Kanon Trilogy   作:ミサ菓子折(LRA)

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12月18日(土曜日)

 お姉さんとの生活が続いたある寒い日。

 珍しく鳴った呼び鈴に玄関に行ってみると、お姉さんが誰かとお話をしていた。

 知らないおばさんと、知らない男の子。

 男の子は…わたしと同じ年くらいかな?

 おばさんの話していたことはよく分からなかった。

 大人の人同士の話って何であんなに難しいのかな?

 よく分からなかったけど、男の子の頭に手を置いて『冬休みの間』とか言ってたのは分かった。

 お姉さんはそれに面倒くさそうに返事をしていた気がする。

 わたしはただお姉さんの傍に立って、おろおろとそこにいる人たちの顔を伺っていた。

 お姉さんは相変わらずの無表情。

 知らないおばさんはお姉さんとお話しながら、時々わたしを心配そうに見やっていた。

 そういえば、わたしがお姉さんの傍に立ったとき『こんにちは、名雪ちゃん』って挨拶してくれた気がする。

 知らないおばさんはわたしのことを知ってるみたいだった。

 そして、知らないおばさんに連れてこられた男の子は…

 お姉さんとわたしを交互に見比べていた。

 ううっ、何だか睨まれてるみたいだよ。

 それに何で手に木の枝なんかを持ってるんだろう。

 幼稚園の乱暴な子みたいだよ…

 お姉さんと知らないおばさんの話は続いた。

 わたしは次第にその知らないおばさんより男の子の方が気になって仕方なくなった。

 だって、いまいち何を考えているのかよくわからなかったから。

 何でわたしたちのほうを睨んでいるんだろう?

 でも、男の子は次第にお姉さんの方をじっと睨みつけるようになっていた。

 よかった、わたしを睨んでたんじゃなかったんだ。

 最後に知らないおばさんは『それじゃあ、よろしくね秋子。祐一もいい子にしてるのよ』と言って帰っていった。

 男の子を残して。

 男の子は『祐一』って名前みたい。

 玄関に残されたのはわたしとお姉さんと男の子だけ。

 お姉さんは知らないおばさんが出て行ったのを確認すると、つまらなそうに溜息をついた。

 そして、やっぱりお姉さんが面倒くさそうに男の子に何かを言おうとしたその瞬間……

 

 

 

 

 

 

 

 

     12月18日(土曜日)

 

 

「で…またなのか?」

 昨日と全く同じ朝の展開に俺は頭を抱えるしかなかった。

 あゆに叩き起こされて名雪の部屋に行ってみると、ベッドから引きずりおろされても尚寝ている名雪が……

「何でお前はまたこんなことやってんだ!?」

「あゆさんに頼まれましたから仕方なくです」

「アホはお前かっ!」

「うぐぅ、アホじゃないよっ」

 家主の娘に二日連続で狼藉に及ぶ居候、こいつの神経の図太さは二日連続で起きない名雪といい勝負をしている。

 そして前日の凶行を目にしても、またその下手人に依頼をするあゆの神経も大したものである。

「それより、どうするの?」

 あゆが一向に目を覚ます気配のない名雪を心配そうに見つめる。

 どうするか…か。

 考えるまでもない。

「ほっとけ」

「うぐぅ、こんな時に冗談言わないで」

「俺は大真面目だ」

「尚悪いよっ」

 ああもうやかましい。

 大体ここまでやられて起きない奴をどうやって起こせって言うんだ?

 どうせ必死に起こそうとしても結局起きずに、夜になったらまた『おかえり~』とかのんびりした声が返ってくるに違いない。

 さっさと学校に行く準備をしようと思って名雪の部屋を出ようとすると俺のパジャマの裾をあゆが掴んだ。

「おい、離せって」

「名雪さんを置いていったらダメだよ!」

 ええい、融通の利かないやつめ。

 かくなる上は……

「栞、手を貸せ」

「はい?」

 俺はツカツカと名雪の傍に寄り、栞に声をかけて名雪の背中を起こす。

「俺は腕を持つから栞は足を頼む」

「どこかに運ぶんですか?」

「まあそんなところだ」

 俺がそう答えると、栞は納得いってない様子だったが、素直に名雪の足を持ってくれた。

 ちょうど要介護人を運ぶような格好で名雪を宙ぶらりんにして部屋の外に…

「えっと…何をするつもりなの?」

 栞以上に状況をつかめていないあゆが不思議そうに俺達を見つめながら訊いてきた。

「こいつを裸にして外に放り出す」

 決まってるだろうとばかりに答えてやった。

「だ、ダメだよっ、そんなこと」

「喜んでお手伝いしますっ」

 顔を真っ赤にするあゆと、一気に笑顔になる栞。

 分かりやすいまでに対照的な二人だった。

「なに、心配するな。俺は名雪と昔風呂にも入った仲だし問題なしだ」

「問題大有りだよ!」

「私も女の子同士なので問題無しです」

 またも見事に対照的な二人。

 ていうか少しは止めろよ栞。このまま止めなかったらマジでやるぞ。

「というわけで名雪はここでゆっくり寝かしておいてやろう」

 馬鹿やってる時間じゃないので、くるりと方向転換をしてベッドに名雪を寝かせてやる。

「なにが『というわけ』なのか全然わからないよっ」

「えーっ、剥かないんですか?」

 同じ不満顔でも、言ってることが全然違うし……

 よくこれで親友やってるなあ。

 まあそれを言うと名雪と香里もなんであれで親友なのか不思議なでこぼこコンビだが。

 姉達が姉達なら妹達も妹達か……

 なんだか不思議な共通点を見つけて、今目の前にいる二人が微笑ましく思えた。

 

 

「とりあえず、俺は時間がないしもう行くからな」

「あっ、祐一君」

 名雪を放っていこうとする俺に尚も追いすがるあゆ。

 やれやれ…仕方ないな。

「栞、そんなに脱がしたければ女の子同士楽しくやってくれ。俺は消えるから」

「えっ、いいんですか?」

 うわ、無茶苦茶嬉しそうだし。

 しかし、このままあゆにしがみつかれていては俺も困る。

「楽しく、仲良くな」

「嬉しいです~」

 そう言って栞は不敵に笑いながら俺にしがみついてるあゆに後ろから掴みかかる。

 そして……

 やっぱりどこにそんな力があるのか謎だがあっさり俺からあゆを引き剥がしてしまった。

「えっ、ちょっと栞ちゃん何を…」

「ゆっくり楽しんでくれ」

 

 パタン

 

 何をされるか全く分からないまま、栞に部屋の真ん中に引きずられていくあゆに黙祷を捧げながら名雪の部屋を出る。

 自分の部屋に戻って着替えている間中、隣から『うぐぅ~!』という悲鳴と栞の歓喜の声が聞こえてきていたが、着替えを終えて部屋を出た時には、二人で楽しそうにはしゃぐ声が聞こえた。

 何だか分からないが、楽しそうなのはいいことだ…と思う。

 少し覗いてみたかったが、本当に脱がしっこしてたら男が覗くのはまずいよな。

 ていうか、名雪までとばっちり受けてなきゃいいが……

 

 

 はしゃぎ疲れてベッドに倒れる三人。

 白い均整の取れた綺麗な体をした栞に、引き締まった肢体に…が大きな名雪に、色付きのいい体を惜しげもなく大の字でさらけ出すあゆ。

 そのどれもが朝日に照らされて輝いていた……

 

 

 ごつん

 

 …朝っぱらから何考えてるんだ俺は。

 妄想全開の頭に一発くれて、俺は家を出た。

 

 

 今日も一日頑張ろう。

 訂正、今日こそは一日頑張ろう。

 …ここのところ平穏な日がない気がするのは気のせいか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 人間、珍しいことがあっても二度目となると結構落ち着いたものである。

 教室へ小走りに駆け込んだ俺の傍に今日も名雪がいないことに一瞬クラスの注目が集まったが…

 数秒の沈黙の後、全員先ほどまでやっていたことにそれぞれ戻っていった。

「よ、おはよう」

「ああ、おはよう」

 いつものように挨拶してきた北川に挨拶を返す。

 その表情は少し不安そうに見える。

 一見無関心そうに向こうを見ていたが、香里もどうやらこっちが気になって仕方ないようだ。

 時折こちらをちらちら見ているのが分かる。

「水瀬、昨日どうだったんだ? 結局一日中来なかったが」

 ああ、そうか。

 あんまりにも間抜けな理由だったので忘れてたが、昨日は一日中学校に出てこなかったんだよな。

 北川やクラスメートが心配そうにするのも無理はない。

「聞いて驚け、昨日一日中あいつは寝坊したんだ。で、今日もそんな感じだ」

 俺がそう言うと全員から溜息があがる。

 昨日の俺を見ているような気分だ。

 香里も一瞬呆れたように肩を落として、机に広げていた参考書か問題集に顔を戻していた。

 ……あの様子、やっぱり心配してくれてるんだろうか?

