ある日牛嶋は日課の説教の果に愚風が帰るのを見送ってしまうと、急に肩の荷が下りたような、ほっとした目眩がした。
牛嶋は難しい顔つきをして、刺すような西日が部屋に画然とした翳を落としているのを見詰めながら安楽椅子に深く身を埋めたが、自分は一体何を緊張していたのかしらと思った。
そう言えば、自分はあの子の視線が堪らないほど蠱惑なのだと、混乱の最中茫然と思い付いたような気がした。始めから分かりきっていたことを諄々反芻するように思い付いたのである。成程、つい一ヶ月前の時分よりあの子の視線は何処か古沼の沈殿の底を思わせるように濁りきってしまったし、その不躾な視線が悪戯に緊張させているに相違ない。
そして、その背徳的な事実を確認して尚、我ながら不自然な程牛嶋は何らの忌避も狼狽もしなかった。寧ろ言い知れぬ蠱惑と安寧とが胸を横溢させた。そして恰も故郷を偲ぶように、眼を瞑った瞼の裏に愚風の端正な輪郭を描いたのである。その輪郭が、正面に此方を向いて、あの不埒な、穢らわしい視線を透かしている。牛嶋はその顔に向かって、坊や、平気よ、わたくしもあなた一緒に地獄に落ちるのだわ、という風に優しく語りかけたいようだった。
あの子は再三慟哭して懺悔して止まなかったけれど、わたくしにはわかる、キットまたいつか同じ過ちを繰り返すのだと、牛嶋はまた鼠径部がむらむらした。そうすれば、もしそうだとすると、その本懐の通りあの子はわたくしを食べるに違いない。
そして、何だか沈むような黄昏の紫色の底へ落下する頼りない気持ちの中で、夥しい恍惚によって微笑が膨らみ、やがて静かな涙となって溢れ出すのを感じた。
牛嶋の部屋を辞した愚風は、彼もまた一時にほっと全身が弛むような思いがしたが、静かな足取りで延々続く大豆畑沿いを歩いているうちに、牛嶋が最前陥ったに相違ない心理状態を目に見えるように思い浮かべた。そして渇望からの野獣の狂躁みたように破綻した愉悦が立ちどころに心を満たしたが、ふと往路を振り返ると辟易とする気分がした。
愚風は急に牛嶋のことがキタナラシイ存在に思えてきた。有り体に言えば、失望したのである。まるで下品な売春婦が四囲の路端に立ち塞がっている裡に牛嶋の姿を発見したような気がして、厭らしくうんざりした。あるいは自分の馬脚を発見したくなかったのかも知れない。とにかく道端に咲いている花の色香を一々振り返って、それが女の香水でないことを確認したりした。
依然縁辺には広大無辺な畑が広がっていて、密雲の低く閉ざすような紫の空へ歩いている愚風の他に人の姿は一切ない。高遠に望む工場の煙突が黒い煤煙を濛々と吐き出して、愚風は母が火葬されて間もなくのことを思い出した。
「アアッ……お母アさ──ン……」
と叫んだが、その声は自分の耳には入らなかった。ただ嘲けるような反響を青々とした大豆の苗に聞いただけであった。
やがて市街らしい辻に入ると、狸田と出会った。彼女は眼を白黒させて愚風の顔を見詰めるばかりで、何も言わなかった。愚風は睥睨するように狸田の顔を一瞥してから、暫く無視しようかと思い付いていたが、結局「今日はァ」と呟いた。
「はひっ……!? はっはっ……ッぁ……あひゅぅー……かひゅぅ……」
狸田は過呼吸を嵩じさせて心臓を抑え、やがてばたばた藻掻いて危うく悶絶するところまでいったが、溝へしゃがんで白っぽい苦い液体を吐き出した。数分間苦悶した。愚風は無論介抱もしなかった。劈頭第一に顰蹙していながら、早々に目を逸らして憂鬱至極な顔付きで黄昏の空を眺め耽っていた。
やがて発作が治まった気配を察すると、なおも振り向いて確かめようともせずに長足の上から落とすように言葉を零した。
「猫宮と飲むんだ……君も行くかね」
「……いえ……ケッコウです……」
狸田は力なく首を振るった。
「わたし……お酒好きじゃありません」
「そう……」
愚風は蔑むように頷いたが、
「じゃあ、左様なら」
とさっさと歩き出してしまった。
「……今にぃ……今にぃぃ……」
狸田が譫言のように呟いた。確かに愚風の耳にも聞こえていた筈であるが、一向に憂悶に尽きない顔付きを崩さず袖にされた。狸田はまた、自分の決意がすぅすぅと元の木阿弥に立ち返っていくような錯覚がしたので、
「イ……イ……今に殺してしまうッ……!」
と抗うべく叫んだ。愚風は立ち止まらなかった。
猫宮は愚風に申し訳が立たないような気がしだした。憎む理由はあっても申し訳がる必要はない筈であるが、しかしなぜだか猫宮は愚風に申し訳が立たないような気がしてならなかった。
もしも愚風に友情を絶たれたらそれこそ立つ瀬がないような、あるいはもっと深刻痛烈を極めた大袈裟な心配が真に迫って湧いてきて、始終愚風の顔を見ていないと今にも消滅してしまいそうな錯覚に見舞われた。その癖会うのも怖いようであり妙に足が進まないのであった。
