その夜、アラタに河原のことを話した。
話すつもりはなかった。
寝床の隅に座って、皆が寝静まるのを待って、それから隣に来たアラタに水の入った器を渡されて。
器を受け取ろうとして落とした。
水がこぼれて膝が濡れた。
拾おうとした手がうまく動かなかった。指が震えていた。寒いからだと思おうとした。
「……律?」
その声を聞いた途端口が勝手に動いた。
―――――――――
「指、振っただけだった」
「……何の話だ」
「指。こうやって。そしたら倒れた。それだけで倒れたんだ」
違う。そこからじゃない。
「荷車じゃなかった」
「車だった。黒いやつ」
アラタは何も言わなかった。
「子供が五人降ろされた。縄も何もなかった。逃げないって分かってるんだ。あの子たちも、そういうものだと思ってた」
喉が渇いた。
水を飲んだ。
飲んでも渇いたままだった。
「大人が六人待ってて、そこに男が来た。足音がしなかった。気がついたらいた」
「……顔は」
「見えない。遠かったし、暗かった」
僕は膝を抱えた。
「その男の音が、読めなかった」
―――――――――
僕は説明しようとして、途中で詰まった。
いつもなら説明できる。速いとか、遅いとか、跳ねたとか、沈んだとか。
あの音には、どれも当てはまらない。
「怖がってなかった。怒ってもなかった。何も考えてないわけじゃないのに、何を考えてるのか分からない」
アラタは黙って聞いていた。
「分かんないんだ」
「何が」
「あの人の音。聞こえてるのに分かんない。いつもなら分かるのに。怖いとか、怒ってるとか、嘘ついてるとか、全部分かるのに」
声が上ずった。
「分かんないのが、一番怖い」
―――――――――
「三人目の前で止まった」
言ってしまってから、僕は少し後悔した。
ここから先は、言わない方がいい類の話だった。
でも止まらなかった。
「何か言って、頭に触った」
「触っただけか」
「それだけ」
僕は自分の手を見た。
「抜けたんだ」
「何が」
「その子が」
そこで声が出なくなった。
息を吸おうとして、吸えなかった。喉のどこかで、空気が引っかかって止まった。
アラタが、僕の背中に手を置いた。
何も言わなかった。
その手の下で、アラタの心臓が鳴っていた。いつもと同じ、落ち着いた、深い音。
僕はそれを数えた。
一つ。二つ。三つ。
十まで数えて、ようやく息が入った。
―――――――――
アラタは動かなかった。
この男の心臓が、少しずつ重くなっていくのが分かった。
「それで」
「指を振った」
「……は?」
「こう。払うみたいに」
僕は指先を動かしてみせた。
「乾いた音がして、倒れた」
僕はそこで黙った。
言葉にすると、あの夜より短かった。
たったそれだけのことを、僕は何日も抱えていた。
「死んだのか」
「うん」
「なんで」
「分からない」
本当に分からなかった。
今でも分からない。
―――――――――
アラタはずいぶん長いこと黙っていた。
その間、僕は耳を澄ませていた。
アラタは速くはならなかった。
でも深くなった。奥歯を噛む時の音がした。手の力が入って、指の関節が鳴った。
怒っている。
僕にじゃない。
「お前、それをいつ見た」
「……缶を取りに行った日」
「あの日か」
「うん」
「なんで言わなかった」
僕は答えられなかった。
それでもアラタは待っていた。
この男はいつも待つ。答えるまで何も言わずに。
「……分かんない」
「……」
「言おうとすると、あそこに戻る。河原に。しゃがんでて、動けなくて」
息が浅くなった。
「だから、言えなかった」
言ってから目の奥が熱くなった。
泣いてない。
泣き方なんて知らない。
なのに、アラタの顔が滲んで見えなかった。
―――――――――
アラタは息を吐いた。
それから僕の頭を一度だけ乱暴に撫でた。
「引っ越すぞ」
僕は顔を上げる。
「北にする」
「……北」
「市から遠くなる」
「遠いと物が売れない」
「売れなくていい」
「食べ物が」
「律」
アラタは僕の言葉を切った。
「お前、今の話をした後で、まだ市なんて気にしてるのか」
僕は口を噤んだ。
していた。
当たり前みたいにしていた。
北がどのくらい不便で、往復に時間かかって、どれだけ損をするか。あの子が指一本で殺された話をしながら、僕の頭の半分はそれを考えていた。
自分でも気持ちが悪かった。
「……ごめん」
「謝ることじゃねえよ」
アラタは壁にもたれた。
「そういうのはお前にしかできねえ。だから続けろ」
少しだけ間があった。
「ただ、たまには手を止めろ」
僕は黙った。
黙っている間アラタの音を聞いていた。
引っ越すぞ、と言った時から少しだけ重くなっている。
前にも聞いたことがある音だった。上に行くと決めた時。場所を移すと決めた時。この男は何かを決めるたびに、ほんの少しだけ音が沈む。
