Kanon Trilogy   作:ミサ菓子折(LRA)

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12月22日(水曜日)

 

 

「…うそつき」

 待っててねって言ったのに。

 わたしは商店街の入り口でため息をついていた。

 きっと先に帰ってはいないと思う。

 また何かを見つけたんだね。

 祐一は何か面白そうなものを見つけるとまわりが見えなくなるところがある。

 ここで待っててという約束を忘れてはいないだろうけど……

 思い出してくれるのは何分、何時間先になるんだろう?

 先に帰ったと思い込めるならまだよかった。

 わたしも怒って家に帰ればいいだけだから。

 でも、わたしは祐一のことをよく分かってる。

 だからここで待つしかない。

「…うそつき」

 もう一度ため息。

 でも……

 ゴメンね祐一。

 わたしも嘘ついちゃった。

 やっぱり外はとっても寒いよ。

 わたしがここで待ってるのをはやく思い出してくれると嬉しいな。

 

 

 

 朝は祐一と一緒にお勉強。

 と言っても冬休みの宿題だけど。

 去年は遊びすぎて冬休み最後の日に大慌てしちゃったんだよね。

 今年はちゃんと計画的にやろうって二人で約束した。

 一人で宿題をやるより二人でやったほうが楽しい。

 お互いに自分の宿題より相手の宿題の方が面白そうで、こっそり交換もしてみた。

 わたしが、『祐一の学校は楽しそうで羨ましい』って言ったら、

 祐一は『俺はお前と同じ学校に行きたかった』って言ってくれたよね。

 わたしはそれを聞いてとても嬉しかったんだよ。

 だってわたしは祐一のことが……

 でも、祐一はそう言った後悪びれもせずに、

 『同じ学校なら名雪の宿題写せばいいだけなのにな』

 と言ってのけた。

 いじわる……

 本気でそう思ってるんだから余計極悪だよ。

 祐一はわたしのことどう思ってるのかな?

 やっぱり、口で言わなきゃダメ…だよね。

 でも、祐一は応えてくれるのかな……

 怖い。

 わたしは今の祐一との関係が好き。

 もしそれを言ったら、この関係も壊れちゃうかもしれない。

 言うのは……

 来年でもいいよね。

 

 

 

 窓から差し込むお日様のあたたかさにつられてお昼寝。

 ベッドの中で丸まるわたしを見て祐一は、『猫みたいなやつ』って呆れてた。

 猫さんがいれば祐一が帰っちゃってもこの家も寂しくなくなるのに。

 でも、わたしは猫アレルギーだから……

 猫さんと一緒にお昼寝できたらきっと楽しいと思う。

 祐一が同じベッドに入るのを確認してわたしは目を閉じた。

 お日様と祐一と……

 二つのぬくもりで心が満たされていく。

 わたしはこの晴れた日のお昼寝の時間が好き。

 

 

 

 目を覚ますと空は赤くなっていた。

 祐一は…いない。

 先に起きちゃったんだね。

 わたしはお昼寝が好きでついつい夜まで寝ちゃうこともあるけど、祐一はあまりお昼寝は好きじゃない。

 好きじゃないというより、すぐに目を覚ましちゃうらしいけど。

 でも、起こしてくれたっていいのに……

 家の中を見回しても祐一はいない。

 お母さんに訊いてみるとどこかに出かけたらしい。

 また秘密基地を探しに行ってるのかな?

 わたしも一緒に探したいって言ったら、『秘密の意味がない』って断られちゃった。

 いつものイタズラなのかな?

 それとも……

 わたしと距離を置いてるの?

 わたしは祐一のことをもっと知りたいよ。

 わたしはこの街にいる間の祐一しか知らない。

 わたしの知らない祐一が増えていくのは……怖い。

 この街にいる間だけでも、祐一のことを全部見ていたいのに……

 わたしの気持ち……言えるのは来年。

 ううん、もっと先になっちゃうのかな……

 でも、いつかはちゃんと言いたいよ。

 

 

 

 今日も祐一はどこかに出かけていった。

 今までこんなことなかったのに……

 今年の祐一は少し変だと思う。

 変なのはいつものことだけど、そういう意味じゃなくて行動が変だった。

 わたしに黙って出て行っちゃうなんてひどいよ。

 『宿題の時間以外はめいっぱい遊ぶぞ』って意気込んでたのに。

 それに何でわたしにお金なんか借りたんだろう?

 しかも1000円も……

 今までそんなことは一度もなかったのに。

 もうこの冬休みの習慣になりつつあったかもしれない。

 お母さんに何度目かの祐一を見ていないかを訊いた時のこと。

 お母さんは笑いながらこう言った。

「好きな子でも出来たのかしら?」

 きっとお母さんは冗談のつもりだったのだろう。

 でも、わたしには冗談じゃなかった。

 馬鹿だよわたし。

 どうして気付かなかったんだろう。

 祐一がずっとわたしを待ってくれるとは限らない。

 ううん、祐一が誰かを好きになるのは当たり前の話。

 わたしも祐一もいつまでも子供じゃないんだから……

 言わなきゃ。

 伝えられないまま終わっちゃったらきっと後悔する。

 気付いて欲しいから。

 祐一にだけは素直なわたしでいたいから……

 

 

 

 昨日の祐一は本当に変だった。

 夕ご飯の時間に遅れて帰ってきて……

 服や手足もちょっと汚れていた。

 何をしてたのかな?

 でもそうかと思ったら、夕飯を食べた後張り切ってわたしの部屋に入ってきて、

 『残ってた宿題を一気に仕上げよう』と言った。

 そうだよね。

 明日は祐一がここにいられる最後の日だもんね。

 祐一は明後日に自分の街に帰っちゃう。

 だけど、宿題を早く終わらせたら明日はめいっぱい遊べるよ。

 だからわたしは祐一の提案に笑顔で『うんっ』って頷いた。

 なのに……

 今日の朝、祐一は手早く朝ご飯を食べると家を飛び出して行ってしまった。

 わたしはそれを追いかけることはできなかった。

 祐一はわたしより足がずっと速いから。

 あの日から祐一の後ろはずっとわたしの定位置だった。

 でも……

 もうわたしは置いていかれちゃったのかな?

