地上に出るのは二週間ぶりだった。
排水口の縁を掴んで体を引き上げると、湿った風が顔に当たる。曇り空。灰色の建物。半分崩れたまま放置された壁。道端に何かが布を被せられて転がっている。
誰も気に留めていない。
僕も気に留めなかった。
「行くぞ」
アラタが言った。
僕とトキが後ろについて歩く。三人だけだ。
闇市までは歩いて小一時間。
この時代、車を持っている人間はほとんどいない。走っているのを見たのは、僕が覚えている限りで二度だけだ。どっちも黒くて、どっちも周りの大人が道を空けていた。
そういう連中がいる。
僕たちが関わってはいけない類の。
―――――――――
闇市が近づくと音が来る。
最初は遠雷みたいな塊で。
そのうち、ひとつひとつが分離してくる。
心臓。呼吸。喉。指の擦れる音。それが百も二百も重なって、頭の内側からぐわんぐわんと押してくる。
「……っ」
僕は足を止めた。
「リツ?」
「平気」
平気じゃなかった。
人が多い場所は、僕にとって滝壺の中と同じだ。
地下水道の二十人ならまだいい。三ヶ月かけて慣れた。誰の音がどれかもだいたい憶えてしまった。
でも、知らない人間が百人いると駄目だ。
どれが誰の音か分からないまま、全部が一度に流れ込んでくる。
目を閉じて数を数えた。
十まで数えると少しだけ和らぐ。
和らぐというか諦めがつく。
「大丈夫か」
「うん。行こう」
トキがちらりと僕を見たが、何も言わなかった。
こいつも似たようなものだからだろう。闇市は匂いも凄まじい。
―――――――――
闇市は、元は商店街だったらしい場所にできていた。
屋根の落ちた店舗の軒先に布を敷いて物を並べる。それだけの店が通りの両側にずらりと続いている。
売っているものは雑多だ。
干した芋。塩。よく分からない肉。石鹸。錆びていない釘。靴。布。薬だと言い張っている粉。
値段はあってないようなものだった。
金は使えなくはない。ただし、店によって金自体の価値が違う。ある店では札を受け取り隣の店では鼻で笑われる。だから確実なのは物々交換だ。
この時代、一番強い通貨は食い物だ。
「そこの」
声をかけてきたのは、髭の濃い男だった。
布の上に良く分からない肉と塩を並べている。
「何持ってきた」
アラタが袋を開けた。
中身はこの二週間で集めた物だ。ナイフが三本。金属の輪がひとつ。まだ履ける靴が二足。錆びていない工具が何点か。
金属の輪は、あの日、壁にもたれて死んでいた女の指から抜いたものだった。
男が輪を摘み上げて光にかざす。
「……銅だな、これ」
つまずいた。
僕は壁際にしゃがみ込んだまま膝を抱えていた。
誰も僕を見ない。
痩せた小さい子供が、退屈そうに座っている。それだけの光景だ。
男は僕を風景だと思っている。
「銅なら大した値はつかん。全部で、肉ふたつってとこだ」
「……そうか」
アラタが僕の方をちらりと見た。
僕は膝の上で、指を二本立てた。
嘘が二つ、という意味だ。
アラタは頷いて、男に向き直った。
「銅じゃないだろ」
男の眉が動いた。
「あ?」
「それと、肉ふたつってのも嘘だ。あんた、もっと出せる」
「なんだお前、金物の種類がわかんのか」
「できる奴が身内にいる」
男の視線が動いた。
トキを見て、それから僕の方を見た。
一瞬だけ。
僕は膝に顔を埋めて、何も知らないふりをした。
男の心臓が、少しだけ速くなったのが分かった。
―――――――――
結局、肉が五つと塩と、石鹸がひとつになった。
布に包んで袋に詰めながら、アラタが小声で言う。
「あの親父、お前のこと見てたぞ」
「うん」
「バレたか」
「たぶん、まだ」
まだ。
でも、次はどうか分からない。
このやり方には限界がある。それは分かっていた。
同じ市に何度も顔を出して、何度も当てていればいつか気づかれる。この集団には「嘘を見抜く奴がいる」と。
そうなった時、僕がどう扱われるかは考えるまでもない。
嘘を見抜く子供は便利だ。
便利なものは奪われる。
―――――――――
「坊やたち」
声は、後ろからかかった。
僕は振り返る前に、その男の音を聞いた。
落ち着いている。
異常なほどに。
この市の喧騒の中で、この男の心臓だけが湖の底みたいに静かだった。
振り返ると仕立てのいい上着を着た男が立っていた。
髭を綺麗に剃っていて靴が汚れていない。
この時代、靴が汚れていない大人というのはそれだけで異常だ。
「少し、話をしないかい」
アラタが僕とトキを背中に隠すように、半歩前に出た。
「何の用だ」
「怖い顔をしなくていい。仕事の話だよ」
男は笑った。
目も細めた。
声も柔らかかった。
全部、綺麗に整っていた。
——だから僕はそれを聞き逃さなかった。
