灰被りの蜘蛛 作:BNDに脳を焼かれたやつ
目を覚ましたとき、たくさんの人が私を覗き込んでいた。思わず不安になって顔を触ったけど、幸いなことにマスクは取られていない。
私が目を覚ましたことに気づいたのか、群衆にどよめきが広がる。
「なぁ、あんた大丈夫か?」
「あはは、ご心配どうも。この程度なんてことな、い──」
立ち上がろうとして、私はふらりと体勢を崩した。先ほど列車の間に挟まってぺしゃんこにされたダメージが響いている。
そんな倒れそうになった私を、周りの人たちが手を差し伸べて支えてくれた。
「……えっと、ありがとうございます?」
「礼を言うのは私たちの方だ。君は命の恩人だよ」
私を中心に、駅のホームには人だかりができていた。そして線路上には無残にも壊れてしまった車両が残っている。
幸いなことに、私がクッションになったおかげで衝撃が緩和されたらしい。軽傷を負った人はいるけれど、命に関わる怪我をした人間はいないようだった。
「はぁー、本当に、本当に良かった。誰も犠牲にならなくて」
ベンチに座り、私は一人ため息とともに呟いた。私の手は小さくとも、それでも皆を助けることができた。それがとても嬉しい。
「なぁスパイダーマン。腹、減ってないか? メトロの人が災害備蓄用の軽食を配ってるらしくてな。良ければ持ってこようか?」
「ほんと? ありがとう、丁度お腹ペコペコだったんだよ」
「そりゃあ、生身で電車を止めたなら腹も減るだろうさ。分かった、取ってくるからあんたはここで休んでてくれよ」
それに加えて、周りの人が私をこうして受け入れてくれていることも嬉しい。他人の評価なんて気にしないとは言ったけど、それでも嫌われているよりはこうして親切にしてもらったほうがずっと気持ちが良い。
親愛なる隣人の名の通り、私の理想はニューヨークのみんなと仲良くできることだ。まだまだ私のことを受け入れられない人は大勢いるだろうけど、いつか本当にみんなの
「ニューヨーク市警だ。スパイダーマン、君に話がある。……その前に、列車の衝突事故を生身で防いだと聞いたんだが、体の方は大丈夫か?」
それから暫くして、私が親切な人から受け取った軽食を黙々と食べていると、一人の警官が私の前に姿を現した。
口元が顕になっているので、私は人差し指を掲げて「ちょっと待って」の意を伝える。今喋ると、私の正体が女の子だってバレてしまうからね。
「……はい、待たせてごめんね。体の方は全然平気だよ。それで、ボクに何か用事? 生憎今は疲れてるんだ、逮捕するのはまた今度にして欲しいんだけど」
「いや、今は君を捕まえに来たわけじゃない。それにここで君を逮捕なんてしようものなら、市民の反感を買うだろうからな」
警官は周囲を見渡すと苦笑いをした。皆が私と彼の会話に聞き耳を立てて、注視している。
「組織人としては君を追う身だが、一個人として、君の活躍には感謝するよ。ありがとう、スパイダーマン」
「えっと、どういたしまして」
なんだか今日はいっぱい感謝される日だ。少し照れる。私が見るスパイダーマンへの論評って全部デイリー・ビューグル由来だから、好意的な意見に晒されるとどうもむず痒くて仕方がない。
「……さて、本題に入ろうか。疲労困憊の君にこんなことを頼むのは心苦しいんだが、どうか聞いてほしい」
深刻そうな表情だ。私にはその顔が、助けを求めている人の顔に見えた。
「聞くよ。何があったの?」
「爬虫類のような見た目をした何者かに、この近くの警察署が襲撃を受けたんだ」
「……へ?」
思わず間抜けな声を漏らしてしまったが、私は悪くないと思う。
さてさて、ところで耳を疑うべきか、それとも頭を疑うべきか。
「超人的な力と、撃たれても回復する再生能力。そして人間を爬虫類のように変質させてしまう毒ガスのせいで、警察はその怪物、仮称『リザード』を止めることができないままでいる」
あるいは、これまでの常識を疑うべきか。