 わたしがもっと速く走れたら……

 また祐一の後ろにいられるのかな?

 追いつける…のかな?

 そう思ったとき、わたしは言いようもない寂しさを感じて、人知れず自分の部屋の中で泣いた。

 

 コツコツコツ

 

 お母さんが階段を上ってくる足音。

 いけない、涙を拭かなくっちゃ。

 わたしはベッドのシーツで潤んでいた目を拭う。

 そして急いで鏡を確認。

 うん、いつもの顔だね。

 『お母さん』には辛いや悲しいを見せちゃダメ。

 だからがんばらないと。

 

 カチャ……

 

 ためらいがちに扉を開けてお母さんが入ってくる。

 その顔を見てほっとした。

 あの『お姉さん』の顔だったから。

 ちょっと涙を拭くのが遅れてたら大変なところだったよ。

「名雪、お母さん……ちょっとお出かけしなきゃいけないの」

「うん、お留守番?」

「ええ、お願いできるかしら? お昼ご飯は抜きになっちゃうかもしれないけど……」

 お昼ご飯抜き?

 どうもお母さんの真剣な顔を見る限り、とても大切な用事らしい。

 さっき鳴ってた電話と関係があるのかな?

 って、ダメっ!

 わたしはそんなことを訊いちゃダメ。

 訊かれたくもないことを訊いたら『お母さん』が困っちゃう。

 笑わなきゃ、いつもの顔で。

「大丈夫だよ。お昼ご飯くらい自分で作れるからお母さんは心配しないで」

「そう、ごめんなさいね。じゃあ…お母さん行ってくるから留守番お願いするわね」

 お母さんはそう言い残すと、急いで家を飛び出していった。

 何かよく分からないけれども、きっと大事な用事なんだろう。

 

 

 

 お昼前にお母さんは一旦帰ってきた。

 でも、その隣に祐一はいない。

 お母さんは何か忙しく荷造りをすると、またいそいそと家を出ていった。

 『何時に帰ってくるかは分からない』

 と、言い残して。

 わたしが不安になったのは言うまでもない。

 どうしてお母さんは慌てていたのか?

 普段持ち歩かないような大きなバッグまで持ち出していた。

 祐一に…祐一に何かあったの?

 でも、そんな質問をお母さんにするわけにはいかなかった。

 することはできなかった。

 不安が募る。

 それは予感のようなもの。

 今祐一に会えなかったら、もう二度と祐一に会えない気がして……

 気がついた時にはわたしは家を飛び出していた。

 『お母さん』の言いつけへの、多分最初で最後の反抗。

 

 

 

 街中の祐一とわたしで行ったことがある場所をあちこち走り回る。

 雪が降っていて視界が悪いけれどそんなのは関係ない。

 探さなきゃ…探さなきゃもう会えない。

 雪が邪魔で前が良く見えない。

 祐一がどんどん遠くに、見えなくなっていく気がする。

 お願い!

 邪魔をしないで!

 早く祐一に会わせて欲しいの!

 わたしの祈りが通じたのか……

 突然激しく降っていた雪が小降りに変わる。

 そして、その先には……

 駅前のベンチに座っている祐一の姿があった。

 よかった、やっと見つけたよ。

 でも…祐一の様子が何か変。

 去年、一緒に雪遊びする時言ったよね?

 雪だるまを作るならきれいな雪が一番だって。

 勝手に歩き回って雪を踏み固めたわたしをそう言って叱ったよね?

 じゃあ……

 なんで祐一の周りにある雪はそんなに真っ黒なの?

 祐一が…祐一が何度も踏み潰したの?

 わからない。

 こんなに近くにいるのに、目の前に見えているのに……

 ここまで祐一が遠く、かすんで見えたのは初めてだよ。

 どうしよう……

 どうやって話しかけたらいいの?

 助けを求めてまわりを見回す。

 でも、助けなんかあるはずがない。

 だって、わたしが頼れるのは他でもない祐一だけなんだから。

 目に映るのはさっき降ったばかりの白い雪だけ。

 まっしろできれいな……

 そうだ、これだよ。

 わたしはふと何かを思いつき、雪を手に取った。

 二人でやった雪遊び、楽しかったよね?

 いっつもいっつもわたしは要領が悪くて馬鹿にされたけど……

 上手にできたら、褒めてくれるよね?

 崩れないように慎重に慎重に雪の形を整えていく。

 緊張のあまり汗が滴った。

 祐一はこれを作るのをいとも簡単にやっちゃうけど……

 わたしには一世一代の大仕事のように大変だった。

 脇の植え込みにあった葉っぱと赤い木の実を付けて完成。

 うん、これならきっと祐一も褒めてくれるよ。

 できあがったそれ…

 雪うさぎは、白い毛並みがとってもきれいなうさぎさんだった。

 それを頭に乗せて恐る恐る祐一に近づく。

「…家に帰ってなかったから…ずっと探してたんだよ…」

「…見せたい物があったから…」

「…ずっと…探してたんだよ…」

 祐一、何で泣いてるの?

 一人より二人だよ。

 話してくれない…かな?

 雪うさぎさんに勇気をもらって言葉を続ける。

「ほら…これって、雪うさぎって言うんだよ…」

「わたしが作ったんだよ…」

「わたし、ヘタだから、時間かかっちゃったけど…」

「一生懸命作ったんだよ」

 祐一は何も答えない。

 なんだかもの凄く怖い気がする。

 何か、祐一から溢れ出した黒いものがわたしを飲み込んでいく感じ…

 こうして目の前にいるのに、祐一はどんどん遠く見えなくなっていく。

 ダメッ!

 行かないで!

 祐一がいなくなったら…

 わたし…わたし…

「…あのね…祐一…」

「…これ…受け取ってもらえるかな…?」

「明日から、またしばらく会えなくなっちゃうけど…」

「でも、春になって、夏が来て…」

「秋が訪れて…またこの街に雪が降り始めたとき…」

「また、会いに来てくれるよね?」

 わたしは何かに押されるように言葉を続ける。

 遠のいていく祐一を呼び止めるために。

「こんな物しか用意できなかったけど…」

「わたしから、祐一へのプレゼントだよ…」

「…受け取ってもらえるかな…」

 心臓が高鳴る。

「わたし…ずっと言えなかったけど…」

「祐一のこと…」

「ずっと…」

 これで最後の言葉……

 お願い、届いて!

