『魔法使いの嫁 × ロード・エルメロイⅡ世の事件簿 ――魔法使いと魔術師、その隣人たち――』 作:丹波りん
表から見れば、そこは店と呼んでいいのかさえ怪しい古本屋だった。
窓の向こうには古びた本が並び、長い年月を経た紙の匂いが、
扉の隙間からわずかに外へ流れている。看板も目立つものではなく、
営業しているのかどうかさえ、初めて訪れた者には分からないだろう。
けれど、エリアスにとっては見慣れた場所だった。
古びた扉を開けると、店内の薄暗さがそのまま彼を迎える。
並べられた本の間を抜け、奥へ進む。
古書店としての姿は、そこで終わる。
さらに奥へ足を踏み入れた先には、表からは想像もつかない工房が広がっていた。
アンジェリカの工房だ。
いくつもの箱が棚や作業台の周囲に収められている。
その中には、形も色も様々な宝石が一つずつ納められていた。
人形も丁寧に並べられ、魔法機構に使われる機械のような道具も、
それぞれ決められた場所に置かれている。
物は多い。
しかし、雑然とはしていない。
長くここで作業をしているアンジェリカにとっては、
どこに何があるのかが一目で分かるのだろう。
その工房の一角で、アンジェリカが作業をしていた。
エリアスが入ってきたことに気づくと、彼女は手を止めて顔を上げる。
「やあ、アンジェリカ」
「おや、エリアスじゃないか」
いつもの調子で迎えたアンジェリカだったが、すぐに何かに気づいたようだった。
彼女の視線が、エリアスの背後へ向かう。
「……チセは一緒じゃないのかい?」
「今日は一緒じゃないんだ」
エリアスは答えた。
それだけなら、ただチセが同行していないというだけの話だった。
けれど、アンジェリカはそれ以上何も言わず、エリアスの顔を見ている。
長い付き合いがあるからこそ、いつもと違うことには気づくのだろう。
工房の別の場所では、ヒューゴもエリアスへ顔を向けていた。
水の妖精である彼の身体が、わずかに揺れる。
「チセがいないなんて、珍しいな」
「うん」
エリアスは頷いた。
「少し厄介なことになってね」
その言葉を聞いたアンジェリカの表情が変わった。
作業台に置いていた道具から手を離し、エリアスへ向き直る。
「厄介なこと?」
「チセとルツが、今は少し離れたところにいるんだ」
「離れたところって……?」
ヒューゴが尋ねた。
エリアスは一瞬だけ言葉を探した。
どう説明すればいいのか。
自分自身、まだ完全に整理できているわけではない。
ただ、チセが今いる場所と、自分たちがいる場所との間には、
簡単には越えられない隔たりがある。
それだけは分かっていた。
「すぐには戻ってこられないくらいにはね」
そう答えてから、エリアスは二人に事情を話した。
チセとルツがどういう経緯でそこへ行くことになったのか。
そして、今どういう状況に置かれているのか。
必要なことだけを伝え、細かな説明は省いた。
アンジェリカは途中で口を挟むことなく聞いていた。
ヒューゴもまた、いつもの軽い様子を見せずに黙っている。
エリアスが話し終えると、工房の中に静けさが戻った。
アンジェリカはしばらく何も言わなかった。
やがて、視線を落とす。
「……チセは大丈夫なんだろうね?」
「今のところはね」
エリアスは答えた。
「向こうにいる人たちも、チセを悪く扱っているわけじゃないみたいだよ」
アンジェリカは小さく頷いた。
けれど、安心したという顔ではなかった。
チセが無事であることと、そこからすぐに帰ってこられることは別の話だからだ。
「それでも、しばらく戻れないのかい?」
「うん。もう少しかかると思う」
その返事を聞いたアンジェリカは、工房の中を見渡した。
棚に並んだ箱。
その中に収められた宝石。
道具や人形。
そして、魔法機構を扱うための様々な器具。
必要なものを探すような視線だった。
ヒューゴもその視線の先を追う。
「……何か送るのか?」
「ああ」
アンジェリカは短く答えた。
「向こうで必要になるかもしれないものを、先に用意しておこうと思ってね」
