灰被りの蜘蛛 作:BNDに脳を焼かれたやつ
週に一度のステイシー家での食事会。グウェンがスターク社に就職して家を出て行き、また弟くんたちも成長してすっかり大人しくなったため賑やかさが減り、少しもの寂しくなった夕食が終わった。
ふむ、今度グウェンにホログラム技術を紹介してあげようか。彼女も若干ホームシック気味だったし、一緒に食事は取れなくてもせめて顔を合わせられればまた賑やかな食卓が戻ってくるかもしれないし。
「パーカー、話があるんだ。少し良いか」
「はい、何ですか?」
夕食を終えて、私がステイシー警部にタワーの近くまで送ってもらっていたときのことだ。何やら深刻そうな顔をして警部が切り出した。
長くなりそうらしく、彼は途中で車を停めてコーヒーショップに寄った。私はカフェインが無理なので、スコーンくらいしか買うものがない。
「実はな、私の昇進の話が出てるんだ」
「え、それじゃあ警部はもう警部じゃなくて……」
「昇進が決まれば、警視になるな」
「うわぁ、すごいじゃないですか! おめでとうございます!」
私は手についたスコーンのカスを払って、それからパチパチと小さく拍手した。だが、喜ぶ私とは裏腹に昇進が決まったはずのステイシー警部の表情は優れない。
「どうしたんですか、何か悩むことでもあります? はっ、もしかして昇進したら残業代が減って実質賃金が下がり責任だけが増えるみたいな?」
「いや違う。そうじゃないんだ。実はただ……辞職しようか、迷ってるんだよ」
「……は? じ、辞職?」
思わずズッコケそうになった。もう何年も警察の職を全うしてきて、昇進を目の前にした警部が辞職なんてとても信じられなかったから。
「どうして辞職なんか」
「……理由は色々だ。グウェンが家を出たこと、息子たちが成長してきたこと、そして私が、君の助けになれていないと思ったこと」
「助けになってないだって!? そんなことないですよ! 警部は十分私を助けてくれてるじゃないですか!」
「いいや、私はずっと君の足手まといになるばかりだった。近頃の犯罪は、昔とは違う。ただの強盗だろうとハイテク武器を振り回し、一撃で壁を破壊し粉々にする。今や警察は脇役で、治安を守ってるのは君のようなヒーローだ。こんな現状で、いつまで体が持つのかと思ってな……」
「……」
「一年半前、君がアベンジャーズタワーを守っていたとき、私はただその様子を地上から遠目に見てるしかなかった。そして、君は黒焦げにされた。そんな君を救ったのはトニー・スタークだった。……私は君の力に頼るばっかりで、君の力になれなかったのだ」
「警部……」
そう言うと、ステイシー警部はやるせない表情を浮かべたままコーヒーを飲み干した。
「正直、寂しいですよ。警部はずっと私のことを気にかけてくれていたし、警察の中でも一番に認めてくれた。私が変わらずニューヨークの親愛なる隣人でいられるように、ロス長官にニューヨーク市警を代表して嘆願書を提出してくれたのもあなただった。あなたが来てくれたから、今の私がある」
「私は、君をスパイダーマンの役目に縛りつけてはいなかったか?」
「いいえ、これは自分で選んだ道です。そしてその結果、警部が五体満足のまま警官を辞めて別の道を選ぶことができるなら、それは本望です。私のおじさんは、救命士の勤めを果たして死にました。立派だとは思うけど、でも命を対価に名誉を得るくらいなら、私は彼に生きていてほしかった。だから私は警部の勇気ある選択を尊重します。あなたは父親として、夫として、家族を悲しませない道を。友人として、私を悲しませない道を選んでくれるってことなんだから」
「……ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいよ」
そう言うと警部は涙ぐみながら微笑んだ。その決断を下すまでにたくさん悩んだんだろう。私はそんな彼を称えるように、両手を広げてハグを交わした。
「ところで、警察をやめた後は何をするか決めてるんですか?」
「……まだ、何も決めていない。貯金は十分にあるから、もう働かなくても息子たちが独り立ちし、妻と老衰で死ぬまで生きていける。だが、できることなら妻と店でも開こうかと模索してる。君はパンが好きだろう? だからまぁ、ベーグルでも焼いてみようかなと。少しでも、君の助けになれるようにな」
「……それってとっても最高ですね。店ができたら、私が宣伝しますよ。スパイダーマンお墨付きの味だってね」
