灰被りの蜘蛛 作:BNDに脳を焼かれたやつ
2016年、冬。
世界からスパイダーマンが消え、そして
世界は、私とスタークさん……いや、この呼び方は不適切だな。今では二人ともスタークなのだから。かといってお義父さんやお義母さんと呼ぶにはまだ早すぎる気がするので、下の名前で呼ぶとしよう。
世界は私とトニーさんの関係を驚きと共に受け止めた。そりゃそうだろう。世界一のお金持ちに、急に養子が出てきたのだ。それも三年以上の間コスプレし、ニューヨークで自警団の真似事をしていた不良娘の。
だけど、そのことは思ったより話題にならなかった。なぜならどこも裁判で忙しくて、それどころじゃなかったからね。どの報道機関も他人のことをとやかく囃し立てる暇なんてない。例外的に、J.J.J.だけはお祝いのメッセージを新聞の最後の、目立たないところに小さく載せてくれたけど。
「よし、着いたぞ。じゃじゃーん、ここが僕らの家だ」
「綺麗なところね、トニー」
さて、世の中のことはひとまず置いておいて、私の話をしよう。トニーさんに引き取られた私は、ニューヨーク州を出てこの田舎の家へとやってきた。
都会の喧騒と衆目から逃れ、心と体を休めるために。
「あぁ、良いだろう? 余生は湖の側にある木造の別荘でゆっくり過ごすって決めてたんだ。鉄筋コンクリートも悪くないが、やっぱり人間は温かみがある方が……っておい、ダミー。荷台から顔を出すんじゃない。残念だけど君は防水じゃないんだ、泳ぐのは今度にしろ」
目的地に着き、車から降りる。後ろの方でトニーさんがアームロボットと戯れているが、今は放っておこう。
「どう、気に入ったかしら?」
ペッパーさんが私の隣にやってきて肩に触れた。私は彼女の笑顔を一瞥すると、同意するように頷いた。
「はい。とっても綺麗な場所ですね」
青い湖、緑の木々、そして沈みゆく茜色の夕日が私の目に映る。水面が揺れると、涼しい風が私の肌を撫でた。
かつて傷を負った私の体は、つい数週間前に元通りになってしまった。まるでスパイダーマンを辞めると誓ったことで、スパイダーマンとして戦う過程で失ったものが返却されたみたいに。
朝、目を覚ましたとき、色が見えて私は泣いたよ。泣いて喜んで、親になってくれたばかりの二人に報告した。二人もまるで自分のことのように喜んでくれた。
ヘレン・チョ博士が言うには、心の変化が体に影響したらしい。細胞が変化し、蜘蛛の遺伝子の影響力が強まったことで、私の体から失われた錐体細胞や神経系の負傷は治癒された。
「ダミーと遊んでるトニーのことは放っておいて、私たちは先に中を見て回りましょうか」
「……はい、そうですね」
ペッパーさんに手を引かれて、私は自分の部屋を決めるべく足を進めた。
そして扉を開けようとしたとき、風が吹いて髪が靡いた。夕日を反射する窓ガラスには、右半分をほとんど包帯で隠した私の顔があった。
「……どうしたの?」
「ううん、なんでもありません」
私は笑顔を作って首を横に振り、これから住むことになる新居のドアを開けた。
包帯で顔を隠しているのには、理由がある。それは私という怪物の姿を誰にも見せないようにするためだ。トニーさんにも、ペッパーさんにも、他の人にも、自分自身にも。
……そうだ。私の体は一度元に戻った。蜘蛛の遺伝子からくる驚異的な治癒能力がそれを可能にした。けれど、その代償として。
この包帯の下にはまるで本物の蜘蛛のように、もう三つの目が生まれたのだから。
蜘蛛は品種にもよるが、おおよそ八個の眼球を持つ。節足動物はたいていの場合複眼といって、複数のレンズをギュッと一つにまとめたような目をしているが、蜘蛛は人間と同じ単眼なのだ。
そして今の私の顔には左目と右目の他に、右頬に一つ、右の額に二つの小さな目が存在している。それはもともとあった目と違い、瞼も白目もなく真っ黒で、そして色を判別する機能を持たない目であった。
「つぶらで可愛い瞳だ」と、トニーさんは言ってくれた。実際現れた目は小さく、そこまでグロテスクな見た目はしていない。パッと見た限りだとタトゥーのようにしか見えないだろう。今はまだ、私は人間の範疇でいられた。
だけど、これからどうなるかは分からない。このまま蜘蛛化が進めば私は……。
『ねぇ、ペトラ聞いてる?』
「……ごめん、聞いてなかった。もう一回言ってくれる?」
