Jukebox Driver 作:Penthouseはいいぞ
車の助手席で、羽はちらりと隣の店主を見た。
全く動揺する素振りもない彼だが、その内心ははたしてどのようなものだろうか。
薄いサングラスを掛け、車のエンジンを掛ける前に何やら端末を弄っているシドからは、いまいち感情らしきものが読み取れない。
「──うし。そんじゃ出ますよ。シートベルトオッケーですか?」
「大丈夫です」
「んじゃ、それで」
そうして、車が動き始めた。
カーステレオからは何やらロックバンドの楽曲が流れている。
その音色が妙に綺麗で、一聴してかなり手を掛けていることがわかった。
「オーディオ機器の音はざっくり三つの音色があるんですよ」
「三つ……えっと、いわゆるドンシャリってやつとかですか?」
「残念、違います。ニュートラル、ウォーム、クールなんかの三パターンがあるんですが、これだけじゃ抽象的すぎてわからないでしょう」
「まぁ……そうですね」
「なので参考までに言いますと、このカーステレオはウォームに寄せてます。そしてオーディオマニアは基本的にはウォームに行き着くことが多めですね。なんでかわかります?」
その言葉に、羽は少し耳を澄ます。
このカーステレオがウォーム系だとするなら。
音源チェック用のモニターヘッドホンとの音色の違いを、頭の中で反芻し、そして確定する。
「……人の声が、ウォームだと良く聴こえるからですか?」
「おっ、正解です。基本的にウォームのほうが声やストリングスがよく聴こえやすい傾向にありますね」
その気持ちは、羽にも理解できる。
なにせこの耳当たりの良い優しい音色は、長い間聴いていても違和感がない。
ギターの荒々しさは丸め込まれているようにも思えるが、むしろそれで良いのだろう。
「反面、音が丸くなるので籠もっているように聴こえます。あとはピアノのアタックなどが丸め込まれるので、勢いには欠けますね」
「クールはこれの逆ってことですか?」
「ちょっと語弊がある気もしますが、そういう認識でも良いでしょう」
「うーん……」
羽は少し悩んで。
「ニュートラルが一番良いのでは?」
「実際ニュートラルから少しウォームに寄せた塩梅がちょうどいいですね」
などと話していれば、車が止まった。
「さ、着きましたよ。工房──いや、店です」
その中は、鉄とオイルの臭いがした。
入口すぐにバイクが置いてあるのは、果たしてオーディオショップの様相として正しいのだろうか。
などと思いながら、案内に従って奥へと入っていく。
「ニコラス、バックルームにスピーカーとアンプ在庫展開」
『オーダーを受け付けました』
機械音声の後に、何やら駆動音が聞こえる。
アシスタントAIだろうか。
随分と羽振りが良いな、と思う。
オーディオショップは最早絶滅危惧種だ。
今どき高級オーディオを取り扱う店舗なんかそうはなく、だというのに彼はアシスタントAIに、倉庫のオートメーションまでできている。
電気代だって馬鹿にならないだろうに。
それだけ利益率が良いのだろうか。
「ちょっと視聴室準備してきますね」
「あ、はい」
と、そこで店主がバックルームのほうへと姿を消したので、羽は手持ち無沙汰になる。
暇潰しに端末をいじるのもなんとなく気分が咎めるから、彼女は周囲を軽く見回した。
グランドピアノ、ギターのキャビネット。
描きかけの絵が乗ったイーゼル。
放置された塗料。
少し先には、おそらく音動機らしきものが落ちている。
オーディオショップというには雑然としすぎているな、と羽は思った。
しかしキャンバスに描かれている絵は見事なものだ。
まだ着色の途中だが、だからこそ写真ではないという区別がつくほどに写実的だ。
描かれているのは、白と黒の髪をした女性らしき人物。
羽は店主のことを、詳しくは知らない。
それでも、彼がその人物に対して好意的であることが、筆致でわかった。
「お待たせしました──ああ、片付け忘れてた。あんま見ないでいただけると助かります」
「そうですか? こんなに上手なのに」