「一日中寝坊って……ギネスでも狙ってるのか?」

 俺と同じこと考えるとは、さすがだな相棒。

 もう何だか、名雪の睡眠といえば何でもありな雰囲気になっている気がする。

 まあ、授業中あれだけ寝ている姿を見せられれば、寝ながら100メートル走で一位を取ったとかいう噂が真実味を帯びてくるのも無理はない。

 今度は放課後まで寝坊……なんて伝説がここに加わってくるんだろう。

 そして、そんな感じで石橋が入ってきて授業が始まる。

 

 

 

 

 

 

 休み時間には名雪の寝坊話で盛り上がったりして…

 いつものように時間が過ぎていった。

 授業中、窓から天候のぐずつき始めた空を仰いで思う。

 もうすぐこのいつものようにと感じている日常も終わるのだ。

 今年もあと二週間……

 その後は、あっという間だろう。

 慣れ親しんだこの学校とももうすぐお別れというわけだ。

 あと一年高校生活があれば…

 あいつの二つ目のお願いを本当に叶えてやれたのに。

 いや、俺達の願いか…

 俺とあゆと名雪の

 決して叶うことのない願い。

 毎朝三人で登校する時、三人ともが思い浮かべていたに違いない。

 楽しい三人の高校生活を。

 ……やっぱり、明日からは何があっても名雪を起こそう。

 残された時間は僅かなのだから。

 楽しい夢なら、見続けることが出来るかぎりは見続けていたいじゃないか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 昨日よりちょっと早く帰宅した。

 最後の授業が石橋だとホームルームがすぐに終わって楽でいい。

 加えて、雪が降り始めていたので本降りになる前に家に辿り着けて助かった。

 まあ、雨じゃないし降ったら降ったで突っ切って帰ればいいだけだが…

「あ、祐一さん。おかえりなさい」

 昨日のように名雪が出迎えてくれるかと思ったら今日は秋子さんだった。

 鞄を持っているところを見ると、出かけようとしているところのようだ。

「ただいま。今からおでかけですか?」

「ええ、夕飯の材料が切れていたのに気付いて」

「商店街なら俺が行ってきますよ」

 靴はまだ履いてるし、どうせ夕飯を食べるまでは勉強をする気もないからついでだ。

 だが、秋子さんはすこし考え込むと…軽く首を振った。

「いえ、祐一さんは大事な時期ですし、こんな雪の中お買い物に行ってもらったら悪いわ」

「別にいいですよ、それくらい」

 もう家族みたいなものだし、今更遠慮されるとかえって寂しい。

 そんな俺に秋子さんはにっこり微笑む。

「ありがとう、でもいいのよ。買うものは決めているからわたしが行ったほうが早いわ」

「そうなんですか?」

 珍しいな、秋子さんが買い物に行く前から買う物を決めてるなんて。

 俺が買い物に行く時も好きなものを買ってくればいいっていつも言うのに。

「今日はあゆちゃんがカレーに挑戦してみるみたいですから」

 ああ、なるほど。

 それなら目の利く秋子さんが行っていい食材を買ってきた方がいいに決まってる。

「じゃあお言葉に甘えて俺は夕飯まで休憩してます」

「留守番よろしくお願いしますね」

 秋子さんはそう言って俺と入れ違いに玄関を出て行った。

 

 

 とりあえず、部屋に行って着替えるか。

 

 

 

 

 

 

 

「おかえり、祐一君」

「おかえりなさい、祐一さん」

 二階に上ると、丁度部屋から一緒に出てきたあゆと栞に出会った。

「ただいま」

 何だ? 二人からほのかないい香りが漂ってくるんだが…

 心なしか二人とも顔がてかてかしてる気がする。

「二人揃ってご機嫌だな。何かあったのか?」

 俺がそう訊くと二人は緒にこぼれんばかりの笑顔で

「栞ちゃんと一緒にお風呂に入ったんだよ」

「あゆさんと一緒にお風呂に入ったんです」

 と、答えた。

 まさか朝のテンションでそのまま?

「でもいいなあ…栞ちゃんの体真っ白で綺麗なんだもん」

「あゆさんだって健康そうな体型でうらやましいです。本当に7年間寝てたんですか?」

 おーい、二人とも俺をほったらかして桃色の世界に入らないでくれ。

 それ以前に少なくとも男の前でする会話じゃないぞ。

「目を覚ました時はガリガリだったよ~。栞ちゃん知ってるくせに」

「服の下までは見てませんでしたから」

 ダメだ、完全に二人の世界になってしまってる。

 やっぱり何だかんだで仲いいんだな、この二人。

「服の下って言えば、栞ちゃんのお腹にはびっくりしたよ」

「ああ、あれですね…」

 意味ありげに二人で神妙な顔になる。

 栞の腹がどうかしたのか?

「実は三段腹だった…とか?」

 いつまでも話に置いていかれるのは寂しいので突っ込みを入れた。

「祐一さん、今日の夕飯に強力な下剤を入れてもらいたいですか?」

「いえ、冗談です。スミマセンデシタ」

 もの凄い怒気をはらんだ笑顔で恐ろしいことを言われた。

 カレーなんかに下剤なんか入れられたらトラウマになってカレーをこれから口に出来そうにない。

 カレーを食うたびに色々と思い出しそうだ。

 そう、色々と……。

「栞ちゃんお腹のところに大きな傷があるんだよ」

 あゆが小声で言いにくそうに俺に告げる。

「傷?」

 傷って何の? と思ったところではっとした。

「手術の跡…か?」

「はい」

 俺はことの大きさに口をつぐんだ。

 女の子の体に大きな傷痕。

 それがどれだけその子にとって辛いものか。

「栞ちゃんの体とっても綺麗だからそれだけそこが目立つんだよ」

 そうだろうな……

 たとえ手や足にあったとしても、栞の雪のように白い肌では目立つに違いない。

 それがお腹となると……

 

 

「私は別に気にしてませんけど?」

 深刻に考え込んでる俺に苦笑いをしながら栞は言った。

「確かに私の完璧な美少女ぶりに傷がついたのは悲しいですけど…」

 少し悲しそうな顔を見せたかと思ったら、いつものポーズで…

「私くらいになるとこれくらいのハンデがあってはじめて普通の女の子と同じくらいですから」

 と、とんでもない大見栄を切った。それも当然とばかりに自信満々で。

「俺、お前に同情する気が失せてきたんだが」

「そんなこと言う人嫌いです」

 ならどう反応しろって言うんだ…

「こういう時は、『そうでも思わないとやっていけないよな。大丈夫、栞は十分かわいいよ』って優しく慰めるんです」

「自分で言うな」

 全く…よくこんな図太い神経を持った女の子になったものだ。

 何でもかんでも強引にプラスの方向に考えて自分を元気付ける。

 呆れるくらいに強い奴だよ、お前は。

 

 

「ところで名雪はどうしたんだ?」

 さっきから名雪の部屋の前で会話しているのだが、名雪の部屋からは物音一つ聞こえない。

 起きているなら、俺の声に気付いて出迎えに出てくるものだが…

「まだ寝てるよ」

「はあ、やっぱりそうなのか。まったく何時間寝てるんだ?」

「えーっと、20時間くらいかな?」

 指を折りながら、あゆが首を傾げる。

「途中全く起きてないのか?」

「起きてませんでしたね」

「20時間ぶっ通しか…凄まじいな」

 しかも昨日も同じような状況だから、この二日間名雪が起きていた時間は2、3時間程度ということになる。

「まあいいか、夕飯前に起こせばいいし」

「そうだね」

「じゃあ、俺着替えてくるから」

「ボクたちは秋子さんが帰ってくるまで下でテレビ見てるよ」

「あれ? 秋子さんが出たの知ってたのか?」

「はい、お出かけ前に私達に断って出て行かれましたから」

「そうか、じゃあ俺も着替えてから夕飯まではリビングのソファーでテレビでも見ながら休憩するかな」

「あっ、じゃあボクお茶でも入れてくるよ」

 あゆはそう言ってたたたっ、と階段を駆け下りていった。

 その様子を見て栞がくすっと笑う。

「甲斐甲斐しい若奥さんですね」

「おっちょこちょいなメイドの間違いだろ」

 俺がそう言うと同時に、一階から転倒音と『うぐぅ』が聞こえてきた。

「ほれ見ろ」

「ですね」

 あまりのタイミングのよさに二人で顔を合わせて苦笑いするしかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 着替えて一階のリビングに入ると同時に電話が鳴った。

 先にリビングにいた二人の視線が俺に向く。

 …このメンバーだと居候歴の一番長い俺が取るのが一番か。

「俺が取ってくる」

 そう告げて電話の置いてあるダイニングへ向かう。

「って、なんでお前らもついてくるんだ!」

 いつの間にか俺を先頭にパーティーが組まれていた。

 並び順は俺、栞、そしてしんがりがあゆである。

「いえ、どんな電話か気になったので」

「栞ちゃんがついて行ったからボクも」

 ゴシップ好きに金魚のフンか、まったく…

「何でもいいけど邪魔するなよ」

 俺はそう二人に注意して電話を取った。

 

 

「もしもし、水瀬ですが」

「…………」

 無言。回線が通じているのは電話独特の雑音でわかるが…

 イタズラ電話か?

 俺にイタズラ電話とはいい度胸だ。

「一番、相沢祐一歌いますっ!」

 ふふふ、無言を保っているのが辛いくらいに笑える替え歌を聴かせてやるぜ。

 いままで俺に無言電話をかけた奴は例外なく笑いを堪えかねて電話を切ったあの歌をな!

「学校で待ってるわ」

 

 

 プツッ

 

 

 俺が脳内でイントロを流して、今まさに歌おうとしたところでそっけない声と共に電話は切れた。

「歌わないの?」

「電話を切られた」

 しかし、今の声は……

 

 

「あっ、祐一君どこに行くの?」

「学校に行ってくる」

「え? 学校?」

 あゆは俺の真剣な表情にただ事ではないのには気付いたようだが、いまいち合点がいってないようだ。

 だが、栞は誰からの電話か気づいたようだ。複雑な顔をしている。

「お姉ちゃん…ですね?」

「多分な。『学校に来い』とだけしか言ってなかったが、あれは香里に違いない」

 それを聞いて栞がカタカタと小さく震えだした。

 怯えている…のか?

