気付かないうちにあゆの味噌汁を何度かご馳走になってるということだろう。

 つまり、秋子さんが作った物と勘違いさせられるくらいにうまい物を作れるようになっているのだ。

 俺は、台所に立って秋子さんと一緒に手際よく料理をしているあゆの姿を思い浮かべた。

「…ほとんど若奥さんって感じだな」

 寝姿は子供みたいなくせに、別のところではしっかりしてるというか…

 やれやれ、うかうかしてると俺の方が置いていかれるかもしれないな。

 俺はそう思いながらもう一度眠りに落ちた。

 

 

 

 

 

 

 

 

『朝~、朝だよ~』

『朝ご飯食べて学校行くよ~』

 

 カチッ!

 

「……眠い」

 さすがに50分程度じゃ寝た気になれない。

 いや、むしろかえって余計に起きるのが嫌になった気が……

 

 ジリリリリ…ッ!

 ジリリリリ…ッ!

 

 隣の部屋から容赦のない騒音が俺の耳を襲う。

「へいへい、起きればいいんだろ、起きれば」

 さすがにこの大音量の中で寝られるほど、俺の眠気はタフではなかった。

 名雪を起こして、一階に向かう。

 あゆの部屋が開いているところを見ると、もう栞も起きているのだろう。

 

 

 

 

 

「おはようございます、祐一さん」

「おはようございます、祐一さん」

「おはようっ、祐一君」

「おはようございます」

 ダイニングの扉を開けると、先に食卓に座っていた秋子さん、栞、あゆが出迎えてくれる。

 爽やかな笑顔を見せているところを見ると、栞は一晩寝て落ち着いたようだ。

 しかし…

「あゆ、お前だけ言葉使いが悪い。言い直しだ」

「え、ええっ?」

「全員『おはようございます』と言ってるのに何でお前だけ『おはよう』なんだ? なってないぞ」

「だ、だって、いっつも『おはよう』だよ?」

 あたふたと慌てるあゆ。

「悪い癖は直さないとな。さあ、言い直すんだ」

「う、うん…」

 あゆはすーっと大きく息を吸って、緊張を解こうとする。

 そして…

「お、おはようございます、祐一君」

「…………」

「うぐっ、何で黙るの?」

 あゆは挨拶に何も返さない俺を、非難するように涙目で見上げた。

「いや、なんか寒気が」

 『おはようございます』だけでも既に違和感ありまくりだが、続く『祐一君』がおかしいことこの上ない。

「あのなあ…それはなんか違うだろう」

「どう違うの?」

「『おはようございます』なら、秋子さんや栞みたいに『祐一さん』にするか……」

 と言ったところではっとした。

 あゆが俺に『さん』付け?

 こいつに『あたし』と言わせてみたとき並に寒気がしそうだ。

 あゆはやっぱり自然体が一番だと思う。

「いや、やっぱいい。忘れてく…」

 

 ガンッ!!

 

 何かが後頭部を直撃した。

「おはようございます…うにゅ?」

「わ、わ、祐一君大丈夫!?」

 扉の前に突っ立っていたものだから、後から来た名雪に扉をぶつけられてしまった。

 しかも思いっきり……。

 …名雪、いい目覚めの一発ありがとよ。

「あらあら、バチが当たりましたね」

「あゆさんをからかった天罰ですね」

 俺そこまで悪いことしましたか?

 あゆをからかうのは神に弓引く行為なんですか!?

 外野で微笑んでる二人が悪魔に見えた一瞬だった…。

 

 

 

 全員で席について朝ご飯を食べ始める。

 献立はあゆの言ってた通り、鮭と味噌汁とご飯というごく普通の和食だった。

「…くー」

 

 ぽかっ

 

