わんにゃん星より愛をこめて   作:淀川阿求

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第2話 心身消耗者たち

 狸田(たぬきだ)が愚風(ぐふう)を殺す気持ちになったのはおおよそ一ヶ月前に遡る。

 

 かつての愚風は狸田にとって良き隣人の体裁を呈していたが、あの事件を目撃してからというもの、以来狸田の心を乱す暗い靄(もや)に変貌してその悪魔的威光を益々発揮して憚ることを知らない。

 

 やがて狸田はその四囲に張り巡らされた嗅覚の媒体物が忽(たちま)ち牛肉の焼け焦げる匂いによって置換されるような気分がしたので、圧倒的な正義感と、巨悪に対する畏怖との二つの感情が鮮烈に衝突して迸(ほとばし)るのを感じながら、愚風を陰ながら呪い殺そうとあらゆる呪術の類を終日試し続けているのである。

 

 段々とその病理的な衝動が嵩(こう)じてきて、茫然(ぼうぜん)と限りなく満ち満ちている愚風の生存の可能性そのものを呪う気持ちが最高潮に達してきたので……。狸田の鋭敏な焦燥は饒舌(じょうぜつ)に立て板に水といった具合で、勢いもまにまにうっかり愚風の部屋の前に立ち止まっては、

 

「わっわたし……見ちゃったんですよォ……!」

 

 と叫びだしてしまったのであるが、こうしてみると次第に鬱積したものが昂(たか)ぶってきて混乱に到り、感情の奔流(ほんりゅう)だけが堆(うずたか)く立ち上るような、結論を急ぐような憔悴(しょうすい)しきった気分が歴々と蔓延(はびこ)ってきたので、勢いに任せて叫び続けた。

 

「あにゃっ……あにゃたが、お肉食べてるところォッ……! ……はひゅっ……かひゅー……っ……ふー……ふー……。……許せません……絶対に許せませェん……! 逮捕ですっ……逮捕ですぅ……ケーサツにお願いして死刑にしてもらいますからっ……。……い、いや、やっぱり……やっぱりィ……! わわっわたしが殺します……! 今ァ……ここでェ……ッ!」

 

 其の叫びを終えた後、夜半のアパートの廊下が思いがけない静寂(しじま)に鎖(とざ)されたために、鈴虫の鳴き声だけが厭に大仰に響いていて、その音ばかりに耳を澄ませていた狸田は204号室の扉に両腕を付けて凭れ掛かりながら、膝をついてぺったりと其の場に座り込んだ。

 

 年増しに涼しくなっていく夏の最盛期に当たる、ひんやりとした静謐(せいひつ)な夜であった。その時彼女は愚風殺害のことなどまるっきり忘れて、ただ恍惚としてこの叫びを聞いて震え上がっている愚風の姿を夢想して満足した。自分の存在が誰かに恐怖を与え、文目も分かぬような暗い戦慄(わなな)きの中で自らを見上げる視線を思うと、言い知れぬ愉悦となって心を満たした。

 

 けれども、そうこうしている内にやにわに204号室の扉が開いたので、狸田は腰を抜かして飛び上がって尻餅をついた。徐々に開いて全貌が明らかになってくる扉を凝視した。そして部屋の中の虚からぬぅっと犬沼が現れると、狸田はぽかんと口を開けて見上げた。犬沼は事もなげに見下しながら嘆息して、

 

「あんた……何時だと思ってるの……? 愚風は一度寝たら朝まで起きないから……後にして頂戴」

 

 あれを聞いて尚、愚風が忽ち内幕を見透かしたような憫笑(びんしょう)を刻み、イマイマシイ鼾声(かんせい)で苦もなく黙殺しきった姿を想像するに、狸田は体内に沸騰するような激しい苛立ちを覚えた。

 

 一週間ばかり引き籠って絶え間ない不安と戦っていたが、ある暮れ方気分転換にぶらりと出ると、隣人である202号室の猫宮の元を訪れた。例の小さな体躯を運ぶように部屋の中へ転がり込んで、猫宮が居るのを見るや否や闊達(かったつ)に笑おうと健気に努力したのだが、半分泣き出しそうな顔で、「今度、愚風さんのことを殺します」と言った。

 

「にゃぁ……その話はこの前聞こえてきたけどにゃぁ……」

 

 猫宮は管を巻くような様子で木天蓼(またたび)の葉巻を燻(くゆ)らしながら寝煙草を決め込んでいたが、やがてやおらに上体を起こすとゆらゆらと体を左右に揺らして、今度は一層憂いを帯びた相貌で、

 

「愚風はオマエのことを気の毒なシュガーちゃんだって言っていたっけにゃぁ……」

 

 と言ってから、再び木天蓼を燻らせ、ぷかぷか煙を吐き出しながら恍惚とするのに夢中になる。狸田は自分の決意を全然黙殺しきったような猫宮の態度にふつふつとした名状(めいじょう)し難い反抗を覚えた。