その晩、毎週の通例である浅酌に赴くべくバイトを早々に切り上げて畦道を歩き出したが、途中で気が引け、不意に思いもよらず市街地へぶらりと出ると、これが生憎駄目の皮だった。キタナラシイ作業服もさることながら、猫宮のしどけない風采は市井の人間の顰蹙を存分に買ったのである。草食動物獣人たちの奇妙な目付きに居住まいが悪いような気分がしながら、諸方を彷徨った挙句にこのまま帰宅してはどうにも引っ込みがつかない落莫たる思いがたかまり、いよいよ愚風の元へ急ぐ決心を固めると、今度は衣料品店が眼について、吸い込まれるように中へ入った。
浅酌の会場は市街地の外れにあるおでんの屋台で、終日の裡に最も暗い幽暗の時刻であるから、その辻に現れて街灯の灯火がきらきら光るのを仰いでいると、さながら誘われた虫みたような矮小な寂しさが蔓延ってきた。
そこから眺めると屋台の暖簾の陰に愚風の背中と思しき輪郭が判じられたが、うっかりすると振り向くかも知れないと思われたので、酷く気の引けた思いが嵩じて、前髪を直したり慣れないスカートの裾を伸ばしたりした。
闇の中にぼんやりして屋台の光芒が浮かび上がっているのを眺めていたら、やにわに懐かしい郷愁を思わせる芳烈な香りが漂ってきて、純然たる心で油然と横溢してしまい、なんだかよくわからなくなって二足三足するうちに、小さい灯火の中にそっと身を押して内側へ入ってしまった。
「遅れたにゃあ……」
と言うと猫宮はめきめきと不安な気持ちが頭を擡げてきた。明順応に眼をぱちぱちさせながら愚風を見下ろすと、日本酒を傾けていた彼はやおら振り返ってぼんやりと見上げた。
「やあ……乙う洒落てるね」
急に猫宮はぼんやりした。座席に腰を掛けると、急に涙が溢れ出した。それが途方もない塊となって顔中を覆い、絶え間なく頬を流れ続けた。胸元が拘って、体中が燃えるようであった。
「猫宮さんは気狂いなんだにゃあ……」
やがて胸元の拘ったのが滞りなくなってくると、気分も落ち着いてくる。止め処なく流れていた涙は長歎とともにぱったりと止んでしまって、代わりに拠無いような不安な気持ちが嵩じてきた。
「猫宮さんは、自分というものがまるでわからないにゃ……。頻々これが自分だと思うものが手もなく否定されて、すごく頼りない気分になるんだにゃあ……」
愚風はぽかんとした顔で茫然と猫宮の顔を見ていて、心持ち頷くように顔を伏せてしまったが、一度ぐんなりと首を巡らしてから、また猫宮の顔と手に持ったお猪口とを物憂げに見較べていたが、ぶつぶつ呟くように、
「僕たちの実存というものは、最も人工的なものにこそ培われていたりする。こういった我々の煩雑な生活の中で、いつまでも本質に触れないような落莫とした気分だけが瀰漫している。百の内省も構造の中に回収されてしまうのなら、自己の主体的意思すらも一方的に関係付けられた現象と規定され、如何なる思考の価値すら同列に扱われてしまう。畢竟するに人間なるものは、その生活においてまず根源的な自然、又はそういう状態であるべき他者というものを我々は欲求しているのだ。然るに思い通りにならん時、その関係を逆転するということだけが、立ちどころに首肯できてくるだろう……」
愚風はジッと日本酒の水面が揺れるのを凝視しながら、蜜蜂の唸るような弾力の深い声でぶつぶつとそんな意味のようなことを喋っていたが、すると猫宮もまた訳もなく俯いたり逐一頷いたりしながら、深刻な風を装って唯々として聞いていたのである。その実は殆ど理解しかねていたのだが、しかし自らの本能的な欲求を肯定されるような心地で、その時の猫宮にとっては言い知れぬ安寧だった。
浅酌は酣になった時、猫宮は微醺を帯びながら木天蓼を燻らした。隣で愚風が会計する気配を感じながら、自分の過去と未来とを夢想した。草食動物からの迫害を逃れて地球へやってきた母の気持ちが、漸く初めて理解できたような気がした。同時に、ちっぽけな檻の中で変に理性を研ぎ澄まして死にたくなったり生きたくなったりしていても仕様がない。無意味に理性を絡み合わせることを止して、単にざっくばらんに選択し、溌剌とした世界で愉快に自然に生きねばならぬと思った。
少し前に、いつかの浅酌で、猫宮と愚風は喧嘩をしたことがあった。犬沼の嫉妬を巡った下らない痴話喧嘩であったが、二人には犬沼が思うような爛れた関係など露ほどもなかったのである。幾度となく同じ酌で酒を酌み交わそうと、二人には接吻のつもりなど毛頭ない、そういった関係性の中で生きているのであったが、今日ばかりはあるいは心臓と心臓の接吻ばかりを繰り返してもよござんす……と思うようだった。猫宮の様子を察してか、愚風は困ったように苦笑してから、
「近くにいい店があるんだ。紹介しようか」
と言った。