「いきなり寝るなっ!」

「うー、イチゴジャムがないと…力が出ない…」

 わけのわからない寝言を言いながら箸を進める名雪。

 よくこんな状態で飯が食えるな…。

「イチゴジャム持って来る?」

「真に受けるな」

 イチゴジャムをご飯、味噌汁、ましてや鮭にかけて食べられたら、見ているこっちが気分が悪くなる。

「栞も朝は強いみたいだな」

「私の家族はみんな、朝強いです」

 爽やかな顔で答える栞。

「羨ましい限りだ」

 起きられないことはないが、俺はもう少し寝ていたい。

 正直言うと学校に行くまでの時間がもっとも辛い気がする。

 俺の周りで朝が弱い奴と言ったら、名雪みたいな極端な奴しかいないだけに何か不公平だ。

「くー」

 それに関して、焦る気持ちがまったく感じられないのには腹立たしさを感じないでもない。

「祐一さんは、朝は苦手なんですか?」

「苦手じゃないなら、わざわざギリギリの時間に起きたりしない」

「それもそうですね。でも、今日の祐一さんは普段より顔色悪いですよ。寝不足ですか?」

 うーむ、言われてみたら確かにかなりだるい気が…

 これは、今日の1時間目は死亡確定だな。

「いや、寝不足は受験生だしいつものことなんだが」

「このあいだ会ったときはそんなに目は赤くなかったですけど」

「そうね、今日の祐一さんはいつもより少し体調悪そうね」

 栞の言葉に相槌を打つように、秋子さんは言った。

「実は、あゆの寝相が悪くて…」

「うぐぅ、祐一君ごめん」

 まったく、あんなくそ冷たい床に人を転がしやがって…

 寝不足だけじゃなくて、少し風邪気味になってるかもしれない。

「あらあら」

 は!?

 秋子さん何ですか? その微妙な笑みは?

「祐一さん大胆ですね。わざわざ私のいる日を選ぶなんて」

 にこー。

「…………」

 ひょっとして俺、墓穴掘ったのか?

『あゆの寝相が悪くて…』

 別におかしなところはないはずだが…

 

 はっ!

 

 しまった! それって『二人でいっしょに寝てました』って言ってるようなものじゃないか!

「待て、誤解を招くようなことを言うな栞」

「昨日私が寝た時にあゆさんは部屋にいませんでしたけど?」

 指を口に当てて、横目でこちらを見る栞。

 ぐっ、この野郎…意地でもそっちに持っていく気か?

「あはは…ごめんね栞ちゃん、昨日は祐一君と寝たんだ」

 顔を赤らめながら、栞に言うあゆ。

 おいあゆ、そんな顔をしながらそんなことを言うな。

 思いっきり誤解を招くだろ!

 しかも目の前にはわざと誤解したがってるヤツがいるのに。

「大胆ですね祐一さん。私も名雪さんも近くにいたっていうのに。それともそういうほうが盛り上がるんですか?」

 にこにこ。

「違う、それは絶対にない」

 と、後々まで言い切れるかはわからないが…

 ああいうのは目覚めるとやみつきになるなるらしいし…

 って、何考えてるんだよ俺は。

「ふふ、栞ちゃん、そのくらいにしてあげてちょうだい」

 頬に手を当てて微笑みながら秋子さんは栞を制止した。

「はい」

 同じく笑顔で素直に引き下がる栞。

 なんだか栞と秋子さんって凄く気が合ってる様な気がするな。

 というか、性格的に同質のオーラを感じる。

「最初から祐一さんにそんな勇気があるとは思ってませんけど」

 ガクッ!

 栞はくすくすとまったく含みなしに笑っているが、その一言の方が傷ついたぞ。

 そこまで言うなら、お前の滞在中に目の前でやってやろうじゃないか。

 …って、それじゃ完全に変態だ。

 俺ひょっとしてそういう性癖の素質あり?

 頭の中では常識人としての相沢祐一が必死にそれを否定していた。

「でも、祐一さんはちゃんと後先考えているみたいですから安心です」

「そりゃ、まあ」

「焦らないであゆちゃんを大事にしてあげてくださいね」

 秋子さんは突然真剣な顔をして一言そう言った。

「え、ああ…はい」

 普段ほとんど見せない顔だけに驚いてしまって、声がすぐには出ない。

「昨日祐一君は優しくしてくれたよ」

「ふふ、ちょっと余計でした。祐一さんは言わなくても分かってましたね」

 あゆの言葉を聞いた秋子さんは、穏やかに目を閉じながらそう言うと、空になった食器を持って台所へ消えていった。

 

 