 あの気の強い栞が香里のこととなるとこんなに気弱になるなんて…

「…………」

 俺は黙って栞の肩をぽんと叩いた。

「…祐一さん」

「任せとけ。悪いようにはしない。だからお前はテレビでも見ていつものようにどーんと構えてろ」

 そう言ってもう一度力強く栞の肩を叩いた。

 こうしてみると、栞もやっぱり小さいと感じる。

 人間って度胸がないとここまで萎縮して見えるものなんだな…

「そう…ですね」

 少し躊躇いがちな言葉。

 だが、その目にもう迷いはなかった。

 そして、次の瞬間いつものポーズで

「では、泥舟に乗ったつもりで安心して待ってます」

「ひどい奴だなお前は」

 でも、それでこそいつもの栞だ。

「本当は私が行って鉄拳制裁した方が早いでしょうけど、それでは祐一さんの見せ場がないのでここはお譲りします」

「ははは…ありがとう」

 もはや笑うしかなかった。

 しおらしいままにさせておいた方がよかっただろうか?

 というか、もし連れて行ったら本当に鉄拳制裁に及びそうで怖い。

 

 

「じゃあ、行ってくる」

「あっ、ちょっと待って」

 ダイニングを出ようとすると、あゆに呼び止められた。

「はい、これ」

 そして湯気の立つ湯飲みを渡される。

「外は寒いから」

「そうだな。あゆも栞のこと頼むぞ」

 温かいお茶を口に一気に注ぎ込んで、あゆに湯飲みを返す。

 よし、いい感じで体が温まった。

「うん、祐一君も頑張ってね」

 二人の期待と不安の入り混じったような視線を浴びながら

 俺はすっかり日の暮れた雪の舞い散る夜の街へと出て行った。

 

 

 

 

 

 

 

 サクッ、サクッ…

 誰も踏み固めていない今しがた降ったばかりの、そして今降っている雪の感触を確かに感じながら歩を進める。

 静かだな…まだ7時前だっていうのに。

 まあ当然か。

 こんな夜に雪の中を好き好んで歩き回ったり車を乗り回したりするやつはいるまい。

 おまけにここは通学路だしな。

「寒っ」

 吹き付ける風が足の裾から中に入ってきた。

 くそっ、長靴でも履いてこりゃよかった。

 寒さを紛らわすために足早に学校への道を歩く。

 香里のやつはどういうつもりで俺を呼び出したんだろうか?

 栞と仲直り、そうでなくても何らかの歩み寄りをする気になったんだろうか?

 それとも…理不尽の限りを尽くして俺達との関係を、栞との関係を全て滅茶苦茶にしてしまうつもりなのだろうか?

 今の香里なら、そういう破滅的選択肢も十分に考えられる。

 学校が近づけば近づくほど不安が増すばかりだった。

 

 

 雪が引いて、視界が開けたと思ったら校庭だった。

「…真っ暗だな」

 日が落ちている上に、空のぶ厚い真っ黒な雪雲で月明かりも星明りすらも全くなし。

 おまけにこの寒さと天気のため部活動の連中や、教師の方も早々に引き上げたらしい。

 校庭は深夜かと思えるくらいに暗く…しんと静まり返っていた。

 校庭の僅かな外灯と校舎から漏れている非常灯の緑の光は、闇を照らすどころか闇をより一層際立てているような印象を受ける。

 はっきり言って不気味だ。

 あゆなら校庭に入っただけで子犬のように尻尾を巻いて逃げ出すだろう。

 俺もこの校舎に入れとか言われたらさすがに尻込みしそうだ。

 と、尻込みしてる場合じゃないな。香里を探さないと…

 とはいうものの…このただっぴろい学校のどこを探せばいいんだ?

 どこで待ち合わせかくらいはっきりしてから呼び出せよ、くそっ。

 

 ザザーッ

 

「だぁっ!?」

 やけになって傍にあった外灯を蹴飛ばしたら振動で雪の塊が落っこちてきた。

 馬鹿なことはするもんじゃない。かなり間抜けで恥ずかしい。

 

「待ってたわ」

 

 ……見られてるし。

 頭や肩の雪を払っていると後ろから冷たい無機質な声が闇に響いた。

 背中越しにもはっきり分かる。

 こないだの敵意を更に鋭くした殺気を香里は放っていた。

 俺も負けじと覚悟を決めて歯を食いしばりながら、睨みつけるように振り返った。

「…呼び出すんなら場所ぐらい指定しろ」

「会えれば別にどうでもいいでしょう、そんなこと」

 制服姿で現れた香里の足跡は校門に続いている。

 どうやら今やってきたようだ。

 いや…違うな。

 香里の制服や髪の所々に雪が積もっている。

 校門の付近の茂みあたりで俺を待ち伏せしていたのだろう。

 校門を背にすることで俺がこの場から逃げないよう威圧するために。

 制服姿ということは、学校から人がいなくなるまでここで待っていたにちがいない。

 確かに、誰もいない夜の学校は二人きりで話をするにはおあつらえ向きの場所だな。

 用もないのに来る奴はまずいないだろうし、そもそも夜の学校に用のある奴などまずいまい。

 言い換えれば…

 ここで俺達が殺し合いに及ぼうが邪魔をする者はいないということだ。

 退路を断つ形で殺気を撒き散らしながら立つ香里の物々しい雰囲気に、俺はそんな最悪の状況すら想像してしまった。

「寒いわね」

「そうだな」

 完全装備の俺でさえ寒いのだから、脚の露出が多い我が校の女子制服に身を包んだ香里はもっと寒いはずだ。

 もっとも、今は暑かろうが寒かろうがどうでもいいが。

「だから余計な手間は取らせないでちょうだい」

 香里のそっけない口調からは一分一秒すらも俺と話していたくないと言わんばかりの雰囲気が感じられる。

 上等だ、こっちだってお前とは一分一秒だって長く話しなんかしていたくない。

「用は何だ?」

 一言でも間違ったら暴発しそうな空気。

 まるで開戦直前の絶望的な外交交渉のようである。

「栞を返しなさい」

「返せ? 人を誘拐犯みたいに言うのはやめろ。栞は自分の意思で水瀬家にいるんだ」

 『お前から離れるためにな』と付け加えようとして、慌てて口をつぐむ。

 馬鹿か俺は…挑発して香里を暴発させてどうするんだ。

 俺が早まった発言をすれば栞、ひいてはあゆがどんな顔をするかよく考えろ。

 自分の直情的な性格が恨めしい。

「栞の意志なんてどうでもいいわ。あなたは黙って栞をあたしのところに連れてこればいいのよ」

 なん…だと?

 パキッと握り締めた拳の関節が乾いた音を立てる。

 こいつは自分が何を言っているのかわかっているのか?

 『栞の意志なんてどうでもいい』だって?

 もはや先ほどの自制なんか頭から飛んでいた。

 いや、明らかに香里の言ってることは人として黙って聞いていられるようなものではない。

「お前…何様だ? 栞はお前のモノなのか?」

 信じられない。

 こんな腐った奴を栞は、俺達は信じていたのか?

「何を言ってるのかしら? あたしは栞の『お姉ちゃん』なのよ、当然じゃない」

 睨みつける俺を、つまらないものでも見るかのように香里は薄ら笑いを浮かべてそう言い捨てた。

 パキッパキッ…握り締めた拳に更に力が入る。

 自分が情けない。これが香里の本性だったのか?

 自分の思い通りになるかわいい妹じゃなきゃいらないってわけだ。

 そういうわけか…

 こいつが死に怯える栞を無視したわけ…

 自分の目の前から消える妹なんていらないって思ったわけだ。

 で、それは俺達も同じわけか。

 うっとおしそうに俺を見つめる目。

 自分に従順じゃない友達もいらないってわけか。

 いや、妹とか友達とかじゃない。

 こいつにとって俺達は愛玩動物のようなものだったのだ。

 北川も名雪も俺もこいつにとっちゃ体のいい愛玩動物だったわけだろう。

 天然の名雪なんかはたまらなかっただろうな。

「ああ、勘違いしないでよ。あたしは栞のためを思って言っているのよ」

「何?」

 ふつふつと込み上げてくる俺の怒りを察したのか、香里はそれを否定するように少し慌てた口調で言う。

 だが、次の香里の言葉は一瞬おさまりかけた俺の怒りの炎を更に燃え上がせることになった。

「栞にあの子は相応しくないのよ。大丈夫、あたしの所に戻ってくれば栞も間違いに気付くわ」

 あの子? あの子って誰のことだよ?

 誰が相応しくないだって?

「間違いってなんだよ? 誰が間違ってるって?」

 怒鳴りそうになる自分を抑えるのが精一杯だ。

 栞とあゆが一緒にいるのが間違いなんて誰が決めたんだ?

