東方交縁稿 ~星を抱いた大鴉と、絆を織る人間~ 作:自由突破
2つ目。
バタン、と重厚な玄関の扉が閉まる。
古明地さとりは、
その場にしばし立ち尽くしていた。
足元に置かれた、鈍い金属光沢を放つ
巨大な円筒状の制御棒──
「第三の足」を見つめ、彼女は
本日何度目になるか分からない溜息を吐き出した。
(本当にお空ったら……。
あれほど大事なものを忘れてくるなんて。
それも、あのお菓子に心を奪われるあまり、
親切な彼にまで運ばせてしまうなんて……)
サードアイを通じて、
去りゆく自由突破の背中から漏れ出る
「心地よい疲れ」と「淡い満足感」を読み取る。
彼は嫌な顔一つせず、
むしろ自分の不手際が
あったかもしれないとさえ思っていた。
そんな彼の誠実さに、さとりは胸の奥が少しだけ、
くすぐったくなるような温かさに包まれるのを感じた。
(……さて、執務に戻らなくては)
彼女は小さく首を振り、意識を切り替える。
お空は今、汗を流すために入浴の真っ最中だ。
後でお説教は免れないだろうが、
今は彼が届けてくれた平穏を、
仕事という形で返すのが主の務めである。
執務室に戻り、羽ペンを走らせる。
だが、ふとした瞬間に、
自分の身体を軽く抱き抱えた。
先ほど、彼を見送る際。
あるいは、彼と交流するたびに。
その小さな身体には、
彼と出会って間もない頃に、
背負われた際の温かな感触が、
今も消えずに残っているような気がした。
「……ふふ、不思議な人」
キリの良いところまで書類を捌き終えると、
さとりはペンを置き、
傍らのソファに身体を預けた。
地底の静寂が、彼女を深い回想へと誘っていく。
彼──自由突破という「人間」と出会った、
あの日のことを。
すべての始まりは、博麗神社で開催された、
いつもの騒がしい宴会だった。
元々、人の集まる場所は得意ではない。
サードアイが拾い上げてしまう数多の欲望や邪推、
あるいは「嫌われ者」としての冷ややかな視線。
それらを避けるように隅にいた私の鼻腔を、
一際食欲をそそる芳醇な香りがくすぐった。
何気なく手に取った、
大皿に盛られた煮物やサラダ。
それを口にした瞬間、私の思考は停止した。
(……美味しい。何、これ……?)
一噛みするごとに溢れ出す、
力強い大地の生命力。
洗練された甘みと、驚くほど澄んだ雑味のない風味。
気がつけば、普段の私なら
赤面してしまうほどに、夢中で箸を動かしていた。
久しく、これほどまでに「心に響く」野菜を食べたことがない。
私の心を満たしたのは、単なる空腹の充足ではなかった。
それを作った者の、途方もない手間暇と、
作物への真摯な愛情……。
その「想い」そのものを食べているような、そんな感覚だった。
こいしにも、お燐にも。
そして、いつもお腹を空かせているお空にも。
この「幸福」を食べさせてあげたい。
私は意を決して、主催者の霊夢に
その出処を尋ねた。
「ああ、あの野菜? 一月くらい前に
幻想入りして来た、自由突破っていう男性が作ってるのよ。
加護を授けた時に移動ルートを
聞いたことがあるから、紙に書いてあげるわ」
霊夢がサラサラと書き殴ったメモを頼りに、
私は数日後、地底から地上へと足を運んだ。
そして、土の匂いを纏い、
配達ルートを回っている一人の男──
自由突破の姿を見つけたのだ。
「あの……えっと、初めまして。
地霊殿の、さとりと申します」
他人から嫌われることに慣れすぎた私は、
声をかけるのにも一抹の躊躇いがあった。
だが、彼は私の姿を認めると驚くほど自然な、
それでいてどこか「知っている」ような
不思議な親密さを含んだ視線を向けた。
(地霊殿のさとり……あ、本物だ。
観光で来たのかな?)
