灰被りの蜘蛛 作:BNDに脳を焼かれたやつ
朝、焼き立てのベーグルを口に咥えながら長い栗色の髪を結ぶ。甘ったるいものが並びやすいアメリカの朝食の中で、ベーグルは私にとっての癒しだ。
「じゃあ私、そろそろ学校行ってくるから」
姿見を前に身支度を整えて、かばんを背負って歩き出す。玄関を出る前におじさんに一声かけると、いつもの出勤前で忙しない彼とは思えないほど平穏な声が聞こえた。
「ああ、行ってらっしゃい」
リビングから聞こえてくる呑気な声に思わず足を止め、私は二、三歩後ろに下がった。丁度廊下からリビングが覗けるように。
そして、そこにはコーヒー片手に新聞を眺めるおじさんの姿が。
「あれ、今日仕事ないの? もしかして、もうあの仕事辞めてくれた?」
「今日は非番なんだよ」
「あ、そう」
期待していた答えではないことに落胆する。
「ペトラ、なんで君はそうおじさんを無職にさせたがるんだ。僕が無職になったら、どうやって君とメイを養ったら良いんだ?」
「でも殉職するよりマシでしょ?」
「殉職するベンおじさんは君の頭の中だけにしてくれないか」
ベンおじさんの仕事は救命士、911で駆けつけてくれる近所のヒーローだ。人の命を救うために、いろんな現場に赴く職業。そしてそのために命の危機が付き纏う職業でもある。私としてはとっととその仕事を辞めてほしいのだが、頑固なおじさんは頑なに首を縦に振ってくれないのだった。
「まぁ良いや。行ってくるね」
「送ってこうか?」
「すぐそこのバス停に行ってスクールバスに乗るだけなのに? 勘弁してよ、私もうティーンだよ? 幼稚園児みたいに手を繋いで歩いてるところなんて友達に見られたら軽く死ねるね」
おじさんからの魅力的な提案をプライドのために突っぱねた。「手を繋ぐとまでは言っていないんだが」と困惑するおじさんのことは無視する。
「なら、行ってらっしゃいのキスは?」
「それは必要かも!」
そうして私は、おじさんとの会話を終えて学校に向かった。
バスに乗ってからは、窓側の席に座って黙って流れて行く街並みを眺める。おじさんには友達にバレたらとかなんとか言ったけれど、ホントはバスの中で会話するような特別親しい友人なんていない。私には複雑な事情があり過ぎるから、それを乗り越えて友情を育める相手には未だ恵まれずにいた。
ふと頭の中がざわつき、それから窓の外からサイレンの音が聞こえた。聞き慣れた音だ、ここニューヨークでは思っているよりもずっと犯罪が多い。それこそ、普通に生きているだけでも犯罪に巻き込まれそうになるくらいには。
「こんなとき、スパイダーマンならどうするんだろうな」
交差点を横切っていくパトカーの群れを眺めながら、私は一言呟いた。きっと彼ならばバスを抜け出し、ビルの間を駆け抜けて颯爽と犯人を捕まえてしまうのだろう。それから粋なメッセージを添えるのだ。街の平和を守ってくれる警察官の皆様へ、親愛なる隣人からのプレゼントです、なんてね。
「まぁ、私には関係ないけど」
昨夜はなんだか胸の中がソワソワしてよく眠れなかったから、その分を取り返すように、私は学校に着くまでの短い時間を睡眠に費やした。
街でどんなことが起ころうとも、私には関係ない。だって私はまだ子どもだ。背負うべき責任なんてものは存在しない。
そう、思っていたけれど。
それが勘違いだと気づいたのは、その日の授業中。窓の向こう側に見えた、天に空いた大穴を見た瞬間だった。
「ベンおじさん、いる!?」
乱暴にドアを開け放ち、帰宅する。
「ペトラ? 学校で待機になったはずでしょ?」
「メイおばさん!」
不安そうに表情を歪めたおばさんが出迎えてくれたので、思わずその胸に飛び込んだ。