「……ふっ、おいおい、それだと行列ができてしまうだろう。趣味でやるような店だ。繁盛してしまうのは困るよ」
「良いじゃないですか。あ、でもそうなると過労で警部が死んじゃうか」
「私を誰だと思ってる。長年君とともにニューヨークを駆け回ってきた男だぞ? 小麦粉をこねるくらいで過労死はしない」
「あっはは、イースト菌まみれで過労死した警部の死体なんて見たら、私もグウェンも泣くより先に多分笑っちゃいますよ」
夜空の下、パトカーにもたれかかりながら私たちは話をした。昔のこと、今のこと、そしてこれからのことも。
「君にも、いつかスパイダーマンをやめられる日が来ると良いな」
「その日はきっと近いですよ。今の街は、私がいなくても結構……」
平和だからと、私がそう言おうとしたとき、まるでそのことを否定するかのように街角の向こう側で異変が起きた。
つんざく悲鳴と、夜の街を怪しく照らす灰色の光。
「本部、こちら212、ジョージ・ステイシー。事件発生、場所はジャクソン・アベニューと44番通りの交差点。奇妙な発光を確認したため改造武器案件と思われる」
「警部、私は行くね。退職予定のあなたはじっとしててよ!」
物陰でパパっと服を着替えると、私は蜘蛛糸を飛ばし光の方へと飛び出した。
「おい、ちょっと待て……はぁ。近くにスパイダーマンがいたため協力を求めた。私と彼女で対応する。ダメージコントロール局に処理班を要請してくれ」
「なぁ、俺は反重力クライマーを試したいとは言ったが、銀行強盗したいとは言ってないぞ」
「おいおいプラウラー。武器を試したいってのはつまり実戦で使いたいって意味だろ? お前は試食で食べないで、試着で着ないのか? そんなのおかしいだろ」
「いやそれとこれとは話が……待て、プラウラーってのはなんだ?」
「コードネームみたいなもんだよ。這い寄る男、プラウラー。ちなみに俺はショッカーな。由来は、言わなくても分かるだろ」
ATM銀行の中では二人の男が話し合っていた。一人は右手に電気ショックグローブみたいなものをつけた男。もう一人は光を放つ鉤爪のついたグローブを両手につけた男だ。二人はそれぞれ色の異なる覆面を被っている。残念ながら、それが何色かは私には分からないが。
「おい、なんだそれ。ガキじゃねぇんだから」
「良いじゃねぇか。それよりほら、金詰めるの手伝え」
「嫌だね。こんな無計画な強盗はすぐに足がつく。サツが来る前にさっさとずらかろう」
「おい、なんだよ。サツが来てもぶっ飛ばしちまえば良いだろうが!」
「じゃあボクが代わりに手伝ってあげようかな。そこのプラウラーくんは嫌がってるみたいだし?」
話の途中で申し訳ないが、私は現金の詰まったボストンバッグを蜘蛛糸で引き寄せ、自称ショッカーと自称プラウラーを壁に貼り付けた。
「……ほら、サツより面倒なのが来たぞ。なぁスパイダーマン。俺は無理やり装備をつけられてついてきただけだ。見逃してくれ」
「うーん、話は署で聞くのが定番なんだよね。諦めてお縄についてくれる?」
「クソ、問題は起こしたくなかったんだがな。兄貴の昇進が近いってのに」
「ごちゃごちゃ言ってねぇで手を貸せプラウラー。スパイダーをぶっ殺して金を貰う大チャンスだぞ!」
ショッカーがショックパンチで蜘蛛糸を振り払い、プラウラーが鉤爪で蜘蛛糸を切り裂いた。
「へぇ、ボクって賞金首なんだ? で、ボクを倒したところでそのお金は誰から貰うの? 君たちのボス? もしかしてバルチャーかな?」
「ペラペラと喋るわけないだろう、マヌケ!」
第六感のままに上に飛ぶ。するとショックグローブから放たれた衝撃波で銀行の壁が破壊された。
「壁に貼り付けるのがお前の専売特許だと思うなよ」
「追ってこないでよ、ストーカー!」
鉤爪の男が壁に張り付き私を追ってきたので、蜘蛛糸をバネにキックをお見舞いする。装備に慣れていないのか、彼は反撃する間もなくあっけなく地面に叩きつけられた。
「ぐっ、ストーカーじゃなくてプラウラーだ。いや、別に俺がそう名乗りたいわけじゃないが」
「そう、なら改名したら? 君たちそろって
プラウラーの上に馬乗りになっていたところに、横からショッカーがちょっかいかけてくる。
「ショックパンチだ、吹っ飛べ
私は衝撃波を上半身だけ仰け反って避けると、突き出た腕を掴んで蜘蛛糸でぐるぐる巻きにしてやった。
「うわぁ、確かにショックだね。衝撃よりも期待外れって意味で」
「クソッ、おいプラウラー、お前も本気出せよ!」
「いや、使い方がまだイマイチ分かんねぇのに無茶言うなよ」
