Kanon Trilogy   作:ミサ菓子折(LRA)

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12月21日(火曜日)

 

 

 ゆさゆさ

 誰かが俺を揺すっている。

「ほら、起きてよ祐一」

「うるさいなあ、せっかくの冬休みなんだから寝かせろよ」

 俺はまだ眠いんだ。

 おまけに冬の早朝。布団から出たいわけなどない。

「ダメだよ。一緒に雪だるま作るって約束だよ」

「昼な、昼」

「早起きして作るぞって言ったのは祐一だよ」

「何で寒いのが苦手な俺がそんなこと言うんだよ…ありえない」

「昨日の夜に雪が降って、雪だるま作るなら新しい雪の方がいいって…」

 …そんなこと言ってたっけ?

 いや、言ってたような…

「わたしに起こせって言ったのも祐一だよ」

 むう、そうだったけか? そうだった気もする。

「やっぱ寒いし眠いからパス。おやすみ」

「わっ、本当に寝ないで」

「ぐうぐう」

 かなりわざとらしいいびきをかいて、布団に包まる。

「…いいもん」

 ふてくされた名雪の呟きが聞こえる。

 朝から元気でご苦労なことだ。

「祐一が寝ている間に、祐一の上に特大雪だるま置いてあげるもん」

「うっかり倒して祐一が押し潰されても助けてあげないんだから」

 

 がばっ

 

「おはよう、祐一」

「爽やかな笑顔だな、おい」

 堂々と予告殺人をほのめかすとは、自分のいとこながら末恐ろしい。

「へいへい、起きますよ。起きればいいんだろ」

「だから起こせって言ったのは祐一だよ~」

 

 

 結局、起きるのを嫌がっていたくせに、いざ雪だるま作り出すと俺の方が熱中してしまって…

 昼頃には家中が大小さまざまの雪だるまだらけになっていた。

 当然の如く秋子さんには思いっきり怒られた。

 俺のつきそいで怒られたのが不服だったのだろう。

 名雪はお説教の後、とても不満そうだった。

 名雪は悪ノリで雪だるまを量産する俺をおどおど眺めているだけだったから…

 ある意味俺の悪戯に巻き込まれた被害者だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

     12月21日(火曜日)

 

 

 『朝~、朝だよ~』

 『朝ご飯食べて学校行くよ~』

「…………」

 

 カチ

 

 何で俺はいまだにこんな余計に眠りを誘いそうな目覚ましなんか使ってるんだろう?

 これのせいで入試の日に寝過ごしたら洒落にならないぞ……

 そろそろ真面目に別の声入れるか他の目覚まし使うかした方がよさそうな気がする。

 しかし…

 おかしな夢を見たな…

 多分10年くらい前の冬休みの夢だ。

 それは分かる。

 でもおかしい。

 夢の中で名雪は俺を起こしに来ていた。

 それも俺の記憶が確かなら、そのときの時間は7時。

 そんな早朝にまだ小学生低学年の名雪が俺を起こしに来ていた?

 それどころか俺が名雪に起こすように頼んでいた?

 今の名雪に起こしてもらうように頼むなんて自殺行為だぞ?

 いや…でも間違いない。今の夢で思い出した。

 7年前のあゆのことを思い出してから、俺は時々昔のことをこんな風に夢で思い出すことがある。

 いつもはたわいない夢で思い出した傍らからまたすぐに忘れてしまうのだが、今日の夢は違った。

 この間からずっと感じていた違和感、その正体だったのだから。

 あの冬休みの早朝に名雪はちゃんと一人で起きてたし、面倒くさがる俺を起こしにも来た。

 それも一日だけのことではない。

 朝食の時間に名雪に起こされたことは何度でもあった。

 それに、あの時は名雪の部屋にあんなに大量の目覚ましはなかったはず。

 おかしい……

 俺の記憶の中にある昔の名雪と今の名雪は、姿は似ていれど性格はほとんど別人だ。

 一体、俺の知らない7年の間に名雪に何があったというんだろう?

 

 

 

 

 

 

 名雪の部屋にお邪魔する。

 あゆと栞の姿はない。

 どうやら今日は一足早かったようだ。

 名雪には既に今日の点滴が行われている。

「よくよく考えたら、ノックもせずに女の子の部屋に入るなんてとんでもないな」

 静かにベッドで眠っている名雪を眺めながら呟く。

「ま、お互い大事なところを見せ合った仲だし今更遠慮しないでもいいか」

 いいわけない。

 ていうか、自分で言っててなんだがかなり恥ずかしい。

 単に子供の時一緒に風呂に入ったことがあるだけのことだ。

 いや、でもあの時名雪は通常女には装備されていないブツをいつも横目でチラチラ見て……

 それで……

 やめとこう。あの一件はインパクトありすぎて今思い出すとかなりやばい。

 まあ、仕方ないよなあ。

 名雪は父親のこと全然覚えてないんだし、芽生えて当然の興味だ、うん。

「感謝しろよ名雪。お前は俺のおかげで変態思考を持たずに済んだんだからな」

 年頃の女の子の寝所に無断で上りこんだ挙句、何言ってるんだ俺は。

 完全に言ってることが変態である。

 おまけに馬鹿なこと思い出したせいで変な気分になってきてるし。

 理性がまともなうちにここを出よう。

 そう思って俺は名雪に背を向けた。

 

 

「……して…」

 

 

「え!?」

 背中から小さな声が聞こえた。

 間違いなく名雪の声だ。

 恐る恐る後ろを振り向いてみる。

 名雪は変わらず静かに眠っていた。

 …気のせいか?

