灰被りの蜘蛛 作:BNDに脳を焼かれたやつ
幼児期健忘というものがある。その名の通り人は大人になったとき、幼い頃の思い出のほとんどを忘れてしまう。
そして赤ん坊から人生をやり直した私も例に漏れず、前の記憶のほとんどを忘れてしまった。
ただ、子どもが大人になってもかつての夢を覚えているように、私もただ一つだけ、覚えているものがある。
見返りは求めない。世間から誤解されようとも、自らを犠牲にし、彼はただ大いなる責任を全うし続けるのだ。
その正体が元は平凡な少年で、その力が望んで手に入れたものではなかったとしても。恋人や、友人や、家族を失いながらも、彼は善き隣人として立ち上がり続ける。だからこそ、その生き方は多くの人を魅了するのだ。
「あー、そうか。それで、そのスパイダー……マン? は、どうしてヒーローになったんだっけ?」
「そうやって話の腰を折るのは何度目? ベンおじさん」
夕飯の最中、懐疑的に眉を潜めるおじさんに対しもう何度目の説明だろうと、私は呆れたように口を開いた。
「スパイダーマンことピーター・パーカーは、最初は格闘技大会の優勝賞金を得るためにその力を使ってたの。けれどある日、自分が見過ごした強盗によってベンおじさんが殺されちゃう」
おじさんがゴクリと生唾を飲んだのを無視して、私は言葉を続ける。
「そして、死にゆくベンおじさんを胸に抱えながら、ある言葉を授かるんだ。それは──」
「『大いなる力には、大いなる責任が伴う』、でしょ? 思うけど、ベンの口癖を勝手にキャッチコピーとして使うのはどうかと思うわよ、ペトラ」
キッチンから私の語る物語に割り込むように、メイおばさんの声が響いた。
「ほら見て、あなたがお話の中で勝手にベンを殺すせいで彼、喉を詰まらせてる」
はっとおじさんの様子を確かめてみれば、彼は確かに苦しげに胸を叩いて咳込んでいた。夕食時に自分が死ぬ話を聞かせるのは酷かもしれないが、やめるつもりはない。
「お水、いかが?」
「ああ、ありがとう」
水の入ったコップを差し出されたおじさんが、勢いよくそれを受け取り喉に水を流し込んだ。
「まったく、それにしてもうちの姪はどこでこんな話を仕入れてくるのかしら」
「君の影響じゃないのか」
「やだ、絶対私じゃなくてあなたのせいよ。あなたがいつも変に壮大なことを口にするせいで、この小さな作家さんは壮大な物語を紡いでしまうのよ。きっとね」
「僕はそんな壮大なことなんて言ってないさ。力には責任が伴う。だからみんな自分のできることをしましょうねって言ってるだけ。簡単な話だろ?」
矛盾しているようにも聞こえるが、仲睦まじく喧嘩している二人の様子を尻目に、私は夕飯のチキンを口に頬張った。
「それで、その続きはどうなるの」
おばさんに続きをせがまれたので、閉じていた口を開く。
「別に、この話は私が考えたわけじゃないんだけど。……まぁ、いいか、昨日はどこまで話したっけ?」
「ネバネバの寄生生物と、砂の怪人、それから親友が死んだところまでじゃないか?」
「そうだったそうだった。じゃあ続きを話すんだけど……あるところにピーター・パーカーという少年がいます。彼はベンおじさんとメイおばさんのもとで暮らして──」
「待て、なんでまた最初からになったんだ?」
察しの悪いおじさんがまた話の腰を折ってきたので、わざとらしくため息をついて睨む。
「これは最初からじゃなくて、また別のピーター・パーカーの話」
「別のピーター・パーカー? ピーター・パーカーは二人いるのか?」
ベンおじさんが頭に疑問符を浮かべている。
「別のピーター・パーカーって言うか……別の映画シリーズ?」
「映画? 今までの話は映画なのか?」
おじさんとおばさんが「そんな映画あったか?」、「いいえ、知らない」なんてやり取りを私の目の前で交わしている。
