『魔法使いの嫁 × ロード・エルメロイⅡ世の事件簿 ――魔法使いと魔術師、その隣人たち――』   作:丹波りん

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第14話 夜の守歌

 智世は、床に押さえ込まれている青年を見下ろしていた。

 黒い身体が、その上からぴたりと動きを封じている。

 さっきまで部屋の隅に身を潜めていたとは思えないほど、

 今のフラットは分かりやすく困った顔をしていた。

 智世は何か言おうとして、やめた。

 言いたいことはいくつもあった。

 どうしてこんなところにいるのか。

 いつから隠れていたのか。

 何を聞いていたのか。

 けれど、どれから聞けばいいのか分からない。

 結局、最初に出てきたのは言葉ではなく、長いため息だった。

「……はぁ」

 呆れが、そのまま声になった。

 フラットが少しだけ身を縮める。

 ルツは何も言わない。

 ただ、逃がすつもりはないとでもいうように、赤い瞳を青年へ向けていた。

「……フラット君、だよね?」

「はい」

 返事だけは素直だった。

 智世は、その素直さに余計に困ったような顔をする。

「どうして、こんなことをしたの?」

「えっと……」

 フラットの視線が泳いだ。

 さっきまであれほど巧妙に気配を隠していたというのに、今は隠すものが何もない。

 智世は急かさず、その顔を見ていた。

「Ⅱ世さんから、説明を受けたんじゃないの?」

「受けました」

「私たちがどういう人なのかも?」

「はい」

「それなのに、どうして夜遅くに、私の部屋に隠れてたの?」

「それは……」

 フラットの口が止まる。

 何か言おうとしているらしい。

 けれど、うまく言葉にならない。

 智世はしばらく待った。

 部屋には、時計の音だけが小さく響いている。

「……盗聴してたんだよね?」

「……はい」

 消え入りそうな声だった。

 智世は目を閉じる。

 もう一度、ため息を吐いた。

 さっきよりも深い。

「どうしても、気になっちゃって」

 フラットが言った。

 今度は、少しだけ早口だった。

「昼間からずっと、気になってたんです。

 見たことのない人だったし、ルツも普通の使い魔とは違うし、それに……」

「それに?」

 智世が尋ねる。

 フラットは少し迷った。

 それから、観念したように続ける。

「話を聞いていたら、もっと知りたくなって」

 その言葉には、言い訳というより、本当にそう思っていたのだという響きがあった。

 智世は眉を下げる。

「それで……友達になりたくて」

「……友達?」

「はい」

 フラットが頷く。

 押さえ込まれている状況だというのに、その目だけは妙に真剣だった。

「智世さんと友達になりたかったんです」

 智世は、しばらく何も言わなかった。

 怒るべきなのだろう。

 実際、怒っている。

 けれど、その理由があまりにも子供っぽくて、怒り切れないところもあった。

 それでも、やっていることは別だ。

 夜遅く。

 女の子の部屋。

 そこへ勝手に入り込み、隠れて話を聞いていた。

 それを考えれば、呆れてしまうのも無理はない。

 智世はゆっくりと息を吐いた。

「……フラット君」

「はい」

「夜遅くに女の子の部屋へ勝手に入って、隠れて、話を盗み聞きする人と」

 一度、言葉を切る。

 フラットがじっと智世を見る。

「友達になれるとでも思ってるの?」

「…………」

 フラットの顔が固まった。

 何も言い返せないらしい。

 ルツが小さく鼻を鳴らす。

「当然だな」

「はい……」

 フラットはしょんぼりと答えた。

「ごめんなさい」

 さっきまでの勢いが、すっかり消えている。

 智世はその様子を見て、ほんの少しだけ表情を和らげた。

「……うん」

 謝ったことまで否定するつもりはない。

「謝ってくれたことは分かったよ」

「じゃあ……」

「でも」

 フラットが口を閉じる。

「だからって、許すとは言ってないよ」

「ですよね……」

 肩が落ちた。

 ルツの下で、フラットが妙に小さく見える。

「本当に、悪気はなかったんです」

「悪気がないからって、やっていいことと悪いことはあるでしょう?」

「はい……」

 今度は素直に頷いた。

「Ⅱ世さんに、ここで何をしてもいいって言われたの?」

「いえ」

「グレイに案内してもらってたとき、私が何かした?」

「してません」

「じゃあ、どうして?」

「……気になって」

 また、それだった。

 智世は額へ手を当てる。

「もう……」

 呆れた声が漏れた。

 フラットは、それ以上何も言えなくなった。

 自分でも、うまい言い訳ができないことは分かっているらしい。

 しばらくして、ルツが口を開いた。

「こいつをどうする?」

 智世はフラットを見た。

 その問いを聞いて、改めて考える。

 このまま放してしまうのは、少し怖い。

 今は大人しくしている。

 けれど、好奇心だけで夜中に人の部屋へ忍び込むような人間だ。

「もうしません」と言われても、それだけで信用していいものかは分からない。

 かといって、Ⅱ世のところまで連れて行くのも、今からでは遅すぎる。

 そもそも、こんな時間に押しかければ、Ⅱ世も困るだろう。

 智世は少し考えた。

 やがて、口を開く。

「……記憶を消して、眠ってもらおうか」

「え?」

 フラットの顔が引きつった。

「ちょっと待ってください」