 

 

「…どう…して」

 

 

「名雪!?」

 聞こえた…今度ははっきりと。

 名雪が唇を静かに…本当に静かに小さく動かしながら寝言を言ったのが。

 『どうして』と。

 今まで何の反応も示さなかった名雪がはじめて寝言を言った。

 俺が突然のことに面食らっていると、名雪の口がまた開いた。

 今度ははっきりと…

 

 

「どうしてなの…ゆういち……」

 

 

 『どうしてなの…祐一?』

 はっきりとそう聞こえた。

 まるで心をえぐられそうな悲痛な響きを持った声で。

 そして名雪はそれきり喋らない。

 俺は驚愕しながら、物言わぬ無表情なその顔を凝視するしかなかった。

 何がなんだ名雪?

 何が『どうして』なんだ?

 俺がお前に何かしたのか?

 記憶を探る……

 思い出せない。

 記憶にない。

 どんなに考えても、名雪にこんな悲痛な言葉を言わせるほど酷い事をした覚えはない。

 どんなに考えても……

 

 

 あれ?

 

 

 思い出せない。

 今度は『思い出せない』ということに気がついた。

 

 

 

 

「だって、一度も連絡がなかったから」

「祐一が、この街に来なくなってから…」

「わたしは、ちゃんと書いたよ」

「そういえば、名雪から手紙が来たような気もする」

「よかった…届いてたんだ」

「何も返事がなかったから、届かなかったのかなって思ってたよ…」

「いや、ちゃんと全部読んでたぞ」

「嬉しいよ」

 

 

 

 

 水瀬家に7年ぶりにやって来た時に何気なく名雪と交わした会話だ。

 なぜ手紙に返事をしなかったんだろう?

 名雪の手紙は当りさわりの無いことばかりだったはずだ。

 それに、どんなに面倒でも年賀状くらいは返事をしてもよかったんじゃないだろうか?

 でも…俺は出さなかった。

 胸の奥が僅かに痛む。

 7年前のこと…

 とっくに全部思い出したと思っていた。

 でも、そこに全く思い出せない空白がまだあったのだ。

 錯乱状態であゆを担いで病院に連れていった後…

 その後の記憶が無い。

 あの後、俺は名雪とどんな別れ方をしたんだ?

 確かに、あゆのことでこの街のことを無意識的に嫌いにはなっていた。

 でも、名雪が嫌いになったわけじゃない。

 なんで、たかが手紙の返事をすることくらいしなかったんだろう?

 電話だってあったはずなのに。

 7年前の空白のこと……

 思い出せないんじゃない。

 思い出したくないんだ。

 何を?

 頭が混乱する。

 自分が何を考えているのかよくわからない。

 ただ、はっきり分かるのは……

 あゆが目覚めて、今では暖かな思い出になっているはずの辛い7年前の事故。

 それがいまだに暖かな思い出とはならないでいる。

 ずっと感じていたわけの分からない罪の意識。

 

 

 『どうしてなの…祐一?』

 

 

 俺は…お前に一体何をしてしまったんだ?

 今まで聞いたこともないような、名雪の悲痛な声。

 その一言が俺の罪の意識に食い込んでいく。

 そうだ…名雪がこうなってしまったのは…

 俺のせいだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 名雪の部屋を出てからは頭がぼうっとしていた。

 何となく頭の中がうまくまとまらなくて、視界も焦点が何となく定まらないような感じ。

 食卓で秋子さんたちに心配されたような気がするが、適当に何か言っておいた。

 余計に変に思われてしまった気がするがどうでもいい。

 そんなことを考えている余裕は俺の頭になかった。

 あゆと栞から風邪薬とかを色々渡された気もするが、曖昧に返事しながら全部飲んでしまった。

 そのせいか通学路を一人で歩く間中、余計に変な気分になってきた気がする。

 俺は…7年前の名雪に一体何をしたんだ?

 学校に着くまで、頭の中にあったのはそのことだけだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 教室の扉を開け、黙って席につく。

 一人で席につくのがもう当たり前になった感じがして嫌な気分だ。

「おい、相沢どうした?」

 北川に声をかけられた。

 気は晴れないが、人の関心を引きたいわけでもない。

 むしろ今は他人の存在は邪魔だった。

 かと言って露骨に邪険にするのも悪いので、とりあえず普通に挨拶を返しておくことにする。

「おはよう。別に何でもない、眠いだけだ」

 そう言って俺は机に突っ伏した。

 なんだか思考がひどく重く感じる。

 このまま寝てしまえば楽になりそうだ。

 

 

「ちょっと、少しはまともに人の顔見て挨拶しなさいよ」

 

 

 眠りの底に落ちていこうとしたら、突然そんな声と共に襟首を引っ張られて顔を起こされてしまった。

 ったく、誰だ?