「そうそう、初心者には優しくしないと、ご新規様が入ってこなくなって犯罪文化が廃れちゃうよ? いや待った、そんなの廃れた方が良い……かな!」
二人を蹴り上げ、ノックダウンする。それから私は二人の体を蜘蛛糸に巻きつけ天井からぶら下げた。
「ふぅ、ミノムシ二匹いっちょ上がりっと」
「終わったかスパイダーマン」
「うん警部。近隣住民への避難勧告と応援要請をありがとう。おかげで助かったよ」
「それくらいしかできないからな。それより、こいつらは例のハゲワシ男の関係者か?」
物陰に隠れていたステイシー警部が、銃を構えて警戒するように姿を現した。
「かもね。どう見ても改造武器だ。それもこれまでみたいに武器を持ってるだけじゃなくて、バルチャーとかライノみたいな全身武装の」
「……君を殺して金を貰うと言っていたな。まさかとは思うが、君に対抗するためにチームでも組んでいるのかもしれん」
「昔私が戦った悪党たちみたいに? 勘弁してよ。なんでそんなか弱い女子を寄って集っていじめたがる……っ」
気絶したまま蜘蛛糸にぶら下げられた男たちを警部と一緒に観察していたそのとき。私は全身の感覚が研ぎ澄まされ、電撃が走ったかのような悪寒を感じ取った。
「伏せて、警部!」
すぐさま警部に覆いかぶさる。すると天から雨霰のように弾丸が注がれた。
「よぉ、スパイダーマン。うちの従業員たちが世話になったな?」
「っ、バルチャー! やっぱりこいつらはあなたの仲間なのか!」
「ああそうだ。恨むなら自分の強さを恨め。お前がいると商売上がったりなんだよ」
そう言うと、バルチャーは光を放つ丸い何かを通りの真ん中に向けて投擲した。
「今のはチタウリの動力コアを改造した爆弾だ。ほら、早くしないと辺り一帯が吹き飛んじまうぞ?」
「最悪! ねぇ警部、避難は済んでるよね!?」
「呼びかけたが、全員を確認したわけじゃない。寝ていて私の声を聞いていない住民が残っているかもしれん!」
私はコアを上着で包みこんで無力化すべく一歩踏み出したが、バルチャーがこちらに銃を向けているのを見て足を止めた。私が行けば、彼はきっと警部を撃ち殺すのだろう。
「私のことは良い、早く爆弾を!」
そんな私の背中を警部が押し出した。彼は銃を抜き、バルチャーに向けて発砲する。
「チッ、鬱陶しい。おい、さっさとずらかるぞバカどもが」
バルチャーは翼を盾に銃弾を防ぎその手に持った銃を警部に向けた。
「じゃあな勇敢なるおまわりさんよ」
その瞬間、私の思考が研ぎ澄まされる。
爆弾が爆発するまであと数秒だ。私があれを止めないと多くの人が巻き込まれる。だけどここで爆弾に向かえば、警部はきっと死んでしまう。
マスクの下を汗が伝う。迷っている時間はない。私にできるのはただ、常に最善を尽くすことだけだった。
「警部はこれ被ってて!」
私は瞬時に上着を警部に被せ、自分は爆弾に向けて飛び出した。私の上着にはヴィブラニウムが使われている。たかが銃弾程度じゃ貫通できない。
だけどその代わり、私は上着無しの状態でチタウリの爆弾に覆いかぶさるハメになった。でも大丈夫。私のスーツにも一応ヴィブラニウムが使われてるからね。
「よせ、パーカー!」
まぁ、使われてるのは蜘蛛のマークの部分だけで、大部分は私が作った非揮発性蜘蛛糸の伸縮素材なんだけど。
「来ちゃダメだ警部!」
爆弾を抱え、私は体を丸めた。ほんの僅かな衝撃も漏らさぬようにと。
「ほぉ、なかなか肝が据わってるじゃないか。流石はスパイダーマン。この街を守るヒーローってところか? 見直したよ。そうやって文字通り自分を犠牲にしてくれると助かるんだがな」
だが、爆弾は爆発せず。私がじっとしている間にバルチャーはショッカーとプラウラーを抱え、空へ飛び立ってしまったのだった。
「あー、そりゃそっか。爆発させたら部下もろとも殺しちゃうもんね」
「……大丈夫か?」
上着に身を包んだ警部がこちらに近づいて来る。
「いや、来ないでってば。まだ完全に爆弾が安全だと分かったわけじゃ──」
衝撃、閃光、そして爆発。バルチャーが時間差で爆発させたそれは見事に私を吹き飛ばし、壁に叩き付けたのだった。
「かはっ……」
土埃を上げ、私は瓦礫の中から這い出る。
「パーカー、おい、大丈夫か! 土埃のせいで君の姿が見えない。頼む、返事をしてくれ!」
「……生きてるよ、警部。そんな心配しないで」
「あぁ、良かった……!」