 なんだろう? 秋子さんは珍しく深刻だった。

 まさか…でもあの若々しい秋子さんを見れば考えられないことでもない。

 ひょっとして秋子さんが名雪を生んだのって……

 いや、やめとこう。

 こんなこと詮索するのは失礼だ。

 でも、あゆにはちゃんと高校は卒業させてやりたい。

 最後まで通えたのが幼稚園だけじゃかわいそうだもんな。

「さて、そろそろ行かないとまずいな」

 俺は名雪の首根っこを掴んで立ち上がる。

「にゃ~」

 どうやら寝ぼけてる名雪は子猫になってるつもりらしい。

 ま…外に連れて行けば寒気で目が覚めるだろう。

「あ、ボクも行くよ」

 俺が立つのを見て慌てて立ち上がるあゆ。

「お前は留守番だ」

「な、何で?」

「秋子さんももうすぐ仕事に出るのに、栞をほったらかしにするわけにはいかないだろ」

 ちなみに、あゆは鍵を持っているので、俺達と一緒に学校に行っても問題はない。

「じゃあ、栞ちゃんも一緒に……」

「言っておくが、今日は走るぞ。昨日の今日で栞を走らせる気か?」

「え、えっと…」

「ついでに言うと、学校に行く途中で栞の家出の原因と出会う可能性もあるんだぞ?」

「う、うぐぅ」

 正論をずらずら並べ立てられて、あゆは何も言い返せなくなった。

「というわけでおとなしく留守番してろ」

「う、うん」

 しょんぼりするのも無理ないな。

 いつもは走ってでも一緒についてきてたんだから。

 仕方ない。

「いい子にしてたらたい焼き買ってきてやるぞ」

「えっ、ほんと?」

 たい焼きと聞いて途端に明るくなるあゆ。

 しかし、今の台詞にその反応でいいんだろうか?

 慰めのつもりで買ってきてやろうとは思ったが、今のはからかうつもりで言ったんだが……。

「…………」

 少し考え込んだ後、栞に目を向ける。

「栞もいい子にしてたらバニラアイスを…」

「私をおちょくっているんですか?」

「いえ、滅相もございません」

 全部言う前に凄い形相で睨まれてしまった。

 しかも微妙に口が悪い。

 しかし、これが普通の反応だよなあ?

 俺だってこの歳でそんな慰められ方されたら怒るぞ。

 7年前でも多分怒ると思う。

「うにゃ~ん」

 いや…こいつもイチゴサンデー餌にしたら素直に喜びそうだな。

 やっぱりこいつらはどこかおかしい。

「んじゃ、行ってくる」

「ごろにゃ~ん」

 秋子さん、あゆ、栞の『いってらっしゃい』の声を背中に受けながら…

 俺は手元でだらしなく垂れているドラネコ大将を引っ張ってリビングを後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 いつもどおりの時間に教室に滑り込む。

 北川達に軽く挨拶はするが、話し込んでる時間はない。

 とりあえず、急いで席につく。

 教室に入る前に石橋が向かいの廊下から歩いてくるのを見たからだ。

 程なくして、石橋が教室に入ってくる。

 と、同時に香里が教室に駆け込んできた。

 ギリギリセーフというところだろう。

 しかし、相変わらず余裕のない切羽詰った顔だ。

 

 

 一時間目の授業終了のチャイムで目が覚めた。

 疲れているときはいっそ開き直って寝るに限る。

 無理に起きていたところで、その後の授業がどんどん辛くなっていくだけでいいことは何もないからだ。

 ていうか、起きてても授業が頭に入らない。

 こういう時、後ろの席というのはありがたかった。

 教師が教材をまとめて、教壇を離れるのを見て背伸びをする。

 次の時間からは起きてよう……。

 と、思いつつ横を見てみると名雪が気持ちよさそうに眠っていた。

「くー」

 …完全に熟睡してる。昼まで起きそうにないな。

 まあ、俺と違って名雪は受験の方は余裕なんだ。好きにさせてやろう。

 以前悪戯で、寝ている間にあの長い髪を蝶結びにしてやったら思いっきり睨まれたしな。

 触らぬ髪に祟りなしというやつだ。

 

「相沢君」

 

 ん?