決めるのが平気な奴の音じゃない。もっと決断に苦悩している、そんな感じの音だ。
「ねぇ、アラタ」
「なんだ」
「なんで、なんで君はまとめ役なんてしてるの」
―――――――――
アラタは少し驚いたようだった。
心臓が一度大きく跳ねた。
「……なんだ、急に」
「前から思ってた」
「一番強いから、じゃないと思う。ゴウだって強い。でもあいつがまとめ役だったら、たぶんもっと早く誰か死んでる」
「そりゃそうだ」
「じゃあ、なんで」
アラタは天井を見上げた。
この地下水道の天井は低くて、手を伸ばせば届く。それでもこの人はいつも見上げる。
「別にやりたくてやってるわけじゃねえよ」
―――――――――
「前にな、別のところにいたんだ」
アラタは言った。
「七人か八人くらいだ。俺が一番下だった」
初めて聞く話だった。
「上に、兄貴みたいなのがいてな。そいつが決めてた。どこ行くか、何食うか、誰が何やるか。全部」
「その人は」
「死んだ」
アラタはあっさり言った。
「怪我して、膿んで、三日で」
―――――――――
「そうしたら、誰も何も決められなくなった」
アラタは自分の手を見ていた。
「腹が減っても、誰も上に行こうって言わねえ。行こうって言ったやつが、外れた時に悪者になるからだ」
僕は何も言えなかった。
その光景が見なくても分かってしまった。
「三日誰も動かなかった。四日目に一人出てって、帰ってこなかった。五日目に二人減った」
「……」
「結局、ばらばらになった」
アラタはそこで少し笑った。
いつもの、喉のあたりで空気が跳ねる笑い方じゃなかった。
「俺は誰のことも助けなかった。何も言わなかったからな。悪者になりたくなかった」
―――――――――
「だから、やってる」
アラタは言った。
「決めるやつがいねえと、こうなる。だったら俺がやる。外れたら俺のせいでいい。そういうことにしとけば、誰かが物を言える」
―外れたら、俺が悪い。
あの夜の言葉がそこで初めて繋がった。
この人はずっとそうやって立ち向かっていたのだ。
―――――――――
「アラタ」
「なんだ」
「それ、しんどくない?」
アラタの心臓が、一度だけ大きく鳴った。
それからすぐにいつも通りに戻った。
「しんどいな」
嘘じゃなかった。
それ以上聞けなかった。
―――――――――
引っ越しの支度は二日かかった。
持っていく物より置いていく物の方がずっと多い。
運べる物には限りがある。小さいのは自分の荷物すら持てないから、結局、大きいのが二人分背負うことになる。
何を持って何を捨てるか。
それを決めるのも僕の仕事になった。
―――――――――
布は持っていく。いくらあっても足りない。
欠けた器も持っていく。直せるしいざという時武器にもなる。
錆びた工具は使えそうなものだけ。
壊れた靴は置いていく。片方しかない靴も置いていく。
そこで、手が止まった。
片方しかない靴。
これは冬に死んだ子のものだった。もう片方は、どこかで無くしたまま見つかっていない。
誰かが履けるように、と思って取ってあったはずだ。
結局誰も履かなかった。
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そういう物がいくつも出てきた。いくつも、いくつも。
柄の欠けた匙。
紐を編んだ輪っか。
丸めた布の塊。
持ち主がいなくなっても物はそのまま残る。置いた場所に、置いた時のまま。誰も片付けない。片付けるほどの時間も、気持ちも、ここにはない。
だから物だけがずっとここにある。
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ぼろぼろの上着が一枚出てきた。
見覚えがあった。
いつか、僕とトキが瓦礫の陰で死んでいた男から剥いできたものだ。
それを少し前に死んだ子が着ていた。
死んだ人から取った物を、死んだ子が着て、今はもう誰も着ていない。
僕はそれを置いていく方に積んだ。
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山はすぐにできた。
何人分もの暮らしが、ほんの少しの間にひと山になった。
持っていけない。持っていっても使わない。
それでも積み上がった山から目を離せなかった。
僕が持っていく錆びた工具も、欠けた器も、いつかは誰かの手で、こういう山に積まれるのだろうか。
その誰かは、たぶん、これが誰のものだったかなんて知る由もない。
―ここで死ぬというのはそういうことだ。
騒ぐ人はいない。泣く暇もない。誰も知らない。知らぬ間に死んで忘れ去られる。
ただ、物が一つ、持ち主を失くして、次の山に積まれる。
―――――――――
「律」
アラタが後ろに立っていた。
「行くぞ」
「……うん」
僕は立ち上がった。
排水口をくぐる時、一度だけ振り返った。
