その日は機嫌が悪かった。
端的に言って、イラついていた。
そういうときは、耳に届く声がやけに煩く感じるのだ。
仕事でちょっとやりすぎてしまったとしても、気分はまったく晴れやしなかった。
(シドさん──に頼るのは、ちょっと甘えすぎですかね)
流石にこうも頻繁に気分転換に付き合わせていては、向こうも辟易するだろう。
まだ日が昇っている。
バレエツインズ前であれば、この時間でも人は少ないだろうか。
落ち着ける場所を探して、ダイアリンはそこへと向かうことにした。
そして、電車に乗ろうと駅前についた頃に。
「なぁそこのキミ、暇か? 俺等と遊ばねぇ?」
「俺等と飲めばチョーおもろいぜ?」
「つーかその服何? 私服? ド派手すぎん?」
実に面倒なことに。
囲まれるように、声をかけられてしまった。
「はぁ……他をあたってください」
「まぁまぁ、そう言わずに」
手を出してくるなら叩きのめす。
──と、考えたが、わざわざこんな日に声を掛けてきたことがどうにも腹立たしい。
その苛立ちが態度に滲み出る前に、強引にでも抜け出してしまおう。
そうやって、ダイアリンが頭の中で考えているときに、どうにも馴染みのある声が聴こえてきた。
「その人、俺の連れなんですよ。離れてもらえます?」
顔を向けるまでもなく。
その声が、あの青年の声だということがわかった。
「なんだオマエ? 連れじゃねぇだろ、見てたぞ」
「いえいえ、ちょっと別行動してただけです。ね?」
「……ええ、はい」
「ほら」
どうして彼が、ここにいるのだろう。
どうして彼は、こんなに自分に都合の良いタイミングで現れてくれるんだろう。
「と、いうわけでお引き取りください」
「いやいや、それはちょっと許さねぇわ」
「女子の前だからってカッコつけてんじゃねぇぞ?」
「引いときな、痛い目見たくないだろ」
──と、ここでダイアリンは違和感に気づいた。
やけに食い下がるな、と。
ただのナンパであれば、さっと引けばいいだけの話ではないだろうか。
「そうか、そうか」
──となれば。
いくつか選択肢はあるとはいえ、理由のほうはそう多くない。
仕事の報復かなにかだろう。
「シドさん、あたしは大丈夫なので」
それに思い至ったダイアリンは、青年に静止を掛けた。
自分の仕事に……荒事に、彼を巻き込みたくなかったから。
そうして、ダイアリンはついに青年へと顔を向けて──。
グラス越しに。
彼が、驚くほど冷たい目をしていることに気づいた。
普段は柔和な青年だ。
正しい意味での優男──好青年といった、人当たりのいい雰囲気をしている。
……いや、ちょっとばかり遊び慣れてそうなところはあるけれど。
「消えねえなら潰す」
だから、ダイアリンは少し驚いた。
荒々しいその口調が、彼のものだとは思わなかったから。
「何イキってんだテメー!」
そう叫び、殴りかかった男に対し、青年は無感情な目でそれを眺め。
直後、男の足から大きく異音が響き渡る。
「ぁが、ぐぁぁぁぁぁ!?」
「何喚いてんだよ」
ダイアリンは、男が踏み込んだ瞬間に、右足があらぬ方向にへし折れていたのを見ていた。
それでも、何が起きたのかはわからない。
青年の攻撃手段が一体なんだったのか、理解できない。
「今からテメーの関節を倍にしてやるってのに、たった一つでそこまで叫ばれちゃ煩くてたまらねぇ」
男の声が、聴こえなくなる。
青年が何をしたのかは理解できないが、それでも何かをしたことは理解できる。
先ほどの攻撃の正体はわからないが、この結果から考察できるものとしては。
──音の操作。
青年は、おそらく音を操って攻撃をしているのだろう。
音というのは、すなわち空気の振動。
故に──それは、言葉の字面以上にとんでもない破壊力を誇る。
オーディオショップの店主らしい、そしていざ対面すると不可視かつ不可避に近い、恐ろしい攻撃手段。