サードアイが拾い上げた彼の心の声は、
あまりにも無害で、そして驚くほど穏やかだった。
観光、という勘違いには思わず頬が緩んだが、
恐怖も嫌悪も含まない彼の「心」に、
私は一瞬で毒気を抜かれてしまったのを覚えている。
「どうも、自由突破です」
「あなたの作っているお野菜を買いたいのだけれど、
どこで注文すればいいのですか?」
私の問いに、彼は「ここで直接俺に言ってくれればいいよ」と、
屈託のない笑みを浮かべた。
差し出されたリスト。
種類は多くない。
だが、その一枚の紙からでも、彼がいかに丁寧に、
手塩にかけて育てているかが伝わってくる。
私は期待に胸を膨らませ、
これと、これ、と指を動かした。
「お届けは地霊殿へ。
簡易式だけど通行許可を渡しておきますね」
私はポケットからメモ帳を取り出し、
即座にサインと、私の妖力を込めて彼に渡した。
会話の緊張と、あの美味しい野菜が
わが家に届くという期待感。
それらに心を奪われ、
私はその時、一つの重大な事実を
失念していたのだ。
彼は、どこまでも
「ただの人間」であるということを。
我が家へ戻る道中、急に冷たい汗が
私の背中を伝い始めたのを覚えている。
地底には、気性の荒い異型の民が
掃いて捨てるほどいる。
鬼の勇儀、橋姫のパルスィ。
地霊殿の眷属に負けず劣らずの力を持つ
彼らが跋扈する旧地獄に、
人間の彼を一人で来させて良いはずがない。
約束は明日の午前十時。
朝採れの野菜を届けてくれるという。
せめて旧地獄の入り口まで私が迎えに行けば、
彼は安全に、そのまま里へ帰ることができるはずだ。
(……急がなくては。
彼に、何かあってからでは遅すぎる)
ソファから起き上がり、
さとりは再び執務机へと向かった。
窓の外には、地底の変わらぬ闇が広がっている。
だが、明日の十時になれば、
あの真っ直ぐで温かな「心」を持った人間が、
新鮮な野菜とともにこの暗闇を照らしにやってくる。
さとりは、自分でも気づかないほど
柔らかな微笑を浮かべながら、
再び羽根ペンを手に取った。
明日、彼を無事に迎えるために。
地霊殿の主としての仕事を、
今は精一杯片付けるために
翌日の午前九時。
私は、地上と地底を繋ぐ長く暗い縦穴の出口、
旧地獄への入り口に立っていました。
……いえ、立っていたというよりは、
かろうじて「存在していた」という方が
正しいかもしれません。
鏡を見るまでもありませんでした。
服装は地霊殿の主として恥ずかしくないよう整え、
髪も丁寧に梳かしたはずです。
ですが、その下に隠された顔は、
自分でも形容しがたいほど無惨なものだったでしょう。
(……眠れませんでした。
どうしても、あの人のことが心配で)
彼をこの危険な場所に
呼び込んでしまったという後悔。
もし彼が道中で野蛮な妖魔に絡まれていたら、
もし橋姫の嫉妬に当てられて心を病んでしまったら…
そんな負の思考が連鎖し、
私は結局一睡もできぬまま、
夜通しで書類作業を片付けることで
己の不安を紛らわせるしかありませんでした。
目元に浮かんだ薄っすらとしたクマを
化粧で隠す気力もなく、
緊張と疲労で私の表情は、
まるで精巧に作られた石像のように
ガチガチにこわばっていました。
そうして待つこと十分ほど。
縦穴の向こうから、聞き慣れた、
そして昨日から何度も
脳内で反芻した足音が聞こえてきました。
「あれ、さとりさんじゃないか!