 

「好きだったよ」

 

 その瞬間、何かが手からこぼれ落ちた。

 潰れて真っ黒になった雪の中にある真っ白な雪。

 かつては何らかの形を成していた形跡。

 緑の葉っぱと赤い木の実。

 雪…うさぎ?

 地面に叩きつけられてつぶれた雪うさぎ。

 それは今まさにわたしが差し出したものだった。

「…祐一…?」

 どうして?

 祐一は何も答えない。

 視界が真っ黒に染まっていく。

 白いはずの雪が真っ黒に……

 周りの景色も真っ黒に……

 祐一の顔も真っ黒に……

「…祐一…雪…嫌いなんだよね…」

 思わずつぶれた雪うさぎをかき集める。

 それはまるでわたしの心そのもののような気がしたから。

「…ごめんね…わたしが、悪いんだよね…」

 かき集めなきゃ、壊れちゃう。

「…ごめんね、祐一…」

 もう壊れちゃってるけど。

 少しでも元に戻さないとわたしは…もう…

「…祐一…」

「…さっきの言葉、どうしてももう一度言いたいから…」

「…明日、会ってくれる?」

 つぶれた雪うさぎをなんとか塊にして、精一杯の笑顔で祐一に語りかける。

「…ここで、ずっと待ってるから…」

「…帰る前に…」

「…少しでいいから…」

「…お願い、祐一…」

 堪えていた涙が、頬を伝っていった。

「…ちゃんと、お別れ言いたいから…」

 もう…何も見えないよ。

 どこなの?

 ゆう…い…ち…

 

 

 

    夢。

 

    夢を見ている。

 

    毎日見る夢。

 

    楽しい夢。

 

    黒い雪。

 

    黒い夕焼け。

 

    黒一色の世界。

 

    夢の終わりはいつも黒だった。

 

    そして泣き声。

 

    「どうして……」

 

    だけど誰にも聞こえない。

 

    夢の終わりはいつも悲しかった。

 

    だから夢の中で願った。

 

    夢が終わらなければいいのに……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 不思議な夢を見た。

 夢の中の俺は幼い日の名雪だった。

 懐かしい日の楽しい思い出……

 そして、あの事件の日の名雪の気持ち。

 目覚めたばかりで頭がぱっとしない。

 何故こんな夢を見たのだろう?

 昨日、秋子さんの話を聞いたから?

 でも、名雪が俺に好意を抱いていただなんて、そんなのは俺の都合のいい『夢』じゃないか。

 馬鹿げてる。

 名雪を心配しすぎて変な夢を見てしまったんだろう。

 だいたい、名雪が秋子さんを信用してなかったり、あんなに俺を頼ってたり……

 どこまでも馬鹿げた夢だった。

 そう思ったその時だった。

 目覚めた頭にある日の言葉が……

 染み出すように浮かび上がってきた。

 

 

 

     「オレは相沢祐一。お前は?」

 

          「え?」

 

        「名前だよ、名前」

 

       「なゆき……水瀬名雪」

 

   「よし名雪、あのババアのことは任しとけ」

 

         「…えっと」

 

       「オレが守ってやる」

 

         「う、うん」

 

 

 

「あ、あ、あああああっ!!」

 声にもならない叫び声。

 思い…出した。

 初めて会ったあの日、名雪にかけた言葉を。

 そして初めて会ったときの名雪と秋子さんの関係も思い出した。

 そうだったんだ。

 名雪が一番頼りにしていたのは……

 俺だったんだ。

 

 

 吐き気がこみ上げてくる。

 起こした自分の体を自ら抱きしめ、右手で左腕を、左手で右腕を爪が食い込まんばかりに握りしめた。

 最低だ。

 俺はそんな名雪の気持ちを裏切ったんだ。

 それも、これでもかといういうくらい最低に。

 

 裏切った。

 裏切った!

 裏切った!!

 

 涙が止まらない。

 こんなにも自分を最低な人間と思ったことはなかった。

 名雪がどんな気持ちで冬休みを……俺が来るのを待っていたのか。

 俺はこれっぽっちも気づいてなかった。

 何が果報者だ。

 ずっと名雪は一人で辛いものを抱えてきたっていうのに……

 俺はそんな名雪をあの冬、置き去りにして、どんどん追い詰めて……

 そのあまりの罪の意識に胸が張り裂けそうになる。

 そう、俺の知る水瀬名雪はあの日……

 俺に殺されてしまったのだ。

 俺が殺してしまったのだ!

「くそっ、くそっ!」

 

 ガッ! ガッ!

 

 すぐ横の壁に頭を何度もぶつけながら心の中で繰り返した。

 すまない!

 すまない! すまない!

 

 

 

 

 

     12月22日(水曜日)

 

 

 

 

 

 

 

 

「ほんとうにびっくりしたよ」

「すまん」

 俺は布団から起き上がってあゆと栞に謝っていた。

 隣からガンガンと頭を壁にぶつける音が聞こえてくれば、誰だって驚くだろう。

 何事かと隣の名雪の部屋から飛び出してきた二人にとんだ醜態を見せてしまった。

「祐一君、一体どうしたの?」

「そうですよ、頭にこぶができてるじゃないですか」

 何を考えてそんな馬鹿なことをしたの?

 二人の目がそう言っている。

 まったくだ。

 何でそんなことをしてたんだろうな。

 心をえぐられた名雪の痛みはこんなものではなかったはずだ。

 こんな程度で名雪に申し訳が立つなんて一瞬でも思った自分が馬鹿らしい。

 そして同時に腹立たしく思えてくる。

 俺は……どこまで最低の人間なんだ。

 

 パンッ!