上着のおかげで、ステイシー警部はどうやら無傷だったらしい。良かった。そしてそんな彼のライトに照らされて、私は眩しさで顔を顰める。マスクが大破し、目の遮光グラスの部分が割れてしまったようだ。
「すまない、私のせいで」
「あなたのせいじゃないよ、悪いのはバルチャーだ」
「怪我はないか?」
「こう見えても結構頑丈なんだよ、私。毎回目とか皮膚とか神経系とか、弱いとこばっかり傷ついて弱っちく見えるのかもしれないけどさ。衝撃くらいならこの程度……ごほっ、ごほっ」
「血を吐いているじゃないか!」
遠くからサイレンの音が聞こえてくる。ステイシー警部が呼んでくれた応援が来たのだろう。
「ごめん、行かないと。上着返してくれる? 今の状態じゃ顔バレしちゃうから」
「分かった」
震える手で私に上着を渡す警部。そんな彼の顔をまっすぐに見て、私はこう告げた。
「今回のことは、どうか気に病まないで」
「……君が、傷ついてしまったのにか」
「でも、他の人に被害は行かなかった。このあたりの住人にも、あなたにも。結果は上々だ。今の血は、ちょっと口の中を切ったくらいだし」
強がるように笑ったら、余計に警部に悲しそうな顔をさせてしまった。残念。私が男の子だったら、こんなにも心配をかけずに済んだのに。
「とにかく、帰って治療しなきゃ」
「……分かった。ここは私に任せて行ってくれ」
「うん、任せた。それじゃあ警部、またね」
「……ああ、またな。スパイダーマン」
それから私はボロボロの体に鞭を打ち、タワーへと帰宅した。
「今すぐ君を病院に連れて行く」
「す、スタークさん!? 今日は商談で国外にいるんじゃ……」
『申し訳ありません、ペトラ。あなたに無断で連絡させてもらいました』
「カレン……」
家に帰った私を待っていたのは鬼の形相のスタークさんで、私はすぐに前に入院した病院へと入れられた。
検査の結果そのものはそんなに悪いものではなかった。だが傷が浅かったからといって、私の活動の再開がすぐに許されるわけでもない。
「すいませんスタークさん。来週には任務があるのに」
「君は自分の体のことだけ気にしてろ。日本への任務は僕が行く。君が参加して良いのは広報イベントにだけだ。分かったな?」
怒るスタークさんに、ベッドの上に縛り付けられた私は黙って頷くしかなかった。
後日、私はステイシー警部が辞職したことを彼の口から電話越しに伝えられた。
『君だけを残していくようで申し訳ない。だが、これが最善の道だと思ったんだ』
「そう、ですか。分かりました」
『……できればまた、今度うちに来てくれ。試作したパンを味見してもらいたいからな』
「はい。そのときはぜひ」
『頼んだ。じゃあな、パーカー』
「はい、警部……いえ、ジョージさん」
通話を切って、胸にスマホを抱きかかえる。この結末がハッピーエンドと呼べるかは微妙だけど、これで良かったような気もしてくる。不思議な感覚だ。
「誰しもが変化していくものよ。体も心も、時間の経過とともにね」
「ヘレンさん」
私が通話の余韻に浸っているところにやってきたのは、かつて人工細胞で私の皮膚を治してくれたヘレン・チョ博士だった。彼女もまた私の素顔を知る人物の一人である。なぜなら私はケガばっかりするので、そのたびに彼女のお世話になっているのだ。そのうち自然と素顔で接するようになった。
「今日は良いニュースを持ってきたの」
「良いニュース?」
「ええ、あなたの細胞のこと。あなたの遺伝子には蜘蛛の遺伝子要素が混ざっていて、このせいで複雑な器官を人工細胞で修復できなかった。だけど事情が変わったわ」
「じゃあ、私の目や神経を人工細胞でもとに戻せるようになったんですか?」
「いいえ、まったく逆。あなたは傷を負うたびに、遺伝子における蜘蛛の要素がより強く働くようになってるみたい」
「えっと、つまり?」
「つまり、そのうち自分の力だけですべての傷を癒せるようになるってこと」
それは私にとって貴重な、とても嬉しいニュースであった。
「……また、色が見えるようになって、ものに触った感覚とか、温かさとかもわかるようになるんですか?」
「ええ。でも、だからってわざと傷つくような真似はしてはダメよ」
「分かってます。分かってます」
「本当に分かってるのかしら」
「分かってますって」
訝しげにこちらを見つめる博士。私は「分かってます」の一点張りで彼女を追い出す。
「私の体、治るんだ。また普通の世界を見て、感じられるようになるんだ……」
視界が潤んで、前が見えなくなる。心なしか、目の周りがじんわりと温かく感じられたような気がした。