 そんなの誰にも決められるわけないだろう。

 二人がどれだけ仲がいいか、そしてどんなに支え合っているか俺はよく知っている。

 それのどこが間違っているんだ、ふざけるんじゃない。

「あらあら、ごめんなさい。あれでも一応は相沢君の彼女さんだったわね」

 『あれでも』とことさらに強調して、癇に障る言葉遣いで謝る香里。

 もちろん謝罪の気持ちなんか微塵もこもっていない。

 そして、俺が必死に怒りを堪えているのを見ると香里は何を思ったか俺を嘲笑った。

「でもね、あの子うざったいのよ。何様のつもり? あたしになり代わって栞を慰めたりして」

「何だと?」

「まだ分からないの? あの子はあたしが本来出て行くべきところを奪ったのよ。つまり、いいとこ取りってわけね」

 癇に障る言葉が続く。

 もはや俺は言葉もなかった。

 ただ、はっきりしているのは…言葉にならないくらい頭に来るということだけだ。

 ギリギリ…強く握った拳の手のひらに爪が食い込む。

「そういうのを世の中では何て言うのかしら? 『泥棒ネコ』って言うのよ」

「…黙れ」

「本当はね、あたしは栞が本当に危なくなったら会いに行くつもりだったのよ?」

「黙れ!」

 これ以上、その癇に障る物の言い方はやめろ!

 お前の醜い面を見ていると胸糞が悪い。

「それで栞は涙を流してこう言って息を引き取るの。『お姉ちゃん、ありがとう』って」

「もう黙れ!」

「これはそんな姉妹の悲しく美しい物語だったはずなのよ? そこにあの子が存在していいわけが…」

 

 

 右拳に鈍い感触。

 

 

 何だかスカッとした。

 目の前から鬱陶しい女の声も顔も突然消えたのだ。

 

 

 

 

 ドサッ!

 

 

 

 

 何か重いものが地面に倒れる音で我に返る。

 そして…自分が何をしたのかを悟った。

 不自然に前に突き出された右拳。

 その先1メートル程のところに香里が首を大きくのけぞらせ仰向けに倒れている。

 そうだ、俺は衝動的に香里の横っ面を思いっきりぶん殴っていたのだ。

 香里はピクリとも動かない。

 さっきの音…頭から地面に落ちていた気もする。

 

 

「香里っ!」

 

 

 俺は慌てて香里に駆け寄った。

 雪の上に仰向けに倒れる香里の姿は…

 いつかのあゆの姿を連想させ、それがたまらなく恐ろしかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんな俺の危惧とは裏腹に…

 いざ駆け寄って香里の顔を覗き込んでみると、香里は目をしっかり開いていた。

 しかも瞬きもしている。

 よかった…無事か。

 とりあえず大事に至らなかったことに安堵する。

 いくら頭に来たからとはいえ、女の子を本気でぶん殴ったのだ。

 かなり気まずい。

「……っ」

 俺の顔をじっと見つめながら口をもごもごさせていた香里が何かを吐き出した。

 雪の上に桜色の染みが広がる。

 その中心にあったのは……香里の欠けた奥歯だった。

「わ、悪い…俺」

「…いいザマよ」

 謝ろうとする俺の言葉を遮って香里がぽつりと呟く。

 俺から顔を背けて。

「はじめから分かってるわよ。あたしが間違ってることくらい」

「…香里」

 いつの間にかまた雪が降り始めていた。

 俺はとりあえず香里に手を差し出す。

「ほら、とりあえず立てって。こんなところで寝てるとまずいだろ」

「……ありがと」

 手に香里の全体重がかかる。

 香里自身にほとんど立つ力がないのだ。

 それは俺に殴られたことだけが原因ではない気がする。

 掴んだ香里の手が熱い。

 緊張が抜けたせいか一気に憔悴して見える顔から察するに、ここ数日ほとんど眠っていなかったのだろう。

 しかもそんな状態でこの寒い雪の中で学校が終わってから俺を数時間待っていたに違いない。

 引っぱり上げるように香里を立たせるが、足元が危なっかしい。

 どこかに座らせようかとあたりを見回していると、がくっと倒れこむように香里が俺のコートの正面を掴んだ。

「おい…」

「何で怒らないのよ!? あたしは栞にあんなに酷い事をしたのに!」

 香里が怒鳴る。

 その顔には涙が溢れていた。

「あたしはあの子が辛い思いをしている時、あの子を見ないようにしていた。なのに…」

 俺のコートを握る力が強くなる。香里の体が小刻みに震えていた。

「なんであの子はあたしに恨み言一つ言わないのよ!?」

 言われてみれば、香里が自分を見捨てたことについて恨み言を言っている栞なんて見たことがない。

 そもそも、今の栞には『恨み言』なんてネガティブな言葉自体が似合わないように思える。

「あの子が苦しんでいる時、あたしが支えになってあげたかった。でもあたしに出来たのは…白々しい励ましだけ」

 

 

 

 そしてその夜、突然私の部屋の扉が乱暴に開かれた。

 私はそこに立っていた人物を見て驚いた。

 それはお姉ちゃんだった……

「お、お姉ちゃん……?」

 夢でも見ているのだろうか?

 私を見捨てたお姉ちゃんがどうして私に会いに来たんだろう?

 お姉ちゃんは肩で息をしながら無言で私に近づいてきた。

 そして……

「え……?」

 私は言葉を失った。

 お姉ちゃんは突然私を強く抱きしめたのだ。

「栞の馬鹿! どうして今の今まで決意しなかったのよ」

 お姉ちゃんはこの土壇場まで治療の決意をしなかった私を責めているようだった。

「もっと早ければ、成功の可能性だってもう少しはあったのに」

 とは言うもののそれは些細な違いでしかない。

「もっと早ければ…一緒に学校にだって通えたかもしれないのに」

 それが本心だったのだろう、お姉ちゃんが泣いているのがわかる。

「ごめんねお姉ちゃん。私馬鹿だし、弱虫だったから」

 お姉ちゃんはそこで私の体から離れ、私を見つめた。

「謝るのはあたしの方よ。最後まで栞を見ないつもりでいた薄情な……」

 お姉ちゃんの体が小刻みに震えている。

「仕方ないよ」

 私はできる限り笑顔で言った。

「私がお姉ちゃんと同じ立場だったら、同じことしていたかもしれないし。でも大丈夫。奇跡は起きるんだよ」

 私はそう言ってあの天使の人形の絵を見る。

「絵、上手くなってたわね」

 お姉ちゃんは私が前にメモ用紙に描いた似顔絵を手にとりながら言った。

「えへへ……」

 ずっと忘れていた、この感情。

 お姉ちゃんに褒めてもらうと、なんだかとてもこそばゆい。

 お姉ちゃんは身内にも平気でシビアな態度を取る人だから。

 だから、お姉ちゃんに褒めてもらえるのはとても嬉しかった。

「今度はあたしの似顔絵を描いてね」

「う、うん。描いていいの?」

「こんな風に描いてくれるならね」

 お姉ちゃんはそう言ってメモ用紙を叩く。

 と、そこまで和やかな顔を見せていたお姉ちゃんが、目を伏せた。

 ここからは……現実の話。

 私が避けることの出来ない、今、目を向けなければならないことを言おうとしているのがなんとなく分かった。

「お父さんと、お母さんからの伝言よ。手術してから薬物治療をするって」

「やってくれるんだ」

「今の栞の精神力なら耐えきれるかもしれないって言ってたわ」

 もちろん精神力だけでどうにかなるものでもないが、それは家族からの精一杯の励ましだったのだろう。

「じゃあね。肝心な時に力になってあげられないふがいない姉でごめんね……」

 お姉ちゃんはそれだけ言うと病室を出ていった。

 

 

 