 呼ばれたので後ろを振り返る。

「香里か、何か用か?」

 思いがけず香里から俺に話し掛けてきた。

 昨日のこと考えると、今日も避けられると思って、捕まえる余裕のない小休憩の時間は気にしないで置こうと思っていたので意外だった。

「ちょっと話いいかしら」

 そう言って、目を廊下にやる。

「わかった。俺も話がある」

 俺が応えると、香里はそのまま振り返らずにさっさと教室を出て行った。

 いい機会だ。こちらからも言いたいことを言ってやろう。

 香里の話はあのことだろうしな。

 向こうの手が読めていれば、香里のあの鬼気迫る顔にも結構余裕を持って対応できるものだ。

 後ろの北川をちらっと横目で見ると……

 何も言わずに小さく相槌を返してきた。

 『何か知らんが、頑張れ』って意味だろう。

 俺は北川に軽く頷いて、小走りに香里の後を追った。

 

 

 

 

 

 

 

 廊下に出て、二人して黙々と進む。

「おい、どこまで行く気だ。次の授業に間に合わないぞ」

 教室からどんどん離れて行く香里の背中に向かって言う。

 すると香里は振り返らずに答えた。

「別に構わないわ」

「俺は構わなくないって」

「じゃあ帰れば?」

「ちっ」

 帰れと言われて帰れる気分じゃないのをわかってて挑発してくる。

 仕方ない、授業は諦めよう。

 

 

 そして連れて行かれたのは、屋上前の階段踊り場だった。

 なるほど、ここなら人目につかないし、授業が始まっても誰にも見つからないだろう。

 香里は先に屋上への扉にもたれると腕を組んで口を開いた。

「単刀直入に訊くわ」

「ああ」

 俺は手近にあった手すりに腰掛けるような形で壁にもたれながら返事をした。

「栞、あなたの家にいるわね?」

「いや、いないぞ」

「相沢君、とぼけるなら少し痛い思いをしてもらうわよ」

「とぼけていない。何でわざわざ栞を俺が県外まで連れ出さなきゃいけないんだ」

「……あなたみたいな低能には言い方が悪かったわね」

「そうかもな」

 俺の挑発に香里の歯がギリッと鳴るのが聞こえた気がする。

 ……よし、今のところは俺の方が冷静だ。

 香里の雰囲気に飲まれるわけにはいかない。

 怯んだところを言いたいように言われるのは明白だ。

「で、水瀬家に栞はいるのかしら?」

「ああ、あゆの部屋に泊まっている」

「……ッ!」

 わざと『あゆの部屋』と限定して答えてやると、案の定、香里の目が一段と鋭くなった。

 予想通りの反応だ。

 だけど……

 らしくないな。香里が俺の手の内で踊らされてるなんて。

 ……まあ、今はこの方が好都合だ。

 香里が反撃できないようにしておく方が都合がいい。

「で、なんで水瀬家に栞が来てると思ったんだ? 栞はお前には教えるなと秋子さんに言ったんだが」

「あの子が部屋の荷物をまとめて出て行けるような所なんて限られてるわ」

 僅かに間を置いて香里がポツリと呟く。

「物心ついたころから病院暮らしだったあの子には……」

「そうか」

 物心ついたころから病院暮らしだったあの子には……

 その続きを予想するのは容易い。

 家族親戚以外の知り合いはほとんどいないということだろう。

 となると、栞が完全に行方を断てる場所は水瀬家くらいしかないということだ。

 もっともばれたところで問題はない。

 栞がうちにいることは、栞の両親には了承されていることだ。

「相当な嫌われようだな。お前のこと、『あんなのお姉ちゃんじゃありません』って言ってたぞ」

「……そう」

 予想に反してどうでもいいような投げ槍の返事が返ってくる。

 少しは取り乱すと思ったのだが……気が抜けるな。

「あのなあ、あゆの何が気に入らないんだよ? 栞が怒ってるのもそのことだけだぞ。あいつに街で食い逃げの共犯にでもされたか? それとも何かあいつに不愉快なことされたのか? もしそうだったら謝りに行かせ……」

 

 ガシャアアアアン!!

 

「黙って!」

 骨が砕けんばかりの勢いで、屋上への鉄扉に拳を叩きつける香里。

 校舎中に耳障りな鈍い金属の振動音が響く。

 そして次の瞬間、香里は俺の首筋を左手で掴み、力任せに俺の体を壁に押し付けた。

 ちょっと、というかかなり苦しい。

 首に食い込む指は普通の女の子の力とは思えないものがある。

「…その子の話を二度とあたしの前でしないで。それ以上喋るなら、このまま絞め殺すわよ」

「くっ」

 殺すとは穏やかじゃないな。

 だけど……

 俺は背後の手すりに両手をかけて体重を預ける。

 狙いは……

「っ!」

 俺が香里の体目掛けて蹴りを出そうとした瞬間に、反撃を察した香里が慌てて腕を引っこめて後ろに飛び退いた。

 そしてしばらく拳を握り締め、いつでも攻撃できる態勢をとりながら無言で睨み合う。

「やる気か? 手加減するつもりはないぜ」

 先に手を出してきたのは香里だ。

 まだ続けるっていうなら俺だって黙っている気はない。

 

 …………。

 ……。

 

 時間にして一分か二分だろうか?