暗かった。
水の音がしていた。
トウの件があった雨の夜に荷物をまとめて逃げ込んだ場所だ。
それからここで何人か死んだ。
僕が最初に音を聞いた場所はもっと南にある。
あそこは今、誰かの寝床だったりするのだろうか。
―――――――――
移動は丸一日かかった。
夜に動くことも考えたがアラタが却下した。
小さいのがいる。転ぶし、はぐれるし、泣く。
だから昼に動いた。
人の多い道は避けた。崩れた建物の陰を繋ぐようにして遠回りをした。
先頭にトキ。
最後尾にアラタ。
僕はその真ん中にいて、ずっと前後の音を聞いていた。
―――――――――
北の地下水道は前より深かった。
水が近い。湿気が服に染み込んで抜けない。
それでも誰も文句を言わなかった。
皆、引っ越しの理由を聞かなかった。
アラタが言ったからだ。それで足りていた。
―――――――――
その夜、妙なことに気づいた。
音が遠い。
いや、違う。遠いのに聞こえる。
前の寝床では出口付近が限界だった。それより先は、いるかいないかがぼんやり分かる程度で、人数までは数えられなかった。
今は分かる。
ここは前の場所より深い。壁も厚い。条件は悪くなっているはずだ。
なのに届く範囲が広がっている。
―――――――――
「アラタ」
「なんだ」
「たぶん伸びてる」
「何がだ」
「僕の……異能の届く範囲」
僕は言った。
「前より遠くまで分かる。今、上に三人いる。通り過ぎてく」
アラタが顔を上げた。
「……上って、地上か」
「うん」
「ここからか」
「うん」
アラタはしばらく黙った。
「便利だな」
「便利だけど」
僕は膝を抱えた。
「縮まない、うるさい」
―――――――――
「縮まないってのは」
「戻らない。狭くできない」
僕は自分の耳を触った。
意味のない仕草だと分かっていてそれでも触った。
「うるさくなる一方だ。これからもっと」
「……止められねえのか」
「止め方が分かんない。最初から一度も止まってない」
僕は言った。
「寝てる時も鳴ってる。」
―――――――――
アラタは自分の右腕を見ていた。
それから肘から先を灰色に変えた。
この暗がりでも鈍く光るのが分かる。
「俺のもよく分かんねえよ」
アラタが続ける。
「硬くなるだろ。でも、どのくらい硬いのか自分じゃ分かんねえ。岩より硬いのか、鉄より硬いのか。比べたことがねえ」
「……」
「硬くしてる間はそこの感覚がねえんだ」
アラタは自分の灰色の腕を反対の手で叩いた。
キィンと音が響く。
アラタの音は何ひとつ変わらなかった。
「痛くもねえし、冷たくもねえ。あるのに無いみてえだ」
その瞬間、天井から水が一滴落ちた。
灰色の腕の上で、ぱた、と小さく弾けた。
アラタの心臓が跳ねた。
ほんの一瞬だった。すぐに元に戻った。
でも、確かに跳ねた。
叩かれても何も感じない腕だ。なのにこの男はたった一滴の水には気づいた。
濡れた所が少しだけ色を変えていたような気がした。
僕がそれをよく見る前に、アラタは親指で拭った。拭って、すぐに腕を元の肌の色に戻した。
―――――――――
「それって」
僕は言いかけた。
危ないんじゃないか、と。
感覚がないということは何かあっても気づけないということだ。
言おうとして、アラタの心臓が一度跳ねたのが分かった。
速くなったんじゃない。
言葉を飲み込んだ音だった。
「……まあ、硬えから大丈夫だ」
―――――――――
僕は聞かなかった。
聞けば、たぶん答えた。
この男は僕に嘘をつけないと知っている。だから、聞かれれば言う。
でも、言いたくないことを言わせるのは、僕がいつも大人にやっていることだ。
アラタには、やりたくなかった。
だから僕は、聞かなかった。
―それを後悔することになるなんて。
この時の僕は、まだ何も知らなかった。
―――――――――
目を閉じる直前に、四つの小さい心臓のことを思い出した。
あの夜、河原にいた四人。
あの子たちの音を僕はまだ憶えている。
名前も知らないのに。
―憶えておいたところで何にもならない。
でも、どうにも頭から離れなかった。
オリ主
・名前は律(リツ)
・転生者、ヒロアカは大筋しか知らない。しかもうろ覚え
・前世の記憶はほぼなし
・いろんなものを感じ取ってしまう個性
・チビ、ガリ
アラタ
・孤児集団のまとめ役
・孤児の中ではかなり大きい
・孤児とは思えないほど理知的。めっちゃ面倒見がいい
・個性は肉体の硬化。腕が石とも金属ともつかない何かに変わる
トキ
・律より少し年上の少年
・個性は嗅覚の異常な強化
・孤児集団では一番冷静。言い争いをしない
・常に悪臭が蔓延してるから結構苦労している
ハル
・律より二つ三つ下の少女。
・指先が橙色に光る個性
ゴウ
・律より年上の少年
・拳が固くなる個性
どんな評価でも感想でもモチベになりますのでどうか…