「うん?」

「記憶を消すって……」

「今夜のことを」

「いやいやいや!」

 フラットが慌てて身体を動かそうとする。

 けれど、ルツが少し身体を重くしただけで、床から起き上がることすらできなかった。

「ルツ、お願い」

「ああ」

「本当に消すんですか!?」

「そのつもり」

「いや、待ってください! 僕、もう絶対にしませんから!」

 先ほどまでとは比べものにならないほど必死だった。

 智世はその顔を見つめる。

「本当に?」

「本当です!」

「友達になりたいからって、また忍び込んだりしない?」

「しません!」

「盗み聞きもしない?」

「しません!」

 即答だった。

 智世は少しだけ考える。

 フラットは必死にこちらを見ている。

 その目に嘘があるのかどうか、智世にはよく分からなかった。

 ただ、少なくとも今は本気で懲りているようには見える。

「……うん」

 智世は小さく頷いた。

「じゃあ、眠ってもらうだけにしようかな」

「本当ですか!?」

「今夜のことは、忘れてもらうけど」

「そこは残るんだ……」

 フラットの顔から血の気が引いた。

 智世は少し困ったように笑う。

「仕方ないよ」

「いや、仕方なくないと思うんですけど……!」

 その言葉に、智世は少しだけ眉を下げた。

「フラット」

「はい!」

「静かにしてね」

「……はい」

 今度こそ、フラットは大人しくなった。

 ルツも、わずかに身体の力を抜く。

 それでも、いつでも押さえ込める位置からは動かない。

 智世は、その様子を確認してからルツへ目を向けた。

「ルツ、力を貸して」

「分かった」

 短い返事。

 それだけで、ルツの周囲に漂う気配が少し変わった。

 智世はその傍へしゃがみ込む。

 人に魔法を使うことには、まだ少しだけ苦手意識があった。

 エリアスなら、もっと簡単にできる。

 もっと自然に、もっときれいに言葉を紡ぐことができる。

 自分が同じようにできるとは思っていない。

 それでも、教わった。

 何度も練習した。

 うまくいかないことも多かったけれど、それでも使えるようにはなっている。

 智世は一度、ゆっくりと息を吸った。

 部屋の空気が、少しだけ静かになる。

 ルツがそばにいる。

 それだけで、いつもより言葉が出しやすいような気がした。

 智世は目を閉じる。

 そして、ゆっくりと声を紡いだ。

「【響け 響け 夜の守歌】」

 静かな声だった。

 けれど、その言葉が部屋へ落ちた瞬間、空気の奥で何かが応えた。

 ルツの身体から、かすかな気配が広がっていく。

 黒い毛並みの奥にある力が、智世の声へ重なっていく。

「【届け 届け 墓守の遠吠え】」

 最後の言葉が響く。

 空気が、わずかに震えた。

 フラットの目が見開かれる。

「……っ」

 魔術師としての感覚が、反射的に働いた。

 何かを見極めようとする。

 何が起きている。

 どこから魔力が流れている。

 どういう術式なのか。

 それを理解しようとして、意識を集中させる。

 フラットの目が智世へ向いた。

 そして、ルツへ。

 だが――。

「……分からない」

 小さな呟きが漏れた。

 術式が見えない。

 いや、術式という形そのものが、掴めない。

 魔力の流れを追おうとすると、途中で輪郭が消える。

 何かがあることは分かる。

 けれど、それがどういう仕組みで成立しているのかが分からない。

 フラットは、さらに意識を集中させた。

 持ち前の才能なのか、それとも単純な好奇心なのか。

 分からないものを前にしたとき、彼は理解しようとする。

 いつものように。

 だが、今回はその「いつもの」が通じなかった。

「何、これ……」

 魔力を動かす。

 抵抗する。

 干渉しようとする。

 けれど、触れることさえできない。

 まるで手を伸ばした先にあるはずのものが、指の間をすり抜けていくようだった。

「待って……」

 フラットの声が、少しずつ遠くなる。

 智世は目を閉じたまま、詠唱の余韻を保っていた。

 ルツの気配が、その声を支えている。

 夜の静けさに溶けるように、二つのものが重なっていく。

 フラットの瞼が、ゆっくりと落ちていく。

 抵抗しようとした意識も、少しずつ力を失っていった。

 最後に、もう一度だけ目を開ける。

 智世の姿がぼんやりと見える。

 その隣には、黒い犬がいる。

「……」

 何かを言おうとした。

 けれど、声にはならなかった。

 フラットの身体から力が抜ける。

 目が閉じた。

 しばらくして、静かな寝息が聞こえてきた。

 智世は、すぐには動かなかった。

 魔法の気配が消えていくのを待つ。

 やがて、部屋には元の静けさが戻った。

 智世はゆっくりと目を開ける。

 床には、眠っている青年。

 そのすぐそばには、ルツ。

 智世はフラットの顔を見つめた。

 起きる気配はない。

 少なくとも、今夜の間は大丈夫そうだった。

「……これで大丈夫かな」

「眠っただけだ」

 ルツが答える。

「うん」

 智世は小さく頷いた。

 けれど、視線はフラットから離れない。

 こうして見ると、ただ眠っているだけの普通の青年にしか見えない。

 昼間、時計塔の中で見かけたときもそうだった。

 まさか夜になって、自分の部屋へ忍び込んでくるとは思わなかった。

 智世は困ったように眉を下げた。

「……この子、どうしよう?」

 

 ※

 