「厚顔無恥と罵ってくれて構わない。スパイダーマン、どうか我々警察に力を貸してはくれないだろうか」
どうやらこの世界は、私が思っていたよりもずっと複雑らしい。
「初めまして、スパイダーマン。私が周辺部隊の指揮を執っているジョージ・ステイシー警部だ」
スパイダーマンとして活動して一年、マスクを被っていて良かったとこれほど思ったことはない。大前提として正体を隠すという意味でもそうだが、 それよりも。
「ドーモ、ステイシーケイブ。ハジメマシテ」
マスクの下の私の表情は、それはもう酷いものだったろうから。だめだ、気まずすぎて白目剥きそう。
「我々の要請を引き受けて頂き、感謝する。普段は反目し合っているが、今回はどうか君の力を貸してほしい」
「え? 反目し合ってる? 警察がボクを一方的に嫌ってるだけで、ボクは別に警察のことを嫌っては……い、いやすいません、つい緊張して軽口叩いちゃって」
「お喋りな口はお仕置きしておきます」と言って、私は自分の口を叩いた。そして私と警部との間に微妙な空気が流れる。
「……そうだな、反目し合っていると言うには語弊がある。訂正しよう。すまなかった。だが、警察には警察の守るべき法と秩序があり、それ故に君のような存在を認めることができないということは理解して欲しい」
「はい、理解します」
みんなが私みたいに好き勝手に犯罪者をとっ捕まえたら、逆にニューヨークは滅茶苦茶になるかもしれないからね。私がいるのは白ではないグレーゾーンだということは、ちゃんと理解している。
「ところで、君が来る前に地下鉄の話を聞いた。君のおかげで、皆が助かったそうだな。市民を守ってくれたことに礼を言う。ありがとう」
「あ、あの! 本題に入りましょう! ボクを呼んだのはトカゲの怪物が暴れてるからなんですよね?」
今日は本当によくお礼を言われる日だ。なんだか体がソワソワして落ち着かないので、私は無理やり話を本筋に戻した。
警部から一連の事件についてまとめられたファイルを受け取る。
「我々がリザードと呼称することにした怪物は突然現れ、分署の中で好き勝手している。まるでそこが自分の巣になったとでも言うようにな。おかげで君が追っていたオットー・オクタビアスについては後回しにせざるを得なかった」
ファイルの中には、リザードの写真と、襲撃された警察署の被害のことが詳細に書かれていた。
「やつは薬剤を撒いてその場にいた人間をトカゲに変えて、今も署内に立て籠もっている。目的や正体は不明だ」
警察の特殊部隊、そして州軍の部隊が共同で撃退を試みたが、返り討ちにされたとファイルには記されていた。
多くの者がトカゲに変えられて、今も治療を待っている段階らしい。
不意に、被害者一覧に載っていた一人の名前を見て手が止まった。
ジェファーソン・デイビス巡査。昨日私が話した彼が、警察署を襲われた際にトカゲにされてしまい、拘束され病院に送られたと書かれている。見知った人間が被害に遭ったと知って、私は拳を強く握り締めるしかなかった。
「君に頼みたいのは、封鎖線の向こう側にいるトカゲになってしまった人間を無力化し、可能な限り無傷のまま捕獲すること。そしてリザードへの対処だ」
頭が痛い。昨日の今日でニューヨークは一気に魔境になってしまったようだ。
「一応聞きますけど、ボクよりも適任がいたんじゃないんですか? ほら、アベンジャーズとか」
「残念だが、彼らを頼ることはできない。少し前にニュースになったのを覚えているか? 戦略国土調停──」
「
シールドとはアベンジャーズを作った組織のことだが、今はもう崩壊して存在しなかったはずだ。たしか、今年に入って実は悪の組織に乗っ取られたとかなんとかでニュースになっていたのを覚えている。
ああ、そのせいでアベンジャーズもゴタゴタしてるのか。なんともタイミングの悪いことで。
