東方交縁稿 ~星を抱いた大鴉と、絆を織る人間~ 作:自由突破
旧地獄の熱気に汗を流しながら
配達を終えた俺は、
地霊殿の重厚な門を後にした。
納品を済ませ、懐に温かい報酬を感じながら、
地上へ続く帰路を急ぐ。
その時だった。
鼻腔をくすぐったのは、
暴力的なまでに甘く、
そして抗いがたい
「焦げたバターと卵」の香ばしい匂い。
「……なんだ、この匂い」
吸い寄せられるように視線を向けると、
地底の奥から来ているようだ。
この先には評判の人気お菓子屋が
あることを俺は思い出した。
もともと小腹が減っていたし、
配達で体力を使い、
血糖値も下がっている。
おまけに、今日の報酬はいつもより多めだ。
本来、下位の妖魔ですら
近寄るのを躊躇う場所だが…
「……少しくらい、いいよな」
空腹には耐えられず、
自分へのご褒美という
甘い言い訳を胸に、
俺は誘惑の源泉へと足を向けた。
俺が引き寄せられるようにして
辿り着いたのは旧地獄のさらに深部──
地獄の底の方に位置する
どこか寂れた一角だった。
歩を進めるごとに、
先ほどまでの喧騒が
嘘のように引いていく。
地獄の奥地へ行けば行くほど、
うろつく低級な妖魔の姿は減り、
代わりに冷徹な静寂が
辺りを支配し始めていた。
「確か、この辺りのはずなんだが……。
お、あった! 割とあっさりと見つけられてよかった」
周囲を険しい岸壁に囲まれ、
注意深く探さなければ
絶対に見落としてしまうような場所に
その店はひっそりと佇んでいた。
事前に噂を聞いていなければ
まず足を運ぶことはなかっただろう。
脳裏に浮かぶのは、風の奔るような羽音と、
悪戯っぽく笑う一人の天狗──
鴉天狗の新聞記者、射命丸文の姿だ。
初めて出会ったあの日、
彼女は愛用の下駄の歯が
ポッキリと折れてしまい、
しかも足を挫いてしまっていたのだ。
彼女は人間の里の橋の手すりに
腰掛けて途方に暮れていた。
その時、たまたま買い物帰りで
工具を持ち歩いていた俺が
応急処置として手際よく直してやったのだ。
それ以来、彼女とは奇妙な交流が始まり、
時折「これはここだけの特ダネですよ」と、
文々。新聞には載らないような
有益な裏情報や最新のニュースを
運んで来てくれるようになった。
その文が、いつだか楽しそうに
語っていたのがこの店の情報だった。
『地底の奥の奥、看板も名前もない、
知る人ぞ知るお菓子を出す茶屋があるんですよ。
自由さんなら、きっと気に入るはずです。
あ、お土産できたらよろしくお願いしますね♪』
そんな僅かな記憶を頼りに、
人通りの少ない奥地を尋ね当てた訳だが──
実際に目の前にしてみると、
話に聞いていたよりも店自体は
思ったよりずっと大きな店構えだった。
しかし、岸壁の影に隠れるように建っている上に、
文の言った通り看板の類が一切ない。
店名すら存在しないその佇まいは、
まさに一見さんお断りの
隠れ名店のオーラを放っていた。
「よし……入ってみるか」
意を決して、古びた引き戸に
手をかけ、中へと進む。
──その瞬間、俺は思わず息を呑んだ。
一歩跨いだだけで、閑散とした
表の寂れた雰囲気から
ガラリと世界が変わったのだ。
店内に一歩足を踏み入れると、
そこは地獄の底とは思えないほどに雅で、
まるで格式高い高級旅館を思わせる
立派な作りになっていた。
磨き上げられた床、
静かに香る上質な香木、
そしてディスプレイされた
美しく繊細なお菓子の数々。
オーブンから漏れ出す黄金色の香りが、
過労気味の脳を優しく溶かしていく。
「大繁盛」とまではいかなくとも、
広々とした店内の四割ほどを
埋めるくらいには客が入っている。
だが、その客層を見て、
俺の背中に冷たい汗が伝わった。
そこにいたのは、旧地獄の入り口で見かけるような、
本能剥き出しの凶暴な妖魔たちとは
全く質の異なる存在だった。
放たれる妖気の密度が違う。
一瞥しただけで、長い年月を生き、
高位・高名な力を持っていると確信できるような、
底知れない大妖怪たちが
静かに買い物を楽しんでいたのだ。
その圧倒的な格の違いに俺は気圧され、
思わず半歩ほど後退りしてしまった。
(あ、これは入る店を間違えたかも……。
いや、場所は合ってはいるんだろうけど、
流石に俺みたいな人間には
場違いだったかもしれないぞ……)
内心で激しい冷や汗を流しながら、
いつでも逃げ出せるように身構える。
しかし、店内の妖怪たちは、
そんな俺の動揺を気にする風でもなかった。
彼らは入り口の気配に気づき、
こちらを少しだけ一瞥したものの、
それが「ただの人間」だと分かると、
何事もなかったかのように
手元の商品へと視線を戻した。
品定めするような下品な視線は一切ない。