 翌朝。

 薄い朝の光が、窓から部屋の中へ差し込んでいた。

 智世は、ゆっくりと目を覚ました。

 まだ少し眠気が残っている。

 ぼんやりと天井を見つめ、それから身体を起こした。

「……朝か」

 寝ぼけたまま呟く。

 いつものように隣を見れば、そこにはルツがいるはずだった。

 けれど、今朝は少し違った。

 部屋の隅。

 そこに、黒い墓守犬がいた。

 ルツは伏せた姿勢のまま、じっと一人の青年を見張っている。

 視線の先には――フラットがいた。

 床に横たわった身体は、鋼蔦の糸によって何重にも縛られている。

 腕も。

 脚も。

 身体を起こすことさえできないように、しっかりと固定されていた。

 そして、その本人はというと。

 昨夜のことなど何もなかったように、静かな寝息を立てている。

 智世はしばらく、その光景を眺めていた。

「……おはよう、ルツ」

「おはよう、チセ」

 ルツが振り返る。

「よく眠れたか?」

「うん」

 智世は小さく伸びをした。

 それから、もう一度フラットを見る。

「……まだ寝てるの?」

「ああ」

 ルツは呆れたように答えた。

「こいつ、よくこんな状況で眠れるな」

「昨日はあれだけ慌ててたのにね」

「起きたら、また慌てるだろうな」

 ルツが鼻を鳴らした。

「その前に、逃げられないようにしておいた」

 鋼蔦の糸は、昨夜のうちに智世が用意したものだった。

 細い糸に見えても、簡単には切れない。

 少なくとも、目を覚ましたフラットが勢いだけで抜け出せるようなものではなかった。

「まあ……仕方ないよね」

 智世は苦笑した。

 昨夜のことを思い出す。

 勝手に部屋へ忍び込み、隠れて話を聞いていた青年。

 そして、智世たちが眠る前までそのまま様子を窺おうとしていた。

 今考えても、呆れるしかない。

 そのときだった。

 ――コン、コン。

 扉が叩かれた。

「……?」

 智世がそちらを見る。

「誰だろう」

「朝なら、グレイだろう」

 ルツが答える。

 もう一度、控えめなノックが響いた。

「智世さん、起きていらっしゃいますか?」

 聞き慣れた声だった。

「はい」

 智世が返事をする。

「どうぞ」

 扉が開く。

 そこからグレイが顔を覗かせた。

「おはようございます。朝食を――」

 そこまで言って、グレイの言葉が止まった。

 視線が、部屋の奥へ向く。

 そして。

「…………」

 固まった。

 視線の先には、鋼蔦の糸で何重にも縛られたフラット。

 そのすぐ傍には、警戒したままのルツ。

 そして、それを見ている智世。

 グレイはしばらく、何も言えなかった。

「……智世さん」

「うん」

 グレイの視線が、もう一度フラットへ向く。

「……どうして、フラットがここに?」

「昨日の夜、部屋に入ってきてたの」

「……え?」

 智世は少し困ったように笑った。

「隠れてたんだけど、見つけた」

 グレイはフラットを見る。

 眠っている。

 しかも、鋼蔦の糸で完全に縛られている。

「……何を、していたんですか?」

「隠れて話を聞いてたみたい」

「話を……?」

「うん」

 智世は頷いた。

「私たちのことが気になったんだって」

「それで、夜中に忍び込んだのですか……?」

「そうみたい」

 グレイは、しばらくフラットを見つめた。

 驚きと困惑が入り混じっている。

「……師匠を、お呼びしてきます」

「うん。お願い」

 グレイは朝食を机の上へ置いた。

 それから、もう一度フラットを見て、小さく息を吐く。