 栞から貰った本『Angel Promise』の最後のあたりの会話が思い出される。

 正直に言うと、俺はここを読んだとき香里の行動を少し白々しいと思った。

 もちろん、最後まで妹と会わないで済ませる奴だったらさすがに軽蔑しただろう。

 だが、辛い現実に目を向けるのはとても大変なことなのだ。

 俺もその気持ちはよく知っている。

 だから俺は香里の言い訳がましい栞との面会に白々しいものを感じながらも、反面香里の勇気に感心もした。

 俺は自分からその現実に目を向けることが出来なかったから…

 心の奥底にそれを閉じ込めて、忘れたふりどころか、本当に忘れていたのだ。

「あたしが支えてあげなくちゃいけないのに…あの子の力になったのは別の人達だった」

「お前があゆを嫌ってたのはそれでか?」

 香里は俺にしがみつきながら首を横に振る。

「違うわ。嫌ってたのは…嫌だったのは…彼女を見ていると何もできなかった自分に虫唾が走ったから」

 そうか、香里にとってあゆは…

 無力な自分を映す鏡だったのか。

「あたしだって…栞と学校に行きたかったわ。でも、あの子のそんなささやかな願いもあたしは叶えられない」

 俺があゆと学校に通えないように、香里も栞と同じ学校で同じ時を過ごすことが出来ない。

 香里の気持ちが痛いほどよく分かった。

 俺もそのあゆのささやかな願いをかなえてやれずに卒業していくのだから。

「あの子の力になってあげたのも彼女、あの子のささやかな願いを叶えてあげるのも彼女…」

「おいおい、それじゃまるで嫉妬じゃないか」

「…あたしがあの子と彼女が仲良くしているのを見て悔しかったのも事実よ」

「…………」

 無力感・自己嫌悪・嫉妬…香里の中では様々な感情が渦巻いていたようだ。

 そして、それを全て香里に叩きつけるのがあゆの存在だったのか。

「悪い」

「なんで相沢君が謝るのよ?」

「香里の気持ちも考えず今までかなり無神経なことをしてきた」

 歪んでいるのは分かる。

 だが、言われてみて香里の今までの不可解な行動も理解できた。

 そして、今日に至るまで俺達の何気ない言葉が香里を余計に追い込んだこともあったに違いない。

「相沢君は……優しすぎるわ。栞も」

 香里の声は嗚咽混じりで、聞き取るのがやっとになってきていた。

 この約1年溜め込んでいたものが、一気に吹き出たのだろう。

 完璧主義者の香里が他人にこんな弱いところを見せるなんていまだに夢のように思える。

「栞は…退院してからあたしに今までどおりに接してくれたわ。それどころかいつもあたしを励ましてくれていた」

「…………」

「『お姉ちゃん、あんまり悩まないでね』、『お姉ちゃん、あんまり無理したらだめだよ』って」

「いい妹じゃないか」

「違うわ! 昔は何をやってもあたしの後について来るだけの子だったのに。いつも励ましてあげるのはあたしだった」

 確かに、栞は変わった。

 最初出会った時の栞はそんな感じの、どこか守ってあげたくなる大人しい子だったのを覚えている。

 だが、あゆとの出会いが栞を変えた。

 時には神経が図太いと人を苦笑いさせるほどに強い女の子に。

「いつも励ましてあげるのはあたしだったのに。なのに…なのに…なのに…」

 上ずった声でしばらく同じ言葉を繰り返した後、香里は俺の胸に顔を埋めて叫んだ。

「一体……どっちがお姉ちゃんなのよ!?」

 あとはもう言葉にならなかった。

 子供のように俺の胸の中で泣きじゃくる香里。

 自分が守ってあげるはずだった妹はもう既に自分より大人になっていて…

 取り残されていたのは自分だけだった。

 なんだか俺と似ているな。

 香里ほど大それたものじゃないが、俺も最近あゆにそんな感情を持っているので、何となく香里の気持ちが分かった。

 

 

 

 手術に入る前にお姉ちゃんと話ができたのは嬉しかった。

 だけど……去り際に見せた、お姉ちゃんの後悔の表情が目に焼きついて離れない。

 お姉ちゃんとの溝が埋まるには、まだ時間がかかりそうだ。

 でも、生きていればいつかは昔のように二人で笑えるよね? お姉ちゃん。

 そう思うと、私の生きたいという気持ちはますます強くなっていった。

 

 

 

 俺の胸で泣き続ける香里を見ていると、ふとあの一節の続きが浮かんだ。

 そうだ、今からだって遅くない。

 俺達はできることだけやればいいじゃないか。

 俺はそう思って香里に諭すように言った。

「香里、これ以上栞の期待を裏切るんじゃない。栞はお前と二人で笑える日を待っているんだぞ」

 

 

 しばらく静寂が流れた。

 聞こえるのは香里の嗚咽のみ。

 そして…再び降り始めた雪が止み、空に星が見え始めた頃

 香里がゆっくりと、だがしっかりした口調で口を開いた。

「相沢君に言われなくてもわかっているわよ、そんなこと」

 俺の胸から顔を上げた香里の顔は…

 間違いなく姉の顔をしていた。

 

 

 

 

 

 

「ほら」

「ありがとう」

「後で金は払えよ」

「せこい人ねえ。これくらい恩を売っておいたって損はないわよ」

「悪いが今月はマジで金がない。ていうか受験が終わるまでマジで金に余裕がない」

「はいはい、そういうことにしておいてあげるわ」

 香里は溜息をついて俺から受け取ったコーヒーの缶を開けた。

 今俺達は駅前のベンチに座っている。

 あのまますぐに家に向かおうかとも思ったのだが、

 香里が思ったよりも衰弱しているので、こうして駅前のベンチに座らせて休ませている次第だ。

 で、冷え切った体を温めるために、いつかここで名雪からもらったようにコーヒーを香里に買ってやった。

 無論、俺が香里にやったコーヒーは冷めてなどいないが。

「どうするんだ? 栞には俺から伝えてやるから今日は帰った方がよくないか?」

 こんな熱まで出ている状態で水瀬家まで連れて行っても、ちゃんと自分の家に帰れるのか心配である。

「大丈夫よ。どうせ寝込むならやらなきゃいけないことくらいはしておかないと」

「そうか」

 駅前の時計を見ると9時。

 かなり時間が経っていたようだ。

 雪が止んだせいか駅前はまばらではあるが、会社帰りの人たちが連れ立って楽しそうに話しているのを見かける。

 そういや、もう週末だったな。

 誰もいない寂しい夜の学校より、そんな人の営みが感じられる駅前は心持ち暖かかった。

「行くか?」

「…もう少しだけ休ませて」

「わかった」

 香里も俺と同じものを感じていたのだろう。

 今しがた目の前を通り過ぎていった数人のグループをぼんやりと眺めていた。

 考えてみれば、ここ数日香里は完全に孤立してたんだよな。

 まさに身も心も冷えた状態だったわけだ。

「相沢君…栞はあたしを許してくれるかしら?」

 不安そうに呟く香里。

 確かに栞が家出をするくらいの大喧嘩、普通ならいくら謝っても簡単に許してもらえる状況じゃないだろう。

 だが、栞なら…

「栞なら大丈夫だ。その代わり、真剣に謝れよ。あとあゆにもな」

「そうね、栞にもだけど、あゆさんにもちゃんと謝らないといけないわね」

「ブッ!」

「何よ、汚いわね」

 待ってる間暇なので自分も買ったコーヒーを俺は盛大に噴いた。

 当然のように香里から白い目で見られる。

「あゆさん~? お前いくらなんでも同い年に下の名前で『さん』付けはないだろう」

 年下の栞ならまだしも、せいぜい『ちゃん』づけだろう。

 そもそも下手をすれば外見は栞より……

「相沢君、自分の彼女のことをなんだと思っているのよ」

「いや、そう言われると身も蓋もないんだが…」

 名雪が呼び捨てなのに、あゆがさん付けで秋子さんと同格扱いっぽいのはなんとなく違和感が……

「彼女はあたしの大事な妹を助けてくれた人なんだから、いくら感謝してもし足りないでしょう」

「それは分かるが…」

 いくらなんでも気持ちの切り替えが早すぎると思う。

「栞が退院してからずっと思ってたわ。でも、実際にあゆさんを見るとどうしても自分が許せなくなって…」

「誰かに叱って欲しかったのか?」

「そうね。栞があんまりにも素直に許してくれたから気持ちのけじめがつかなかったんだと思うわ」

 そう言って香里は自嘲する様に笑った。

「相沢君に殴られてみたら、自分が何に意固地になってたのかここまで馬鹿らしく思えてくるなんてね」

 皮肉なものだと思う。

 栞は姉と早く昔と同じような関係に戻りたくて何も言わず香里を受け入れたのだろう。

 しかし、責任感の強い香里はそんな栞の無条件の許しを受け入れることが出来なかったのだ。

 最初は僅かに狂っただけの歯車。

 だが、約1年という歳月はそこから全ての崩壊を生むのに十分の長さだった。

 

 

 しばらく重い沈黙。

 一つ前の電車が到着してから時間が経過したせいか、駅前は急速に静かになっていた。

 そろそろ、ここにいるのも限界だな。

 よし。

 俺はそう思い立って香里に声をかける。

「ああ、そうだ香里」

「何?」

「なかなかセクシーな黒の下着だったぞ」

 

 パンッ!

 

 問答無用で平手打ちを喰らった。

 ベンチから立ち上がって僅か1秒にも満たない早業。

 しかも腰が入っててかなり痛い。

「何考えてるのよ!」

「いや、香里を殴り倒した時に見えてたんだ。ま、この平手打ちで傷害罪はチャラってことで」

 奥歯折っておいて法的にチャラなわけないだろうが、一応これで一方的に殴った後味の悪さは少しはなくなった。

「はあ…負けたわ、どうやったらそういう結論になるのよ。まあ、そういうことにしておいてあげるわ」

 香里は溜息をついて、何故か素直に負けを認めてくれた。

「そろそろ行くか? せっかく立ったんだし」

「そうね」

 そう頷いて、香里は空になったコーヒーの缶を数メートル先のゴミ箱目掛けて投げる。

 缶は綺麗な放物線を描いて……

 

 スコーンッ!

 

 見事にゴミ箱に入った。

「よし!」

 それを確認して小さくガッツポーズをする香里。

「…………」

「な、何よ? ゲン担ぎよ、ゲン担ぎ」

 俺が何とも言いがたい気持ちで香里のその行動を見つめていると、香里がジト目でこっちを見返してきた。

 ちょっと恥ずかしがってるような気もする。

「いや…別に」

 香里の品のない行動に驚くべきなのか…それとも香里がガッツポーズをしたことに驚くべきなのか…

 なんだか今日は普段見ない香里の一面を多く見た気がする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 駅前を離れ、一路水瀬家へ。

 商店街を抜け、いつもの通学路の真ん中に出たところで香里が口を開いた。

「そういえば…相沢君って非常識な人ね」

「何が?」

「女の子の顔をグーで殴るなんてね」

 ひょっとしなくても結構根に持ってます?

 俺も平手打ちじゃなくてゲンコツでぶん殴ったことはかなり後悔してるんですけど。

「あれは…そのついカッとなってだな」

「ふーん、相沢君はカッとなると見境がなくなる危ない人なのね。気をつけなきゃ」

 そう言って香里が笑う。

「もう勘弁してくれ…」

「冗談よ。殴られて当然のことを言ったのはあたしだから」

「本当に悪かった」

「北川君に殴られなかっただけましよ。あの人に殴られてたら今ごろ…」

 脳裏に砕けた教室の黒板が浮かぶ。

「下手したらあの世行きだな」

 洒落にならないぞ、アレばっかりは。

「相沢君が非力でよかったわ」

「嬉しくないぞ、それ」

 香里のからかいに俺は苦笑いをしながら肩を落として溜息をついた。

 でも…やっぱ危ない性格だよなあ。

 手元に刃物があったらそれで刺してたかもしれない。

 これからはもっと自制心というものを鍛えないと…

 

 

 ……?