「子どもである君にこんなことを頼むのは間違っていると思っている。けれど今は、君以外に頼れる存在がいないのだ」
警部は苦虫を噛み潰したかのような表情でそう言うと、深々と頭を下げた。
「頭を上げてください、警部。やりますとも、任せてください。ちゃんとミッションをこなして、警部の信頼を勝ち取ってみせますよ」
「そうか、頼もしいな」
私がそう言うと、警部の険しい顔が少し和らいだ。
「時間が惜しい、できればすぐにでも君とともに部隊を送り込みたいのだが、できるか?」
「あーっと、その前に少し待ってください。調べたいことがあるので、パソコン借りても良いですか?」
怪訝な表情のまま、警部は素直にパソコンを貸してくれた。私は検索エンジンを開き、カタカタと文字を打ち込んでいく。
リザードの動機、そしてその正体が私の記憶通りなら……きっと彼だ。
カーティス・カート・コナーズ博士。爬虫類研究、そして異種間遺伝子交配の研究の第一人者で、スターク・インダストリーズ社で働く研究者の一人。
「警部、ドクター・オクトパスとリザードはグルかもしれません。背後関係を洗った方が良いですよ」
そして、彼はオットー・オクタビアスの古い友人でもある。
チームを組んだばかりだっていうのに、こちらは既に出遅れていたらしい。
「やぁどうも! 初めましてトカゲさん!」
警官から支給されたガスマスクの内側からご挨拶。これのおかげで、私は煙渦巻く警察署の中でもトカゲにならずに済んでいる。
「瑞々しいお肌してるね、人間をトカゲに変える薬じゃなくて化粧品でも出したら? きっと売れると思うよ」
天井から声をかければ、緑の煙の中から見える鱗の生えた大きな背中が振り返った。
「ペラペラと煩い口に、蜘蛛のように糸を手繰り寄せ天井を這い回る。お前がオクタビアスの言っていたスパイダーマンか」
「わお、やっぱり君たちってチーム組んでるんだ? きっかけは何? 悪党同士のマッチングアプリでも使った?」
「きっかけは大学の同じ研究室に配属されたことだ。出会った日以来、私とオットーは共に同じ志を抱いてな。誓ったのだよ、我々の知恵で、世界をより良いものにすると」
「より良い世界ね、それでやることが銀行強盗とバイオテロ?」
「変革の道はいつだって険しく、そして犠牲が伴う。そうだろう?」
思いの外、彼は理性的だった。出会い頭に拳を交えず、こうして会話をできるくらいには。
「スパイダーマン、私から一つお前に提案がある」
「何? トカゲになるのは嫌だよ。既に蜘蛛人間なのにさらにトカゲになったら属性が渋滞しちゃうからね」
スパイダーでマンなのに、そこからさらにリザードになったらどうなっちゃうのか。たしか神話の生き物にそういうのいるよね、キマイラだっけ。色々混ざってるやつ。まぁ少なくとも、食べても美味しくない生き物になることは間違いなし。
「お前も我々の同志になれ。共に世界を変えよう」
「んんっ、え、なんて? それ本気で言ってる?」
うっかり、天井から落っこちそうになった。なんだろう、世界の半分でもくれるのだろうか。
「お前は選ばれたんだ。凡人をはるかに凌駕するその力、私と同じく他の生物に由来するものだろう? その名の通り、お前は蜘蛛の遺伝子を取り入れた。そして私はトカゲの力を。我々は同じだ」
「全然違うでしょ、少なくともあなたはリザードで、リザードマンじゃない。けどボクはスパイダーマンだ。このマスクの下は人間だよ?」
「下等な人間の器に縛られる必要はない。これは進化だ、スパイダーマン。我々は他の生物の遺伝子を受け入れることで、より上位の存在になれる!」
彼は自らの力を鼓舞するように、その丸太のような緑色の腕で建物の壁を殴り貫通させた。
「二年前のことを覚えているか。この街で起きた、あの日のことを」
「ニューヨーク決戦のこと? 覚えてるよ、忘れられるわけない」
この街に住む人ならば、誰もがその光景を目に焼き付けたはずだ。直接にしろ、テレビ越しにしろ。