 実際には1時間か2時間にも感じられたが……

 香里が構えていた握り拳を解いて、手を下ろした。

「やめとくわ」

 そして、俺から顔を背けると、そのまま階段を降りてこの場を去ろうとする。

「おい!」

 緊張が抜けず、勢い余ってその背中に必要以上の大きな声で呼びかけてしまった。

 その声に香里は立ち止まって、振り返らずに答える。

「栞に伝えておいて。『あたしは寛大なお姉ちゃんだから、謝るなら今のうちよ』ってね」

「本当にそんなこと伝えていいのか!?」

「…………」

 香里はそれ以上何も言わずに去っていった。

 

 

 正気か?

 今の栞にそんなことを伝えたら……

 火に油を注ぐようなことになるのは明白だ。

 香里のやつ、栞と本気で喧嘩する気なのか?

「…………」

 首筋に手をやる。

 鷲掴みにされたところが少し痛い。

 あの瞬間の香里の目が頭に焼き付いている。

 怒っていると思った香里の目……

 あれは、怒ってるんじゃない。

 気圧されていた時は怒りと思っていたが……

 あれは激しい怯えの目だった。

 香里は……あゆの事が気に入らないのではなく

 香里はあゆの何かに怯えているのだろうか?

 しかし、今の俺にはあの『うぐぅうぐぅ』言ってるあゆのどこに怯える必要があるのか、皆目見当がつかなかった。

「さてと……それはともかく」

 一人取り残された踊り場で、あたりを見回しながら考える。

 授業はどうしよう?

 『トイレ行ってました』で通じるような時間じゃないし、

 ていうか、通じたとしても色んな意味で恥ずかしいし、

 おそらく赤くなってるであろう首筋について何か問いただされたりするのも面倒だ。

 …仕方ない。この時間が終わるまで待っていよう。

 後で訊かれても、北川に口裏を合わせてもらえばしらばっくれることは出来るだろう。

 ……多分。

 ということで、することもないので俺はチャイムまでここで階段に腰掛けて寝ることにした。

 おあつらえ向きに丸めたビニールシートが踊り場の端に立てかけられているので、それを敷く。

 しかし、なんでこんなところにカラフルなビニールシートがあるのだろう?

 誰かここでピクニックでもやってたんだろうか、謎だ。

 ……それにしても、暖房から遠いだけあってやっぱり寒い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして何事もないかのように学校が終わる。

 あれから後、香里も教室に戻っていたが言葉を交わすことはなかった。

 話すことがないというか、話しても無駄とはっきりわかる雰囲気だったので、わざわざ声をかけるのも億劫だったからだ。

 香里の雰囲気が最近は悪くなってることはクラス中に伝わっているようで、いまや香里はクラスの中でもどんどん孤立していっている。

 もともと『完全無欠人間』というやっかみを買うに十分な要素を持っているだけに最近の香里の態度に対し、周りが敵視に満ちてくるのはさほどかからなかったように思える。

 妹にも嫌われて、クラスの人間からも疎まれて……

 一体、お前は何がやりたいんだ?

 

 

 ……それにしても

「何? 祐一」

「いや…なんでもない。早く帰ろうぜ。最近ますます寒くなってきてたまらない」

「うんっ」

 今日もう一つ気になったこと…

 それは、一緒に赤く染まった通学路を歩いている名雪のことだ。

 今日は名雪が授業中起きてるところを見たことがない。

 いや、ほぼ間違いなく全部寝ていただろう。

 昼休みと放課後はさすがにまずいので起こしたが、休み時間もぶっ通しで寝ていた。

 文化祭の時といい、最近ますます酷くなってきているような気がする。

 『まあ、名雪だし』なんてずっと済ましてたが……

 いい加減、少しおかしいのではないか? と思わずにはいられない。

「名雪、お前どこか体の調子が悪いとかないか?」

「え? わたしは元気いっぱいだよ~」

「そうか、ならいいんだ」

「でも、何でそんなこと突然訊くの?」

「これからの時期体壊したら困るだろ? だから心配してやったんだ」

 呑気な表情を見る限り嘘は言ってないだろう。

 もともと栞みたいに器用に嘘つけるタイプでもないし……

 やっぱり、名雪は特に異常ないのだろうか?

