徒花の咲く頃   作:あいいろのふとん

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第九話 悪者

 その夜、アラタに河原のことを話した。

 

 話すつもりはなかった。

 

 寝床の隅に座って、皆が寝静まるのを待って、それから隣に来たアラタに水の入った器を渡されて。

 

 器を受け取ろうとして落とした。

 

 水がこぼれて膝が濡れた。

 

 拾おうとした手がうまく動かなかった。指が震えていた。寒いからだと思おうとした。

 

「……律?」

 

 その声を聞いた途端口が勝手に動いた。

 

―――――――――

 

 

「指、振っただけだった」

 

「……何の話だ」

 

「指。こうやって。そしたら倒れた。それだけで倒れたんだ」

 

 違う。そこからじゃない。

 

「荷車じゃなかった」

 

「車だった。黒いやつ」

 

 アラタは何も言わなかった。

 

「子供が五人降ろされた。縄も何もなかった。逃げないって分かってるんだ。あの子たちも、そういうものだと思ってた」

 

 喉が渇いた。

 

 水を飲んだ。

 

 飲んでも渇いたままだった。

 

「大人が六人待ってて、そこに男が来た。足音がしなかった。気がついたらいた」

 

「……顔は」

 

「見えない。遠かったし、暗かった」

 

 僕は膝を抱えた。

 

「その男の音が、読めなかった」

 

 

―――――――――

 

 

 僕は説明しようとして、途中で詰まった。

 

 いつもなら説明できる。速いとか、遅いとか、跳ねたとか、沈んだとか。

 

 あの音には、どれも当てはまらない。

 

「怖がってなかった。怒ってもなかった。何も考えてないわけじゃないのに、何を考えてるのか分からない」

 

 アラタは黙って聞いていた。

 

「分かんないんだ」

 

「何が」

 

「あの人の音。聞こえてるのに分かんない。いつもなら分かるのに。怖いとか、怒ってるとか、嘘ついてるとか、全部分かるのに」

 

 声が上ずった。

 

「分かんないのが、一番怖い」

 

 

―――――――――

 

 

「三人目の前で止まった」

 

 言ってしまってから、僕は少し後悔した。

 

 ここから先は、言わない方がいい類の話だった。

 

 でも止まらなかった。

 

「何か言って、頭に触った」

 

「触っただけか」

 

「それだけ」

 

 僕は自分の手を見た。

 

「抜けたんだ」

 

「何が」

 

「その子が」

 

 そこで声が出なくなった。

 

 息を吸おうとして、吸えなかった。喉のどこかで、空気が引っかかって止まった。

 

 アラタが、僕の背中に手を置いた。

 

 何も言わなかった。

 

 その手の下で、アラタの心臓が鳴っていた。いつもと同じ、落ち着いた、深い音。

 

 僕はそれを数えた。

 

 一つ。二つ。三つ。

 

 十まで数えて、ようやく息が入った。

 

 

―――――――――

 

 

 アラタは動かなかった。

 

 この男の心臓が、少しずつ重くなっていくのが分かった。

 

「それで」

 

「指を振った」

 

「……は?」

 

「こう。払うみたいに」

 

 僕は指先を動かしてみせた。

 

「乾いた音がして、倒れた」

 

 僕はそこで黙った。

 

 言葉にすると、あの夜より短かった。

 

 たったそれだけのことを、僕は何日も抱えていた。

 

「死んだのか」

 

「うん」

 

「なんで」

 

「分からない」

 

 本当に分からなかった。

 

 今でも分からない。

 

 

―――――――――

 

 

 アラタはずいぶん長いこと黙っていた。

 

 その間、僕は耳を澄ませていた。

 

 アラタは速くはならなかった。

 

 でも深くなった。奥歯を噛む時の音がした。手の力が入って、指の関節が鳴った。

 

 怒っている。

 

 僕にじゃない。

 

「お前、それをいつ見た」

 

「……缶を取りに行った日」

 

「あの日か」

 

「うん」

 

「なんで言わなかった」

 

 僕は答えられなかった。

 

 それでもアラタは待っていた。

 

 この男はいつも待つ。答えるまで何も言わずに。

 

「……分かんない」

 

「……」

 

「言おうとすると、あそこに戻る。河原に。しゃがんでて、動けなくて」

 

 息が浅くなった。

 