 人が寝ようとしているのを邪魔するなんてえらく肝の据わった女だな。

 色んな意味で邪魔された気がして、俺は不機嫌に引っぱった奴の方に振り返った。

「えっ!? 香里!?」

「不機嫌なのか驚くのかどっちかにしなさいよ」

 振り向いた先にいたのは、腕組みをして呆れている香里だった。

「何でいるんだ?」

「いたら悪いかしら?」

「い、いや、悪いなんて言ってない……けど」

 『お前休学したんじゃ?』

 あまりの意外なことに、さっきまでの頭のもやもやは一時的に飛んでしまった。

 ぽかーんとしている俺に香里が笑顔で言う。

「久瀬君の粋な計らいでね、今までどおり学校に出てきても構わないって」

「元会長が?」

 どんな計らいをすれば自主留年の者が出てきて構わないなんてことになるんだろう?

 舞踏会といい、変な制服といい……この学校の何か桁外れなスケールには舌を巻くばかりだ。

「『真面目な生徒たちのための生徒会さ』なんてかっこつけてたわ」

 こいつはこいつでその骨を折ってくれたであろう相手に感謝の気持ちはないのか?

 かっこつけ…って本人が聞いたら怒るぞ。

「失礼ね。ちゃんと感謝してるわよ」

「うおっ、何故それを!?」

 口に出してたか?

 漫画の登場人物じゃあるまいし……

「相沢君は考えてることを顔に出しすぎよ」

「何を、俺のポーカーフェイスは一級品だぞ」

 俺がそう言ったら、香里は呆れた顔から一転してニッコリ笑った。

 ……嫌なくらい覚えのある顔だな。

 そう、こいつの妹のあの凶悪極まりない笑顔だ。

「名雪でも丸わかりのポーカーフェイスね。確かに一級品だわ」

「嫌なくらいわかりやすい例えをどーも」

 名雪でも丸わかり……

 一級品どころか超三級品のポーカーフェイスかよ。

「『正直者が馬鹿を見るなんて嫌じゃないか』なんていいこと言うわね、彼」

「元会長がそんなことを?」

「まあ、この時期に生徒が突然いなくなったらクラスも混乱するでしょうしね」

 香里は俺の問いかけに、頷いてそう付け足した。

 確かに、今の時期にクラスメートが一人いきなり留年を決めていなくなるのは好ましいこととは思えない。

 元会長と石橋あたりがそう考えて、外見は今までどおりに保つ苦心をしたのだろう。

 幸い香里の留年の話を聞いてたのは元会長以外の生徒では俺だけだ。

 俺が黙っていれば、卒業式まで香里の留年の話は出ないことだろう。

 出たところで、いきなりいなくなるよりは衝撃が薄いのは間違いない。

 堅物と思ってたけど、結構いいところあるんだな、あの元会長。

「はぁ、なんかそれ聞いて少し安心した」

「そう?」

「香里がいてくれて俺は嬉しい」

「あら、また随分積極的な発言ね。あゆさんに言いつけちゃおうかしら?」

「だぁっ、ちょっと待てそういう意味じゃない! その…なんだ、香里だと落ち着くっていうか……」

 だ、ダメだ。

 何言ってるんだよ俺。

 余計に言ってることが支離滅裂になってきてるじゃないか。

 あたふたと慌てふためく俺に、香里が愉快そうに笑った。

「わかってるわよ。相談事ならいつでも乗るわ。友達として…ね」

「あ、ああ。頼む」

 やっぱこいつ栞の姉だ。

 人の扱い方がうまい。

 でもまあ、そんな香里だからこそ相談役として近くにいてくれるのは心強いと思う。

 あんなことがあった後だが、香里が物事に対する冷静な目を持っているのは確かだ。

 というか、そんな香里でも妹のこととなると冷静ではいられなかったというのが正しいだろう。

 ともすれば冷淡に見える香里だが、どこかあたたかみを感じるのはそういう脆さもあるからかもしれない。

 

 

「なあ、さっきから二人で何の話してるんだ?」

 完全に会話に置いていかれた北川がぽつりと呟く。

 香里の留年の話は全く聞いてないのだから無理もないか。

 いずれそれは香里からゆっく聞いてもらうことにしよう。

「別に大したことじゃないわ。仲のいい男女として普通の会話をしてただけよ。ね、相沢君」

 にっこり。

 こ、怖っ。

 香里の笑顔とヤツの顔が一瞬ダブった。

 やっぱり姉妹だ。

 しかし、相手は北川なのでそれに臆することなく俺も冗談に乗る。

「ん、ああ。まあそんなところだ。モテる男は辛いぜ」

 北川はそれを聞いて少し複雑な顔で

「……そうか」

 と呟いた。

 からかわれているのか本気なのか判別し難くて困ってます、といったところだろう。

「この人を放っておくわけにもいかないしね。受験直前って緊張感ないのかしら?」

 香里はそう言って溜息をついた。

 気持ちはよくわかる。

「なんとかしてやってくれ」

「そうね。久瀬君や石橋への恩返しも兼ねて無事進学させてあげなきゃ」

 香里にケツひっぱ叩かれれば北川も少しは緊張感というか、サマになりそうな気がする。

 俺じゃ最後まで真面目な雰囲気にならないので効果が薄い。

 というか、俺は人のことを気にかけられるほど余裕もない。

「だからさっきから二人で何の話を進めてるんだ?」

 まだわかってないのかこいつは……

 本当に大丈夫なんだろうか?