「え、えっと…」

「ん?」

 なんだ? 何でそんな照れた顔してるんだ?

「祐一…熱とかないよね?」

「はあ!?」

 今の流れで何で俺がそんなこと訊かれなきゃならないんだ?

「だ、だって、祐一がわたしにそんな優しい言葉かけてくれるなんて……」

 ぐあ…しまった。

 よく考えれば名雪相手になんて恥ずかしい言葉かけてやってるんだ俺は。

 適当にごまかしで言った台詞がまずかったな。

「寝てろ」

 思い返すと思いっきり恥ずかしくなってきたので名雪を置いてさっさと歩きはじめる。

「わたし起きてるよ~。それに置いていかないで」

 後ろで名雪がごちゃごちゃ言いながらついてくるが無視だ無視。

 あ~、くそ。ここ最近の中で最大の失敗だ。

 心配して大損した。

 っと、危ない。

 失敗で思い出した。

 危うく忘れるところだったな。

 

 

「あっ、祐一どこ行くの?」

「あゆにたい焼き買う約束してた。商店街までひとっ走りしてくる」

「じゃあわたし……」

「お前は家に帰れ」

 わたしも行くよ、と言いかけた名雪の言葉を遮る。

「えー、何で?」

「何でもだ」

 今こいつと一緒にいるのは恥ずかしすぎる。

「うー」

「ああもう、わかったから。さっさと家に帰って全員分の茶でも用意しとけ」

「あ…うんっ」

 俺がヤケクソ気味にそう言い捨てると、名雪は嬉しそうに頷いて家へと駆けていった。

 まったくとんだ薮蛇だ。

 全員分たい焼き買って帰らないといけなくなってしまった。

 こないだ参考書買って小遣いがピンチだっていうのに…くそう。

 背中から差す夕日は俺を慰めるどころか、木枯しと一緒になって俺をますます滅入らせてくれた。

 

 …………。

 ……。

 

 でも、杞憂じゃなかったのだ。

 そのとき確かに、何かが狂い始めていた。

 いや、既に狂っていたのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 茶色い紙袋を持って家に帰ると、居間で全員が待っていた。

 全員で俺をお出迎え…

 なわけはなく、単に全員たい焼きの到着を待っていただけだった。

 居間に入ると同時に紙袋に注がれた視線がそれを物語っている。

「おかえりなさい、祐一さん」

「おかえりなさい、祐一さん」

「おかえり、祐一君」

「おかえり~、祐一」

 ……なんか

 どんどん返事がぞんざいというかフランクになっていってるのは気のせいだろうか?

「祐一さん、お疲れ様です」

 そう言って俺に500円を渡してくれる秋子さん。

「あの、これは俺があゆに買ってくると約束したものなので…」

「いいのよ、今は色々必要な時期でしょう? それにわたしもここのたい焼きは好きですから」

「…助かります」

 こないだ参考書買いこんで帰ったところを見たからだろう。

 秋子さんは俺の懐具合をよくわかってくれていた。

「祐一、お茶も用意しておいたから早く食べようよ」

 見るとちゃんと皿とお茶が人数分机に用意されている。

「祐一君、はやく食べないと冷めちゃうよ」

「へいへい」

 甘味大好き姉妹に急かされて、俺は茶袋を机の中心に置いた。

 そして、袋を開けて自分の分を取ろうとすると…

 横からにゅっと白い手が出てきて袋の口を閉めた。

「…何の真似だ、栞」

「ダメですよ」

「何が?」

 笑顔で駄目とは俺にたい焼きを渡さないつもりか? 上等だ。

 そう思って栞を睨みつけてみる。

 

 …………。

 ……。

 

 にこー

 ぜ、全然効いてない。俺の眼力ってまったく迫力なしか!?