「だから、言えなかった」

 

 言ってから目の奥が熱くなった。

 

 泣いてない。

 

 泣き方なんて知らない。

 

 なのに、アラタの顔が滲んで見えなかった。

 

 

―――――――――

 

 

 アラタは息を吐いた。

 

 それから僕の頭を一度だけ乱暴に撫でた。

 

「引っ越すぞ」

 

 僕は顔を上げる。

 

「北にする」

 

「……北」

 

「市から遠くなる」

 

「遠いと物が売れない」

 

「売れなくていい」

 

「食べ物が」

 

「律」

 

 アラタは僕の言葉を切った。

 

「お前、今の話をした後で、まだ市なんて気にしてるのか」

 

 僕は口を噤んだ。

 

 していた。

 

 当たり前みたいにしていた。

 

 北がどのくらい不便で、往復に時間かかって、どれだけ損をするか。あの子が指一本で殺された話をしながら、僕の頭の半分はそれを考えていた。

 

 自分でも気持ちが悪かった。

 

「……ごめん」

 

「謝ることじゃねえよ」

 

 アラタは壁にもたれた。

 

「そういうのはお前にしかできねえ。だから続けろ」

 

 少しだけ間があった。

 

「ただ、たまには手を止めろ」

 

 僕は黙った。

 

 黙っている間アラタの音を聞いていた。

 

 引っ越すぞ、と言った時から少しだけ重くなっている。

 

 前にも聞いたことがある音だった。上に行くと決めた時。場所を移すと決めた時。この男は何かを決めるたびに、ほんの少しだけ音が沈む。

 

 決めるのが平気な奴の音じゃない。もっと決断に苦悩している、そんな感じの音だ。

 

「ねぇ、アラタ」

 

「なんだ」

 

「なんで、なんで君はまとめ役なんてしてるの」

 

 

―――――――――

 

 

 アラタは少し驚いたようだった。

 

 心臓が一度大きく跳ねた。

 

「……なんだ、急に」

 

「前から思ってた」

 

「一番強いから、じゃないと思う。ゴウだって強い。でもあいつがまとめ役だったら、たぶんもっと早く誰か死んでる」

 

「そりゃそうだ」

 

「じゃあ、なんで」

 

 アラタは天井を見上げた。

 

 この地下水道の天井は低くて、手を伸ばせば届く。それでもこの人はいつも見上げる。

 

「別にやりたくてやってるわけじゃねえよ」

 

 

―――――――――

 

 

「前にな、別のところにいたんだ」

 

 アラタは言った。

 

「七人か八人くらいだ。俺が一番下だった」

 

 初めて聞く話だった。

 

「上に、兄貴みたいなのがいてな。そいつが決めてた。どこ行くか、何食うか、誰が何やるか。全部」

 

「その人は」

 

「死んだ」

 

 アラタはあっさり言った。

 

「怪我して、膿んで、三日で」

 

 

―――――――――

 

 

「そうしたら、誰も何も決められなくなった」

 

 アラタは自分の手を見ていた。

 

「腹が減っても、誰も上に行こうって言わねえ。行こうって言ったやつが、外れた時に悪者になるからだ」

 

 僕は何も言えなかった。

 

 その光景が見なくても分かってしまった。

 

「三日誰も動かなかった。四日目に一人出てって、帰ってこなかった。五日目に二人減った」

 

「……」

 

「結局、ばらばらになった」

 

 アラタはそこで少し笑った。

 

 いつもの、喉のあたりで空気が跳ねる笑い方じゃなかった。

 

「俺は誰のことも助けなかった。何も言わなかったからな。悪者になりたくなかった」

 

 

―――――――――

 

 

「だから、やってる」

 

 アラタは言った。

 

「決めるやつがいねえと、こうなる。だったら俺がやる。外れたら俺のせいでいい。そういうことにしとけば、誰かが物を言える」

 

 ―外れたら、俺が悪い。

 

 あの夜の言葉がそこで初めて繋がった。

 

 この人はずっとそうやって立ち向かっていたのだ。

 

 

―――――――――

 

 

「アラタ」

 

「なんだ」

 

「それ、しんどくない?」

 

 アラタの心臓が、一度だけ大きく鳴った。

 

 それからすぐにいつも通りに戻った。

 

「しんどいな」

 