「そうか、なら分かるだろう。あれは9.11以来最悪の事件だった。事故でも災害でもなく、事件なのだ。我々が備えていれば、あのような惨劇は未然に防げた。私が片腕を失うようなこともなかった!」
そう言うと、彼は自分の腕を抱え込んだ。
「片腕をなくしたの? それは、その、お気の毒に。ところでもしかしてあなたってもともと3本腕だったりする? ボクには腕が2本ともあるように見えるけど」
「……くっ、ふはは。そうだとも。今の私には腕が2本ある。治したんだよ。失った腕を新たな私の力でな。分かるかスパイダーマン、これは祝福なのだ。人類全体が次のステップに進むための、神からの祝福だ。なんて、素晴らしい」
自らの力に酔いしれるかのように、その力を鼓舞するかのように彼は笑う。
「だから警察署の中の人みんなをトカゲに変えちゃったの? 自分と同じようにするために」
「そうだ。これで終わりではないぞ、むしろ始まりだ。全ての人間が私のように強くなれば、我々はもう老いや、病、そして宇宙からの侵略者などに怯えなくて済む!」
なるほど、一理ある。確かにその星にいる全員がスーパーパワーを身につければ、チタウリの軍隊に対抗することだってできるかもしれない。アベンジャーズに頼らなくても済むかもしれない。
だけど。
「悪いけど、お断りするよ」
「私の言っていることが理解できなかったか?」
「大丈夫、理解した。でもごめん、あなたがどんな崇高な理想を掲げていたとしても、その過程でたくさんの人たちを傷つけてることは認められないんだよね」
「今やヒーローと持て囃されるトニー・スタークとて、その力の源は世界中に戦争の火種を撒くことで獲得したのだ。青臭い理想を語るのは勝手だが、現実を見ろスパイダーマン。世界は既に、手段を選んでなどいられない!」
「そっちこそ、血なまぐさい理想を語るのはやめて、現実を見てくれない? 救世主気取りのところ悪いけど、今のあなたは犯罪者でしかないよ。警察署を襲い警察と市民をトカゲに変えた、イカれたバイオテロリストだ」
「……お前には知性があると思っていたが、私の見込み違いだったようだ」
さて、交渉決裂だ。残念だけど私の交渉ってだいたい拳で終わるんだよね。目は口ほどに物を言うけど、私の場合はマスクを被ってるから、かわりにこの手が物を言う!
私は糸を飛ばして、リザードに向かって飛びかかる。
「お前たち、やれ」
しかし次の瞬間、周囲に隠れていた大トカゲたちが私に向かって襲いかかってきた。
服を着ているところを見るに、彼らはトカゲに変えられてしまった元人間たちらしい。というか。
「うそ、トカゲって群れで行動するの!?」
「これまで多くの場合、爬虫類は群れを形成してこなかった。だがこれからは違う。私が、彼らの王となったのだ」
「革命の話は何だったの! ただの独裁じゃんそれ!」
彼らを傷つけないよう、一人ずつ蜘蛛糸で拘束し制圧していく。
「では、私はより良い世界を作るためにお暇させてもらおう。せいぜい頑張ってくれ、スパイダーマン」
「リザード、待て!」
だが、私がトカゲたちを無力化したときにはすでに、リザードはその場から消え去ってしまった。
「あぁ、まずいぞ。ドクター・オクトパスは地上に人工の太陽を作ろうとして、リザードは人々を強制的にトカゲに進化させようとしてる。最悪だ。なんてこった」
その上、二人とも本気で人類のためと思っているところが余計にタチが悪い。言葉による説得は意味をなさないだろう。
「急いで警部のところに戻って、作戦を立て直さないと」
もう! オズコープ社がないからスパイダーマンは用無しだと思ってたのに、代わりにスターク社がヴィランを生み出してるじゃないか! 世界を守る前に、自分のとこの従業員のメンタルケアくらいしてよ!
私はトニー・スタークへの届くことのない恨み節を胸の内に吐き出しながら、蜘蛛糸を飛ばし分署を後にした。