エリアスはアンジェリカを見た。
「チセに?」
「他に誰がいるんだい」
少し呆れたような声だった。
けれど、その言葉の奥にはチセを案じる気持ちがはっきりと滲んでいる。
「必要になってから用意するんじゃ遅いだろう?」
「そうだね」
エリアスは静かに笑った。
ヒューゴも工房の中へ視線を巡らせる。
「俺も手伝おうか」
「ああ。頼むよ」
アンジェリカはそう答えると、作業台の脇に置かれていた箱へ手を伸ばした。
けれど、まだ蓋を開けることはしなかった。
「必要な物を詰めたら、後であんたの家へ送るよ」
「ありがとう、アンジェリカ」
「礼はいいさ。チセが困ってるかもしれないんだろう?」
アンジェリカは箱を作業台へ置いた。
「だったら、こっちでできることをしておくだけだよ」
その言葉を聞きながら、エリアスは工房を見回した。
ここにあるものの多くは、彼自身も見慣れている。
けれど、アンジェリカがどんな時に何を選び、
何を作るのかまでは、エリアスにも分からない。
それでも、任せておけば大丈夫だということだけは分かっていた。
「じゃあ、お願いするよ」
「ああ」
アンジェリカは頷いた。
「それと、あんたはまだ他にも行くところがあるんだろう?」
「うん。今日は他にも寄らないといけない場所があるからね」
「だったら、ここは任せて行きな」
ヒューゴもエリアスを見る。
「気をつけてな」
「うん。ありがとう、ヒューゴ」
エリアスは二人へ軽く手を振った。
それから工房を抜け、古書店の薄暗い店内へ戻っていく。
古い本の匂いが再び強くなる。
扉を開けて外へ出ると、いつもの街の風景が広がっていた。
エリアスは一度だけ振り返る。
古びた古書店の奥では、アンジェリカとヒューゴがチセのために準備を始めようとしている。
「……早く帰っておいで、チセ」
誰に聞かせるでもなく呟いて、エリアスは歩き出した。
その頃、工房ではアンジェリカが作業台の前に戻っていた。
ヒューゴもその傍らへ寄る。
アンジェリカは改めて工房を見渡した。
箱に収められた宝石。
並べられた人形。
棚に整理された魔法機構の道具。
その中から、チセに送るものを選び出すために。
「さて……何が必要になるかね」
アンジェリカはそう呟き、最初の箱へ手を伸ばした。
※
エリアスが去った後、アンジェリカは改めて作業台の上へ向き直った。
先ほどまで話していた通り、チセがいつ戻ってこられるのかは分からない。
だからこそ、今のうちに必要になりそうなものを揃えておく。
アンジェリカは棚からいくつかの箱を取り出した。
まず選んだのは、着替えだった。
何日向こうで過ごすことになるのか分からない以上、
最低限の枚数では足りない。動きやすいものを中心に、普段使うものを何着か選んでいく。
それから、魔法を使う際に必要となる品々へ手を伸ばした。
小さな袋に入った鉱石。
色の違う宝石の欠片。
乾燥させた薬草。
そのほかにも、用途に応じて使い分けられる触媒がいくつもある。
アンジェリカはそれらを一つずつ確認し、必要なものだけを取り分けていった。
ヒューゴは、その様子を少し離れたところから眺めている。
「随分と持たせるんだな」
「必要になってからじゃ遅いからね」
アンジェリカは答えながら、最後の袋を加えた。
「チセが向こうで何をすることになるのか分からない。
だったら、使えるものは持たせておいた方がいいだろう」
「なるほどな」
ヒューゴはそれ以上口を挟まず、アンジェリカの手元を見守った。
やがて、必要な品が揃う。
衣服をまとめた包み。
鉱石や宝石を収めた小箱。
薬草の入った袋。
細かな道具。
それぞれを確認してから、アンジェリカは一枚の布を作業台の上へ広げた。
その上へ、準備した荷物を並べていく。
一つずつ位置を整え、互いにぶつからないよう間隔を調整する。
すべてを置き終えると、アンジェリカは布の端を確認した。
「これでいい」
ヒューゴが作業台へ近づく。
「送る準備はできたか?」
「ああ」
アンジェリカは頷いた。
