その晩、微醺を帯びた愚風と猫宮は逍遥に発った。愚風は贖罪に倦み疲れた。あるいは始めから、寛恕も済度も彼にとっては必要なかったのかも知れない。求むるは最たるに自分の罪咎を罰する人間であったのに、ついに己が欲求と同質の人間と正しく堕ちることに決めた。更に言えば、自罰こそが思い描く関係性の唯一無上の術であると理解したのである。
街の灯火が光るのを後ろ手に引き込みながら、決別を急ごうとする傷心を抱き、それを慈しんで彼らは芳烈な香りのする通りへ出た。知る友のない屋台の群を眺めた時、愚風はほっとした。焦燥して倦むことを知らなかった心が漸く拠所を発見したように安心してしまうのを感じて、穏やかな眠気を覚えた。古沼の沈殿の底に長く浸かった心身がゆくりなくも引き上げられて、溜まった膿や悪臭の限りを吹き出して転がり回りながら、その格好は涙として表出させた。
二人は大袈裟な明るさではしゃいだ。各々の顰めつらしい顔を笑い合ったり語り合ったりした。芳烈な香りのする肉串を片手にぶらりと屋台を見つけ、時々冷やかしながら、手当たり次第に目についたものを買い漁った。
猫宮は念願の肉の味に瞳孔を開いて舌鼓をうっていたようである。その芳烈な香気は、初めての体験であるはずの猫宮の官能に全神経を賭して訴えかけ、尋常一様の郷愁にも似た懐かしさを胸いっぱいに横溢させるのであるが、これが猫宮にとってはくらくらとした目眩となって、愚風にその身を預けない訳にいかなかった。
大変好機嫌であるらしく、猫宮は急に悪戯っぽい顔で愚風の顔に思い切り接吻をしたくなるのだが、別段それを隠すつもりにもならないので遂にそうしてしまうと、やはり愚風も気にかけずに憂鬱な微笑を湛えて、取り留めのない会話を滔々と続ける。
そんな時、猫宮は不意に犬沼の取り澄まして飾った顔を思い出した。愚風の憂鬱な顔を前にして、他に格好がつかないので唯々として同じような惨憺な顔を浮かべながら従順な追従者を気取っているに相違ない犬沼の様子は見ものだろうと思った。猫宮は吹き出したくなって、離れ難いように愚風にぴったりと密着して腕を組んだ。
別に死にたいわけではないのであるし、それに生きるとか、死ぬとか、差し当たって真剣に考えていた訳ではなかったのだが、その夜、二人は互いの心臓にナイフを刺した。心中者は往々にして自己陶酔の莫迦者であると厭世的な観念で生きる二人は屢々酒の肴にしたものであったが、成程この二人こそが大莫迦者で、全世界の哄笑と憫笑とを一挙に引き受けるのに相応しい千秋楽であった。しかし生憎観客など一人も居なかった。
まず猫宮が愚風の胸にナイフを突き刺して、どうやら獣人といえどもメスである彼女は持ち前のか弱さに屢々苦心したようであるが、無理矢理に押し込んで散々愚風を苦しめてから、自分の心臓にも同様のナイフを突き刺して死んだ。猫宮は微笑したいほどの遥な愛情を持って、沢山の愚風との情交や母の愛を妄想したのであるが、所詮一夜の出来事にして、猫宮は処女であったし、母からも愛されていなかった。とにかく、猫宮は死んだ。翌日市街地の路地裏で材木のように転がっていた。
それから一ヶ月余りすぎたが、愚風は病室で目を覚ました。劈頭第一に自らの格好を悟って、激しく慟哭した。猫宮の前途と命運とを思い出して、忽ち現れた呵責によって所構わず手足を暴れさせた。胸に固く結ばれた包帯を見るに、自分は生死を彷徨う重体を背負って尚生き残ってしまったようである。
愚風は出し抜けに病室の窓を飛び出した。大豆畑と大豆畑との中程を通る長い長い道を走り出した。凩の吹き荒れる晩秋の夕暮れであった。愚風は全身の戦慄きを誤魔化すべく一所懸命に地面を蹴り続けて、身体の内側からじりじりと火照りだす根源的な熱に身を窶したが、それに連れて全身が何処となく冷え冷え汗を掻いていくのに気がついた。