「抜け出してきた! それよりおじさんは!?」
「抜け出してきたって、何をしてるのよ……」
おばさんと話している間にもリビングにある点けっぱなしのテレビからは、ひっきりなしに耳慣れない情報が飛び込んでくる。
今、私たちの住むクイーンズから見て川を挟んで反対側のマンハッタンが大変なことになっているらしい。詳しいことは分からないけれど、宇宙人が攻めてきたとか、どうとか。
天に空いた大穴から、まるで虫のようにうじゃうじゃと宇宙人たちが這い出てきたのだ。そうして現れた侵略者はマンハッタンの街を破壊し尽くしているらしい。
それを聞いたとき、私は居ても立ってもいられなくなってしまって、こうして学校を抜け出して無断で帰宅してしまった。
だって、嫌な予感がしたのだ。ベンおじさんが死んでしまうんじゃないかって予感が。
宇宙人が攻めてくるなんて展開は記憶にない。けど、私は多分その役柄に生まれてきたから、その後の展開はなんとなく予想できる。
「おじさん、今日は非番だって言ってたよね……?」
いつか、この日が来てしまうんじゃないかって、思っていたのだ。
私という存在が、ベンおじさんという犠牲を生んでしまうんじゃないかって。
「仕事着がない」
クローゼットを開ければ、そこにおじさんの救命士としての制服はなかった。
「行っちゃったんだ。おじさんは、困ってる誰かを放っておけないから……!」
踵を返し、入ってきた玄関から再び外へと出ようとする。
「待ちなさい、どこに行くのペトラ」
けれどそんな私をメイおばさんが止めた。
「おじさんは今マンハッタンに居るんだ! たすっ、助けに行かないと……!」
テレビから大きな音が響き、思わず肩が震えた。画面に直前まで映っていたのは、凄惨な戦場と化したニューヨークの街並みだった。懸命にその様子を伝えていたリポーターのもとに、直後宇宙人っぽい何かが襲いかかって。
「ひっ……!」
悲鳴とともに、映像が切り替わった。まるでホラー映画のジャンプスケアのような一瞬の出来事で、しかし確かに現実の光景に、私は直接それを見ているわけでもないのに情けない声を漏らしてしまった。
「ペトラ」
「今の見たでしょ? 見たよね! おじさんはあんな危険な場所にいるんだ! 早く助けてあげないと死んじゃうよ!」
「分かった。分かったから落ち着いて。それから、外へ出ては駄目よ」
「なんで!?」
おばさんが無言でテレビを指す。テロップには一部地域での外出自粛の文字が刻まれていた。そしてクイーンズはその地域に含まれている。
「でも、でも、おじさんがピンチなんだ! 誰かが助けに行かないと──」
そのとき、部屋にバシンッと音が響いた。おばさんが私の頬を叩いた音だ。
「ペトラ・パーカー、冷静になりなさい。オーケー?」
おばさんの手にサンドイッチの具みたいに挟まれた私は、その迫力にこくこくと頷くことしかできない。研ぎ澄まされた肌の感覚のせいで、おばさんのビンタは超痛かった。
「ほんと、あなたってベンのことになると時々パニックを起こすわよね。どうしてかしら、まったく」
メイおばさんは呆れたように私に視線を送ると、ポケットから携帯電話を取り出し、すかさず誰かに連絡する。
『あー、もしもし? 今ちょっと手を離せないから後にして欲しいんだが』
「おじさん!」
電話から聞こえてきたのはベンおじさんの声だった。
良かった、彼は死んでなかった。そんな歓喜で胸がいっぱいになった私はおばさんから携帯を横取りしようとしたけれど、彼女がひょいとそれを持ち上げたせいで、私の手は空を切る。
「ハイ、ベン。ちょっと声が聞きたくて。仕事は順調?」