 

「祐一君!?」

「祐一さん!?」

 自分の右手で思いっきり右頬をひっぱたいた。

 あまりの唐突な自傷行為にあゆと栞が目の色を変える。

 何か言おうとした二人に右手を突き出し、言葉を制した。

「学校、行ってくる」

 寝巻を脱ごうとボタンに手をかけたとき、二人が困ったように目を伏せているのに気づく。

 そっか、女の子だもんな。

 俺の着替えを見るのは恥ずかしいけれども、それ以上に目を離せない雰囲気を俺が撒き散らしているんだろう。

「心配するな。自殺とか馬鹿なことは考えない」

「え、あ……うん」

「だから一人で着替えさせてくれ」

 そう言って二人に部屋の外に出るように手で指図する。

 あゆは一瞬ためらっていたが、栞に促されて部屋を出ていった。

 栞は俺にそんなことをする意思がないことを感じ取ったのだろう。

 

 

 そう、自殺なんてできるはずがない。

 そんな簡単な道が許されるならどんなに楽だったろう。

 名雪は……まだ生きているのだ。

 だから、俺だけ逃げるなんて許されるわけがない。

 

 

 

 

 

 

 何故か授業はよく耳に入った。

 単に無心になっていたからかもしれない。

 でも、それだけだ。

 むしろよくないことだと思う。

 名雪に何かしてやらなきゃならないのに、どうにもならないと分かっている自分がいた。

 授業が終わるたびに、いつも以上にきれいに取られたノートを見て自己嫌悪に陥る。

 よりによってこんな時に、なんでこんなことだけいつも以上にやれてるんだ。

 くそっ

 どうにかしなきゃならないのに、どうにかしてやらなきゃならないのに……

 俺はなんて無力な人間なんだ。

 

 

 

 昼休み、あまり食堂に行くのは気が乗らなかったので北川にパンを買ってきてもらった。

 北川はパンじゃ物足りないとかでそのまま食堂にとんぼ返りしていった。

 無条件でパシリを受けてくれるなんて…心配かけてしまったな。

 後ろ隣を見ると香里が一人で黙々と弁当を食べていた。

「よう、香里が弁当なんて珍しいな」

「あ、これ? あたしが自分で作ったの」

 来年から栞やあゆさんとお昼に交換するかもしれないから練習よ、と付け足す。

「確かに色気のない弁当だな」

 一面に焼きそばって、一人暮らしの男が作ったような乱雑さを感じる。

「味は悪くないんだけどね……凝ったのを作るのは面倒くさくて」

「腹に入ればみんな同じ、ってわけか」

「まあ、そんなとこね。あたしも秋子さんに習った方がいいかしら」

「やめとけ、そっちの方が香里らしいから」

 美味しく、見栄えよく作るのも才能なら、手早く無駄なく作れるのもまた才能だろう。

「なんだか引っ掛かるいい方ね」

 不満げに俺と焼きそばを見つめる香里。

 なんとなく、こいつとの関係は女友達というより男友達のノリに近い気がする。

「なんでもない。それに、あゆってたい焼きが好物なのは知ってるだろ?」

「それがどうしたのよ」

「そのせいかあれで結構ジャンクフード系は好きなんだ」

 俺がそう言うと、香里はがっかりしたようにため息をつく。

「つまり、相沢君はあたしを屋台のおじさんか何かのように見てたわけね」

 ぐあっ、相変わらず鋭い切り返しで……。

「ま、いいわ。向いてないのは自分でもよく分かってるから」

 そう言って香里はすくい上げた焼きそばを口の中に運ぶ。

 つられて俺も焼きそばパンを一口かじった。

「それで、何か言いたいことがあるんじゃないの?」

「ばればれか」

「あれだけ朝から一人にして欲しい雰囲気を出してた人が話し掛けてくれば当然ね」

 そっか、それで北川も何も言わずにパン買ってきてくれたのか。

 ちょっと大きく息を吸い、香里を見据える。

「お前って、最低の人間だよな」

「随分なご挨拶ね」

「だってそうだろ、お前のことを愛している妹をいなかったことにするなんてさ」

「…そうね」

 香里は激昂することもなく、ただ淡白にため息をついた。

「じゃ、あなたは人でなしってことかしら?」

「何でそんなに自信もって言えるんだ」

「相沢君が理由もなくそんな暴言を吐く人だなんて思えないから」

 香里はそう言って悪戯っぽく微笑んだ。

 あたし以上に自分を卑下してるからの言葉でしょ? と目が言っている。

「ああ、俺は……人でなしだ」

 腹の底から搾り出すような声で告げ、顔を伏せる。

 それを見た香里も真剣な顔になった。

「香里は、人を殺したことはあるか?」

「あったら今ごろ檻の中よ」

 呆れたようにため息をついてみせた後、より真剣な顔になる香里。

「相沢君は……あるのね」

「ある」

「それは……名雪なの?」

「香里の知ってる名雪は、本当の名雪じゃない」

 そう、あれは本当の名雪じゃない。

 かつて俺に心を砕かれた名雪の死にぞこなっている姿なのだ。

「本当の名雪は、ちょっと要領は悪いけど、しっかり者の健気な優しい女の子だったんだ」

 それを俺が……

 

 