一本二本三本……一気呵成に電柱が背景に現れては消えて、現れては消えてゆく。自転車に乗った学生が横切った。往来の喧騒。豆腐屋の喇叭の音。何処かの家の軒先で箒を掃く音……。遠い、高い処で烏がカアカアと鳴いている……頭の上で、ライターがカチカチと点いた……と思うと、大豆畑の地平線から見知った煙突が生えてきた。
「アアッ……お母さァ──ん……お母さァ──ん……」
愚風は遠く煤煙のうねりに母親を重ねながら、咽頭が裂けるほど叫び続けた。あすこは大豆ミート工場だ。一ヶ月前まであすこで猫宮が働いていたのだ……と愚風は歴々と追想した。
考えてみると、自分というやつは全く行き当たりばったりに思いもよらないことばかりして、犬沼に会えばその肉体を欲しているように暗示したり、牛嶋に会えば暴力的な衝動を仄めかしたり、狸田に会えば普通人を装って冷笑したり、果には猫宮には手ずから道を誤らせたのである。
自分を裁いて欲しかったのか、罪から逃れたいのか、共犯者が欲しかったのか、自分は、一体──と愚風はアパートの教会に躍り込んだ。
「アアッ、主よ! 私の狂妄をお赦ししください!」
と大仰に悲壮を湛えて、膝をつきながら『わんにゃん教』の主に祈った。
「一時の過ちとは言い条、剰えその眩惑的な玩味に魅了され、私は再び過ちを犯すかもしらん……」
「死んで償ってください」
と、背後から声がした。愚風はやにわにわなわなと震えだして、恵まれた体躯から贅肉をまるっきり削ぎ落としたような、不自然な痩せぎすな背中を擡げて振り返った。そこには、両手で包丁を逆手に持った狸田が佇立していた。
「あなっあなたがァ……ふーっ……ふーっ……あなたがァ……猫宮さんを殺したんですよねェッ……!?」
愚風は唖然となって狸田の顔を凝視した。口から白い泡を吹き出しながら興奮する狸田の頓狂な格好を、頭からつま先まで、その小柄な体躯や茶色い毛髪やほっそりした白い腕の節々のえくぼに到るまで、隈無く見下ろしていた。
「キットそうです……全部あなたが悪いんですぅぅ……かひゅぅ……はひゅっ……だって……だって……みんな言ってますからっ……動物を殺すのは人間を殺すのと同じだって……だからぁ……だからぁッ! あんなに美味しそうにお肉を食べてたあなたはワルモノなんですよねェ……!?」
焦点の合わない狸田の視線は真っ直ぐに愚風に注がれて、対面する愚風はその視線の感覚を通して、わんにゃん星人たちの農村共同体的精神から自然に到達したような気がした。
現実原則に犯されるという尋常一様の、ある種稚拙ともとれる論理的整合性のない実感に、初めて納得めいたものを観じられるような、一つに母親が子供に仕方もなく言い含めるような、そんな哀愁がぼんやりと頭の中に充満したので、愚風は、覚えず涙を流していた。
そしてやおらに立ち上がって無言のまま近づくので狸田は、
「ひぃっ!? な、なななんですかっ、来ないでッ! いやぁっ! 食べられるぅぅう〜!」
と包丁をぶんぶん振り回しながら応戦した。しかし愚風はあっさり包丁を持った腕を抑えつけて、取り上げてしまった。
「参ったなァ」
急に愚風はポケットから取り出したハンカチで狸田の口元を拭った。狸田は怯えた顔でおずおずと愚風を見上げたが、彼は照れくさそうに顔を伏せて、
「参ったなァ。惚れちった」
とそう言って笑った。
狸田は忽ち顔を真赤にさせた。頭にガンとした衝撃を喰らったような立ち眩みがした。毛髪の全てが駆け出すような苦痛に耐え倦ね、歯の根が合わないように顎を震わしながら、雲を衝くばかりに絶叫するのであった。
「ばっ……莫迦にするなあああああッッッッ」
だから、館林家には狸の血が流れているのである。
(終わり)