 

 

 心臓が一際大きく鳴った気がした。

 かすかに頭に痛みが走る。

 知っている…

 俺はこの感覚を知っている。

 一体いつだ?

 癇に障る言葉とそれによって外れる自制心のタガ。

 妙にスカッとした気分もあった。

 

 

「あ……」

 ガクッ!

 その感覚を思い出した瞬間、足が震え思わず膝が折れた。

 右手の甲に刺すような痛みが走り、思わず左手で覆う。

「相沢君!?」

 香里が驚きの声をあげる。

 そして、俺が手を押さえているのに気付き、急いで俺の右手をつかんで自分の目の前に持っていった。

「何…これ!?」

「何だ? 俺の手どうなってるんだ?」

 香里が信じられないと言わんばかりに目を開けて俺の右手の甲を見つめていた。

「手が真っ赤になってるわよ。霜焼けみたいに」

 自分で見てみると、確かに真っ赤だ。

「香里を殴ったとこだな…ここ」

「人を殴ったところが霜焼けなんかになるわけないでしょ!」

 冗談半分で言ったら凄い剣幕で怒鳴られてしまった。

「とりあえず、あたしの手で温めて…あれ?」

「どうした?」

「赤いのが引いていく…」

 確かに、真っ赤になった右手は俺の見ている目の前で急速にもとの肌色に戻っていく。

 同時に、さっき感じた刺すような痛みも消えていった。

 

 

「消えた…わね」

「みたいだな…」

 香里は狐につままれたように俺の右手を眺めている。

 何だったんだろう、今のは?

 っと、香里は熱出してるんだしこんなところで止まってる場合じゃないな。

「ん、何でもなかったみたいだ。行こう」

「大丈夫なの?」

「少なくともお前よりは元気だ」

「そうみたいね。わかったわ、行きましょう」

 再び水瀬家へ向かって歩き出す二人。

 しかし、本当に何だったんだろう今のは?

 ただ…何となく記憶に残っていることがある。

 香里を殴った右手の甲。

 俺はかつてそこで何か冷たいものに触れたのだ。

 だが、それが何なのかは思い出せなかった…

 まあいいか。誰も困ってないし、困らせた人にもちゃんと謝ってるだろう。

 今は香里をうちに連れて行かないと…

 そんなことを思ううちに水瀬家はすぐ近くになっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 ブロロロ…

 

 水瀬家の灯りが完全に視認できた時のことだった。

 水瀬家に横付けされた見慣れないシルバーの車が俺達とは反対の方向に走り去っていった。

「客か?」

 にしては変だ。

 時間が遅い上にこんな雪の積もった夜道を帰るなんて。

「あれ…あたしのお父さんの車だわ」

「え?」

 香里の親父さんの車……

 香里の親父さんっていったら、美坂記念総合病院の現医長か何かだったよな?

 それがこんな夜遅くにうちに自家用車で来ていたってことは…

「まさか栞!?」

 言うのと香里が血相を変えて走り出すのは同時だった。

「あっ、待てって!」

 慌てて俺もその後を追う。

 夜更けに予想外な医者の訪問…

 何だかとても嫌な胸騒ぎがした。

 玄関前で香里に何とか追いつく。

 呼び鈴を押そうとする香里を制して合鍵で玄関を開け放った。

 

 

「きゃっ!?」

 

 

 突然の扉の音に一階廊下を歩いていた栞が素っ頓狂な声をあげて出迎えてくれた。

「し、栞?」

「お、お姉ちゃん?」

 まさかこんな形で顔を合わすとは思ってなかったためか、二人はお互いの顔を見つめたまま硬直してしまった。

「栞…その、あたし…」

「え、えと…」

 完全に二人ともあがってしまっている。

 話が進まないので俺が助け舟を出すことにした。

「あー、栞…言われた通り鉄拳制裁をして連れて来たぞ」

「あ、はい。ありがとうございます」

 …ダメだこりゃ。完全にパニック起こしてる。

 栞の返事はまさに生返事そのものだった。

「栞の差し金だったの? 鉄拳制裁って」

 ジト目で俺と栞を交互に睨みつける香里。

 …いかん、ひょっとしなくても俺が余計に話をややこしくしてる?

「お姉ちゃんその顔の腫れ…祐一さん本当に殴ったんですか!?」

 栞からも非難の視線が突き刺さる。

 って、こんなことしてる場合じゃない。

「ああもう、そういう事は姉妹二人であとで仲良く話し合ってくれ。それより…」

 

 カチャ…

 ドタドタドタ

 

 リビングの扉が開く音と二階から駆け下りてくる音が響く。

「おかえりなさい祐一さん。あら…香里ちゃんも一緒なのね」

「あっ、祐一君…と、栞ちゃんのお姉さん」

 リビングから出てきたのは秋子さん。

 二階から降りてきたのはあゆだった。

「お邪魔してます秋子さん。それと…あゆさん」

 香里は秋子さんにはごく普通に…

 そしてあゆに対しては少しぎこちなく頭を下げた。

「えっ、お姉ちゃん!?」

「……え?」

 栞とあゆが香里の発言に驚く。

 無理もない。

 あの文化祭の帰りにあれだけの暴挙に及んだ相手の名前を『さん』付けで呼んだうえに頭まで下げたんだから。

「そう…祐一さんお疲れ様でした」

 が、秋子さんは俺が香里を説き伏せたということがすぐに理解できたらしくねぎらいの言葉をかけてくれた。

 

 

「あの、それよりさっきここから車が出て行きませんでした?」

 とりあえず遠まわしに秋子さんに訊いてみる。

「ええ、栞ちゃんのお父さんに来て頂いてました」

 その秋子さんの発言にあゆがハッとしたように俺のところに走り寄り腕を掴む。

「そうだよ、大変なんだよっ」

「どうしたんだ?」

「名雪さんが目を覚まさないんだよ!」

「はあ? そんなのいつものことだろう?」

 そんなことのためにわざわざ病院のえらい人を呼び出したのかよ、まったく。

「違うんだよ、何も反応しないんだよ」

「反応しない?」

 あゆの切羽詰った顔から、それがただ事ではない気がしてきた。

 あゆでは要領を得ないと思ったのだろう。

 後ろから栞がおずおずと俺にしがみついたあゆの後ろにやってくる。

「夕御飯の時間を過ぎても祐一さんが戻らないので、とりあえず名雪さんを起こそうとしたんです」

「で、起きなかった…と」

「はい。何をやっても起きる気配がなかったんです」

「栞、それは昏睡状態に近い感じかしら?」

 黙って話を聞いていた香里が厳しい顔をして口を挟む。

「う、うん。それで万が一のことを考えてお父さんに電話したの」

「そう…いい判断だったわ」

「あ…うん」

 少々ぎこちないが、二人は少し打ち解けてきたようだ。

 事の顛末を説明していないのに既にこの雰囲気なのはいいことだと思う。

「いくらなんでも一日以上寝ているなんて変だよ」

 言われてみれば…もう名雪が昨日睡眠に入ってから一日が経過している時間だ。

 それだけ寝ていても起きる気配すらないというのはいくら名雪でも考えられない。

「それで、診察結果は?」

「何故起きないのかは分からないそうですが、ただ寝ているだけだそうです」

 秋子さんが険しい顔をして俺の問いに答えた。

 『ただ寝ているだけ』…だが、それがいつもの名雪ではないということを秋子さんの表情が語っている。

「だから、また明日になったら普通に目を覚ますかもしれないと仰ってました」

 秋子さんの表情が一段と険しくなる。

「ただ…その逆もありえると」

「それって」

 一日目を覚まさなかったのだ。

 …いや、ここ最近の名雪は目に見えて睡眠時間が長くなっていった。

 とすると、このまま目を覚まさない可能性もある?

「あゆ、退いてくれっ!」

「えっ?」

 俺は靴を脱ぎ捨て、あゆの手を振りほどいて二階に駆け上がった。

 行き先はもちろん、名雪の部屋だ。

 

 

 

 診察が終わったばかりだからか、開かれたままの扉からは明かりが漏れている。

 目に飛び込んできたのは……

 朝と全く同じようにベッドで眠り続ける名雪の姿だった。

 そう、いつものように寝ているだけの名雪だった。

 何だ…あゆも栞も、秋子さんまで一緒になって俺をからかうなよ。

 心で軽口を叩いて不安な気持ちを払拭する。

「ほら、名雪起きろ」

 ユサユサ

 体を揺すってみる。

「おい、名雪」

 ペシペシ

 なら今度はとばかりに頬をはたく。

 ……だが

 何をやっても無駄だった。

 名雪はただ規則正しい呼吸をするだけで、何の反応も示さない。

 鼻と口を塞いだら起きるかと思ったのだが、それも無駄だった。

 名雪は抵抗することもなく、そのまま呼吸を止めてしまった。

 あのまま続けてたら窒息死していたかもしれない。

「嘘…だろう?」

 

 

 

            「…うにゅ?」

 

       「…わたし、にんじん食べれるよ」

 

 

 

 寝ている名雪を起こそうとすると多彩な反応が返ってくる。

 俺はそれが面白くて、寝ている名雪をからかって遊んだものだ。

 だが、何の反応も示さずただ規則正しい呼吸音だけ立てて眠っている名雪は…

 まるで植物人間だった。

 

 

「…無理だよ」

 声に振り向くとあゆが扉の前に無表情で立っていた。

「ボクたちも色々やったもん。でも名雪さんは寝言も寝返りの一つもないんだよ」

「…そうか」

「祐一君…ボク怖いよ。このまま名雪さんがボクみたいなことになったら」

「馬鹿なことを言うな」

 少しきつい口調であゆを叱る。

「ご、ごめん」

 だが、俺も怖かった。

 既に名雪の睡眠は尋常ではない。

 何でだよ…

 栞と香里の問題がやっと終わったっていうのに…

 何でこんなことになってるんだよ?