『僕も君の声が聞けて嬉しいよ。仕事の方はまぁ、最悪かな。橋の向こうから避難してくる人が絶えなくて……』
「分かった、邪魔してごめんなさいね。お仕事頑張って」
おばさんは私に代わることなく、そのまま通信を切ってしまった。それからほら見たことかと、無言の視線で訴えてくる。
「落ち着いた?」
「はい」
「ココア飲む?」
「ください」
ソファーの上でゆっくりと深呼吸し、マグカップに注がれたココアを片手に、私は落ち着きを取り戻した。
「待っていれば、ベンはちゃんとこの家に帰ってくるわ。だからそう心配しないの」
「うん……」
メイおばさんの隣に座り、その腕に抱かれながら、私は黙ってテレビから流れてくる情報に耳を澄ませた。
それから間もなく、宇宙人たちは私が知らないヒーローチーム。アベンジャーズなる者たちの手によって退治されたことが報道された。
脅威は去り、犠牲を払いつつも、ニューヨークは平和を取り戻したのだ。
それは、ほんとに奇跡みたいなことだと思う。あんな恐ろしい宇宙人たちに立ち向かう人たちがいて、そして勝ってしまったのだから。もし、そこにいたのが私だったとしたら、今頃マンハッタンはおろかニューヨーク全体が火の海になっていたことだろう。
とにかく、危機は去った。万々歳、ハッピーエンドってやつだ。
……けれど、その奇跡に一つケチをつけるのだとすれば。
その日、ベンおじさんは帰ってこなかったのだ。
私がそれをベン・パーカーだと気づけたのは、多分生まれ持った力のおかげだと思う。だって普通の人なら絶対に気づかなかった。
黒焦げの死体が、まさか自分の叔父だなんて、見抜ける人間はこの世に一人としていないだろうから。現にメイおばさんは、それをベンおじさんだと中々認めることができなかった。たぶんそれは、彼の死を受け入れられないという意味だけじゃないと思う。
本当にそれくらい、そこにあったのはかつての面影が欠片もない、ただの黒ずんだ人型の何かだったのだ。
非番だったはずのおじさんはあの日、未曾有の危機に召集を余儀なくされ、後にニューヨーク決戦と呼ばれる戦いで負傷した人たちの手当てをしていた。戦いが終わっても、壊れた街は、傷ついた人たちは元には戻らない。アベンジャーズは宇宙人を撃退してくれはしたが、残りの仕事は警察、消防、そして救急の仕事だ。
ベンおじさんは、戦いの後の二次災害の対応に追われた。つまり、火事のことだ。最後におじさんの姿を見た同僚の人の話では、おじさんは建物の中に逃げ遅れた人を見つけて、助け出そうとしたらしい。
そして、結果的にその人は助かったものの。ベンおじさんは炎の中に飲まれて一人、息を引き取った。
「そうですか。夫は、人を救うために死んだのですね」
ベンおじさんが死んだという事実を受け取ってから吐いたメイおばさんの言葉が、私にはまるでこの街に残った決して消えることのない焼け跡のように胸に刻み込まれた。
つまるところ、私の叔父、ベン・パーカーは。
見ず知らずの他人の命を救うため、その代償として灰になったのだ。
おじさんの遺品は、随分と少なかった。生活用品を除けば、それこそ段ボール一箱に収まってしまうくらいには。
そしてそれを見てようやく、私は実感できた。ああ、おじさんは死んでしまったんだな、と。
「大いなる力には、大いなる責任が伴う……か」
元の世界では誰もが知る有名なセリフで、この世界にはきっと私とメイおばさんしか知らない、彼の口癖。
でも、たとえ知る人が減ったのだとしても、その言葉の重さはきっと変わらない。
「……とりあえず、ウェブシューターだけでも何とか作ってみよう」
ベンおじさんの遺品の中から、私は小さなUSBメモリを手に取り握り締めた。そこに何かしらのヒントがあると信じて。