そこにあるのは、しっかりと
知性を持った者特有の、
洗練された「無関心」だった。
そのおかげで張り詰めていた
俺の肩の力が、ほんの少しだけ抜ける。
「ようこそ。お客様、こちらへは初めてですか?」
緊張で硬直しかけていた俺の前に
店員の妖魔の一体がそっと現れ、
丁寧な物腰で声をかけてくれた。
その行き届いた接客に安堵しつつ、
俺は小さく頷いた。
「あ、はい。初めてです。
おすすめのものを、少し見せてもらえますか?」
「かしこまりました。では、こちらの商品棚へどうぞ」
案内されるまま、俺は甘く香ばしい
匂いが立ち込める棚の奥へと進んで行った。
店員の丁寧な案内に従い、
木目の美しい商品棚の間を歩きながら、
俺は胸を撫で下ろしていた。
だが、緊張の第一波が去った後、
今度は全く別の、しかし現代人にとっては
死活問題とも言える問題が頭に浮かび、
冷や汗が背中を伝い始めた。
(……待てよ。これだけの店だ。
雰囲気が良くて客層が
ハイレベルってことは、つまり……)
俺の視線は、無意識のうちに
商品に添えられた値札の文字を探していた。
そう、これほどの格式高い空間と、
一目で只者ではないと分かる大妖怪たちが集う店だ。
懸念すべきは、その「値段」に他ならない。
もし、現代の銀座の老舗和菓子店や、
一流ホテルの専属パティスリーのような
価格設定だったらどうする?
下手をすれば、今日地霊殿へ一生懸命に
新鮮な野菜を運んで得た、
あの温かい報酬どころか、
これまでにコツコツと貯めてきた財布の中身が、
文字通り「羽をつけて一瞬で
飛んでいってしまう」のではないか?
博麗神社の加護とお札代だって
安くはなかったのだ……
(最悪、お詫びして一つだけ買って帰るか……)
そんな弱気な覚悟を決めながら、
恐る恐る、一番手前にあった
焼き菓子の値札を覗き込んだ。
(……ん?)
俺は思わず己の目を疑い、まじまじと見直した。
そこに書かれていた金額は、
俺の予想を遥かに裏切るものだった。
(……安い! 驚くほどリーズナブルだぞ、ここ!)
地底の上層部にある、
よく妖怪たちが群がっている
大衆的な菓子店や茶屋と比べても、
ほんの少し高い程度。
商品のクオリティや
店の荘厳な佇まいから考えれば、
さほど大差はないと言っていい。
おそらく、この店は利幅を貪るためではなく、
本物のお菓子の味を理解する
高位の顧客のために、
あえてこの地獄の奥底でひっそりと、
誇り高く営業しているのだろう。
価格という最大の障壁が取り払われた瞬間、
俺の心に宿っていた緊張は綺麗さっぱり霧散した。
我ながら、過酷な現代社会の修羅場を
くぐり抜けてきただけあって、
存外図太い性格をしているらしい。
安心感が広がると同時に、
先ほどまで鳴りを潜めていた胃袋が、
待ってましたと言わんばかりに
猛烈な空腹感を主張し始めた。
地霊殿への往復で消費したカロリー、
そしてこの静かな空間で使った
精神的エネルギーが、
脳に「糖分を摂取せよ」と
ダイレクトに命令を下す。
(よし、だったら──
遠慮なくいかせてもらうか!)
スイッチが入った俺の行動は早かった。
焼き立てのバターの香りを放つ
フィナンシェのような菓子、
地底の果実をふんだんに使った
色彩豊かなコンフィチュール、
生前大好物だった水ようかん、
様々なフルーツのタルト、
抹茶クリームのたっぷり乗ったショートケーキ
上品な餡が包まれた和菓子風のものまで。
目についた「気になったお菓子」を、
片端から手に取っていく。
最初は上品に選ぶつもりだった。
しかし、あれも美味そうだ、
これも捨てがたい、と手を伸ばしているうちに、
貸し出された手元の籠は
みるみるうちに埋まっていった。
気づけば、色とりどりのお菓子が
隙間なく敷き詰められ、
これ以上は崩落を免れないというほどに
ギュウギュウに詰め込まれていた。
(ふう……ちょっと買いすぎたか。
まあ、日持ちするものもあるしな)
自分に都合のいい言い訳を
脳内で考えながら、
俺はお菓子が山盛りになった籠を
両手で大切に抱え、
会計所の列に並んだ。
前後に並ぶのは、やはり相変わらず
静かな威厳を放つ高位の妖怪たちだ。
だが、今の俺にはもう恐れるものは何もない。
懐の財布は無事であり、
目の前には最高の甘味が待っている。
(早く帰って、お茶でも淹れて食べよう)
そんな、幻想郷の住人としては
あまりにも緊張感のない、
しかし至福のほのぼのとした
未来を思い描きながら、
俺は自分の順番が来るのを静かに待った。
その時の俺は、背後にまるで
「小さな太陽」が近づいてくるかのような、
強烈な熱気と気配が迫っていることには、
まだ気づいていなかった。