 せっかくの晴れた気分もまた不安の曇天に包まれていく……

 

 

 

 

 

 

 

 

 名雪の部屋にいてもどうしようもないので、俺はあゆと一緒に一階に降りた。

 玄関では残りの面々が真剣な表情で俺達が戻るのを待っていた。

「話は栞と秋子さんから聞いたわ」

 香里が開口一番にそう言った。

「名雪に会わないのか?」

「服が汚れているし、風邪をうつしたらいけないからやめておくわ。それに、縁起でもないこと言わないで」

「すまん」

 まるで今生の別れのような発言をしてしまったことに謝る。

「香里ちゃん、風邪ならうちで休んでいってもいいのよ。着替えもありますから」

 どろどろに汚れた制服を見て秋子さんが香里をいたわる。

「あ、構いません。今から帰りますから。病気なら自分の家の方が安心ですし」

「そう…それもそうね」

 秋子さんはそう言って苦笑いのような微妙な笑顔を浮かべた。

 自力で帰れるなら医者の父がいる自宅の方が安心に決まっている。

「って、今から帰るのか?」

「ええ」

 まあ、そうか。元々少し立ち寄って帰るつもりだったわけだし。

 顔にこそ出してないが、早く家に帰って自分のベッドで休みたいのだろう。

 香里は睡眠不足と風邪の両方で疲れ切っているのだから。

「ああ、栞は残しておくわ」

「連れて帰らないのか?」

「どうせお父さんのことだからまたあれを栞に任せてるんでしょう」

 香里が呆れたようにそう言うと、栞が苦笑いしながらそれに答える。

「はい、きっちり任されました」

「はぁ…そのうち医療ミスとか起こしても知らないわよ」

「そんなこと言うお姉ちゃん嫌いです」

 ぷーっと頬を膨らませる栞。

 『あれ』って何だろう?

「あれだけ嫌われたんだからこれ以上嫌われても同じね」

「わ、冗談です」

 なんだか、和解も半ばってところなのに仲のいい二人だな。

 こういうのを心で分かりあえてる仲っていうんだろうか?

「栞、あゆさんをしっかり支えてあげるのよ」

 不安げでいつものような元気さを感じられないあゆを見やって香里は栞の肩を叩いた。

「うん。お姉ちゃんも早く元気になってね」

「あたしは丈夫だから一晩寝れば十分よ。でも、心配してくれてありがとう」

 二人で励ましあった後、香里は秋子さんの方を向く。

「秋子さん、お邪魔しました。それと…あたしのせいで色々ご迷惑かけてすみません」

「いいのよ。何があったのか知らないけれど、あんまり思いつめないで下さいね」

「はい…ありがとうございました」

 秋子さんに大きくお辞儀をした後、香里は玄関で全員にもう一度頭を下げて俺達に背を向けた。

 

 

「あ、香里」

 それを慌てて呼び止める。

「何?」

「送ってくよ。夜道で女の一人歩きは危ないだろう?」

 おまけに途中で倒れられたりしたら困る。

 そんな俺の申し出に香里は、くすりと笑って…

「女の子を本気でぶん殴った人が何言っているのかしら?」

 と言った。

 とたんに秋子さんとあゆの顔が変わる。

 俺に不審の眼差しが…

「殴った?」

「祐一さん?」

 そういやこの二人はさっき『鉄拳制裁』なんて聞いてなかったっけ。

 あゆはともかく秋子さんに睨まれてるのはやばい。

 ここは…逃げるに限る。

「ちょっと、押さないでよ」

「それでは香里を送ってまいります」

 

 バタン

 

 あっけに取られる二人を置いて俺は急いで家を飛び出した。

 はあ、香里送ったら帰り道でどう説明するかちゃんと考えないといけないな…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 香里が家に辿り着くのを見届けるため、香里の斜め後ろについて歩く。

 夜道を私服で制服の女の子の後について歩くというのは、少し犯罪くさい気がする。

 が、香里の家の場所を知らない以上後ろについて歩くしかない。

 どっちにしたって他の人に見られたら別の意味でも勘違いされそうな状態だが。

「ところで香里、栞が任された『あれ』って何なんだ?」

 犯罪者と勘違いされるのは洒落にならないので、知り合いであることをアピールすべく 会話を持ちかける。

 まあ、人通りもほとんどない時間なのだが、念のため。

 いや、だからこそ誤解を招きやすいとも言えるが…

「『あれ』? ああ、点滴のことね」

 そうか、名雪が何も食べずに寝たままだったらそのうち衰弱していくもんな。

 点滴はあるにこしたことはない。

「…ってちょっと待て」

 点滴って、無資格で勝手に扱っていいものじゃないだろ。

「大丈夫よ。新米の医者や看護師より栞は、はるかにうまいから」

「何でそんなことに慣れてるんだ…」

「あの子、昔からよく点滴のお世話になっていたから。だから見ているうちに覚えてしまったみたいなのよ」

「見よう見真似でやれるものなのか、あれ? ていうか失敗したら怖いだろう、普通」

「病室をこっそり抜け出すために悪用するうちにプロ級になってたわ…」

 香里はそう言って溜息をついた。

 栞の無謀な行為と、病院の管理の甘さの両方に呆れているんだろう。

「ついでに言うと、注射器も使えるわよ。他にも色々」

「…おいおい、いいのかそれ?」

 他にも色々っていうのが気になるが訊くのが怖い。

 浣腸とかも入ってるんだろうか…

 さすがにこれは訊いたら怒られそうだし黙ってよう。

「いいわけないのにお父さんはいい加減だから困るのよ」

 いい加減な父親と悪ノリすると止まらない栞……

 栞が医療器具の取り扱いに慣れていった過程が何となく想像できて怖い。

「不本意だけど、一応栞の腕は保証するから安心して」

 無資格だけど腕はいい…か。

 これは無責任と怒るべきなんだろうか? それとも好意と喜ぶべきなんだろうか?

 かなり微妙なところである。

 まあ…誠意は尽くしてくれるだろうから一応好意と思っておこう。

「そんな大事にならないうちに名雪が起きることを祈る」

「そうね。本当に名雪、どうしたのかしら? あの子との付き合いは長いけど、最近本当におかしかったわ」

 最近…目に見えておかしくなり始めたのはいつからだったろう?

 やっぱり文化祭か?

 いや、もっと前から着々と進行していたに違いない。

「まあ、あの子のことだし案外人の心配も知らずに『おはよ~』とか言って起きそうだけど」

「だったらいいんだが」

 あの寝方は異常だった。

 そんな甘い希望が通じそうにない気がして仕方がない。

 

 

「そういや、香里って名雪とどんな風に知り合ったんだ? 名雪の話じゃお前から声をかけたらしいが」

 名雪の話をしているうちに以前疑問に思ったことがふと頭に浮かんだ。

「あの子…そんなこと言ってたの?」

 腕を組んでしかめっ面をする香里。

 やっぱり話がずれていたようだ。

 名雪の話はあてにならない。

「後ろの席に座ってた名雪がぼけーっとしててプリントを回さないから注意しただけよ」

「そんなことだろうと思った」

 で、どうせ名雪のことだ。

 あのずれた思考で注意を友好宣言か何かと勘違いしたんだろう。

「何を勘違いしたのかあの子ったらいきなり自己紹介始めて、それから何かあるごとにあたしに話し掛けてきたわ」

 やっぱり。

「でもね」

 香里はそう前置きしていつもの顔になる。

「縁って奇妙なものよね。気がついたらあたしは名雪と仲良くなってたわ」

 そう、縁とは奇妙なものだ。

 食い逃げに巻き込まれたことから始まった恋と友情を俺は知っている。

 ……なんか真面目に考えると凄い嫌な縁だな。俺と栞のあゆとの縁って。

「ま、話していくうちに名雪が悪い子じゃないって分かっていったからなんだけどね」

「あいつはどう見ても悪い子じゃないだろう」

 悪い子以前に、天然記念物ものの能天気である。

「だから逆に目が離せなくなるのよ。訊いてもいないことまでべらべら喋っちゃうし」

 呆れたように溜息をつく香里。

 香里、その気持ちよく分かるぞ。

「そういえば、相沢君って名雪に本当に信頼されてるわね」

「は? 何が?」

 香里が愉快そうに笑っているのがなんだか嫌な予感がする。

「あの子、相沢君のこともよく話してたけど、『王子様みたいな人』なんて言ってたわよ」

「ぐあ…あの野郎」

 この前の帰り道、名雪がそんなことを言ってたのを思い出して頭痛。

「でも、変なことも言ってたわね」

「え?」

 香里が少し真剣な顔をする。

「あたしはその時あの子に、『そのいとこの男の子が大好きなのね』って言ったのよ」

「それで?」

「そうしたら、『わからない』って答えが返ってきたのよ。ね、変でしょう?」

「確かに…変だな」

 

『いつか白馬に乗った王子様が自分を迎えに来てくれる』

 

 それは子供の時、女の子が持つといわれる好きな人のイメージ像のはずだ。

 だからそんな表現を高校生になってまで使われると余計に恥ずかしいわけだが…

 名雪はそれに対して『わからない』と言う。

 なら、名雪にとって『王子様』っていうのはどういう意味なんだ?

