『魔法使いの嫁 × ロード・エルメロイⅡ世の事件簿 ――魔法使いと魔術師、その隣人たち――』 作:丹波りん
「では、拙もそろそろ休もうと思います」
グレイが席を立った。
夜もすっかり更けている。時計塔で過ごした一日も終わりに近づき、
部屋の中にはようやく静かな時間が戻ってきていた。
「うん。今日はありがとう、グレイ」
「いえ。拙の方こそ、ありがとうございました」
グレイは小さく頭を下げ、扉へ向かう。
「おやすみなさい」
「はい。おやすみなさい、智世さん」
扉が開き、グレイが廊下へ出る。
やがて扉が閉じられた。
かちり、と錠の音がする。
その音が消えるのを待ってから、智世は振り返った。
ルツが、こちらを見ていた。
いや。
正確には、その向こう。
部屋の一角に向けられた赤い瞳は、さっきから一度も揺れていない。
智世もそちらへ目をやった。
何もないように見える。
家具の陰にできた薄暗がり。その奥に、人ひとり分ほどの空間があるだけだ。
けれど、そこには確かに気配があった。
隠しているつもりなのだろう。
かなり上手く抑えられている。魔力の流れも、
呼吸の音も、意識して追わなければ拾えないほどだった。
それでも、完全に消すことはできないらしい。
智世は何も言わなかった。
ルツも同じだった。
ほんの一瞬だけ視線を交わし、それで終わる。
智世はいつものように椅子へ腰を下ろした。
「……今日は疲れたね、ルツ」
「そうだな」
ルツも何事もなかったように身体を伏せる。
「時計塔の中、思っていたよりずっと広かった」
「あれだけ魔術師が集まっていればな」
「グレイにも、いろいろ教えてもらったし」
智世は今日のことを思い返した。
時計塔の中を歩いているとき、何度も視線を感じた。
すれ違う人が、こちらを見る。
ほんの一瞬で目を逸らす人もいれば、そのまま歩きながら様子を窺う人もいる。
グレイが隣にいるから、露骨に声を掛けてくる者はいなかった。
それでも、視線までは隠せない。
見知らぬ人間が、グレイに連れられて時計塔の中を歩いている。
それだけで、気になる理由には十分だったのだろう。
何者なのか。
どこの派閥に属しているのか。
何のためにここへ来たのか。
警戒する目もあった。
けれど、それと同じくらい、ただ知りたいという目もあった。
珍しいものを見つけた子供のような好奇心。
あるいは、自分の知らないものを確かめようとする魔術師らしい観察。
「そういえば……」
智世が膝の上で指を組む。
「今日、ずいぶん見られたね」
「見られていたな」
「ルツも気づいてた?」
「気づかない方が難しい」
「そっか」
智世は苦笑した。
「仕方ないとは思うんだけどね。私、あの人たちにとっては知らない人だもの」
「それだけではないだろう」
「うん?」
「お前が、何をする人間なのか分からない」
「ああ……」
智世は納得したように頷いた。
「そうだね」
少し考える。
「警戒している人もいた?」
「いた」
「やっぱり」
「だが、面白がっている者もいた」
「好奇心?」
「ああ」
「……なら、仕方ないね」
智世はそう言ったものの、少しだけ肩を落とした。
「ずっと見られていると、やっぱり疲れるけど」
「気にしなければいい」
「ルツは簡単に言うね」
「事実だ」
「もう」
智世が小さく笑う。
それから、ふと何かを思い出したように顔を上げた。
「そういえば、お昼ご飯は美味しかったね」
「……ああ」
「ロンドンのお店、初めて入ったけど」
「悪くなかった」
「美味しかったでしょう?」
「肉はな」
「やっぱり」
智世はくすりと笑った。
昼間に見た街の景色が浮かんでくる。
時計塔を出てから歩いた道。
古い建物の並ぶ街並み。
人の流れ。
道路を走る車。
見慣れたものに似ているのに、どこか知らない。
あの違和感は、時間が経っても消えなかった。
「……変な感じだったね」
「何がだ?」
「街もそうだけど」
智世は窓の外を眺めた。
夜のロンドンは、昼間とはまた違う顔をしている。
「学院とは、やっぱり違うなって」
「当たり前だ」
「うん。そうなんだけど」
智世は少しだけ笑った。
「Ⅱ世さんから聞いた話もそうだったし」
「時計塔のことか」
「うん」
十二の学科があって、ロードと呼ばれる人たちがいて、いくつもの派閥があって。
魔術師が集まっている場所という意味では、学院と似ている。
けれど、同じではない。
そこで暮らす人々も。
魔術師というものの在り方も。
そして、何より――ここへ来るまでに自分が知っていた世界そのものが。
智世はしばらく黙っていた。
ルツも急かさない。
やがて智世は、窓から視線を外した。
「……ねえ、ルツ」
「何だ」
「やっぱり、ここは【私たちの知っている世界】ではないんだね」
今度は、はっきりと。
その言葉だけを、静かに置く。
部屋の隅で、気配が揺れた。
ほんの僅かなものだった。
けれど、さっきまで一定だった呼吸が乱れる。
智世はそちらを見なかった。
ルツもまた、伏せた姿勢を崩さない。
「……そうだな」
返事をしたのはルツだった。
その声に重なるように、家具の陰で何かがわずかに動いた。
智世は小さく息を吐いた。
「そうだよね」
それだけ言って、立ち上がる。
「まあ……今は考えても仕方ないか」
「そういうことだ」
智世は部屋の中を見回した。
「それより、もう遅いし。お風呂に入ろうかな」
「好きにしろ」
「ルツも一緒に入ろう」
「……オレもか?」
「うん。今日はちゃんと洗ってあげる」
「自分でできる」
「だめ」
「なぜだ」
「私が洗ってあげたいから」
智世は笑いながら、着替えを手に取った。
ただの、いつものやり取りだった。
けれど、その瞬間。
部屋の隅から、先ほどとは比べものにならないほど大きな気配の揺らぎが生じた。
智世は気づかないふりをして、服の端へ指を掛ける。
気配がさらに乱れた。
ルツが一度だけ智世を見る。
智世も、ほんの一瞬だけルツを見る。
「……ルツ」
「分かっている」
「逃がさないでね」
「任せろ」
その直後だった。
部屋の隅から、人影が飛び出した。
青年だった。
フラット・エスカルドス。
姿を見せた瞬間、フラットの手が動く。
ほとんど反射的な動きだった。
口元が開き、魔術の言葉を紡ごうとする。
けれど――。
黒い影が、すでに床を蹴っていた。
「――っ!」
フラットが身を引く。
その一歩よりも、ルツの方が早かった。
次の瞬間には、黒い身体が青年へ飛びかかっている。
フラットの身体が床へ倒れた。
そのままルツが上から押さえ込む。
魔術を続けるための手も、身を起こすための身体も、動かせない。
フラットは一度だけ身を捩った。
けれど、すぐに力を抜いた。
どうやら、これ以上は無駄だと判断したらしい。
押さえ込まれたまま、青年が顔を上げる。
赤い瞳と目が合う。
その向こうに、智世がいる。
フラットは二人を交互に見た。
そして、困ったように眉を下げる。
「……参ったなあ」
苦笑が浮かんだ。
そこには敵意よりも、むしろ自分の予想が外れたことへの驚きと、
少しばかりの感心が滲んでいた。
夜の部屋に、隠れていた青年の姿がようやく明らかになった。