その男の話をするとき、母親はいつも悲しそうな顔をしていた。
『ねぇシド。私たちは、天使になるために生まれたんだよ』
それは母親が言い聞かせるように語る言葉だった。
天使とはなんだろうか。
その言葉が表すものを、俺は正しくは理解できていないのかもしれない。
『……それでも、私、時々思うの。人は皆天使なのよ。ただ飛び方を知らないだけ。だからシド、あなたは自由に生きるべきなの』
あの人は、そのとき最後に付け加えて言った。
『そして、物語になりなさい。あなたならいつかこの空よりずっと広く名前を響かせられるから』
「なんだ、答えられないか」
男は失望も何もなく、ただただ事実を確かめるように言った。
そこに特段の感情は含まれていない。
まるで心が抜け落ちたかのように、そう話す。
その様子は、『請負人』のそれと酷似していた。
肉体だけではない、明確な関連性のようにも思える類似点だ。
それでも、ダイアリンはその男と青年が同じであるとは思わなかった。
「まぁいい。そもそも解答は重要じゃないんだ。キミがこうして戻ったことを今は歓迎しよう」
男は繕った顔で笑みを見せた。
口元だけ歪めた、すべてを侮蔑するようにも思える笑みだった。
「嬉しいよ。キミの記憶が必要だったんだ。招待を断られたときはどうしようかなと思ったけど、信じてよかった。これも家族の縁だね」
「……家族の縁? よくもそんな言葉を吐けたなテメーは」
押し殺すかのように、青年は声音を努めて平静に保つ。
きっとその胸中では、激しい怒りが渦巻いているのだろう。
そんなものは、青年のように耳が良くなくとも声を聴けば一瞬で理解できる。
「じゃあ教えてくれよ。テメーはその家族とやらをどんな扱いしてきたってんだ。散々殺してゴミみたいに扱ったのはどういう了見だ」
「そりゃあ勿論悲しく思ったし残念だと思ったよ。けれどこの研究所はそういう場所だ。ここに属している以上、そういう扱いは仕方なかったと割り切るしかない」
「テメーここの所長だろ? クローン技術のノウハウを作ったのもテメーなはずだ。全部テメーが決めた舵だろうが。
「僕の一存で金が出てくると思っているのかい? 僕は軍から引き抜かれた身だし、このポストだって上から与えられたものだ。僕は業務の方針へ従っただけだよ」
「今もそうですか?」
男の言葉に、ダイアリンは青年より早く問いを返す。
「いや? ここを復旧して以降は出資も打ち切り。損切りされたんだ。それに協力者しか僕の理屈についてこれなかったし」
「その協力者っていうのは」
「サラだよ。讃頌会のね」
「……まーたサラですか」
辟易である。
あいつどこにでも出てくんな、とダイアリンは舌打ちしたくなる気分になった。
「まぁ結局、サラは死んで
「……それが、あの女か」
「そうそう。キミがぐちゃぐちゃにしたヤツ。帰ってきたと思ったら死んじゃってびっくりしたよ。治癒因子でも治しきれない致命傷だったよ。酷いことをするものだね。僕に似たのかな」
その瞬間。
空間が鈍く音を立て──擦れるような音だけが響き、何も起こらなかった。
「──────!」
「短絡。落第だ。同じ身体なのだから、同じ能力を持ち得ていると考えるのが自然じゃないか? そんなに僕に似たって言われるのが嫌なのか……」
「嫌に決まってんだろ、キチガイ野郎が」
「でもこれでわかっただろ? キミと同じように僕も手を動かすことすらなく人を殺せる。……初代虚狩りはともかく、そっちの二人は僕に敵意がないから死んでいないだけだと理解したほうがいい」
その淡々とした言葉は、ただの事実。
これまでその力に頼ってきたからこそ、その恐ろしさは理解できている。
だから、『請負人』はポケットの中に突っ込んだ手を握りしめた。
そうすることで発散できる怒りなど、わずかですらないというのに。
「さて、話を戻そう。キミの記憶が必要なんだ。今言ったサラの例通り、僕だけの記憶じゃ劣化品にしかなり得なくてね。それでもキミの記憶があれば多少は完成度が高まる」
「……そもそも、記憶がどうこうって言ってますけど。あなたはどうやって、自分の意識を別の身体に移し替えているんですか?」
それは、当然の疑問。
人間の身体に別の人間の意識を宿すなど、そもそも非現実的な話だ。
今目の前で実例を見せられていることが信じられないくらいの、非現実──それをどうやって行ったのか。
ダイアリンは、第一にそこが気になった。
「……ああ、そこからか。すまないね、どうも僕は、自分の前提を理解されたつもりで話す癖がある」
男は、そう言って話す。
「脳をスキャンするんだ。そうして内部データを電子化するだけだよ」
特段、なんてことのないかのように。
その内容の恐ろしさに気づけたのは──ダイアリンと、レミエールだった。
ダイアリンは、その頭の回転の良さから。
レミエールは、その理論を知っていたから。
「──昔のVRゲーム題材のお話であったね。それ、やった人は死ぬやつじゃなかった?」
「……ですよね。脳が焼き切れて死亡するでしょう」
「そこは問題ない。別に肉体を用意して書き込めばいい。刷り込みを応用して脳を焼き切らずに書き込む方法を見つけたんだ。書き込みの際に『死』のデータに耐えきれなくて、書き込み成功率は三割程度なんだけどね」
ただまぁ、成功するまでやればいいだけだ。
所長はそう淡々と付け加えた。
失敗した際に死亡する肉体に関して惜しむ様子もない。
それだけで、真っ当な感性をしている人間には相容れない存在であることを証明している。
「……キミさぁ。自分のデータ化が失敗してたらどうするつもりだったの?」
「……?」
レミエールのその言葉に、所長は首を捻る。
彼がこの手段を取ったのは、あくまで突発的なことだ。
何となく、始まりの主によって再生された肉体が気持ち悪かったから。
安全マージンなど用意もせずに、それだけの理由で次の肉体を用意してからすぐに彼は脳をスキャンした。
つまり、それはうまくいく確証のない博打なのだ。
「成功しただろ?」
しかし、そんなことは彼にとっては何の問題にもならない。
当たり前のように言ってのけた彼に、全員が絶句する。
失敗したとしても「あーあ」程度で終わらせてしまいそうな、そんな頓着のなさ。
他人どころか、自分でさえも──死という結果に対する頓着がまるでない。
だから。
「──ふぅん」
『請負人』が、カラーグラスを除けて無造作に一歩前に歩き出す。
初代虚狩りが、少女たちを庇うように軽やかに一歩前へと進む。
黒枝のダイアリンが、チャクラムを手で回すように展開し、構える。
戦う意思を表明するかのように。
「そういう態度なら、力尽くじゃないとダメそうだね」
所長は首を横に振って、嘆息した。
その仕草の間で、ガラス窓の向こうの様子が、変化する。
そして、部屋を取り囲むかのように、
そのどれもが同じ顔だ。
『請負人』。
そして、目の前の『所長』と。
「デジタルの利点は簡単にコピーができることだ」
戦闘に備えた彼らを嘲笑うように、所長は言った。
何を考えているのか理解できない彼が、初めて容易く読み取れる感情を浮かべて、笑っている。
「それじゃ、次の僕と仲良くな」
その言葉の直後。
吹き荒れる轟音が、部屋へと吹き荒れた。