「ふーん、やっぱりそうだったのね」

 考え込んでいると香里が納得したように頷いた。

「え? 知ってた…のか?」

「見くびらないでね。これでもあたしは名雪と5年間一緒にいたのよ」

「そうか、そうだったな」

「でも、相沢君が名雪を振ったとかそういう単純な話じゃないみたいね」

「それもあるけど、肝心なことじゃないし、香里にはわからないと思う」

 『そう』と言って、香里は横を向いた。

「人は成長していくものよね。でも、あの子の性格は何年たっても変わらなかった」

 そう言ったところで香里は首を横に振る。

「違うわ。あの子は変わらないどころか年々子供のようになっていったの」

 そこで香里が拳を震わせて顔を伏せる。

「酷い時は、それが原因でからかわれていたこともあったわ」

 明らかにクラスの笑い者になっていたであろう名雪の姿を思い浮かべて胸が痛む。

 口にこそ出してないが、そんな名雪を守ってくれていたのは香里だったに違いない。

「名雪から憧れのいとこの話を聞くたびに思ったわ」

 いとこ、と言って俺を見つめる香里。

 うわごとのように香里に俺の話をしている名雪の姿が思い浮かぶ。

 以前、そんな話を聞いて名雪を恥ずかしいやつと思ったのが心苦しい。

 誰のせいで名雪はそんなやつになってしまったんだ。

 誰のせいであいつは夢の世界から抜け出せなくなってしまったんだ。

 誰のせいで……

「この子は何かそのいとことの間にあったことで心に傷を持ってるって」

 言葉を切って、香里は自嘲するように笑った。

「同病相憐れむってところかしら。あたしがあの子の親友になったのは。自分のことに精一杯で余計な詮索をされないですみそうだったからかもしれないわね」

 そう言ったところで、悲しい顔をしてため息をつく香里。

「ほんと……最低の人間ね。あたしは」

「いや、そんなことはない。ありがとう」

 俺の代わりに約束を守ってくれて。

 名雪の傍にいてくれて。

「馬鹿、お礼を言うところじゃないでしょ」

「いや、いいんだ」

 たとえ経緯はどうであれ、香里は名雪の親友でいてくれる。

 いや、今度こそ本当の親友になってくれるだろう。

 そう思ったとき、何か光が見えた気がした。

 名雪、お前はもう……

 いや、きっとそうだ。

「どうしたのよ、さっきまで暗い顔してたと思ったら急に明るくなって」

「ん、まあな。香里と話してて気が楽になっただけだ。サンキュな」

「まあ、いいけどね」

 再び二人してそれぞれの食事に戻る。

 

 

 もう、覚悟は出来ていた。

 

 

 

 

 

 

 

 夕飯を食べたあと、俺は全員をリビングに集めた。

 目的は言うまでもない。

 名雪が目を覚まさない理由を話すためだ。

 初めて会った名雪にした約束のこと。

 あゆに出会って名雪との距離が遠くなったあの冬のこと。

 そして名雪の告白を最低の形で裏切ったこと。

 とても人に話したい内容じゃなかった。

 いや、話せる内容じゃなかった。

 自分の最低ぶりを人前で告白するなんて……

 だが、俺が言わなければ名雪はいつまでも前に進めない。

 これは俺に課された贖罪だった気がする。

 

 

「……以上です」

 全てを語り、俺は全員に…いや、その中心に居る秋子さんに向けて一礼した。

 秋子さんはそれを見て無言で立ち上がると、足音も立てずに俺に歩み寄る。

「祐一さん」

 恐ろしいほど冷たい響きの声。

 秋子さんの無表情な顔を見て俺は寒気を感じた。

 怒っている。

 そうはっきりと分かった。

 当たり前だ。

 最愛の娘をあんな風にした原因を作った人物が俺なのだから。

 ひっぱたかれるのを覚悟して思わず目をつぶった。

 

 …………。

 ……。

 

 ……?

 

 いつまでたっても衝撃はこない。

 目を開けると秋子さんは目前から消えていた。

 その代わりに、一点を見つめて驚いているあゆたちの姿があった。

 あゆたちの視線の先には……

「え?」

 思いがけない光景に、素っ頓狂な声を漏らす。

 秋子さんが、俺の足元で土下座をしていたのだ。

「ごめんなさい、祐一さん」

「え、ええっ?」

 なぜ秋子さんが俺に謝ってるんだ?

 悪いのは俺のはずなのに。

「いくら子供でも、忘れられない記憶というものはあるんですね」

 正座したまま、秋子さんが顔を上げる。

 その顔はさっきと同じ怒りの顔だった。

「祐一さんに大切なことを教えてもらって以来、あの子には母親として振舞ってきました」

 秋子さんの怒りの表情。

 なんとなくその意味がわかった気がする。

「傍目には仲のいい親子だったでしょう。でも……」

 秋子さんは、自分に怒っていたのだ。

 名雪の本心に気づけなかった自分のふがいなさに。

「名雪はずっとわたしにいい子を演じていただけだったのですね」

 そしてそれは……

「それに気づかずわたしは一人で母親を気取って、全てを祐一さんに押し付けていた」

 秋子さんの作り上げてきた『母親としての自分』という人格の否定そのものだった。

「……秋子さん」

「皮肉ですね、月宮さん」

「え?」

「一見すれ違い気味の月宮さんとあゆちゃんより、わたしと名雪の関係は薄かったなんて」

 何か慰めの言葉をかけようとした月宮さんに秋子さんはそう言って俯く。

 

 

 人間というものはよく分からないものだと思う。

 目に見えたものが真実とは限らない。

 ここにいる誰もが信じて疑わなかった秋子さんと名雪の絆。

 だが、それはとても危うく脆いものであった。

 考えてみればおかしなところがたくさんあった。

 何故か秋子さんに対して積極的な態度を見せない名雪。

 事故のことを秋子さんにまったく訊かなかった名雪。

 秋子さんのことを表面的にしか知っていない名雪。

 そのどれもが二人の関係を暗示するものであった。

 だが、名雪は隠しとおした。

 自分の気持ちに素直になれば秋子さんを困らせると思って。

 秋子さんを困らせたらこの家が真っ暗になるということを知っていたから。

 そうやって一人で全てを抱え込んで生きてきたのだ。

 俺達はそんな名雪の気遣いに甘えて居心地のいい家という幻想を見せてもらっていただけ。

 水瀬家という理想は名雪の犠牲の元に成り立っていた、それが真実。

 名雪は俺に裏切られた後も、そのボロボロの心でここを支えてきたのだ。

 それこそ本当にひとりぼっちで。

 

 

「秋子さん、謝らないで下さい。悪いのは俺なんですから」

 秋子さんは名雪の頼れる人でなかったことを悔いている。

 それで十分だ。

 今の秋子さんはあの日の秋子さんじゃない。

 紛れもない母親としての秋子さんなんだ。

「でも、わたしがもっとしっかりしていればこんなことには……」

「違います」

 言って自分で驚く。

 まさか自分が秋子さんの言葉を遮るなんて。

「俺が悪いんです。何もかも」

 秋子さんがどうだったからなんてのは言い訳だ。

 秋子さんの無意識の好意に逃げるわけにはいかない。

 名雪が希望を抱いたのも、名雪がボロボロにされたのも、全部俺という存在があったからだ。

 

 