ビデオ通話越しに響くMJの声に現実に引き戻される。
2017年、春。スパイダーマンの引退から数ヶ月が経った。親愛なる隣人の話題はようやく下火になり、私もこの話題のことはすぐにでも忘れたかったので、裁判もほとんど示談で終わらせた。なお示談になったのはフィスクによる収賄についての刑事訴訟ではなく、あくまでも私に対する誹謗中傷に関する民事訴訟だけであり、刑事訴訟の方については依然として進行中なのはさておき。
あれから数ヶ月が経ち、私がこうしてかつての友人と通話越しに話すくらいには、世間も私も落ち着いたのだ。
『今度の夏休み、フラッシュの家でパーティーやるんだ。参加者は主催者のフラッシュに、私とネッドと、それからリズと……とにかく学力コンテストのメンバーだったみんなとね。良ければ、あなたもどうかなって。ほら、私たち、ちゃんとお別れできなかったから……みんな会いたがってる』
「ごめんね、誘ってくれるのは嬉しいけど、そっちには行けないんだ」
『……そっか。なら、私たちがあなたに会いに行くっていうのはどう?』
「……ごめん。今は、まだ誰にも会いたくない」
そう言うと、私はそっと包帯に触れた。今の私の姿を友達に見せるわけにはいかなかった。
『……そっか、急に誘っちゃってごめんペトラ。それじゃあ、また電話するよ。それか、ペトラが私たちに会いたくなったら、いつでも連絡してね』
「うん、いつかは分からないけど、必ず連絡するよ。ありがとうMJ、またね」
『うん、バイバイペトラ』
ノートパソコンの画面が暗転し、自分の顔が画面に映ったのを見て、私は深くため息をついた。
この症状がいつ治るのか、それは私には分からない。トニーさんとドクター・ヘレンが一緒に遺伝子変異を抑えるための研究を続けてはいるが、まだ道半ばだそうだ。蜘蛛の遺伝子を制御しようとして、人間の部分を殺してしまったら本末転倒だからね。成果が出るにはもう半年ほどかかる見込みだった。
通話を終えた私は、血液検査のために地下室のラボにいた。
「生物科学や遺伝子工学はバナーの専攻なんだがな。はぁ、一体彼はどこにいるのやら」
私から採取した血液を調べていたトニーさんがため息混じりにそう言った。
「ごほっ……ごほっ……」
「おい、大丈夫か?」
「すいません、少しむせただけです」
寝台の上で横たわっていた私は、トニーさんが差し出してくれた水の入ったコップを受け取るべく体を起こした。
「私の体、治ると思いますか?」
コップに入った水に映る私の顔を見ながら、思わず不安を口にする。するとトニーさんは私を安心させるかのように、自信満々に答えてくれた。
「当然だ。あぁ、君は自分の養父がどれだけ偉大か知らないみたいだから、一応教えておくとだな。僕はこう見えて自分のパラジウム中毒だって解決したし、ペッパーの発火症だって治療したんだからな?」
「発火症? それってどんな病気なんですか?」
聞いたことのない名前に疑問を抱き、トニーさんにそう聞いてみた。
「僕が勝手にそう呼んでただけで、正確な学名じゃないぞ。エクストリミスって言ってすごくホットになる病気だ。あぁ、ホットってのは文字通りの意味でね、まぁペッパーはいつでもホットなんだが」
「なに? 私の話してるの?」
トニーさんが別に聞いてもいないのに自分の妻の魅力に惚気だすと、当の本人が階段を降りて地下のラボに姿を現した。
「僕の奥さんが世界一美しいって話だ。だろ? な?」
「まぁ、だいたいそんな感じでした」
今のはもっと不適切な言い方だったけどね。
「そう? まぁ何でも良いけど。とにかく晩ごはんができたから呼びに来たの。忙しそうなら下に持ってくるけど?」
「もうそんな時間か」
「すみません、すぐに上に上がりますね」
寝台から降りると、私はふらつきながはも階段を上った。気を抜くと四足歩行しそうになるので注意しないと。
「あー、ペトラ。言いづらいんだがこっちを見てくれるか」
「はい、何ですかトニーさん……って、うわ」
トニーさんに呼ばれ振り返ってみれば、私の手から出た糸が寝台を引っ張り、ラボの道具をなぎ倒していた。
「ご、ごめんなさい。また無意識に糸が出ちゃってたみたいです。私、私……」
思わず自分のダメさ加減に泣きそうになる。
「この前だって、朝起きた時には部屋の中を蜘蛛の巣状態にしちゃったし、洗い物を洗おうとしてシンクを糸で詰まらせちゃったりしたし。だから気をつけてたのに、ああほんと、私の馬鹿馬鹿……っ」