 嘘じゃなかった。

 

 それ以上聞けなかった。

 

 

―――――――――

 

 

 引っ越しの支度は二日かかった。

 

 持っていく物より置いていく物の方がずっと多い。

 

 運べる物には限りがある。小さいのは自分の荷物すら持てないから、結局、大きいのが二人分背負うことになる。

 

 何を持って何を捨てるか。

 

 それを決めるのも僕の仕事になった。

 

 

―――――――――

 

 

 布は持っていく。いくらあっても足りない。

 

 欠けた器も持っていく。直せるしいざという時武器にもなる。

 

 錆びた工具は使えそうなものだけ。

 

 壊れた靴は置いていく。片方しかない靴も置いていく。

 

 そこで、手が止まった。

 

 片方しかない靴。

 

 これは冬に死んだ子のものだった。もう片方は、どこかで無くしたまま見つかっていない。

 

 誰かが履けるように、と思って取ってあったはずだ。

 

 結局誰も履かなかった。

 

 

―――――――――

 

 

 そういう物がいくつも出てきた。いくつも、いくつも。

 

 柄の欠けた匙。

 

 紐を編んだ輪っか。

 

 丸めた布の塊。

 

 持ち主がいなくなっても物はそのまま残る。置いた場所に、置いた時のまま。誰も片付けない。片付けるほどの時間も、気持ちも、ここにはない。

 

 だから物だけがずっとここにある。

 

 

―――――――――

 

 

 ぼろぼろの上着が一枚出てきた。

 

 見覚えがあった。

 

 いつか、僕とトキが瓦礫の陰で死んでいた男から剥いできたものだ。

 

 それを少し前に死んだ子が着ていた。

 

 死んだ人から取った物を、死んだ子が着て、今はもう誰も着ていない。

 

 僕はそれを置いていく方に積んだ。

 

 

―――――――――

 

 

 山はすぐにできた。

 

 何人分もの暮らしが、ほんの少しの間にひと山になった。

 

 持っていけない。持っていっても使わない。

 

 それでも積み上がった山から目を離せなかった。

 

 僕が持っていく錆びた工具も、欠けた器も、いつかは誰かの手で、こういう山に積まれるのだろうか。

 

 その誰かは、たぶん、これが誰のものだったかなんて知る由もない。

 

 ―ここで死ぬというのはそういうことだ。

 

 騒ぐ人はいない。泣く暇もない。誰も知らない。知らぬ間に死んで忘れ去られる。

 

 ただ、物が一つ、持ち主を失くして、次の山に積まれる。

 

 

―――――――――

 

 

「律」

 

 アラタが後ろに立っていた。

 

「行くぞ」

 

「……うん」

 

 僕は立ち上がった。

 

 排水口をくぐる時、一度だけ振り返った。

 

 暗かった。

 

 水の音がしていた。

 

 トウの件があった雨の夜に荷物をまとめて逃げ込んだ場所だ。

 

 それからここで何人か死んだ。

 

 僕が最初に音を聞いた場所はもっと南にある。

 

 あそこは今、誰かの寝床だったりするのだろうか。

 

 

―――――――――

 

 

 移動は丸一日かかった。

 

 夜に動くことも考えたがアラタが却下した。

 

 小さいのがいる。転ぶし、はぐれるし、泣く。

 

 だから昼に動いた。

 

 人の多い道は避けた。崩れた建物の陰を繋ぐようにして遠回りをした。

 

 先頭にトキ。

 

 最後尾にアラタ。

 

 僕はその真ん中にいて、ずっと前後の音を聞いていた。

 

 

―――――――――

 

 

 北の地下水道は前より深かった。

 

 水が近い。湿気が服に染み込んで抜けない。

 

 それでも誰も文句を言わなかった。

 

 皆、引っ越しの理由を聞かなかった。

 

 アラタが言ったからだ。それで足りていた。

 

 

―――――――――

 

 

 その夜、妙なことに気づいた。

 

 音が遠い。

 

 いや、違う。遠いのに聞こえる。

 

 前の寝床では出口付近が限界だった。それより先は、いるかいないかがぼんやり分かる程度で、人数までは数えられなかった。

 

 今は分かる。

 

 ここは前の場所より深い。壁も厚い。条件は悪くなっているはずだ。

 

 なのに届く範囲が広がっている。

 

 