 頭が。

「北川君、放課後勉強に付き合ってあげるわ」

「お、いいのか?」

 言葉をそのまま好意と受け取ったのか北川は少し嬉しそうだ。

「ええ」

 にっこり。

 グッドラック……北川。

 放課後は鬼教官の個人指導が待っているだろう。

 

 

 久々の懐かしい雰囲気のやりとりに先ほどまでの鬱な気分も少し和らいだ。

 そして担任がやってきて授業が始まる。

 

 

 

 

 

 ……だが

 一度タガが外れた記憶は、既に留まる事を許さなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 辛い。

 悲しい。

 胸が吐き気をもよおすほど締め付けられる。

 俺は駅前のベンチに座っていた。

 どこをどうやって今自分がここに座っているのかもわからない。

 いや、『今』なら分かる。

 あの場所を象徴する独特の薬品臭を思い出す。

 そう、俺は数時間前まで病院にいた。

 そして、シャツの裾にわずかについた黒い染み。

 もともとは赤だったもの、つまり血の染みだ。

 血まみれになっていた上着は病院で着替えさせられた。

 あのままこんなところに座っていたら、周りの人間が失神するだろう。

 血まみれの服を着た少年が駅前のベンチに座っていたら。

 これはあゆの事故が起きた数時間後の記憶だ。

 今まで一度も見たことのない……

 いや、俺が目を向けようとしなかった現実。

 俺の意識は、今まさにその中にあった。

 

 

 あれから……あゆが木から落ちてから……

 俺は足が砕けるほどに走って走って森を抜けた。

 そして、秋子さんと救急車を呼んで……

 あ、あれ?

 何でだ?

 おかしい、おかしいぞ。

 なんで俺はそんなことを克明に覚えているんだ?

 あの時の俺は相当錯乱していた。

 それこそ記憶を封印してしまうほどに。

 秋子さんや救急車を呼んだ電話の時も、ほとんどまともな言葉を話していなかった。

 でも覚えている。

 全てに目を背けて、眠ってしまいたかった。

 全てを夢だと思いたかった。

 目が覚めればまた何でもない、いつもの自分がいることを信じて。

 でも、俺は自分の義務を果たした。

 秋子さんや救急隊の人をあゆの元に案内して……

 そして、あゆが運ばれるのをちゃんと見届けた。

 そして病院で医師が秋子さんに暗い顔で首を振るのを見て……

 耐え切れずに病院を飛び出したのだ。

 秋子さんの制止も聞かず。

 そして気がついたら、あゆとの思い出の場所に辿り着いていた。

 いや、走りっぱなしでただ限界を迎えただけかもしれない。

 俺は病院からすぐの駅前のベンチに一人腰掛けていた。

 あゆと遊ぶ待ち合わせの場所にしたあのベンチに。

 

 

 

 あゆは……

 死んだ。

 一縷の望みをかけた病院も駄目だった。

 そのやり場の無い悲しさ、悔しさが胸を締め付ける。

 俺は耐え切れずに、そこで泣き続ける。

 周りを見回すとさっき降ったばかりの、今も降っている真新しい雪が積もっている。

 人の悲しみも知らないかのような、その真っ白さが癇に障った。

 ベンチの雪を払い落とし、足元に積もった雪を真っ黒になるまで踏み潰す。

 

 

 

 やがて、いい加減それにも疲れた俺は再びベンチに腰を下ろした。

 何をしたくてここにいるのかさっぱり分からない。

 これからどうするかも……

 

 サクッ、サクッ

 

 ふいに誰かが俺の元にゆっくり歩み寄ってくる音が聞こえた。

 ためらいがちに雪を踏み鳴らす音が。

 誰だろう? と思って少し顔を上げてみる。

 目の前に立っていたのは、真新しい雪よりも汚れを知らない雪。

 雪うさぎを頭に乗せた幼い日の名雪だった。

 

 やめろ、来たらだめだ名雪!

 

 本能的に叫ぶ。

 だけど無駄だ。

 これは俺の記憶、既に起こったこと。

 そして、俺が行ったこと。

 だから、名雪にその声が届くわけもない。

 何も知らずに名雪は、涙を拭いて接近者に対し少し顔を上げた俺に近づいていく。

 

 やめてくれ!

 見せないでくれ、その先の光景を!

 思い出すのもおぞましい俺の醜い姿を見せないでくれ!

 

 だが、俺の願いも空しく夢は止まらない。

 名雪の口がゆっくりと開かれた。

「…家に帰ってなかったから…ずっと探してたんだよ…」

「…見せたい物があったから…」

「…ずっと…探してたんだよ…」

 期待と希望が入り混じった名雪の声。

 そして表情。

「ほら…これって、雪うさぎって言うんだよ…」

「わたしが作ったんだよ…」

「わたし、ヘタだから、時間かかっちゃったけど…」

「一生懸命作ったんだよ」

 何でだ?