そりゃそうだ。なにせ、この世界でスパイダーマンの存在を知っているのは私ただ一人なんだから。彼の映画も、その原作となるコミックも、ここには存在しない。
「話を二人目のピーターに移すけど。ピーターは冴えない普通の高校生だったんだけど、ある日蜘蛛に噛まれて蜘蛛の力を──」
「同じ展開だな。おじさん、なんだか嫌な予感がしてきたぞ」
「同じね、この調子だとこの後……」
二人の鋭い指摘が突き刺さったが、無視した。
「……で、それからベンおじさんは死ぬ」
「ペトラはもしかしておじさんのことが嫌いなのか……?」
違うよ。おじさんが嫌いだから殺してるわけじゃないから。だからそんな捨てられた子犬みたいな潤んだ瞳で私を見ないでほしい。そもそも、スパイダーマンってそういう話なんだから。
ベン・パーカーは、その死でもってスパイダーマンに大いなる責任とは何かを教えてくれる存在だ。少なくとも私の知識の中では。
「あぁ、死んでしまって可哀想なベン。私が慰めてあげる」
「ありがとう、メイ」
「おじさん、おばさん。頼むから私の前でイチャつくのやめて」
二人の熱烈なキスを見せられるのは、姪として複雑な気分だ。口の中からさっき食べたチキンが顔を出しかけているような気がして、慌てて水で喉の奥まで押し込んだ。
食卓の上に微妙な空気が広がる中、パーカー家の夕食は何事もなく進行し、そして終わりを迎えた。そして、私の話も。
「そしてピーター・パーカーは恋人を失った悲しみを乗り越え、
「全然めでたくないように思うんだが。スパイダーマンに安らぎはないのか?」
ない。力を持ってしまった時点で、あるいはベンおじさんの死を経験した時点で、ピーター・パーカーは普通の人生を送ることなどできないんだ。
「悲劇的に見えて、希望があるような。希望があるように見えて、悲劇的なような。でも私は好きよ。面白かった」
若干ショックを受けるおじさんとは対照的に、おばさんは私の語った物語を完全にフィクションとして捉えて評価した。
スパイダーマンの人生は果たして幸福なのだろうか。力に振り回される人生、聞いている分には刺激があって面白いかもしれない。
当事者になるのは、絶対ごめんだけど。
「じゃあ、私はそろそろ寝るね」
「今日の分の宿題は終わってるのか?」
「日が落ちる前には全部終わらせたよ」
「ちゃんと歯を磨いてから寝るのよ」
「分かってるって。おやすみ二人とも」
二人からのハグを受け取って、私は自分の部屋へと戻った。もちろん歯を磨いた後に。
「さてと」
雑多に散らかった部屋を見下ろす。一見足の踏み場がないように見えるが、私にはなんら問題ない。まず月明かりの差し込む窓のカーテンを下ろし、外から決して見られることがないようにする。それから部屋のドアに鍵をかけて。
「よいしょっ……と」
私は支えもなしに、壁に張り付き天井にぶら下がった。
スパイダーマンの能力。それは、蜘蛛にできることが人の身のままにできるということ。この体には、とっくの昔にその力が備わっている。
私の名前はペトラ・パーカー。今年で11歳になる平凡な女の子。クイーンズ生まれ、クイーンズ育ちで、中身はたぶん別の世界からやってきた。そして誓って言うが、生まれてこのかた蜘蛛に噛まれたなんてことは一度もない。大学やオズコープ社の見学にだって行ったことないし。そもそも私はまだ今年で11歳だ。高校生にすらなっちゃいない。
だから私のこの力は、先天的なものなのである。
「ほんと、どうなってんのって感じ」
私は生まれたときから、この力を持っていた。壁に張り付けるし、力は強いし、なんか勘が鋭いし。
だが残念ながら手首から糸は出なかった。私が摩天楼の間をスイングするには、ウェブシューターが必要不可欠らしい。
「そろそろ私が蜘蛛パワーを持ってるって話せそうかな? ……いや、どうだろ。二人とも完全に創作だと思ってるみたいだし」