「すぐに戻ります」

「ありがとう」

 扉が閉じられる。

 静かになった部屋で、智世はルツを見る。

「……怒ってるかな」

「グレイか?」

「うん」

「怒って当然だろ」

「そうだよね」

 智世は苦笑する。

 それから、しばらく黙ってフラットを見た。

 眠っている青年の顔は、昨夜の必死な様子が嘘のように穏やかだった。

「ねえ、ルツ」

「何だ?」

「昨日のこと……」

「ああ」

「私たちが、ここが別の世界だって気づいたこと」

 ルツの赤い瞳が、智世へ向く。

「Ⅱ世さんたちには、まだ言わないほうがいいよね」

「オレも、そう思う」

 短い返事だった。

 智世は窓の外を見る。

 朝の街。

 見慣れない建物。

 知らない景色。

 昨日からずっと感じていた違和感は、もう疑いではない。

 ここは、自分たちが知っている世界とは違う。

 けれど、それをそのまま伝えればいいのか。

 智世には、まだ分からなかった。

「騙してるみたいで、ちょっと嫌だけど」

「仕方ない」

 ルツが言う。

「信じてもらえる保証がない」

「うん」

「仮に信じたとしても、そのあと何が起きるか分からない」

「……そうだね」

 それが一番大きかった。

 Ⅱ世なら、話を聞いてくれるかもしれない。

 頭から否定することもしないだろう。

 けれど、時計塔という場所で

 「別の世界から来た」と伝えた場合、それがどう扱われるのかは分からない。

 研究対象になるのか。

 保護されるのか。

 あるいは、もっと別の問題が起こるのか。

 何も知らない。

「だから、今後は話していいことと、話さないほうがいいことを分けよう」

 智世が言った。

「うん」

 ルツも頷く。

「聞かれたことには、できるだけ嘘をつかない」

「でも、全部を話すわけじゃない」

「ああ」

 智世は小さく息を吐いた。

「ごめんね、Ⅱ世さん」

 誰に聞かせるでもなく呟く。

「騙すつもりはないんだけど……」

「必要なことだ」

 ルツが静かに言った。

「今は、まだな」

「……うん」

 智世は頷いた。

 そのとき。

 再び扉が開いた。

「戻りました」

 グレイだった。

 その後ろには、エルメロイⅡ世もいる。

「……何だ、これは」

 Ⅱ世が部屋へ入った瞬間、足を止めた。

 視線がフラットへ向く。

 鋼蔦の糸で縛られ、床で眠っている青年。

 そのすぐ傍には、ルツ。

 そして、その二人を見ている智世。

 Ⅱ世はしばらく黙っていた。

「……フラット?」

「はい」

 グレイが答える。

「昨夜、こちらへ忍び込んでいたようです」

「…………」

 Ⅱ世は額へ手を当てた。

「まったく……」

 深いため息が漏れる。

 自分の弟子が、勝手な好奇心から夜中に他人の部屋へ忍び込んだ。

 しかも、相手は時計塔へ来たばかりの客人だ。

 教師として、そしてこの場を預かる者として、看過できる話ではない。

 Ⅱ世はフラットを見下ろした。

「……すまない、智世」

 その声には、呆れだけではなく、明らかな申し訳なさが混じっていた。

「私の弟子が、とんでもないことをした」

「いえ……」

 智世は苦笑する。

「でも、フラット君も、もう反省してるみたいですし」

「それでもだ」

 Ⅱ世は首を振った。

「君に余計な心配をかけたことについては、私から謝らせてくれ」

「……はい」

 智世は小さく頷いた。

 Ⅱ世はそれから、改めて眠っているフラットへ目を向ける。

「まずは本人を起こそう」

「はい」

 グレイが頷く。

 Ⅱ世はフラットの傍まで歩いていき、しゃがみ込んだ。