 

「あなたもォ……ッ! 肉食動物だからそうやって他人事でいられるんじゃないですかッ……!?」

「オマエも雑食だにゃ」

「うるさいッ!」

 

 狸田が猫宮に掴み掛かろうとした途端、狸田の小さな体躯は一瞬間に後ろへ吹き飛んだ。猫宮の出し抜けのキックが鳩尾(みぞおち)に炸裂し、狸田は重く鈍い痛みを覚えたが、しかしなお恰(あたか)も軽い紙吹雪みたように、まるで質量がないように押し入れの襖を貫通したのである。猫宮はぴょんぴょんと跳躍しながら、

 

「にゃはは。どうだ、猫宮さんの腕前を見たか」

 

 と笑った。それから相も変わらずどさっと畳に腰掛けて、木天蓼を吹かしながらおおよそ退屈しきってしまったように茫然と天井を凝視して固着してしまった。それから暫く、放心していた。

 

「さて……」

 

 急に猫宮は所在ないように立ち上がって、近くで伸びている狸田に甚だ関心がない態度で伸びをした。

 

「ぼつぼつバイトにでも行くかにゃ」

 

 そう呟いて押し入れから作業服を引っ張り出して着替えるのだった。木天蓼の葉巻を僅々(きんきん)に短くなるまで吸い殺して、満杯になった灰皿代わりに狸田の口の中に突っ込むと、早々に上がり框(かまち)に腰掛けて外履きに履き替えた。

 

 戸外に出ると教会への礼拝者の参列が目についた。思い思いに教会の入口のあたりからアパートの敷地の中、大豆畑の方まで斑に人が横溢(おういつ)していて、その殆どが獣人であった。猫宮はその中を持ち前の物静かな足取りで幽暗(ゆうあん)に紛れながら歩いたが、段々と苦り切った気持ちが頭を擡(もた)げてきたので、彼女は急に自分が厭になった。

 

 自分というものは一体、何らの主体的意思を持って行動したことがあるのかと自分の心に問うてみると、四囲に亘(わた)る様々な顔をした人間が、忽然(こつぜん)と総じて自分の顔に見えてくる。すると不思議なことに此奴らは、おおよそ精神の高さもなければ一行の実感すらもない無気力な相貌を湛(たた)えて、立ちどころに敬虔(けいけん)な信徒から手遊(てすさ)びに行列に並んでみた烏合の姿へと変わってゆく。

 

 求めるところに人の存在を存在たらしめる要素があるとすれば、彼らは況(いわ)んや無存在というべきもので──猫宮はポケットから木天蓼を出して火を点けた。自らの鬱屈が苛立たしいほどの饒舌に変換されていくような気分に陥ってきたので……。兎にも角にも発作的に嵩じてくる本能的欲求を曖昧にするために、木天蓼を吹かさない訳にいかなかった。猫宮は八月の寒々しい夕靄(ゆうもや)に身震いをした。

 

「今日はァ──」

 

 大豆ミート工場に辿り着くと、猫宮はさっさと待機室の方へ入っていって挨拶を済まそうとしたが、煩いテレビや人の声によって掻き消されたために、息を凝(こ)らして立ち竦(すく)んだ。

 

「なァにが日本共和国の安全保障だ。■■人と■■人で溢れて見る陰もねぇや」

「莫迦いえ、畜生よりはよござんすよ。奴等から見りゃ違いなんてわかりゃしねぇんだから」

 

 とそこまで言うと、猫宮が居るのに気がついた気配らしく、彼らは白々しく、

 

「お、猫ちゃん。テレビ見なよ。浦塩(うらじお)で革命だって」

「……にゃぁん……」

「サハリンの駐屯基地も占領! とんでもねぇ時代だ全く……モンゴルは荒れたからなァ」

「畜産のモノカルチャー経済はてんでダメになったな」

 

 と述べつ幕無しに語り続けた。猫宮が機械を疾(と)く動かしたい衝動にむずむずしていると、一人の男が不意に振り返って、

 

「猫ちゃんの星は平和かい?」

「にゃぁ……猫宮さんは生まれも育ちも地球だから、あんまり詳しくないにゃ」

「へえ……そう。そういやわんにゃん星のわんにゃんってどんな意味なの?」

「……確か、わんにゃん教の経典からの引用だった気がするにゃあ。本当はちゃんとした発音があるけど、難しいから、みたいな……」

「ほら、やっぱり詳しいんじゃない」

 

 男たちはどっと笑った。猫宮もその波のような音の振動に合わせるように、唇を震わしながら笑った。その癖、霧のように取り留めもなく、妙に突発的な衝動がそこにあって、それが苛立たしいほど猫宮の鋤鼻器(じょびき)を刺激するので煩わしくて始末に負えない。とにかく、その場で叫びたくて仕方がなかった。

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