天井に座り込み、未完成のウェブシューターもどきから糸を飛ばして机の上のノートを手繰り寄せた。
今まで隠してきた能力を、私はそろそろ二人に明かしたいと思っている。だって私は、きっと
親しい人たちに危険が及ばないように、スパイダーマンは自らの秘密を隠す必要がある。けれど、そもそも危険がなければ正体は明かしたって構わないのだ。
ヒーローに必要なのは能力だけじゃない。その心意気もだ。私は見ず知らずの他人を助けようとするようなタイプじゃないし、あと臆病者だから事件に飛び込んだりもできない。荒事も苦手だ。それから頭も悪い。ピーター・パーカーみたいになろうと必死に勉強し続けてきたけど、無理だった。
ノートにはついぞ成功することのなかった挑戦の数々が記録されている。始めたばかりの頃は根拠のない自信に溢れていたが、すぐに分かった。人を支えられるほどの強度がある合成蜘蛛糸なんて作れるわけないし、それを発射する装置を手首に着けられるくらい小型化なんてできるわけない。
「それに、私が秘密を独りで抱え込めるなんて思えない」
あまりにも自分が低能すぎて、思わず口からため息が漏れた。こんなんじゃ到底、スパイダーマンなんかにはなれないな、と。
けど、別にスパイダーマンにならなくても良いんだと気づけたのは、何年か前にテレビの向こう側にいる別のヒーローを見つけたから。
『真実は』
その言葉を聞いた日の、肩の重荷が取れるような感覚をよく覚えている。
『私がアイアンマンだ』
よく、ニュースでは彼の一言で世界は変わってしまったと言われるけれど、それは本当にそうだと思う。少なくとも、私の世界はその一言で変わってしまった。
この世界には、スパイダーマンはいなくても良いじゃないか。だって、他にもヒーローがいるんだから。そうやって私は、自分の心を納得させることができた。弱い自分と折り合いをつけることはできた。
まぁ、そもそもスパイダーマンの物語における諸悪の根源たるオズコープ社が存在しないんだから、どっちにしろこの世界ではスパイダーマンなんて用無しなんだろうけど。
「いや、今はそんなことよりもおじさんとおばさんのことを考えなきゃ。あの二人は勘が鈍すぎるよ」
天井からストンとベッドの上に落下し、枕の上に頭を落とす。そうだ、二人は驚くほど察しが悪い。私がこんなにもアピールしてるのに、二人は全くもって気づく気配がないのだ。もう少し、姪のことを気にしてくれと思う。
最初は、露骨にスーパーパワーのアピールをしてみた。屋根の修理を手伝うときに自力で壁を登ってみせたり、明らかに少女が持つには重い荷物を運ぶのを手伝ったり、超人的な反射神経で落としかけたものを拾ってあげたりとかさ。
なのにあの二人は、まったく私がスーパーパワーを持っているということに欠片も気づきやしない。それどころか、やれうちの姪は将来天才ボルダリング選手だ、天才ウエイトリフティング選手だ、天才F1レーサーだのなんの。
なんだそりゃ。薄々気づいたが、二人は馬鹿なんじゃないだろうか。もちろん頭に親が付かないタイプの馬鹿だ。
仕方がないので、私は少しずつ、かつ自然に正体を明かせるように仕込みを始めた。それがこのスパイダーマン語りである。どう考えても自分たちが登場人物になっている以上は、姪が何か秘密を抱えているということに気がついても良さそうなものなのだが。
私はどうやら、二人の鈍さを侮っていたらしい。
「早く気づいてくれると嬉しいんだけど」
嘆きとともに、私は夢の世界へと落ちる。
「あれ、ちょっと待った。秘密を明かしても、二人は私を嫌いにならないよね……?」
スパイダーマンにならなければと自分を追い詰めていた頃に感じていた、もう久しくご無沙汰だった心のざわつきを感じながら。