僕は地図を作った。
紙はない。書くものもない。だから全部頭の中でだ。
どこにどの組の縄張りがあって、どこが空白地帯か。上納の荷が動くのが月に一度か二度で、その前は連中がよく動くこと。逆に荷が出た直後の数日は静かになること。
断片を集めて、並べて、繋げる。
拾った言葉をそのまま並べても意味はない。噂には尾ひれがつくし、自慢話は大きくなる。
だから、先に物差しを作ることにした。
まず答えを知っていることを聞く。今日は何かが高かったとかそういうどうでもいいことを。
相手がそれに答える時の音を憶える。何も隠していない時の、その人の平常の音だ。
それから本題を聞く。
平常からずれたらそこに何かがある。
ただ、これで分かるのは嘘をついているかどうかだけだ。
本人が本当だと思って喋っている間違いはどうやっても引っかからない。尾ひれも、膨らんだ自慢話も、喋っている方は本気だからだ。
そういうものは何人かに同じことを聞いて、情報が揃うかどうかで決めるしかない。
面倒だが他にやりようがない。
一ヶ月かけてそれをやった。
やることはいくらでもあった。頭を動かしている間はあの河原のことを考えずに済んだ。
「今日から三日は上で動いても平気だと思う」
僕がそう言うとアラタは頷いた。
「根拠は」
「昨日出荷された。次まできっと間が空く」
「そうか」
アラタはそれ以上聞かなかった。
僕は、自分が少し得意になっているのを自覚していた。
―――――――――
その三日目に僕たちは西の住宅街に出た。
出たのは四人。
僕と、トキと、ハルと、ユキ。
ユキを連れて行ったのはこの子の異能が使えるからだ。
鉄骨が落ちてきた日からユキは自分の体を歪ませるやり方を、少しずつ覚え始めていた。狭いところに入れる。挟まっても抜けられる。廃墟漁りには向いている。
ただ続けては使えない。
一度続けて二回やろうとして、戻った後にしばらく立てなくなったのを僕は見ていた。
本人はそのことより、異能が使えるようになったことの方を誇りに思っているようだった。
最近は前ほど怯えなくなっていた。
―――――――――
昼だった。
空は明るくて、風もなくて、僕たちは四人で崩れた家の中を漁っていた。
遠くの音を拾っていた。
拾っていて、でも何も感じられなくて右から左に流していた。
安全な三日だと決めていたから。
―――――――――
最初に気づいたのはトキだった。
「おい」
鼻を鳴らした。
「人の匂い。近い」
僕は顔を上げた。
聞き流していた音に意識を向け直した。
走ってくる。
五つ。六つ。
全部速い。
脈が跳ねている。
興奮していた。
―――――――――
仕事できたような音じゃなかった。
あの河原の連中とはまるで違う。
落ち着いていない。慣れてもいない。
もっとずっと単純な音だった。
狩りに来た音だ。
「逃げろ!!」
僕が叫んだ時にはもう囲まれていた。
―――――――――
若い連中だった。
六人。
一番上でも二十歳そこそこ。下の二人は僕より少し大きいくらいだ。
棒を持っている者と素手の者。
服装も揃っていない。誰かに雇われている人間の格好じゃなかった。
「いたいた」
先頭の男が笑った。
「言った通りだろ。この辺、まだガキが残ってる」
―――――――――
「そっちの小さいの、異能持ちだろ」
男がユキを指した。
ユキが僕の後ろに隠れた。
心臓が破裂しそうになっている。
「なんで分かる」
僕は聞いた。
時間を稼ぐためだった。
「この辺で見たって聞いた。体がぐにゃっとなるガキがいるって」
噂だ。
僕は奥歯を噛んだ。
ユキが異能を使えるようになって、それを本人が少し誇っていて、廃墟漁りで使っていて。
それを見られていた。
「連れてくぞ」
男が言った。
誰に売るのかもいくらになるのかも言わなかった。
言う必要がなかったんだと思う。
この街で異能を持った子供に値がつくことは誰でも知っている。
―――――――――
僕の地図にはこの人たちが載っていない。
載せようがない。
縄張りがない。どこかに属しているわけでもなく、上納の日なんて気にしない。
どこかで噂を聞いたから、小遣い稼ぎができるから。
決まった日に動かない人間は予測できない。
僕は、そんな当たり前のことをこの時に初めて知った。
―――――――――
トキが前に出た。
殴られた。
一発で倒れた。
ハルが叫んで指を光らせた。何の役にも立たない。昼だったからだ。
ユキが掴まれる。