「祐一さん、どこに行くんですか?」

 突然席を立った俺を秋子さんが呼び止める。

 振り返ると床に正座したまま顔を上げている秋子さんがいた。

「あいつが目覚めるまで声かけてきます」

 俺でなければ名雪は救えない。

 俺が名雪を救わなくちゃいけない。

 それは遠い日の約束だから……。

「自分で蒔いた種くらい自分で何とかできないと、昔のあいつにも笑われそうですから」

「……祐一さん」

 それを聞いた秋子さんは右手で目を拭った。

「本当に……たくましくなりましたね」

 数日前に栞に言われた言葉が頭に思い浮かぶ。

 『誰かに分けてあげられる強さ』

 そうか、こういうことだったんだな。

 今俺がこうして目を逸らさずにこの現実に立ち向かえるのは……

「あゆや栞のおかげですよ。それに秋子さんも、昔の名雪も」

 まったくなんて情けない人間だ、俺は。

 この中の誰よりもちっぽけに見える。

 何一つ、俺は自分一人で何かやれたことがないじゃないか。

 これを逃げたら、もうここにいる誰にも顔向けできない。

 それに名雪……

 お前は気づいているのか?

 目に見えたものが真実とは限らない。

 それはお前にも言えることなんだ。

 お前は幼いときの記憶に縛られて気づいてなかったんじゃないか?

 お前はもう一人ぼっちじゃないはずだ。

 もう一人で泣く必要もないだろ?

「秋子さん」

「はい?」

「今度はあいつと本当の親子になってあげてください」

「もちろんです」

 秋子さんは笑顔で力強く頷いた。

 

 

 なあ、名雪。

 これでも秋子さんはお前の『お母さん』じゃないのか?

 お前には香里だっている。

 もう本当に一人ぼっちじゃないだろ?

 俺が気づかせてやらなくちゃいけない。

 それが俺がお前にやった裏切りの贖罪だ。

 

 

 

 

 

 

 灯かりをつけ、名雪の部屋に入る。

 外で雪が降っている音が聞こえるくらいに静かだ。

 そして、寒い。

 静かに近寄って名雪に話し掛けた。

「名雪…ごめんな」

 ぴくっ

 その言葉に反応したのか名雪の体がわずかに動く。

「名雪、本当にごめんな」

 念のためにもう一度呼びかけてみた。

 すると……

 今度は名雪の顔がこちらに向かって倒れた。

 間違いない、俺の謝罪の言葉に反応している。

 やっぱり、俺が原因だったのか。

 心のどこかで無関係であってくれと願っていた気がする。

 あの時の俺の行動が一人の女の子の心を滅茶苦茶にしてしまった。

 自覚すればするほどその罪の意識が重くのしかかる。

「名雪、俺は……」

 名雪に話し掛けようとしたところで言葉が止まった。

 

 

 なんてことだ。

 こんなところでこんなことに気づくなんて。

「俺は……」

 そうなのだ。

 名雪になんと言葉をかければいいのか分からないのだ。

 謝罪しか思い浮かばない。

 好きだと言ってやればいいんだろうか?

 あの日の裏切りをかき消すために。

「名雪、俺はお前のことが……」

「ゆ…う…い…ち……?」

 名雪が俺の言葉に反応してうなされるように小声で呟く。

 言ってしまえば終わる。

「お前のことが……」

 駄目だ!

 またそうやって裏切るのか?

 いいや、名雪だけじゃない。

 名雪を裏切って、おまけにあゆまで裏切って……

 俺はそれで誰に顔向けすればいいんだ?

「くそっ」

 自分の狡猾さにほとほと嫌気がさす。

 あの時、俺の心が名雪のように強かったら……

 あの時、俺にあゆを助ける力があったなら……

 こんなことにはならなかったのに。

 今も昔も変わっていない自分の無力さが恨めしい。

 

 

「悪い、名雪。もう少しだけ待っててくれ」

 逃げの言葉だった。

 今の俺には名雪をどうすれば救えるのか分からない。

 もう一度心の中で『ごめん』と謝り俺は名雪の部屋から逃げ出した。

 俺は……どうすればいいんだろう?

 

 

 

 

 

 

 

 自分の部屋のベッドに身を投げ出し、天井を眺めて何時間が経っただろう。

 名雪に何を言ってやればいいのか分からない。

 考えても考えても答えが遠のいていく気がする。

 嘘でもいいからあいつを好きだと言って目覚めさせて後で謝るか?

 いや、それは絶対駄目だ。

 そんな裏切りをしたら名雪は今度こそいなくなってしまうかもしれない。

 あいつに残った最後の命の灯火を消してしまうだろう。

 そもそも名雪にそんな偽りの気持ちのこもっていない言葉が届くのだろうか?

 じゃあ、どうすればいいんだ?

 あゆに謝る?

 あゆとの関係をなかったことにして名雪の気持ちに応える。

 それしか…ないのか?

 なんともやりきれない気持ちに瞼が重くなってくる。

 俺も、名雪のように夢の中にいたい。

 そうすれば、こんな辛い現実に目を向けなくて済むのに……

 もういい。

 次に目を覚ましてから考えよう。

 そう思って意識が闇に落ちていくのとほぼ同時だった。

 

 

 コンコン

 

 

 突然部屋の扉がノックされた。

 まるで自分の心の中に閉じこもろうとした俺の胸の奥まで届くかのようなノック。

 俺は瞬間的にベットから飛び起きた。

「誰だ?」

「ボクだよ、秋子さんじゃなくてごめんね」

 さっきまで暗くなってたっていうのに思わず軽く吹き出してしまった。

 あいつなりの冗談のつもりなんだろうか?