「レディーファーストですよ」

 口に指を当てて、さも当然の権利ですと言わんばかりに胸を張る栞。

 ヤロウ…いつもならそこで引き下がるところだが…

 いつもいつもお前の思い通りになると思うなよ。

「悪いな、由緒正しき相沢家は家長制でな。長男の俺が全てに優先するんだよ」

「ここは水瀬家ですけど?」

「甘いな栞、秋子さんも元は相沢家の一員。つまりここは俺の支配下というわけだ」

 ああ、自分の舌が恐ろしい。

 俺は今とんでもない大ぼらをでっち上げていた。

 さあ、どうする栞。

 これでも俺のたい焼き一番乗りをお前は拒めるのか!?

「祐一さん、変なこと言ってないで手を洗ってきてください」

「…はい」

 俺のハッタリは秋子さんの一声で、一瞬にして打ち砕かれた。

 

 

 すごすごと洗面所に向かう。

 くうう、だが、今回は栞には屈しなかったぞ。

「あゆさん、ああいう風に変な意地を張ると余計に情けない思いをするんですよ」

「そうなんだ」

「あと、人の言葉は良心的に聞き取らないとダメです」

 …屈しなかったんだよな?

 ていうか、さっきのレディーファーストって、つまりは俺に手を洗って来いと遠まわしに言いたかっただけだったとか?

 いや、しかしそこで素直に従ったら俺は栞に屈したも同然なわけで……

 従わなければ従わないで品のない人間になってしまうし……

 ていうか、今の俺って結局品のない上に、滅茶苦茶情けなくないか?

 ぐがああああああ!!

 頭がこんがらがってきた。

 どうやら俺は栞に二重にハメられてしまったらしい。

 背中越しに聞こえる栞の声が俺をいっそう惨めにしてくれた。

 ていうか、別に栞にそこまで悪意はないんだよな…

 裏を返せば俺に紳士の対応を求めているだけで、むしろ悪いのは子供っぽい反応をしている俺のほうか。

 しかし、妙に釈然としないものがある…魂的にというかなんというか。

 

 

 

 洗面所から帰ってくると、全員俺が戻るまで食べずに待ってくれていた。

「さあ、祐一さんも揃ったところで頂きましょう」

 秋子さんの合図に全員で『いただきます』をして、めいめいたい焼きを食べ始める。

 少し、いや、かなり遅めのおやつの時間だ。

「でも、なんだか久しぶりだね。みんなでこうしておやつ食べるのも」

「うん、最近あゆちゃんも祐一も忙しいからね」

「お前も忙しくなければいけないはずなんだけどな…」

「わたしも忙しいよ~」

「どう考えても陸上部の時のほうが忙しく見えたぞ」

「うー」

 もっとも単に帰ってくるのが遅いというだけで『忙しい』といっていいものかは疑問ではあるが…。

 そもそも陸上部のミーティングは、部長の名雪が居眠りしたせいで何度も最終下校時刻を超過した経歴があるらしい。

 こんなのに部長を任せた陸上部の先輩方の顔が見てみたい。

「ああ、そういやたい焼き屋のおやじがお前のこと心配してたぞ」

「え、おじさんが?」

「『最近見ないけど元気かい?』だと」

「うぐぅ、前に買いに行ったのいつだったっけ?」

「私と一緒に行った2週間前じゃないですか?」

「うん、多分そうだと思う」

 たい焼き屋にほぼ毎日通ってたそれ以前の方がある意味凄いと思う。

「最近は秋子さんと祐一君に買ってきてもらってるもんね」

 最近のあゆは朝俺達について学校に行く時以外は、勉強か家事手伝いが多いらしく商店街に足を運ぶことは稀だ。

「たまにはお前が行ってやれよ。あのおやじ『おまけする』って言ってたぞ」

「えっ、ほんと?」

 おまけと聞いて目の色を変えるあゆ。

 現金なやつめ…

「あのおやじ、相当にあゆのことお気に入りみたいだからな」

 常連だからお気に入りなのか…それともやっぱりやばい趣味があるのか…

 願わくば前者であって欲しい。

 

 