その瞬間、あの子の輪郭が水に落とした墨みたいに歪んだ。ぐにゃりと。
男の手がその中をすり抜けた。
「うおっ」
ユキが地面に転がって四つん這いで僕の方に逃げてきた。
戻るのに十秒近くかかっていた。
もう一度掴まれたら次はない。
僕はそのことを知っていた。
だけれどこの連中は知らない。
―――――――――
「……なんだ今の」
男が自分の手を見ている。
脈が大きく、大きく跳ねていた。
怯えている。
僕はそれを聞き取った。
―使える。
―――――――――
「その子に触るとそうなる」
僕は言った。
「今のは、手だけで済んでる」
男の脈がまた跳ねた。
「……脅してんのか」
「別に。教えてあげてるだけ」
僕は肩をすくめた。
嘘だった。
真っ赤な嘘だ。
ユキの異能は自分の体を歪ませるだけで相手には何も起きない。しかし、今日はもう使えない。
でもこの人たちには分からない。
異能というものがどこまで何ができるのか。
この時代、それを正確に知っている人間なんてどこにもいない。
―――――――――
男は迷っていた。
脈が行ったり来たりしていた。
欲しい。でも怖い。
その揺れが手に取るように分かった。
―押せる。
僕はもう一手足した。
「あと、この辺、人の縄張りだけど」
男の動きが止まった。
「そこの子供に手を出すと、面倒なことになると思う」
「……誰の」
答えられなかった。
そんなものは存在しないからだ。
でも答えないことが、この場では一番効く。効いてもらわないと困る。
言えない名前がある、というふりが。
―――――――――
「……ちっ」
舌打ちをした。
「行くぞ」
「おい、でも」
「面倒はごめんだ」
六人が来た時と同じくらい適当に散っていった。
その足音が完全に聞こえなくなるまで、僕たちはその場を動かなかった。
―――――――――
トキは頬が腫れただけで済んだ。
ハルは震えが止まるまで僕の袖を掴んで離さなかった。
ユキはしばらく喋らなかった。
寝床に戻る道すがら、ぽつりと言った。
「……あたし、使えたよ」
「うん」
「役に立った?」
僕は、頷いた。
「立った」
嘘じゃなかった。
あの十秒がなければ僕の嘘は成立しなかった。
ユキは少しだけ笑った。
僕はその顔を見ていられなかった。
―――――――――
寝床でアラタに今日のことを話した。
「三日は安全だって、僕が言った」
「ああ」
「間違ってた」
「間違ってねえよ」
アラタは腫れたトキの頬に濡れた布を当てながら言った。
「話は合ってたんだろ。今日のは、そういうんじゃねえ」
「同じことだよ」
自分の声が硬くなるのが分かった。
「決まった日に動く連中のことは、僕にも分かる。調べれば分かる。でも、あいつらは日なんか決めてない」
僕は膝を抱えた。
「噂を聞いたから来た。それだけだ」
―――――――――
僕の集めてきたものは、全部段取りの話で、誰が誰に納めて、どういう順番で、いつ動いて。
こういう相手は調べれば分かる。順番があるなら崩せる場所もあるし付け込む隙だって作れる。だから僕は役に立てた。
でも、そうじゃない相手には崩せる場所がない。
最初から何も決まってないからだ。
―――――――――
だけれど一つ分かっていることがある。
あの六人のうち二人は異能持ちだった。
一人は指の関節が余分にあったし、もう一人は走る時の足音が人間のものじゃなかった。
あの人たちも
僕たちと同じようにそう呼ばれて、同じように追われている側の人間だ。
その上で子供を捕まえて売ろうとしていた。
―――――――――
あの先頭の男の音を思い出していた。
ユキの異能に触れた時はあれだけ跳ねたのに。
連れてく、と口にした時だけは少しも揺れなかった。
あの人にとって子供を売ることは驚くようなことじゃなかったんだと思う。
けれどあの人たちも飢えていた。
痩せていた。僕たちほどじゃないけれど。
―――――――――
その夜、僕は眠れなかった。
あの人たちは僕達を売って飯にしようとした。
対して僕は言葉を売って飯にした。
違う。
違うはずだ。
僕は誰も売っていない。僕が売ったのは、僕のものですらない、ただ拾った言葉だ。
―じゃあ、あの五十人は。
寝返りを打った。
答えの出ないことを考えるのは腹が減るだけだ。そう思うことにした。
―――――――――
目を閉じる前にあの男の最後の一言を思い出した。
―――「……誰の」
僕は答えなかった。
あの人はそれ以上聞かなかった。
聞かなかっただけだ。
十六人分の心臓が周りで鳴っていた。