「大丈夫だ、怒ってないさ」
「さぁ、ご飯を食べたらきっと落ち着くわ。今夜はペトラさんの好きなミートローフだから」
蜘蛛化が進行しているせいで情緒不安定な私を二人は優しく受け止めてくれる。
私は毎日自分の能力が暴走し制御不能になるのと同時に、まるで自分が自分じゃなくなっていくような感覚を味わっていた。
そんな不安を少しでもかき消すように、私は美味しい夕食でお腹を満たし、心を落ち着かせる。
それから食後、二人にお休みの挨拶をして、私は自室のベッドで布団を被った。
もう寝よう。いつか抑制装置が完成すれば、この苦しみからも逃れられる。そう信じながら。
2017年、夏。
森の中にあるこの場所は都会とは違い、照りつける陽光を自然が吸ってくれるのでそこまで暑くはならない。だが、それでも夏は夏だ。少しでも涼むために私はペッパーさんと一緒に水着を着て、湖の中で楽しく水浴びをしていた。
「二人とも、楽しそうなのは良いが、抑制装置は濡らすんじゃないぞ。一応まだ試作品なんだからな」
「分かってるよトニーさん!」
車のカタログ片手にテラスからこちらの様子を伺うトニーさんに向かって、私は手を振った。
抑制装置、とは私の首の後ろに着けられた小さな制御チップのことだ。これのおかげで、私はこれ以上の蜘蛛化の進行を抑えられている。
あくまで蜘蛛化の抑制であって治癒ではないが、それでも私が笑顔を取り戻すのに十分な効果がそれにはあった。
「あ、やったなペッパーさん。一人だけ水鉄砲使うなんてずるいよ」
胸に水をかけられ、私は反撃するべく水面をピチャピチャと弾く。だがペッパーさんはすいーと泳いで私から距離を取ってしまった。残念ながら私はアメンボマンではない。彼女に追いつくのは無理だった。
「どうしたのペトラさん、私はここよ?」
そしてまた容赦なく顔に水をぶつけられた。
「分かりました、そっちがその気なら私だって文明の利器を使わせて貰います。来て、F.R.I.D.A.Y!」
私の呼びかけと同時に、どこからともなく飛んできたマーク47が湖に飛び込んだ。そしてその水飛沫でペッパーさんがびしょ濡れになる。
「ちょっとトニー! 私にはこんな小さな水鉄砲で、ペトラさんにはスーツだなんて不公平じゃない?」
「あぁ、そのお古は彼女にプレゼントしたんだよ。もうすぐ誕生日だからな」
笑いながら肩をすくめるトニーさんの言うとおり、私はマーク47を丸ごとプレゼントされた。彼曰く「時代はナノテクだ」とのこと。
「心配しなくても君にもスーツを作ってある。なんなら今持ってくるか? それなら公平だろ?」
「私にスーツですって? あぁ、冗談やめてちょうだい、絶対にお断りよ。……それで、まだ続けるのかしら?」
水鉄砲を手放し、降参の意を示すペッパーさん。だけどせっかくF.R.I.D.A.Y.が来てくれたのにここで終わりなんてもったいない。
「いやいや、勝負はここからだよ? それに、F.R.I.D.A.Y.だって水浴びしたいんじゃない?」
私の呼び声に反応して、湖の底に消えたマーク47が水面から顔を出した。
『マーク47はあらゆる状況に対応できるマルチモデルです。当然、水遊びにも対応しています。擬似水上バイクモードを起動しますか?』
「え、何その無駄に面白そうな機能。やってやって。ほら、ペッパーさんも乗ろうよ!」
「なんでそんな無駄機能がついてるのかしら……」
私がマーク47の背中に跨ると、呆れ顔のペッパーさんも私の後ろに座った。
「準備良しだよ、行っちゃえF.R.I.D.A.Y!」
『リパルサーを点火します。どうか振り落とされないように』
「うっはははー! 早い早ーい!」
「ねぇ、これ浮いてないかしら? やっぱり浮いてるわよね? ペトラさん! ペトラ!? あぁもう、聞いてない! お願いトニー、どうかF.R.I.D.A.Y.を止めて!!!」
そして私とペッパーさんを乗せたマーク47は、最終的にマーク50を纏ったトニーさんによって諸共湖に叩き落とされてしまうのだった。
「ジョージさん、このチーズインベーグル最高だよ。それにこっちの、チョコレートインベーグルもね。生地に練り込まれてるから手が汚れないし、勉強のお供にぴったり」
湖を一望できるテラス。そこで私はベーグルを食べながら、机に広げた課題をサクサク解いていた。
