よくこのタイトルを読むに至りましたね。
軍が動く。
先陣を進む多くは、大柄な男たちと、怯える表情で鉈や斧を握り締める農民たちだ。
寄せ集めの義勇軍のような装いではあるものの、彼らは正規軍の一員として、暗く狭い山道を下っていた。
その数、三万人。
全員が全員歩兵としての戦闘を行うわけではなく、三万人のうち一万人は補給や工兵としての役割を担っていたが、それでも、その数はいまから攻め込む国の人口に迫るものがある。
狙いは港市国家リヴァツィ。
遥か昔、小さな漁村が、船を買い、山を削り、道を作り、貿易で他国と戦ってきた。
その小さく、悠久にも似た国の歩みを、甘い蜜を吸うためだけの、死の進軍だった。
道端に小石が落ちているとしても、彼らは数合で切り伏せ、侵攻を進めるだろう。
小石の数は、たった六百そこそこだ。
しかも、兵士ですらない。普段は網を投げ船を操舵する者たちが、家族を守るために立ちふさがっていた。
「聞け! リヴァツィの者どもよ! この戦はオルフェス皇帝陛下! 並びにガラ教大司教が認めた聖戦である!! 悪いようにはしない! そこを退き! 軍門に降るが良い!」
オルフェス軍の指揮官が騎乗のまま叫ぶが、反応はない。
両軍は、戦うために集まったのだ。
各々の思惑で、武器を強く握り締め直す。
それを感じ取り、指揮官は一度目を強く瞑った。
海風が強く、細かな雨が頬を濡らしたから。
あるいは、これから死ぬ命を背負う覚悟を決めたから。
指揮官が剣を高く掲げると、軍楽隊がラッパを吹いた。その強い音で、軍隊が坂道を下り落ちていく。
まるで波だ。
小石が飲まれ、生き残るわけがない。
それが、道理だ。
道理であるはずだ。
道理であらねばならない。
でなければそれは、まるで神が思し召した奇跡のようではないか。
◇ ◇ ◇ ◇
──今日って、何日だろう。
その女は、両手に剣を握り締めていた。指は何本か欠け、血は流れ続けている。
飛んできた矢を切り払うと、濡れた地面に片膝を付いてため息を零した。
その女は、あとすこしで母の誕生日だったことをいまさら思い出していた。
数日前に上がった炎は雨風に煽られ強く燃え広がり、生家を燃やし尽くしただろう。
出航した船は、もう水平線の遥か彼方だ。
その女は、膝を付いたまま向かって来た敵兵を切り伏せる。
立ち上がった拍子に冷たくなった肉塊を踏み、体勢を崩して寝転がった。
荒い呼吸なのに、呼気が弱くなっていると自分でも理解している。
死にかけている。
立っているのは、もはや自分と敵だけだ。
父も兄も、恋人も仲間たちも、もうただの肉に成り果てていた。
落とした剣の代わりにナタを拾った。
鉈の代わりに斧を。斧の代わりにだれかの武器を。
果ては千切れた誰かの腕を拾って敵を殺した。
──甘いもの食べたいなぁ。
小さいころに食べた、砂糖をいっぱい使ったケーキを思い出していた。蜂蜜酒でも、魚の煮つけでも良い。
喉が渇いたので地面を舐めた。
泥と糞尿が混じる血だまりが、彼女を生かし続けていた。
否、きっと身体はとうに死んでいる。
戦っている理由すら、彼女はもう考えていない。
ただ、動くものを攻撃しているだけだ。
「見事だ、海獣よ」
ゆっくりと近づいてくるフルプレートの騎士がいた。長剣を抜き放ち、その切っ先を彼女へ向ける。
その騎士は本国から正規軍を率いてきた貴族だった。
寄せ集めの先陣が総崩れし、それを成した悪魔を見た。
背中と腹、右肩に矢を受け、全身を切り傷の血で濡らし、それでも戦う女の姿だ。
立っていることすら奇跡のような様相は、貴族にそう言わしめた。
敵でなければ、跪いて口づけをしたい。
そんなことすら夢想してしまう、美しい光景。
そんな想いを壊したのは、下品な放屁音だった。
──あ、漏らした。
水のような下痢便が、女の臀部と太ももを伝って流れていく。
普段であれば、常時であれば、それは人として恥ずべきものだ。
しかし、ここに至ってその程度の行為が騎士の剣の切っ先を、僅かにも震わせることはなかった。
飛びかかってきた女の右腕を切り落とし、しかし左手の剣で騎士は強かに打たれた。鎧が凹み衝撃に倒れる。
騎士を助けようと周囲の兵士が襲い掛かったが、逆に女に殺されていく。女は鎧の隙間である足の関節に向けて剣を振るい、その剣はすっぽ抜けてぬかるんだ地面に落ちる。
なにも握っていない左手を見て女は首を傾げた。
指が、親指しか残っていなかった。
ならばと、女は落ちている剣の柄を噛みしめる。今度は落ちぬようにと、強く、歯が砕けてもさらに強く噛みしめる。
左腕を前足のように使って、怯える敵兵へ向かって行く。
「ま、て!」
すでに騎士は忘れ去られていた。
右足は深く斬りつけられていて切断を免れたのは、ただの幸運。騎士を守ろうとした兵士が繋いだ、想いのつまった偶然だ。
そしてその幸運に救われたのは、騎士だけではなかった。
姿勢を低く、本物の獣のように駆け抜けた女は、道半ばに倒れ伏していた。
手負いの獣とはいえ、血を、あまりにも流し過ぎた。
全身から、力と命が抜けていく。
地面を這う無力な女だ。
しかし、周囲の武装した男たちは、彼女に近寄れずにいる。
畏れて、いる。
王の威光を振り、神意を謳い、それでも、ただの女の生き意地の汚さを目にして、誰も動けなかった。
ざあざあと、雨が降り始めた。
この話は、これでお終い。
だって、死んじゃったんだから。
いやそうだよ、死んだんだから。
だから、だからさ、神さまさぁ。
どうか、どうか彼女の幸せを祈ってやってはくれないだろうか。
「えー、クソ漏らし姫こと海獣アスタロトは、こうして第七代皇帝の」
「ハレルヤー!!」
「ど、どうしたのですかアストさま!」
「あああああー!! 神さまー!! いますぐ祈れ馬鹿野郎ー!!」
「アストさま!? だれか! アストさまがご乱心ですわ!」
「ハレルヤー!!」
頭を掻きむしり、教科書から海獣のページを毟り取る。
そんな私は、アスト・バスタード・オルフェス。
アスタロト・リヴァツィの生まれ変わりである。
この話は、クソ漏らし姫没後、生まれ変わってしまったところから、始まった。