 いや、本気で言ってるんだろうな。

「別にあゆで構わないから入ってこい」

「……うん」

 遠慮がちにドアが開き、パジャマ姿のあゆが部屋の中に入ってきた。

「栞はどうしたんだ?」

「もう寝てるよ」

 そう言われて時計に目をやると既に夜中の1時。

 こんな時間になってたのか……

「どうしたんだ、トイレか?」

 まったく、仕方ないやつだな。

 そう思っているとあゆは静かに首を振った。

「ううん、別の事。ついていってくれるなら嬉しいけど」

「そっか、じゃ先にトイレ済ませとくか」

「うん」

 あゆが静かに真面目な顔をする時は何か大事な話がある時だ。

 口下手なのか伝えたいことが多すぎるせいか、その前は緊張してそんな顔になってしまうらしい。

 なんてことが分かってしまうあたりこいつとも付き合いが長くなってきたんだな、と思う。

 

 

 

「それで、どうしたんだ?」

 あゆをベッドに座らせ、俺は勉強机の椅子に座ってそう切り出した。

「うん……あのね」

 どことなく言いよどんでいる感じのあゆ。

 言葉にならなくて困っているという感じではない。

 あゆにしてはかなり珍しい態度だ。

「ボクほんとはずっと前から気付いてたんだ」

「気付いてたって、何に?」

「名雪さんが祐一君を好きだってこと」

「え?」

「初めて会ったときからそんな気がしてたんだよ」

 なんだか凄く意外だった。

 そんなことにはとんと疎そうなあゆが気付いていただなんて。

「名雪さんが祐一君を頼りにしてるってこともね」

「何で分かったんだ?」

「わかるよ。だって、名雪さんボクとよく似た目で祐一君を見てたんだもん」

 そう言って寂しそうに微笑むあゆ。

 なんだ?

 こいつってこんなに大人っぽかったのか?

 何故か、いつもの軽快で元気いっぱいな雰囲気のあゆじゃない。

 この人を包み込むような優しい雰囲気は……

 いや、前にどこかで見た気がする。

 いつだっただろう?

「前に言ったよね。登校の時間は名雪さんの時間だって」

「ん、ああ、そんなこと言ってたっけ」

「あれね……名雪さんから祐一君を取りたくなかったんだ」

 はあ?

 一体あゆは何を言いたいんだろう?

 俺の知らないところで名雪と俺の取り合いでもやってたと言うんだろうか?

「なんでだか分からないんだけど、名雪さんから祐一君を取っちゃいけないって思ったんだよ」

 そう言ってあゆが顔を伏せる。

「名雪さん、なんだかずっと祐一君に助けを求めているような気がして」

「いつからだ?」

「はじめてこの家に来た時からだよ」

 そんな前から気付いていたのか?

 名雪が心の奥底でずっと泣いていたことに。

 俺が驚いているとあゆは少し照れ笑いを見せた。

「だって、ボクも昔はそうだったから」

 7年前祐一君に初めて会ったときのことだよ、と付け足すあゆ。

「言葉では言えないけど、ボクは名雪さんの気持ちをいつも感じてた」

 あゆはそこで言葉を止めて再び下を向く。

 何か後ろめたいことがあるような仕草だ。

「でも、ボクは踏み込めなかった。訊いたら何もかも壊れちゃいそうで。それくらい名雪さんの気持ちは切なかったんだよ」

 意味が通じていないようでなんだかわかるような不思議な感覚だ。

 あゆの不思議なところだと思う。

「ずるいよね、ボク」

 しばらく間を置いてポツリと呟くあゆ。

「子供のふりしてわからないつもりでいたんだから」

「子供の…ふりだって?」

「うん、ボクは祐一君や名雪さんが思ってるほど何もわかってない子供じゃないよ」

 それでもまだまだ子供だけどね。

 と、あゆは苦笑いしながら分かるような分からないような説明をした。

「名雪さんが夢の中に逃げたんだとしたら、ボクは子供であることに逃げたんだと思う」

 そこでもう一度一呼吸置いて、申し訳なさそうにあゆが横を向く。

「ずるいよね、ボク」

「ずるくなんかない」

 あゆの言葉が終わると同時に俺はそう断言した。

 お前はずるくない。

 だって、お前のそれは……

「お前なりに名雪のことを心配してたからなんだろ?」

 もしあゆがなりふり構わず名雪から俺を遠ざけていたなら……

 名雪の心の傷はより深くえぐられていたかもしれない。

 あゆが名雪の心の傷に気付いて、いたわっていたからこそ、名雪は今の今まで笑ってこれたんだろう。

 そして、あゆのその心遣いのおかげで俺は名雪の心の傷に気付いた。

 名雪を放っておいてあゆと二人っきりでいれば気付くこともなかったに違いない。

 確かに、知らずにいれば幸せだった。

 だけど、そんな恥知らずな幸せなんて受け入れられるはずがない。

「あゆ、親近憎悪って知ってるか?」

「え?」

 突然の関係ない問いかけにきょとんとするあゆ。

「ええっと、性格のよく似てる人はお互い嫌いになっちゃうって意味だったかな?」

「まあ、そんなとこだ」

「でも、その言葉おかしいよ」

「どうおかしいんだ?」

「だって性格が似てるならその分その人のことが分かるから、きっと仲良しになれるとボクは思うよ」

 何の疑いもなく、なんの躊躇もなくそう言いきるあゆ。

 その姿に思わず笑いがこみ上げてきた。

「ぷっ、はははは」

「な、なんで笑うの!?」

 脈絡なく笑われたものだからあゆが怒る。

 でも、その姿が余計に滑稽で笑いが止まらない。

「お前なあ、人が語ってる時は最後まで語らせろよ」

 人がこれから人間関係というものについて語ろうと思ってたら……

 あゆはいきなり核心を言ってしまった。

 それもこいつらしい言葉で。

「そうだ。お前の言う通りだよ」

 口を覆って笑いをこらえながら話を続ける。

「性格の似てる二人ってのは誰よりも分かり合える二人でもあるんだ」

「ひょっとして、ボクと名雪さんのこと?」

「ああ、お前と名雪は似てるよ」

 性格、境遇、考え方、程度の差はあれ二人は似ている。

 はじめて出会った時の雰囲気なんかは特にそうだ。

「だから怖かったんだ、お前と名雪を会わせるのが」

 7年後、偶然出会った二人はその場で意気投合した。

 それを知っているからこそ後悔が止まらない。

 

 

 何故俺は二人を7年前に引き合わせなかったのだろうか?

 何で二人を信用してやれなかった?