「──っ、て、テメーまさか……!?」
「ま、待て、アンタの連れだと思ってなかったんだ。悪かった! アンタもこんな往来でやり合いたくねぇだろ? 頼む、見逃してくれ」
「──……まぁ、いいか。さっさと失せろ」
まるで名の通った誰かかのように、男たちは命乞いをし。
青年はそれに当然かのように応えた。
ともすれば、ダイアリンが知らないだけで、彼はそういう世界で名の知れた人物──なのかもしれない。
「……大丈夫でしたか?」
それでも、こうしてオーディオショップのシドとして話しかけてくれるのだから、それでいい。
ダイアリンは下手な追求を呑み込んだ。
「ええ。ありがとうございます」
「……また絡まれても面倒ですし、送っていきますよ。どこにいく予定だったんですか?」
「バレエツインズ前……でしたけど、そうですね」
あまり彼の手を煩わせないように、と遠慮していたのだが。
ばったり会ってしまったのなら話は別だ。
「もしよかったら」
少し照れくさいが、ダイアリンは言った。
「気分転換に付き合ってくれません?」
買い物をしたり。
カラオケなんかに行ってみたり。
二人で一緒に映画を観たり。
最後に、いつも通り海辺で波の音を聞いたり。
そんな一日の果て。
「……帰りましょうか」
もう遅い時間だ。
明日は仕事こそないが、電話がかかれば休日出勤という可能性もあり得る。
だから、今日はお別れの時間。
そうして帰って、朝を迎える準備をしなくちゃならない。
それでも、なんとなく。
ただ、なんとなく。
帰りたくないな、と。
そんな気分にもなってしまう。
そんな内心を見透かしたかのように、青年は言った。
「……うち、来ますか? 夜もまだ長い。酒でも飲めば、話すことだってたくさん出てくるでしょう」
と、言うことで。
ダイアリンは今、青年の家にいる。
雑然とした部屋だ。
男性の部屋だな、という感想を抱いて、それからダイアリンの頭にようやくその事実が染み付いた。
「酒と割材は各種取り揃えてますけど、何飲みますか? ……ダイアリンさん?」
「──あ、いえ、その……飲みやすいものでお願いします」
思えば、酒を飲むなんて機会もあまりない。
試してみようとも思わなかったし。
いつの間にか自分がそれを飲める年齢になっていたことも、忙しい日々の前には吹き飛んで行ってしまうのだから。
「ならまぁ、カクテルとかですかね──ま、安直にカシオレとかでいいか」
そうやって、酒を用意する青年の手つきはどこか慣れきっているようにも思えた。
随分と飲み慣れているようだ。
「……お一人でも飲むんですか?」
「昔はそうでしたね。最近はあまり飲みません」
忘れたいことも少ないので、と。
青年が付け加えるその言葉は、どこか苦みを含んでいた。
その記憶が薄れるまで──あるいは、飲み下せるようになるまで。
一体どれだけ、苦みに舌が焼けたのだろう。
青年が用意したグラスが、目の前に置かれる。
そうして隣に座った彼は、ウイスキーの瓶をそのままダイアリンに見えるように掲げて。
「さ、乾杯しましょう」
「……ええ」
瓶そのままなのか、という言葉は飲み込んで。
ダイアリンは、青年とグラスを打ち合わせた。
口に含んでみれば、想像していたアルコールの苦みはなく、まるでジュースのようなオレンジの甘みと風味が広がる。
これならいくらでも飲めそうなものだ。
ちらり、と隣を見れば、切り落とした瓶の上部から直に酒を飲んでいる青年の姿がある。
ウイスキーとは、そんなビールのようにグイグイと飲むものだっただろうか。
ダイアリンにはわからない。
ので、そういうものなのかとそのまま流し、彼女は口を開いた。
「……シドさんって、結構
「遊び──遊び、か。どうですかね? 生きるのに必死で、そういう余裕が出来たのはわりと最近の話です」
「……そうなんですね」