「でも、本当に久しぶりですね。ここでこうしてたくさんの人でお茶にするのも」

 お茶を膝の上に置いて秋子さんが懐かしそうに目をつぶる。

「お客さんも一緒なのは香里ちゃんが来た時以来かしら」

 俺とあゆは秋子さんの中では家族扱いのようだ。

 でも、考えてみれば不思議なものだ。

 俺も秋子さんを本当の母親のように頼りに思うことがよくあるし、

 あゆに至っては本当に母親同然のように感じているようにも思える。

 名雪もいとこと言うよりは妹…いや、双子の姉か妹みたいな感じだし…

 両親と別居してるのに全然寂しくもならない。

 むしろ、水瀬家の方が居心地がいいように思えるくらいだ。

 学力レベルとか、そういうのも当然あるけれども

 俺がこの街から近い大学に行こうとしてるのは、水瀬家にいたいという気持ちが強いからかもしれない。

 一度は深い悲しみで思い出すことすら拒絶したこの街…

 でも、昔の俺はここに来ることを休みの度に楽しみにしていた。

 本当に、秋子さんと名雪には感謝しないといけないな。

 俺が今、日々を愉快に過ごせるのは水瀬家があってのことなのだから。

 

 

「栞ちゃんどうしたの?」

 たい焼きを口にくわえて、しんみりと物思いにふけっているとあゆの不安げな声が聞こえた。

 栞がどうかしたのか?

「あ…えと…」

 栞はたい焼きを持った手を膝の上に乗せて憂かない顔をしていた。

「ごめんなさいね。栞ちゃんはいたくてここにいるわけじゃないのに」

 穏やかに目を閉じながら謝る秋子さん。

「いえ…その、そんなことないです。私、このおうち好きです。いたくないなんて…」

「そう、そう言ってもらえると嬉しいわ」

 そうか、これがただのお泊りとかなら素直に喜んでいいんだろうが…

 栞は形式的には居場所をなくして水瀬家に転がり込んでるって状態なんだよな。

 さっき秋子さんが香里のことを口に出したために思い出してしまったんだろう。

「そういえば……香里に今日、栞への伝言を頼まれたんだが…」

 少し言うのが躊躇われる。

 栞にとってそれは聞きたくない伝言であるのは間違いない。

 言っていいのか同意を求めるために栞の顔を伺う。

 すると、栞は意外にも笑顔を見せて、首を横に振った。

「言わなくてもいいですよ」

「そうか」

「お姉ちゃん本人がここに来ていないってことだけで、祐一さんに何を言ったか十分わかりますから」

 栞はただひたすら笑顔だった。

 でも、それは悲しい笑顔だ。本心からのものじゃない。

 香里は妹にこんな顔をさせて満足なのだろうか?

 俺が香里なら、栞にこんな顔などさせたくないと思うのに。

 

 

 

「え、えーっと」

 あゆが重くなった雰囲気の中、小さい声で全員の顔を伺う。

「たい焼き冷めちゃ……」

 

 ぐぅ~

 

 開き直りかとも思えるくらいに馬鹿でかくあゆの腹が鳴った。

 

「………」

「………」

「………」

 

 あまりの場違いぶりに全員が沈黙する。

 そしてしばらくした後…

「ぷっ」

 3人同時に俺達は大爆笑した。

「うぐぅ、笑わないでよ~」

 お腹を押さえ、俺達から視線をそらし恥ずかしそうに俯くあゆ。

 俺達はそれが余計におかしくて笑った。

 当人は空気が重くなってるのを、口を開くことで打開しようとしたのだろうが…

 本当に絶妙なところで緊張をぶち壊しにしてくれる奴だ。

「あらあら、これが終わったらすぐに夕飯にしないとダメね」

 そんな俺達の様子を秋子さんはいつもの笑顔で、のんびりと楽しそうに眺めていたのだった。

 

 

 

 そして、夜が更けていく…

 

 …………。

 ……。

 

 

 

 

 




姉にブチギレて家出するわ、自分の体重ぐらいあるリュックを背負って来るわと、滅茶苦茶やってる栞ですが、当初の予定には全くそんなのありませんでした。
このへんの栞の行動は完全にキャラの暴走です。
これ大丈夫なんかなあ……と不安になりながらも、制御できる気もせずそのまま栞の気分に任せて書いた記憶があります。
3ヒロインが水瀬家に同居してるというありえない展開は、ちょっと面白かったですね。

まあ、当時はファンタジーとかでヒロイン全員が水瀬家(寮?)に住んでるって展開普通にあったので、3人同居ぐらいがなんだって雰囲気でしたけど。
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