 何でお前はそんな幸せそうな……

 幸せを夢見るような顔が出来るんだ?

「…あのね…祐一…」

「…これ…受け取ってもらえるかな…?」

「明日から、またしばらく会えなくなっちゃうけど…」

「でも、春になって、夏が来て…」

「秋が訪れて…またこの街に雪が降り始めたとき…」

「また、会いに来てくれるよね?」

 俺がこんなに深い絶望を味わっているっていうのに……

 何でお前はそんなに平気な顔をしていられるんだ?

 いや、いっつもいっつも幸せそうな顔をして……

 お前に俺の悲しみが少しでもわかるか?

 母親とたくさんの幸せに囲まれて暮らしている果報者のお前が…

「こんな物しか用意できなかったけど…」

「わたしから、祐一へのプレゼントだよ…」

「…受け取ってもらえるかな…」

 湧き上がった黒い感情は止まることなく膨らんでいく。

 目の前の少女の一言一言が癇に障る。

 ついさっき俺の目の前で消えていった幸福の灯火を

 目の前のいとこの少女が自慢げに見せびらかしているようで…

「わたし…ずっと言えなかったけど…」

「祐一のこと…」

「ずっと…」

 不公平だ。

 俺がこんなに苦しんでいるのに……

 こいつは今朝の俺のように馬鹿みたいに目をキラキラさせて。

「好きだったよ」

 好き?

 俺も嫌いじゃないさ。

 じゃあお前も……

 俺と同じ苦しみを味わえ!

 

 

 その瞬間、名雪の差し出した雪うさぎは、崩れ落ちていた。

「…祐一…?」

 戸惑うように、名雪が俺の名前を呼ぶ。

 さっきまであった雪うさぎは、地面に落ちて、すでに見る影もなかった。

「……」

 スカッとした。

 目の前の女が俺と同じような顔をしている。

 ざまあみろ。

 この鬱陶しいまでに平和で幸せそうな女め。

 目が取れて、耳が潰れたうさぎ…。

 差し出した少女の雪うさぎを地面に叩きつけたのは、紛れもなく俺の小さな手だった。

「…祐一…雪…嫌いなんだよね…」

 涙を堪えるように、名雪が雪うさぎだった雪のかけらを拾い集める。

「…ごめんね…わたしが、悪いんだよね…」

 ああそうさ、馬鹿みたいに幸せな面をしているお前が悪いんだ。

「…ごめんね、祐一…」

 じっくり味わいな。

 幸せを夢見て、そのまさに頂点から絶望の底に叩き落される辛さを。

 俺の悲しみを十分の一でも感じ取ってみろ。

 

 

「…祐一…」

「…さっきの言葉、どうしてももう一度言いたいから…」

「…明日、会ってくれる?」

 涙を堪えながら、名雪が健気に笑おうとする。

 気に食わない顔だった。

 まだこいつは望みを持っている。

 いいぜ、それもきっちり断ってやるよ。

「…ここで、ずっと待ってるから…」

「…帰る前に…」

「…少しでいいから…」

「…お願い、祐一…」

 堪えていた涙が、頬を伝っていた。

 だが、その顔は俺の心の底から湧きあがる、言いようもない興奮を猛らせるばかりだった。

「…ちゃんと、お別れ言いたいから…」

 

 

 そして、約束の日…。

 ひとりぼっちで佇む名雪の元に、俺は最後まで姿を見せることはなかった…。

 その名雪の姿をこの街を離れる最後の時まで目に焼きつけ……

 電車に乗った俺は不思議な満足感を覚えて目を閉じた。

 次に目を開けた時には……

 元の街に戻り、何でもない、いつもの自分の姿だけがあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ガタッ

 

 目を見開き、立ち上がる。

 それと同時に自分に集まる視線。

 目の前には黒板を背にした石橋が立っている。

 それも、目を見開きいかにも驚いているといった様相で。

「な、何だ相沢!? 突然授業中に立ち上がったりして」

「え……あ……石橋…先生ってことは5時間目?」

「何を言ってる? 寝ぼけて…なんだお前泣いてるのか?」

「いや、泣いてなんか……」

 そう言って目元を拭うと、ぐっしょり濡れている事に気付く。

 何がどうなっているんだ?

 1時間目の授業が始まったと思ったら今は5時間目で……

「あ、先生。相沢どうも体調よくないらしいんで保健室に連れて行ってきます」

 突然後ろの北川が席を立ってそう宣言する。

「そうなのか?」

「はい、徹夜で勉強してたと朝に」

「そうか…よし、連れて行ってやれ。お前も見習ったらどうだ北川?」

 クラス中に失笑が漏れ、北川が頭をかいて苦笑いをする。

「そりゃないですよ、先生」

「冗談だ。相沢も無理はいかんぞ」

 北川に背中をつつかれる。

 話を合わせろということだろう。

「すみません」

 軽く石橋に頭を下げて北川に教室の外に連れ出してもらった。

 

 

 