「フラット」

「…………」

 反応がない。

「フラット、起きろ」

「…………」

 それでも起きない。

 Ⅱ世の眉間に皺が寄った。

「……まったく」

 そして、肩を掴んで揺さぶる。

「起きろ、フラット!」

「うわっ!?」

 フラットが飛び起きた。

 だが、身体は動かない。

「えっ?」

 自分の身体を見下ろす。

 腕も脚も、鋼蔦の糸でしっかりと縛られている。

「……何これ?」

 フラットが目を瞬かせた。

「僕、どうして……」

 視線が周囲を彷徨う。

 智世。

 ルツ。

 グレイ。

 そして――Ⅱ世。

「……師匠?」

「やっと起きたか」

 Ⅱ世の声は低かった。

 フラットはまだ状況を理解できていないらしい。

「えっと……」

 しばらく考える。

「僕、何してましたっけ?」

「それをこちらが聞きたい」

 Ⅱ世はため息を吐いた。

 その言葉に、フラットがようやく昨夜のことを思い出し始めたらしい。

「……あ」

 顔が固まる。

 智世が、そんなフラットを見ながら口を開いた。

「フラット君」

「はい……」

「昨日の夜、私の部屋に入ってきたよね」

「…………」

 フラットの顔が引きつった。

「……そうだ」

「盗み聞きしようとしてたよね?」

「……はい」

 小さな声だった。

 Ⅱ世の眉がぴくりと動く。

「盗み聞き?」

 グレイもフラットを見る。

「はい……」

 智世は続けた。

「それだけじゃなくて」

 フラットが恐る恐る顔を上げる。

「私がお風呂に入ろうとしたとき、覗こうともしてたよね?」

「ええっ!?」

 フラットの顔が一気に赤くなった。

「ち、違います!」

 慌てて首を振る。

「覗こうなんてしてません!」

「でも、部屋の隅に隠れてたよね?」

「それは……!」

「私が着替えを持ったとき、すごく慌ててたよね?」

「そ、それは違うんです!」

 フラットは必死に言い募る。

「僕、本当に覗くつもりなんてなかったんです!」

 グレイの視線が、すっと冷たくなった。

「…………」

 その視線に気づいたフラットが、さらに慌てる。

「違うんです、グレイ! 本当に!」

 だが、グレイは何も言わない。

 ただ、これまでになく厳しい目でフラットを見ている。

「……フラット」

 Ⅱ世が静かに口を開いた。

「お前は……」

 そこで一度、言葉を失う。

 怒るべきなのか、呆れるべきなのか。

 あるいは、その両方なのか。

 結局、深いため息だけが漏れた。

「何をやっているんだ」

「すみません……」

 フラットの声が小さくなる。

「本当に、すみません……」

 Ⅱ世は額へ手を当てた。

 それから、フラットの隣へ立つ。

「……智世」

「はい」

「本当に申し訳ない」

 Ⅱ世は頭を下げた。

「私の弟子が、君の部屋へ勝手に侵入した。弁解のしようもない」

 フラットも慌てて頭を下げる。

「ごめんなさい」

「……うん」

 智世は二人を見て、苦笑する。

「もう反省してるなら、大丈夫だよ」

「本当ですか?」

 フラットが顔を上げる。

「うん」

 智世は頷いた。

「もう、勝手に入ってこないでね」

「はい!」

 今度の返事だけは、妙に元気だった。

 その横で、Ⅱ世がまた小さく息を吐く。

「……まったく」

 グレイも、ようやく少しだけ表情を和らげた。

 朝の部屋には、昨夜までとは違う静けさが戻っていた。

 

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