「完成していませんし、これなら写真でいいでしょう? 」
そのようなことはないと思うが、彼がそういうのであればあまり見ないようにしておく。
ただ、勿体ないなと思った。
写真で良いなど、そんなことがあるものか。
だって、今その絵に描かれている瞬間は、写真で切り取れないほど自然な、気の抜けた笑顔の一瞬なのだから。
「んじゃ、ちょっと説明しますね」
店主が視聴室に持ち込んだ機器を接続しながら、用意したスピーカーについての話をする。
「スピーカーに関しては最低ラインとして販売時の定価が10万越えくらいのものを選ぶことになるでしょう。あとはトールボーイ型を選ぶべきですね、そのほうがスイートスポットも広くて雑に鳴らしやすいです。で、その条件に当てはまるのがこれ」
店主がスピーカーを指す。
「中古相場で五万ほどです。俺がおすすめできるエントリーとしての最低ラインがここ。で、アンプなんですが……エントリーだとこっちは候補が少ない、つーか一択ですね。ベストセラーのこれ買ってください。プリメインは最初これから始めて、ステップアップしたくなったらプリメインやめてセパレートアンプに行くべきです」
「すみません、プリメインってなんですか?」
「プリアンプとパワーアンプがセットになったやつですね。で、このシステムの出音がこんな感じ」
そこから出てくる音は、なんというか──立体感とでも言うべきものが足りないように感じる。
どこかざらついたような感覚さえある。
それは羽の耳が既に越えてしまっているからか。
とにかく、比べると物足りない音が出ていた。
そのまま、羽は店主が価格帯別に用意していくスピーカーの音を聴いていく。
(アンプがセパレートになってある程度の価格帯になったら、もうかなり良い音だね──ハイエンドなんて言えない価格帯だけど、録音の差もわかるレベルになってきた。システム的には70万くらい……)
買える範疇ではある。
羽は投資にある程度長けている。金銭面で言えば、ある程度の余裕もある。
それでも、足りない。
最初に聴いたあの音が、あまりにも遠い。
ここまでくれば音の差というのは縮まってくると思っていた。
羽の耳では、妥協しても良いくらいの差になるんじゃないか、と。
実のところ、そう思いさえもした。
だがしかし、実際のところはどうだ?
価格帯が上がるほど、むしろ望みとは真逆に──あれがどれだけの高みにあったのかを痛感する結果になっている。
スピーカーが良いというのは大前提だ。
だがしかし、その音を最大限に引き出しているのは──彼が作ったアンプにほかならない。
「あー、南宮さん。そもそも、あなたには本当にこのラインのシステムが必要なんですかね?」
「……どうなんでしょう」
店主の問いには、はっきりと応えられなかった。
そうだ。
録音がはっきりわかるラインというなら、これで充分ではないか。
あれだけの高みを目指す必要は、どこにもない。
羽にとってはグループをもっと上へと押し上げるための一助でしかなくて。
ならばどうして、羽は迷っているのか。
自分の心と向き合ってみても、はっきりとした解答は出てこない。
羽の柔らかな頭は、いくら回れど明瞭な言葉を導き出せなかった。
だから、ぽつりと。
自分の中ですらあやふやな気持ちを、そのまま言葉に変えていく。
「……これでいいやって妥協したせいで上手く行かなくて、あのときこうしていればって思うのは嫌なんです。妄想エンジェルは、望みなんかなかったボクにとっての夢で……だから」
「なるほど」
その羽の言葉に。
ずっと感情の読めなかった店主の顔色が、変わった。
彼は微かに、息をこぼして。
「だとするなら、買うよりももっと良い方法がありますよ」
あっけらかんと、言い放ったのだ。
「うちでバイトしませんか? 時給は……まぁ、要相談で」
思い返してみると、きっとこの時が始まりだった。
店主と客。
──例えば、それだけの関係だったら、傷つくことなんてなかったのだろうか。
羽にはわからない。
それでも、出会ったことが間違いだとは思わなかった。