こんな所で一体どうしたんです?」
サードアイが拾い上げた彼の心と、
実際に発せられた言葉は一字一字、
寸分狂わず同じでした。
裏表のない、真っ直ぐな驚きと心配。
私は主としての威厳を保とうと口を開きましたが、
寝不足と過労で麻痺した脳は、
まともな言語を構築することを拒否しました。
「いえ……ちょっとその、えー、あー……
私の方で不備がありまして……」
歯切れの悪い、情けない声。
地底の賢者と称される私が、
まるで初めてのお使いで迷子になった
子供のような話し方をしてしまった。
(うぅ…恥ずかしい。消えてしまいたい……)
彼を危険な目に遭わせようとしてしまった自分の至らなさと、
今この瞬間の無様な姿。
二重の羞恥に苛まれた瞬間、視界がぐにゃりと歪みました。
膝の力が抜け、糸の切れた
操り人形のように身体が崩れ落ちます。
「おっと!? ど、どうしたんだ? 大丈夫か!?」
咄嗟に放たれた彼の言葉からは、
ビジネスライクな敬語が消えていました。
地面に激突する直前、
私の脇の下に温かな手が差し込まれます。
彼は正面から私を受け止め、
倒れるのを阻止すると、
羽毛を扱うかのような手つきで
そっと体勢を元に戻してくれました。
それだけではありません。
彼は土で汚れた私の白い膝を、
気遣わしげに軽く払ってくれたのです。
サードアイが捉える彼の感情は、
どこまでも澄み切った「純粋な心配」のみ。
私は羞恥に顔を赤くしながら、
「大丈夫です、ちょっと
疲れているだけなので……」と告げようとしました。
ですが、その言葉が唇を離れるより早く、
二度目の、そして決定的な目眩が私を襲いました。
抗う術もなく、私は彼の胸の中に完全に倒れ込み──
そこで私の意識は、深い闇へと落ちていきました。
……どれくらいの時間が経ったのでしょうか。
意識が浮上し始めた時、最初に感じたのは、
揺り籠の中にいるような心地よい揺れと、
背中越しに伝わってくる「人の体温」でした。
(……ああ。やってしまった)
状況を理解するのに、時間はかかりませんでした。
私は、彼の背中に背負われている。
地底の入り口で二度も倒れ、
あまつさえ重い荷物(野菜)を
持っているはずの彼に、
自分の身体まで運ばせてしまっている。
猛烈な自己嫌悪が私を襲いました。
さぞ幻滅されたことでしょう。
さぞ重荷だと思われていることでしょう。
そんな不安に押しつぶされそうになりながら
恐る恐る、私は彼の心の内に意識を向けました。
──ところが。
そこに流れていたのは、軽蔑でも、下心でも、
ましてや怒りでもありませんでした。
それは、私の予想を遥か斜め上、
天蓋の岩盤を突き抜けるほどに突飛なものでした。
『軽いなぁ……ちゃんと食べてるのか心配だ……
そういえば、一番下の妹が倒れそうになった時も
こんな感じで背負ったこともあったっけな。
小柄な体格もそっくりだ。
よく見たら顔色も悪かったし、
地霊殿に着いたら寝かしてやったほうが良いだろうな』
(……妹?)
私は、危うく吹き出してしまうのを必死に堪えました。
確かに、私は彼よりも三十センチ以上背が低く、
人間の少女のような体躯をしています。
ですが、私はこれでも数百年の時を生きる
妖怪「さとり」なのですよ?
それなのに、彼は私を「守るべき妹」のように重ね、
あまつさえ体調を気遣って世話を焼こうとしている……。
なんて……なんて素敵な
〝お兄ちゃん〟なのでしょう。
冷たかったはずの私の頬が、
今度は別の理由で熱を帯びていくのを感じました。
羞恥心と、それ以上に深い安らぎ。
私はそのまま目を覚ますのが惜しくなり、
眠ったふりを続けたまま、彼の背中の温もりと、
リズミカルに響く心地よい心の声という、
無自覚な包容力に身を委ねました。
街道の脇では、旧地獄の荒くれ者たちが、
文字通り目玉を飛び出させて
この光景を眺めていました。
「地上の人間が、あの『さとり様』を
背負って歩いている」
地底始まって以来の前代未聞の珍事。
妖魔たちが驚愕に震え、道を開けていく中、
彼はそんな視線など一切気にする様子もなく、
ただひたすらに私を気遣いながら、
地霊殿への道を歩き続けてくれたのです。
あの時、私の心に灯った小さな火が、
今の「自由突破」という
存在への信頼に繋がっている。
(お空……あなたが彼に懐く理由、
私にはよく分かりますよ)
ソファでまどろんでいた
さとりは、そっと瞼を開けた。
膝の上には、彼が届けてくれたお空の忘れ物。
さとりは、誰にも見せることのない、
いたずらっぽくも慈愛に満ちた笑みをこぼすと、
そっと夜の静寂へと溶け込んでいくのであった。