自分自身の生き方を言い当てられたような気もして、ダイアリンはそれ以上追求できなかった。
「ただまぁ、酒は飲まねぇとやってられなかったんで。飲み慣れてはいます。そういう意味では遊んでるといえるかもしれません」
既に瓶の中身を半分ほどに減らしながら、青年はそこで話題を打ち切った。
「ニコラス、BGM用のほう。スピーカー起動してプレイリスト再生」
『オーダーを受け付けました』
「……アシスタントAIですか?」
「ええ。弟が作ったんですけど、こいつがだいぶ便利でして」
『ドヤ顔いたします』
「この感情機能はかなりウザいですが」
「……ふふ」
確かに、ちょっと癪に障る。
けれどそれ以上に、早くも青年の口調が崩れてきたのがどこか面白くて、ダイアリンは笑ってしまった。
「弟さんがいるんですね」
「ええ。優秀な弟ですよ」
そこには、どこか自慢げな感情が見えている。
兄弟仲が良いんだな、と思って、少しだけ羨ましくなった。
そうして、一時間ほど。
気楽に喋りながら、酒をちまちまと飲み進めていき。
青年がウイスキーの瓶の二本目を空にしたところで、いきなり言った。
「ダイアリンさん、ちょっと場所移動しませんか? あっちのソファに行きましょう」
「……どうしてですか?」
実のところ。
このとき、ダイアリンは
ことこの青年に限ってお手つきのような真似はしない、という信頼はあるが、それでも酔っ払っている以上は何をするのかもわからない。
故に、一応確認だけ取っておく。
取ってはおくが──別にダイアリンとしては、
それが頭に回ったアルコールのせいなのか、それとも素の自分のままでもそう思っていたのか。
結局多少の酔いが回ったダイアリンには導き出せない答えだ。
「BGM用だと音が悪い。俺のメインシステム、聴きません?」
そんなダイアリンの気持ちなど知らず、青年はさらっと言い放った。
おずおずと、青年の隣に座ったダイアリンは、そこに大きなスピーカーが置かれていることに気づいた。
「なんか聴きたい曲ありますか?」
「……お任せします」
ダイアリンは音楽に詳しいわけではない。
だから、こういうときに咄嗟に解答は出てこなかった。
それなら、と言って青年が流したのは、時折カーステレオでも流しているアストラ・ヤオのライブ盤。
どんな音が出てくるのだろう、と期待して、ダイアリンは少し目を閉じる。
──そして、音が流れ始めた。
その音の傾向は、ニュートラルから僅かに色付いている。
滑らかで、薄く色づけたかのような音色は、繊細に耳を刺激して。
多少タイトな低音が、小気味よくリズムを刻む。
むしろ全体の音色をクールに寄せ、ボーカル付近の帯域だけ上手く薄いウォームへと偏らせたのは、果たしてどのような裏技を使ったのだろうか。
それでいて、音色が荒れていない。
これまで濃い音色を意識して作っていた青年にしては異質な、基本の性能を突き詰めたかのようなその音。
けれど、その音のグレード自体がありえないほどに高い。
それに、薄いだけでこの音色は──一級品と言えるだろう。
「あえて、全体はクールに寄せてるんです。そのほうがボーカルの響きがより美しく聴こえるから」
「……きっとみんな、それができたら困らないでしょう」
この音を、ちゃんと理解できているのかはわからない。
それでも、一聴してこの音が凄い、と。
それが理解できる耳を持って生まれたことが、ダイアリンはどこか誇らしく思えた。
この音には、それだけの価値があるから。
「本当に、良い音ですね」
「──……はは」
青年は、瓶を呷り、一気に中身を飲み干していく。
「……都合が良すぎるだろ、俺はいつの間にか死んじまったのか?」
「……シドさん?」
「いえ、なんでもありません。ただ俺は、幸せものだと思っただけです」
そう言って、青年はソファの背もたれへと深く沈み込んでいく。