この男は笑いながら、一度も心拍を乱していない。
嘘をつく時につまずきもしない。緊張もしない。何を喋ろうと、湖の底のまま。
この人の嘘は、たぶん、今の僕には見つけられない。
揺れが小さすぎる。
あるかもしれない。でも、あると言い切れるほど僕は、今の僕は自分の異能に自信を持てなかった。
——慣れてる。
この人は、嘘に慣れきっている。
「君たち、どこかに寝床があるんだろう。何人いる?」
「……」
「食べさせてやれるよ。雨風もしのげる。そういう場所を、私は用意できる」
周りの大人が数人、こっちを見ていた。
誰も止めない。誰も驚かない。
こういう勧誘はこの市では日常の一部なんだと分かった。
「異能を持っている子は、特に歓迎する」
男はそう言って、僕たちを順番に見た。
アラタを見て。
トキを見て。
最後に僕を見た。
その時。
男の心臓が、初めて跳ねた。
―――――――――
ほんの一拍。
半分にも満たないような、微かなずれ。
でも僕には分かった。
この男は、僕を見て、何かを思った。
喜んだ。
それを、はっきりと感じ取ってしまった。
「……その子は、女の子かい?」
背中が冷えた。
「男だ」
アラタが答えた。
「そうか」
男はもう一度笑った。
落胆はしていなかった。
心臓はまた湖の底に戻っていた。
でも、一度跳ねたという事実は消えない。
「まあ、どちらでもいい。話は変わらないよ」
「断る」
アラタは、考える素振りすら見せなかった。
「即答か」
「ああ」
「もったいないな」
男は肩をすくめて、それから、僕の方をもう一度見た。
「気が変わったら、東の通りの奥だ。青い戸の家。憶えておくといい」
そう言って、あっさりと背中を向けた。
追ってこなかった。
脅しもしなかった。
僕は、その背中が人混みに紛れて見えなくなるまで、目で追い続けていた。
―――――――――
帰り道、僕たちは三人とも黙っていた。
街を出て、人の音が遠ざかって、ようやく頭の中が静かになった頃にトキが口を開いた。
「……あれ、何」
「きっと……孤児を集める人たち」
「食わせてやるってのは本当だと思う。寝床も本当だと思う。あの人は、そこは嘘をついてない」
「じゃあ」
「その後の話をしてない」
トキが黙った。
この時代、子供を集める大人が何を考えているかなんて聞かなくても分かる。
働かせる。使う。売る。
そして、異能を持った子供はもっと別の使い道がある。
異能を持った親から生まれた子供は、時々、二人の異能がかけ合わさったような強い異能を持って生まれてくる。
それが分かってしまった時代に、子供というのはそういう扱いを受ける。
「アラタ」
「なんだ」
「即答したの、なんで」
アラタは前を向いたまま歩いていた。
「お前が言う前に断りたかった」
「……は?」
「もしお前が『嘘だ』って言ったら、あいつはお前が何者か分かるだろ」
足を止めそうになった。
「……そこまで考えてたの」
アラタはそこで初めてこっちを向いた。
「律。お前、あの市に来ない方がいい」
「でも、僕がいないと」
「二回に一回でいい。毎回はやめろ」
「……損する」
「損すればいい」
アラタは前に向き直った。
僕は何も言えなくなって、黙って後ろをついて歩いた。
―――――――――
その夜、僕は寝床の隅であの男のことを考えていた。
湖の底みたいに静かな心臓。
僕を見た時にだけ、一拍だけ跳ねた心臓。
あれは、僕の何を見たんだろう。
小柄で、痩せていて、女と間違えられた。
それだけならこの街に掃いて捨てるほどいる。
でも、あの男は喜んだ。
僕に何かを感じた音がした。
周りでは二十人足らずの子供が眠っていて、心臓の音が絶え間なく鳴っている。
うるさい、といつも思っていた音がその夜だけは少しありがたかった。
僕はその中に自分の音を混ぜて目を閉じた。
東の通りの奥。青い戸の家。
憶えておけと言われた場所を僕は本当に憶えてしまっていた。
忘れられたらどんなに良かっただろう。
オリ主
・名前は律(リツ)
・転生者、ヒロアカは大筋しか知らない。しかもうろ覚え
・前世の記憶はほぼなし
・いろんなものを感じ取ってしまう個性
・チビ、ガリ
アラタ
・孤児集団のまとめ役
・孤児の中ではかなり大きい
・孤児とは思えないほど理知的。めっちゃ面倒見がいい
・個性は肉体の硬化。腕が石とも金属ともつかない何かに変わる
トキ
・律より少し年上の少年
・個性は嗅覚の異常な強化
・孤児集団では一番冷静。言い争いをしない
・常に悪臭が蔓延してるから結構苦労している
ハル
・律より二つ三つ下の少女。
・指先が橙色に光る個性
ゴウ
・律より年上の少年
・拳が固くなる個性
どんな評価でも感想でもモチベになりますのでどうか…