 名雪もあゆも、お互いをわかってやれる優しさを持ってるのは分かってたじゃないか。

 二人の関係に歪みを落としたのも俺だったのだ。

 運命は、どこまで残酷な真実を俺に突きつければすむのだろう。

 いや、何を言ってるんだ。

 運命じゃない。

 全部俺の起こした必然じゃないか。

 色々な後悔がある。

 でも、これが一番の、そして7年前からずっと続く最後の後悔。

 これをどうにかしないと、俺は前に進めない。

 でも、気付かなければ進むことも出来なかった。

 

 

「祐一君、あのね……」

 頭を抱えて俯いていた俺にあゆが呼びかける。

 そして、パジャマのポケットに手をやりごそごそと何かを取り出した。

「それは……」

「うん、祐一君がくれて、名雪さんが直してくれた天使さんだよ」

 あゆがポケットから取り出したもの。

 それはあの天使の人形だった。

「最後のお願い、まだ残ってるよね?」

「何? もうお前はお願い全部言っただろ」

 そう言うとあゆは悪戯っぽく笑う。

「でも、最後のお願いは叶えてもらってないよ?」

「あ……」

 

 一つ目のお願いは『ボクのこと忘れないでください』

 二つ目のお願いは『今日だけ、一緒の学校に通いたい』

 そして、三つ目のお願いは……

 『ボクのこと忘れてください』

 

 実に単純明快なロジックだ。

 一つ目のお願いを叶えれば三つ目のお願いが叶わず……

 三つ目のお願いを叶えれば一つ目のお願いが叶わない。

 俺はあゆに『俺にできないことも叶えてやれないぞ』と言った。

 お願いが矛盾している上に、三つ目のお願いは俺にできるわけがない。

 となると、三つ目のお願いが無効だったということになるのだ。

 非常に分かりやすい。

 しかし、あゆに理屈ではめられたというのは何か癪だ。

「でも、奇跡が起きただろ」

「祐一君には奇跡が起こせるの?」

「起こせません、ごめんなさい」

 反射的に苦しい反論をした自分を馬鹿らしく思う。

 思わずあゆに敬語で謝ってしまった。

 何故だか分からないが、今日のあゆには勝てない気がする。

「あはは、だよね」

 それを見たあゆが面白そうに笑う。

 そして、物悲しい顔で呟いた。

「もし奇跡を起こせるなら、名雪さんを真っ先に起こしてるもんね」

「……悪い」

 もし俺達に奇跡というものを起こせる力があるなら……

 たった一回だけの力でも今は名雪を目覚めさせることに使うだろう。

 そして、そんな力があるなら何に変えてもあゆは欲しいと思っているのだ。

 そんなあゆに気安く使っていい言葉ではなかったと思う。

「いいよ、祐一君がそういうヘンなことを言うのは昔からだから」

 そのほうが祐一君らしいよ、とあゆはうれしそうに付け足した。

「それじゃ、最後のお願い聞いてくれる?」

 そう言ってあゆが緊張からか人形をぎゅっと握り締める。

 しばらく間を置いて俺は口を開いた。

 

 

「お願いの決まり、改めて言わせてもらうぞ」

「うん」

「お願いを増やすことと俺にできないことは駄目だ。それと他のお願いと矛盾するのもな」

 一息置いて、椅子に深く腰掛け直す。

 さあ、何でも言ってこいという感じで。

「それでも俺にできることなら何でもOKだ」

 それを聞いたあゆは明るい笑顔を見せる。

「大丈夫。祐一君ならできるし、祐一君にしかできないことだよ」

 あゆが天使の人形を俺の目の前に差し出す。

「ボクの最後のお願いです」

 あの日の、悲しい顔じゃない。

 心から願っているそんな安らかな顔だ。

 だから、どんな願いでも叶えてやりたいと純粋にそう思った。

「名雪さんを笑顔にしてください」

 なんだろう? この胸に溢れてくる気持ちは?

「名雪さんに心からの本当の笑顔をさせてあげてください」

 とても懐かしい気がする。

「それが、ボクの最後のお願いです」

 思い出した。

 この人を包み込むような優しい雰囲気は……

 

 

 

     「ボクは、ふたつ叶えてもらったから、充分だよ」

 

        「残りのひとつは、未来の自分…」

 

   「もしかしたら、他の誰かのために…送ってあげたいんだよ」

 

 

 

 きっとあの時だったのだ。

 俺があゆを好きになったのは。

 その何気ない、ほんの少しの小さな思いやりが忘れられなくて……

 もう迷わない。

 何かそう胸に湧いてくるものがあった。

 だから、俺はあゆの『ダメかな?』の問いかけを待たず応える。

「わかった、叶える。絶対に」

「うんっ」

 

 

 

 今、7年の時を越え……

 あの日あゆが望んだとおりに。

 あゆの最後のお願いは名雪に送られたのだった。

 

 

 

 




原作をプレイした直後の私は名雪シナリオが苦手でした。
そもそも、なんであんな最悪のタイミングで告白したのか分からない。
恋人を失ったばかりの人に告白をするなんて正気の沙汰じゃありません。
自覚してやってたら、正真正銘のサイコパスです。
おまけに、本人のシナリオも、7年前に遊んでいた少女(あゆ)を名雪と思いこみハッピーエンドという展開。
もちろん、これはあゆの『ボクのこと忘れてください』の願いが作用した結果でもあるんでしょうが、ハッピーエンドなのかバッドエンドなのかよく分からない結末です。
当時の知り合いには、名雪シナリオは理解できない……と言ってた覚えがあります。
ところが、その知り合いは名雪シナリオが一番良かったと言うんです。
「どこが?」と聞いても「よく分かんないけどいい」という答えしか出てこず、二人して困惑しました。
名雪を理解したい……そこが、このKanon Trilogyの出発点となっています。
で、じっくりシナリオを読み返していくと

・名雪はあゆのことを知らない
・何か悲しいことがあったのは察している
・7年経った今でも秋子さんに真実を聞いていない

という事実が浮かび上がってきました。
秋子さんの件は推測ではありますが、木から落ちたあゆが病院に運び込まれてる以上、親が関与してないというのは無理があるでしょう。
じゃあ、何で名雪は何も知らなかったのか?
そこを考え始めた結果、このような物語が浮かんだのでした。
そして、そう考えていくと「名雪シナリオが好き」と言った知り合いの気持ちも分かる気がしました。
これは、名雪シナリオ嫌いが、名雪シナリオ好きに変わるまでの物語でもあったのです。
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