―――――――――

 

 

「アラタ」

 

「なんだ」

 

「たぶん伸びてる」

 

「何がだ」

 

「僕の……異能の届く範囲」

 

 僕は言った。

 

「前より遠くまで分かる。今、上に三人いる。通り過ぎてく」

 

 アラタが顔を上げた。

 

「……上って、地上か」

 

「うん」

 

「ここからか」

 

「うん」

 

 アラタはしばらく黙った。

 

「便利だな」

 

「便利だけど」

 

 僕は膝を抱えた。

 

「縮まない、うるさい」

 

 

―――――――――

 

 

「縮まないってのは」

 

「戻らない。狭くできない」

 

 僕は自分の耳を触った。

 

 意味のない仕草だと分かっていてそれでも触った。

 

「うるさくなる一方だ。これからもっと」

 

「……止められねえのか」

 

「止め方が分かんない。最初から一度も止まってない」

 

 僕は言った。

 

「寝てる時も鳴ってる。」

 

 

―――――――――

 

 

 アラタは自分の右腕を見ていた。

 

 それから肘から先を灰色に変えた。

 

 この暗がりでも鈍く光るのが分かる。

 

「俺のもよく分かんねえよ」

 

 アラタが続ける。

 

「硬くなるだろ。でも、どのくらい硬いのか自分じゃ分かんねえ。岩より硬いのか、鉄より硬いのか。比べたことがねえ」

 

「……」

 

「硬くしてる間はそこの感覚がねえんだ」

 

 アラタは自分の灰色の腕を反対の手で叩いた。

 

 キィンと音が響く。

 

 アラタの音は何ひとつ変わらなかった。

 

「痛くもねえし、冷たくもねえ。あるのに無いみてえだ」

 

 その瞬間、天井から水が一滴落ちた。

 

 灰色の腕の上で、ぱた、と小さく弾けた。

 

 アラタの心臓が跳ねた。

 

 ほんの一瞬だった。すぐに元に戻った。

 

 でも、確かに跳ねた。

 

 叩かれても何も感じない腕だ。なのにこの男はたった一滴の水には気づいた。

 

 濡れた所が少しだけ色を変えていたような気がした。

 

 僕がそれをよく見る前に、アラタは親指で拭った。拭って、すぐに腕を元の肌の色に戻した。

 

 

―――――――――

 

 

「それって」

 

 僕は言いかけた。

 

 危ないんじゃないか、と。

 

 感覚がないということは何かあっても気づけないということだ。

 

 言おうとして、アラタの心臓が一度跳ねたのが分かった。

 

 速くなったんじゃない。

 

 言葉を飲み込んだ音だった。

 

「……まあ、硬えから大丈夫だ」

 

 

―――――――――

 

 

 僕は聞かなかった。

 

 聞けば、たぶん答えた。

 

 この男は僕に嘘をつけないと知っている。だから、聞かれれば言う。

 

 でも、言いたくないことを言わせるのは、僕がいつも大人にやっていることだ。

 

 アラタには、やりたくなかった。

 

 だから僕は、聞かなかった。

 

 ―それを後悔することになるなんて。

 

 この時の僕は、まだ何も知らなかった。

 

 

―――――――――

 

 

 目を閉じる直前に、四つの小さい心臓のことを思い出した。

 

 あの夜、河原にいた四人。

 

 あの子たちの音を僕はまだ憶えている。

 

 名前も知らないのに。

 

 ―憶えておいたところで何にもならない。

 

 でも、どうにも頭から離れなかった。




オリ主
・名前は律(リツ)
・転生者、ヒロアカは大筋しか知らない。しかもうろ覚え
・前世の記憶はほぼなし
・いろんなものを感じ取ってしまう個性
・チビ、ガリ

アラタ
・孤児集団のまとめ役
・孤児の中ではかなり大きい
・孤児とは思えないほど理知的。めっちゃ面倒見がいい
・個性は肉体の硬化。腕が石とも金属ともつかない何かに変わる

トキ
・律より少し年上の少年
・個性は嗅覚の異常な強化
・孤児集団では一番冷静。言い争いをしない
・常に悪臭が蔓延してるから結構苦労している

ハル
・律より二つ三つ下の少女。
・指先が橙色に光る個性

ゴウ
・律より年上の少年
・拳が固くなる個性


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