「悪い」

 廊下に出てから、北川に小声で謝る。

 泣いていたせいか鼻から頭に刺すような痛みを感じる。

「気にするなって。どうせ暇だったしな」

「…暇って、お前なあ」

 まあ確かに石橋は雑談の方は面白いが、授業自体は真面目すぎるきらいがある。

 雑談の一つでも入らないと1時間は結構単調でつらいタイプだ。

「まったくね。放課後に教える前から不安になってくるわ」

「おわっ、なんで美坂がいるんだ!?」

 後ろに香里が呆れた顔で立っていた。

 俺達に続いて教室から出てきたらしい。

「北川君がちゃんと帰ってくるか不安なので見てきますって言ったら、よろしく頼むって」

「…ヒデエ」

 鮮やかにして極悪な方便だった。

 さすが香里。

「それで、どうしたの? 相沢君」

「……いや、どうしたって訊かれても俺自身の頭が混乱してて。ていうか、今5時間目か?」

 ぐらぐらする頭に手の平を当て、こめかみをぐりぐり押してみる。

 あまり…気分はよくない。

「ああ、5時間目だぞ」

「相沢君、今日一時間目からずっと寝てたのよ」

 名雪みたいにね、と香里が付け足す。

 それはつまり、起こそうとしても起きなかったということだろう。

「そっか、心配かけて悪い。ちょっと嫌な夢を見ていたんだ」

 それを聞いた香里が腕を組んで、納得行かないわねと言わんばかりの顔をする。

「大の男が大泣きするほどの夢ってどんなのかしら」

「おい、美坂…そりゃ男性差別ってやつだぞ。男だって泣きたい時は……」

「泣いてる所を人に見られたいかしら?」

「う……それは確かに嫌だな」

 香里の鋭い指摘に北川が顔を伏せる。

 香里の言う通りだ。

 俺だって人に泣いているところなんか見られたくない。

 後日他の連中の笑いの種にされるかと思うとうんざりする。

 でも、今はどうでもいい。

 そんなことよりもっと深刻なことが頭にあったから。

「いや、大したことじゃない。昔のことをちょっと思い出しただけだ」

「……そう」

 

 

 それから無言で保健室まで歩いた。

 保健室の前で二人に礼を言う。

「大丈夫か?」

「頭が痛いくらいだ。気分も少し悪いかな」

「放課後起こしに来てやろうか?」

「頼む」

 あいよ、了解。という感じに北川が片手を上げた。

 そして保健室に入ろうとしたところで香里に呼び止められる。

「相沢君…月並みかもしれないけど。あまり思いつめないでね」

「何だそりゃ、秋子さんの真似か?」

 真剣な顔をする香里におどけてみせる。

 が、怒られるどころか逆に悲しい顔をされてしまった。

「相沢君は、あたしとそういうところは似ているから」

「……茶化して悪かった。もし寂しくなったら遠慮せずに頼る」

「ええ。それじゃお休みなさい」

 二人にもう一度軽く頭を下げて保健室の扉をくぐった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 保険医に事情を説明してベッドを借りた俺は、その中でさっきの夢のことを考えていた。

「ふ…ははは……」

 自然と笑いがこみ上げてくる。

 もちろん、自嘲という類の。

 そして涙が止まらない。

 

 

 最低だ。

 あゆの悲しみから目を背けた?

 なんて都合のいい嘘で自分を誤魔化していたんだろう?

 突きつけられた現実はあまりに残酷だった。

 7年前のあゆの事故の後…

 俺は告白をしてきた名雪に劣情をぶつけた。

 そしてそれに満足して全てを夢だと思い込んで忘れてしまったのだ。

 いや、夢だと思いたかったのだろう。

 自分の中にあんな醜い自分がいることを信じたくなくて。

 あゆの事故を夢だと思いたかった。

 それもある。

 でも、俺が本当に夢に逃げたのは……

 名雪にした自分の仕打ちを忘れたかったからだ。

 名雪から届く手紙を見るたびに何か胸を締め付けられる思いがした。

 そして年賀状にすら返事を書けなかった。

 ずっとあった罪の意識。

 それは……名雪に酷い事をしたという俺の良心の呵責だったのだろう。

 『どうしてなの…祐一?』

 今朝の名雪の言葉が胸にグサリと突き刺さる。

 間違いない、名雪がああなったのは俺のせいだ。

 

 

 あれ?

 待てよ?

 と、そこまで思ったところで不思議なことに気付いた。

 何で名雪はあの日あんなところにやってきたのか?

 秋子さんから話を聞いていないのか?

 おかしい。

 なんで名雪はあんな最悪のタイミングで俺の前に現れたんだ?

 秋子さんから何か聞いていなかったのだろうか?

 次の日名雪が駅前にいたのも変だ。

 秋子さんに聞けば俺がどういう状況にあったか理解できないわけもないだろう。

 いや、名雪はあゆが目覚めるまであいつのことを全く知らなかった。

 秋子さんが7年前の事件、そしてあゆのことをしっかり知っていたのにも関わらず…だ。

 後で事件のこととかを説明したら『そうだったんだ』と感心していたのを覚えている。

 何かパズルのピースが抜けている。

 そんな感じだ。

 俺のやったことが名雪をあんな風にしてしまったのは間違いない。

 しかし、何かが足りない。

 決定的な何かがまだ抜けている。

 そんな予感がする。

 一体、それは何なんだろうか?