「名雪は『祐一はわたしが困っているとき必ず現れてくれる人だから』って言ってたわ」

「何だそりゃ…そこまで名雪に頼りにされる覚えはないぞ」

 記憶にある限りでは今日に至るまで名雪に何かしてやった覚えなどない。

 それなのにそんなに頼りにされるのは不思議である。

「相沢君」

 香里が厳しい目をして俺を見つめる。

「あなたがそう思っていなくても、何気ない行動が他人を救っていることはあるものよ」

「そうかもしれないが…」

 あゆや栞ならともかく、名雪に関しては全然心当たりがない。

「あの子の変な思い込みにせよ、期待されてるんだから少しくらいは力になってあげることね」

「善処する」

 まあ、あからさまに困ってる名雪をほっとくほど俺だって冷血じゃないしな。

 ……少しくらいなら。

 そう答えたところで香里が足を止めた。

 

 

「見送りありがと。もう目の前だから」

 香里の指差す先に水瀬家とさほど変わらない大きさの家がある。

「そうか、じゃ今日はゆっくり休めよ」

「ええ」

 香里は頷いて、一人家に向かって歩き出す。

 と、思ったら引き返してきた。

「どうした?」

「栞とあゆさんに伝言をお願い」

「今日のことならちゃんと説明しておくぞ」

 ていうか嫌でも説明しないといけない状況になっているんだが……

 目の前にいるこいつの発言のせいで。

「そっちじゃなくて。まあ、それも説明してもらえるに越したことはないけど」

 誰のせいで説明しなきゃいけないと思ってるんだ、誰のせいで!

 と、心の中で一応突っ込み。

 根本的な問題として、ぶん殴った俺が悪いんだけど。

「明日の5時前に校門前に来て欲しいの」

 明日…って日曜日だな。

 普通は休みなのだが、受験組は夕方までセンター試験の特訓をやることになっていた。

 それはそうと何か二人を呼ぶ重要な用でもあるんだろうか?

 香里の穏やかな表情から察するに、二人と事を起こそうという雰囲気ではないが…

「俺も行っていいか?」

「別にふたり以外に誰が来たって構わないわ」

 あっさりOKされた。

 どうやら秘密事でもないらしい。

「わかった、伝えておく」

「じゃあね、明日に備えてもう寝るわ」

「ああ、おやすみ」

 香里はそう言って俺に背を向け、自宅へと消えていった。

 明日、一体何をするつもりなんだろう?

 

 

「へーっくしっ!」

 

 

 寒っ、さっきからずっと外だったからいい加減堪えてきた。

 おまけに夕飯食ってないものだから腹まで減ってきたし…。

 風邪を引いたらたまらないのでさっさと帰ることにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ペシッ!

 

 お姉さんが面倒くさそうに男の子に何かを言おうとしたその瞬間……

 『祐一』という男の子は飛び上がって持っていた木の枝でお姉さんに突然殴りかかった。

「えっ?」

 お姉さんは何が起こったのか分からない顔をしている。

 わたしもあまりに突然のことなので、何が起こったのかよく分からなかった。

 男の子はわたしの前に立って、口を開けたまま何も言えないお姉さんに木の枝を突きつけて叫んだ。

「妖怪ババア、オレが退治してやる!」

 よ、妖怪ババア…

 わたし知らないよ、そんなこと言って怒られても。

 幼稚園の先生にそんなことを言って怒られてる子がいたのを覚えている。

 あっ、お姉さんの顔が凄い歪んでる…。

 とっても怖い。

 男の子も怖がっているはず…と思って、わたしとお姉さんの間に立った男の子の顔を横から伺った。

 でも…

 男の子はお姉さんに負けないように睨み返していた。

 うう、思いっきりお姉さんと戦う気みたいだよ。

「必殺! イナズマぎり!」

 男の子はそう叫んで、また大きく飛び上がった。

 そしてお姉さんの肩にその枝を振り下ろそうとした瞬間!

 

 パシッ

 

 着地した男の子の手に木の枝はなかった。

「あれ?」

 不思議そうに男の子が自分の手を眺める。

 そして恐る恐るお姉さんを見上げると…

 頬に左手を当てて微笑んでいるお姉さんの姿があった。

 その右手の人差し指と中指の間には、男の子が持っていた木の枝が挟まれている。

「この蝿が止まりそうなのが必殺剣ですか?」

 ビックリした。

 思いっきり男の子が振り下ろした枝を指二本だけで止めてしまったこともだけど…

 

 

 

       その時お姉さんは、はじめて笑ってたんだよ

 

 

 

 わたしがお姉さんの笑顔にビックリしていると、突然右手を握られて引っ張られた。

 私の手を握っているのはさっきの男の子だった。

 わたしを引っ張って奥の部屋の扉の前まで走って、後ろにいるお姉さんを向く。

「覚えてろ、妖怪ババア!」

 また言ってるよ…。わたしだってそう言われたら怒るよ、多分。

 でも、お姉さんはその男の子の言葉に…

 頬に手を置いたまま

「ええ、いつでもいらっしゃい。実力の違いを教えてあげましょう」

 と、楽しそうに答えたのだった。

 

 

 …それから二週間

 男の子は…祐一は何度もお姉さんに攻撃を仕掛けてはあっさり撃退された。

 わたしの定位置は男の子の後ろ。

 お姉さんはそんな男の子とわたしを楽しそうに眺めていた。

 こんなやさしい顔をしたお姉さんをわたしは見たことない。

 ううん、この人はお姉さんじゃなかったんだよ。

 

『名雪、お母さんは買い物に行ってくるから祐一さんと大人しく遊んでいるのよ』

 

 そうだったんだ。

 この人がわたしのお母さんだったんだよ。

 祐一がやってきてからのお姉さんは、とっても優しくてごはんもおいしくて、しっかりしてて……

 『お母さん』って感じのする人になった。

 お母さん…一緒にいてとても温かい感じのする人。

 

 

 そして、冬休みが終わってまたあの知らないおばさんがやってきた。

 おばさんは『お母さん』のそんな顔を見て喜んでいた気がする。

 大人の話はやっぱりわからなかったけど…

 祐一は自分の家に帰るみたい。

 もっといて欲しかったけど、もう『お母さん』と一緒だから平気だよね。

 最後に祐一はおばさんにさようならの挨拶をするように言われて…

「じゃあな、名雪」

 わたしに力強くそういった後、不敵な笑みを浮かべて……。

「今度来たら決着をつけてやるからな妖怪ババア!」

 

 ゴンッ!

 

 祐一がおばさんに殴られた頭から物凄い音を出していたのは今でもはっきり覚えている。

 そのせいか、次にやってきたときから祐一はお母さんを『秋子さん』って呼んで、とてもお行儀よくなっていた。

 でも、イタズラ好きなのは変わってなくて、お母さんを困らせていたよね。

 お母さんはそんなわたしたちを怒りながらもなんだか嬉しそうだった。

 祐一が来ているとき、お母さんはいつも以上に優しくなった。

 そして、祐一が来て帰っていくたびにお母さんはとてもしっかりした人になっていった。

 後で祐一とテレビを見てて分かったんだけど、祐一はヒーローごっこをやってたんだね。

 わたしはそのヒーローに助けられる女の子の役。

 今思うと恥ずかしかったけど…

 あのお姉さんを『お母さん』にしてくれたのは祐一だったんだよ。

 

 

 

     「オレは相沢祐一。お前は?」

 

          「え?」

 

        「名前だよ、名前」

 

       「なゆき……水瀬名雪」

 

   「よし名雪、あのババアのことは任しとけ」

 

         「…えっと」

 

       「オレが守ってやる」

 

         「う、うん」

 

 

 

 二人ともまだ小さかったからよく覚えてないかもしれないけど。

 祐一は何度もわたしを守ってくれたんだよ

 はじめて祐一が来てからの数年は、お母さんは何度か『お姉さん』に戻りそうになった。

 でも、そうなる前にいつも祐一が来てくれた。

 まるで絵本の中の王子様のように。

 

 

 祐一がはじめて来た日から、お姉さんはわたしに笑いかけてくれるようになった。

 わたしが食べ終わるまでいつまでも待ってくれるし

 食卓も明るくなった。

 わたしが笑いかけると、笑顔を返してくれる。

 かわいいお弁当箱においしい昼ご飯を詰めてくれた。

 わたしが言わなくても、わたしの欲しい物は買ってきてくれるし

 頼れる『お母さん』なんだと思う。

 でもね……

 頼っちゃダメなんだよ。

 だって、『お母さん』はね、本当は……

 とっても弱い人だってわたしは知ってるから。

 心配かけるようなことを言っちゃダメなんだよ。

 辛いことがあっても『お母さん』に言っちゃいけない。

 『お母さん』はそれに耐えられないから。

 だから、わたしはできるだけ一人で頑張らないといけないんだよ。

 だって

 あんなお姉さんと暮らすのはもう嫌だもん。

 わたしが本当に頼れるのは……

 

 

 

       祐一だけなんだよ

 

 

 

 




奇跡が起きればそれで幸せか?
そこから生まれる軋轢もある……それが美坂姉妹完結編のテーマでした。
2章より続く美坂姉妹の物語もここで完結を迎えるわけですが、同時に終わりを迎える
水瀬名雪黎明編。
名雪の恋心の原点ですが、誰もそれを知らないのです。
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