そして、布の上に並べられた品々へ視線を落とす。
その目つきが、先ほどまでとは少しだけ変わった。
作業をする者の目から、魔法を扱う者の目へ。
アンジェリカは静かに手を伸ばした。
指先が布の上へ触れる。
工房の空気が、わずかに揺れた。
ヒューゴも何も言わず、その場に立つ。
アンジェリカは呼吸を整え、それからゆっくりと言葉を紡いだ。
【穿て、穿て、雫】
小さな声だった。
けれど、その言葉が工房の中へ落ちた瞬間、空気の中にあった魔力が動き始める。
【打て、打て、鋼】
鉱石や金属が、かすかな音を立てた。
【金の穂を裁ち、岩の臼引き】
布の上に置かれていた品々の周囲へ、淡い光が集まっていく。
アンジェリカの言葉に合わせるように、その光は少しずつ形を変えていった。
【夜に潜み、水の曲輪を、その手で廻せ】
ヒューゴの身体からも、水の気配が静かに広がる。
それは工房を満たす魔力へ溶け込むように流れ、アンジェリカの術を支えていく。
アンジェリカは最後の言葉を、はっきりと告げた。
【行くべきものが、あるべきところへ、流れるように】
その瞬間だった。
布の上に置かれていた荷物が、一斉に淡い光に包まれた。
衣服も。
鉱石も。
薬草も。
小さな道具も。
それぞれの形を保ったまま光の中へ沈んでいく。
やがて、布の上に残ったものはなくなった。
代わりに、そこには小さな白い球が浮かんでいた。
それはゆっくりと上下しながら、アンジェリカの目の前に留まっている。
「よし」
アンジェリカが手を伸ばす。
白い球はその手に触れることなく、ふわりと浮かび上がった。
その先に置かれていたのは、一羽の鳥の模型だった。
木と金属で作られたような、小さな鳥の姿。
ただの模型にしか見えない。
動くこともなければ、鳴くこともない。
アンジェリカがその模型へ手を向ける。
白い球が、ゆっくりと降りていった。
そして――
模型の身体へ落ちる。
小さな音がした。
次の瞬間、鳥の模型が震えた。
翼がわずかに動く。
金属でできていたはずの脚が、作り物とは思えないほど自然に曲がった。
固かった表面が変化していく。
木の質感が失われ、その上から黒い羽毛が生まれていった。
翼が大きく広がる。
尾羽が伸びる。
頭部が動き、黒い瞳が工房の中を見渡した。
やがて、その姿は完全な一羽のカラスへと変わっていた。
先ほどまで作業台の上に置かれていた模型と同じものだとは、もう思えない。
カラスは首を傾ける。
それから、短く鳴いた。
「カァ」
ヒューゴがその姿を見て、目を細める。
「ちゃんと生きてるな」
「ああ」
アンジェリカは満足そうに頷いた。
カラスは作業台の上を数歩歩いた。
それから、まるで行くべき場所を知っているかのように、窓の方へ向かっていく。
窓辺まで来ると、そこで立ち止まった。
ヒューゴが先回りして窓へ手をかける。
「開けるぞ」
「頼むよ」
窓が開く。
外から風が吹き込み、工房の中へ入り込んだ。
カラスの黒い羽毛が風に揺れる。
一度だけ翼を大きく広げる。
そして、窓枠を蹴った。
カラスは外へ飛び出した。
羽ばたきながら、古い街並みの上を進んでいく。
その身体には、先ほどまで存在していた荷物の姿はない。
けれど、白い球となったそれらは、確かにカラスの中へ収められている。
カラスは迷うことなく、エリアスの家へ向かって飛んでいった。
アンジェリカは窓辺まで歩き、遠ざかっていく黒い影を見送る。
ヒューゴも隣に並んだ。
「届くかな」
「届くだろうさ」
アンジェリカは答えた。
「行くべきものが、あるべきところへ流れるように――そうしたんだからね」
黒い鳥は、街の向こうへ消えていく。
二人はしばらくその姿を見送っていた。
やがてカラスが見えなくなると、ヒューゴが小さく息を吐いた。
「これで少しは安心だな」
「ああ」
アンジェリカは頷いた。
けれど、すぐには窓を閉めなかった。
遠く離れた場所にいるチセのことを思いながら、アンジェリカは空を見上げる。
「……無事でいるんだよ、チセ」
その声は、風に乗って静かに消えていった。