 治まっていた頭痛がまた激しくなる。

 まだ考え事をするには頭が落ち着いていないようだ。

 仕方がない、寝よう。

 そう思った瞬間、意識は闇の中へ落ちていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 放課後、北川と香里に起こしてもらった時の気分はわりと良かった。

 しばらくぶりのまとまった睡眠を取ったせいか非常に頭がスッキリしていた。

 そしてふたりに大丈夫だということを空元気ながらもアピールして俺は帰路についた。

 一人で落ち着いて考えたいことがあると二人に告げて。

 家に帰れば……

 あの日の当事者が二人ともいる。

 秋子さんと月宮さんだ。

 二人から話を聞けば……

 決定的に欠けている何かが分かるかもしれない。

 いや、きっと分かる筈だ。

 

 

 

 

 

 玄関をくぐり、鞄も下ろさずそのままリビングに向かう。

 夕飯前のこの時間なら全員そこにいるはずだ。

 案の定、扉の前に立つと中からテレビの音が聞こえてくる。

 俺は息を大きく吸い、意を決して扉を開けた。

「お帰りなさい、祐一さん」

「おや、おかえり」

 リビングで出迎えてくれたのは栞と月宮さんだった。

 そして、今度は二人の声を聞きつけてダイニングのほうからあゆと秋子さんが姿を現す。

 二人で夕飯の準備をしていたのだろう。

「おかえり…祐一君」

「祐一さんお帰りなさい」

 四人とも微妙に違う挨拶をしているのが妙に面白い。

 あゆの声がいつものように弾んでいないのは気になるが、こればかりは仕方ないか。

「ただいま……です」

 『ただいま』と言いかけたところで、月宮さんがいるのを思い出し語尾を少し丁寧にしておく。

「あら? 祐一さんお腹が減っているのかしら?」

 秋子さんが俺の姿を見回して不思議そうに首を傾げる。

 帰ってきた時の格好のまますぐにリビングに入ってきたことを言っているのだろう。

「いえ、ちょっと秋子さんと月宮さんに訊きたい事があったんです」

「訊きたいこと?」

 秋子さんと月宮さんが二人で顔を見合わせ、同時に首をかしげる。

 お互い俺の言いたいことに見当がつかないという意思表示のようだ。

「大したことじゃないです」

 そう、今は大したことじゃない。

 でも、これを尋ねないことには俺のパズルのピースは埋まらないのだ。

「ええ、わたしに答えられることなら」

「うん、僕に答えられることなら何でも答えるよ」

 二人の顔を交互に見つめてから俺は口を開いた。

 

 

「7年前、あの事件の時…秋子さんと月宮さんは何をしていましたか?」

「7年…前?」

 俺の一言に場が凍りつく。

 7年前のあの事件。

 過ぎ去ってもなお俺達の心に残る出来事。

 きっと一生消えることはないだろう。

 一人だけこの件とは部外者の栞は、気を利かせて静かにテレビを消した。

「わたしは祐一さんから電話を受けて救急隊の人と一緒に祐一さんのところに行ったわね」

 『覚えてるかしら?』と秋子さんが付け加える。

「ええ。その後何とか秋子さんたちをあゆのところに案内して……で、病院に行きました」

「ちょうどそのころだね。あゆの財布に入れてあったメモから僕のところに電話が来たのが」

「あゆちゃんの保護者が来ると聞いて、その間にわたしは祐一さんの着替えを取りに行きました」

「着替え?」

 秋子さんの言葉に月宮さんが首をかしげる。

「俺の服、あゆの血で血まみれだったんです」

「……ああ……そうか。なるほど」

 秋子さんが表現に困っているようなので、横から単刀直入に告げた。

 あの時の俺の姿は凄惨の一言で、秋子さんが一瞬言葉に詰まるのも無理もない話だ。

 一言で血まみれと言ってしまうと、こうも実感が薄いのかと妙に感心する。

「それで祐一さんを着替えさせたところで月宮さんがやってきました」

「そこから先は覚えてます。二人で話しているところに病院の人が来たんですよね」

 そして医者は、あゆの容態が思わしくないことを二人に告げた。

 だが、俺はそれを最悪の事態と思い込み……

 あの場から居ても立ってもいられずに駆け出したのだ。

「祐一さん、見ていたんですか?」

「え?」

「わたしと月宮さんとお医者さんが話しているところをです」

「ええ…はい」

「それで病院から突然いなくなったのね」

 俺がそう答えると、秋子さんは納得のいったように目を閉じた。

 ちょっと秋子さんにしては反応が大袈裟な気がする。

「あの…何かあったんですか?」

 月宮さんに小声で訊いてみる。

「あの時の君は情緒不安定だったから一人で外を歩かせるのは危険だ、って心配していた矢先にいなくなったからだよ」

「あ…う、その……ごめんなさい」

 本当に俺はどこまで秋子さんに迷惑かけたら気が済むんだろう。

 確かに、あの後病院を飛び出してからどこをどう走ったかよく覚えてない。

 今思うと、車に轢かれていてもおかしくなかったのではないか?