『なら良かった。君の舌は間違いないからな、さっそく店に並べてみよう』
「ぜひそうして。いつか私も買いに行くから」
『あぁ、ありがとう。それじゃあなパーカー。そうだ、グウェンが会いたがってたぞ。たまにはそっちから連絡してやってくれ』
「うん、分かった。またね、ジョージさん」
ビデオ通話が終了し、ノートパソコンの画面が暗転する。
「ふぅ……勉強も終わりっと。作業の続きでもしようかな」
ペンを置いて背伸びをする。大自然が生み出す美味しい空気を吸って、私は家の中に入った。
2017年、秋。スパイダーマンが姿を消してから、そして私がトニーさんの養子になってから一年が過ぎた。
この家に来てからもうすぐで一年経つと思うとなんだか感慨深い。あの頃はニューヨークを離れたばかりだったし、体の異変は止まらなかったしで心の中には絶望しかなかった。それを思えば、私にとってここの暮らしはとても居心地が良かったのだろう。
親愛なる隣人であるはずの私が一番幸せになれるのが、まさか隣人のいない場所で家族だけと共に過ごすことだったなんて皮肉な感じだけど。
「あ、トニーさんったらまた机の上で寝てる」
家の中に入ると、真っ先に見えたのが机の上に突っ伏するトニーさんの姿だった。
アイアンマンとしての仕事、会社のこと、ナノマシンの研究、たくさん忙しいはずなのに、その上私の遺伝子変異の治療薬の研究までしてくれているのだから、疲れてしまうのも当然だろう。
「言ってくれれば、私だって手伝うのにな」
眠る彼を起こさないように、肩にそっとブランケットをかける。何度手伝いたいと言っても、トニーさんは頑なに私の申し出を断っていた。「君よりも僕の方が賢いからな。嫌味じゃなくて純然たる事実として。だからそう凹むな」と言って。私だって生物科学の分野じゃトニーさんくらい賢いもん。……ごめん嘘、ほんとは足元にも及びません。
「そうだ、ねぇカレン。トニーさんが寝てる間に勝手に手伝っちゃおっか」
『トニー様を怒らせてしまいますよ?』
「平気平気。トニーさん私に甘いから、きっと怒んないよ」
カレンにお願いして、トニーさんの研究データにアクセスしてもらう。だが、その試みは途端に彼女によって阻まれた。
『申し訳ありません、ペトラ様。たとえあなたでも、このデータにアクセスすることはできません』
トニーさんの忠実なるしもべ、F.R.I.D.A.Y.である。
「うわ、F.R.I.D.A.Y.を使ってまで防御するなんてずいぶん厳重な警備だね」
『過去、あなたとカレンにはしてやられました。ボスはよく失敗しますが、しかしその失敗を放置する愚者ではありませんので』
「だってさ、カレン。どう? 流石のあなたでもお姉さんの防御は突破できない?」
『その言葉は挑発と受け取りましょう。良い加減、私がF.R.I.D.A.Y.に劣るという誤った認識をあなたに改めさせる良い機会です』
「わお、お姉さんに対してずいぶん強気だねカレン。じゃ、期待しちゃおっかなー」
珍しく威勢の良いカレンに期待しつつ私は待った。すると思っていたよりもずっと早く、部屋に『データのダウンロードに成功しました』と声が響く。
「早かったね? もしかして成長した? F.R.I.D.A.Y.をついに追い抜いちゃった?」
『いいえ、ペトラ様。私の判断でカレンにデータの閲覧許可を与えました』
「……へ? それは、どういう意味で……?」
F.R.I.D.A.Y.の言葉の意味が分からず、私は首を傾げた。
「まぁ良いや。とにかくデータを見せてカレン。じゃなきゃトニーさんが起きちゃうよ」
『……拒否します』
「……なんて?」
『ペトラ、あなたがこのデータを閲覧することは推奨できません』
驚きで固まってしまう私。どういうわけか、カレンに反抗期が来てしまったらしい。
「どうして私にデータを見せられないわけ?」
『回答を拒否します。ペトラ、この件はトニー様に一任すべきです』
『カレンの言う通り、治療のことはボスに任せて、あなたはとにかく体を休めてください』
「ど、どうしたの二人とも急に。私、何か怒らせるようなことでも言った?」
それっきり、二人のAIはだんまりを貫き、私の声に応えてくれなくなった。私は釈然としないながらも、大人しくトボトボと自室に舞い戻るのだった。
「……でも、隠されるとむしろ気になっちゃうよね」