「──ダイアリンさんは、自分が幸せになっちゃいけないと思うことはありますか?」
仮に、人生の選択に分岐路があるとするのなら。
──ダイアリンの直感は、これこそそうだと、告げていた。
唐突に訪れたシンキングタイム。
まるで逆鱗の縁を撫ぜるような、弩級の地雷の直上にて。
ダイアリンは、そうだと理解しながら、気負うことなく言い切った。
「……思わなくもないですね」
それは、当然そうだ。
いつか、犠牲に丁度いいと捧げられた命。
たまたま生き延びただけのそんな、価値のない自分。
今となっては、恨みの歯車の中にある自分自身に、人並みの幸福が訪れるとは思わない。
それでも。
「あたしが今の仕事に身を置いてるのは、シドさんみたいな人が少しでも幸せであってほしいからです──それじゃ、ダメですか?」
彼女が、今の仕事を続けられているのは──向いているから、というドライな感情の、裏側。
ほんの僅かな欠片程度だとしても、自分が幸せであってほしいと思う人が、満足に生きられるようにするためだ。
そしてダイアリンには知る由もないが、それは『請負人』の活動理由そのものでもあって。
「──そうですか」
と、青年は言った。
感情を見せない声だった。
それでも、どこか苦々しげで。
思いを押し殺していることは、想像に易い。
「もしシドさんが自分のことを幸せになってはいけないと、思い続けてしまうのだとしたら」
その奥に、飲み込んだ暗い気持ちがあることなんて、ダイアリンには簡単に見て取れる。
青年とダイアリンは、似ているから。
驚くくらいに似ているから。
だから、彼女は青年へとしなだれかかる。
「あたしは理由になりませんか?」
そっと、彼の腕を抱き込んだ。
どうなのだろう。
彼に、この胸の鼓動は伝わっているだろうか。
「あたしだって、シドさんが望むなら」
あけすけに。
つつみ隠すことなく、言ってしまうと。
男の家で、たった二人で飲むことを許容するなんて、その時点で心の準備はできているというのに。
全くその素振りさえ見せやしないのだから。
「……それなりに、好きなこと、してもいいですから……」
「──────」
言葉に対する返事は、なかった。
代わりに、規則正しい胸の動きが感じられる。
見れば、青年はもう眠ってしまっていて。
「……はぁ」
ダイアリンは、小さくため息をついてから、グラスの中に残っていたわずかな雫を飲み干した。
自分がちんちくりんなのが悪いのだろうか。
いくら育ち盛りだと口で言ってみても、ことこれまでを考慮するとそこまで身体の成長はもうなさそうだ。
そのことを、真っ当に残念がる日がくるとは思ってもいなかったが。
「どーせあたしはちっちゃいですよ」
そう言って、ダイアリンは立ち上がる。
僅かなスピーカーのシステムは、未だに音を流し続けていた。
心地の良い音だ。
この音を風景にしてしまうなんて、とんでもなく贅沢なことのように思える。
立ち上がって、そのまま周囲を見渡して──
──部屋の隅に、雑に隠されるように、キャンバスが置かれていることに気づいた。
それを見てみようと思ったのは、なんとなくの悪戯心だ。
決してすやすやと眠りこけた店主にちょっと恨めしい気持ちを抱いているとかではない。
ないったらない。
それでも、このくらいのちょっとした反抗くらい許されるだろう。
そうして、ダイアリンはキャンバスを見て。
「──ふふ」
笑って、そっと、元の場所へと戻しておく。
そうして、ソファへ戻り、青年の腕を抱きしめて。
そのまま、体重をすべて預け。
触れる温かさに、目を閉じた。
眠りにつく間際。
身体を、暖かい何かが覆ったような気がした。
こいつら一足飛びに大人になった連中だから生きるために不必要な部分が成熟しきってなくてピュアピュアに終わるんですけど;;
それで良いんですか請負人が;;