 交通量の少ない冬場でなかったらほぼ間違いなく俺もあゆの後を追っていたに違いない。

「いいのよ。今はこうしてあゆちゃんも祐一さんもわたしの目の前にいますから」

 秋子さんはそう言って、自分を見上げながら話を聞いているあゆを抱き寄せて頭を優しく撫でてみせた。

「それから祐一さんを駅前のベンチで見つけたのはお昼をだいぶん過ぎたころでした」

 それは覚えている。

 秋子さんが俺の元へやってきたのは、あれから一時間くらいたってからだった。

 そう、あの後の……

「そこからは覚えてます。半分風邪をこじらした俺をここまで連れて帰って寝かせてくれたんですよね」

「ええ」

 そして次の日、辛うじて電車に乗れるくらいには回復した俺を迎えに来たお袋に引き会わせた。

 正確には覚えているというよりは思い出したというわけだがどっちでもいいだろう。

「わたしがあの日していたことはそれくらいだけど、これでいいのかしら?」

「僕もあの日は病院にいただけだから特に言うことはないかな」

 二人が口を閉じたところで月宮さんに軽く頭を下げた。

「ありがとうございます」

 月宮さんに訊くことはもうない。

 だが……

 

 

「秋子さん、最後にもう一つだけいいですか?」

「構いませんよ」

「あの日、名雪が何をしていのたか知ってます?」

「…名雪?」

 まるで寝耳に水と言わんばかりの顔をする秋子さん。

 そんなに名雪の名前がここに出てきたのが意外だったのだろうか?

「名雪はずっと家でお留守番していたはずよ」

「えっ!?」

 今度は俺が驚く番だった。

 秋子さんは……

 名雪が俺に会いに駅前に出てきたことを知らない?

 じゃあ、あの日の出来事のことも?

「秋子さん、名雪…俺が帰った後どうしてました?」

「そうね、祐一さんが帰ったのをいつものように寂しそうにしてたわね」

「いつものように…ですか?」

「あの子もこの大きな家にわたしと二人っきりは寂しかったんでしょうね」

 何だ?

 一体何がどうなっているんだ?

 秋子さんが冗談を言っているとは思えない。

 まさか、本当に秋子さんは何も知らないのか?

 名雪は俺との間にあったことを秋子さんに一言も話してないのか?

「名雪、俺が帰った後、秋子さんに何か訊きませんでした?」

 俺の豹変ぶりについてとか秋子さんに訊きたいことはいくらでもあったはずだ。

「いえ、特に何も訊かなかったわね」

「じゃあ、あゆのことを名雪には……」

 訊くまでもない。

 名雪はあゆのことを秋子さんから聞いていないのはもうとっくに分かっていることだ。

 でも、でも訊かずにはいられなかった。

「教えなかったわ。名雪には辛いだけのお話ですし、無理に聞かせるのもと思いまして」

 

 

 頭を鈍器で殴られた気がした。

 嘘だと言ってほしかった。

 俺の見ていた世界が虚構だったなんて……

 名雪は秋子さんに訊かなかったんじゃない。

 秋子さんには訊けなかったのだ。

 どうして?

 仲のいい親子じゃなかったのか?

 あれは上辺だけのことだったのか?

「そうですか……ありがとうございました」

 とりあえず秋子さんにお礼を言って、自分の部屋に行くことにした。

 

 

「祐一さん」

 リビングの扉に手をかけたところで秋子さんに呼び止められる。

 振り向くと真剣な顔をした秋子さんがいた。

「祐一さんは嘘をつきましたね」

「え?」

「さっき『大したことじゃない』と言ったことです」

「それは……」

「さっきの質問、本当は名雪に関係することですね?」

「…はい」

「わたしにも話してもらえませんか?」

 静かな、それでいて深い眼差し。

 それで確信した。

 どうしてこの人を一瞬でも疑ったのだろう?

 秋子さんの名雪への愛情は見せかけだなんて……

 そんなわけないじゃないか。

 秋子さんは紛れもなく名雪の『お母さん』なのだ。

「考えがまとまったら話します。いや、聞いてください」

「分かりました」

 

 

 

 

 

 考えなければいけないことはたくさんある。

 名雪の心の闇。

 それは予想だにしなかったほどに深いものだった。

 いや、今の今まであの名雪にそんなものがあることすら信じられなかった。

 きっと俺だけでは救えない。

 直感的にそう感じる。

 だが、もう一つ湧き上がる不思議な感情があった。

 俺でなければ名雪は救えない。

 俺が名雪を救わなくちゃいけない。

 それは遠い日の……だから。

 

 

 

 




実は水瀬家雪だるま事件、原作に存在しています。
ただし、栞シナリオで。
名雪がそんなことするのかな? ってちょっと疑問に思う話ですが、主犯は祐一だったのではないかと思ってこういう話にしてみました。
名雪は祐一を紅ショウガで脅したりしてますが、お使いは嫌がらずにしていたりとかなり真面目な子です。
他のヒロインに対しても、攻撃的な態度は取りません。

そんな名雪が唯一意地悪な態度を取れた相手が祐一だけ。
そう考えると、何かそこには深い意味があったように思えてこないでしょうか?
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