『魔法使いの嫁 × ロード・エルメロイⅡ世の事件簿 ――魔法使いと魔術師、その隣人たち――』   作:丹波りん

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第15話 届けられたもの

 朝の光が窓から差し込む部屋で、智世は静かに朝食を取っていた。

 向かいにはルツがいる。

 黒い墓守犬の姿のまま、器へ顔を近づけて食事をしている。

 その少し離れた場所では、エルメロイⅡ世の低い声が続いていた。

「だから、興味があることと、勝手に踏み込んでいいことは別だ」

「はい……」

 フラットは、やや小さくなった声で答えた。

「君が知りたがること自体を咎めているわけではない。

 だが、相手の都合を無視していい理由にはならない」

「分かっています」

「本当に?」

「……はい」

 Ⅱ世は腕を組んだまま、フラットを見た。

 フラットも神妙な顔をしている。

 少なくとも、今は大人しく話を聞いているように見えた。

 ただ、その目だけは落ち着かない。

 時折、智世へ向く。

 正確には、智世そのものというより、彼女の周囲にあるものや、

 昨夜目の前で起きた現象を思い返しているようだった。

 智世がこの部屋にいるのは、Ⅱ世とエルメロイ家の客人だからだ。

 それ以上のことを、フラットはまだ知らない。

 彼女がどこから来たのか。

 何を使うのか。

 どんな術式を持っているのか。

 詳しいことは、ほとんど分からない。

 ただ、Ⅱ世から一つだけ明確に告げられている。

 許可なく干渉するな。

 それは智世に対してだけではない。

 時計塔では、相手の事情を無視して他人の研究や私生活へ踏み込むこと自体が問題になる。

 だから、昨夜のことも本来なら許される行動ではなかった。

 それでも、フラットの中には消えない疑問が残っている。

 ルツ。

 あの墓守犬が、普通の使い魔とは違うこと。

 そして、昨夜、智世が使った魔術。

 目の前で確かに見た。

 それなのに、自分の知識では解析できなかった。

 術式の構造が分からない。

 何を基準に成立しているのかも分からない。

 分からないという事実が、フラットにとっては何よりも気になっていた。

「……まだ気になっているのか」

 Ⅱ世が尋ねる。

「はい」

 今度は迷わなかった。

「すごく」

 Ⅱ世は小さく息を吐いた。

 呆れているのだろう。

 だが、フラットが未知のものを前にしたとき、

 どれほど強く興味を持つのかも知っている。

「少なくとも、今は大人しくしていろ」

「分かりました」

 フラットは頷いた。

 その直後だった。

 部屋の端で、空気が揺らいだ。

 ほんの僅かな変化だった。

 窓が開いているわけでもない。

 風が入り込んだわけでもない。

 それなのに、何もないはずの空間が薄く波打った。

 Ⅱ世の声が止まる。

 グレイが顔を上げる。

 智世も手を止めた。

 ルツがゆっくりと顔を上げる。

「……」

 Ⅱ世は、その場所から目を離さなかった。

 昨日と同じ現象だった。

 空間そのものが、薄い膜のように歪んでいる。

 フラットだけは違った。

 彼にとって、これは初めて見るものだった。

 目の前で起きていることを、すぐに既存の術式へ当てはめようとする。

 だが、最初の段階で引っ掛かった。

 どこから歪んでいるのか。

 何を起点にしているのか。

 術者の姿はない。

 それなのに、明確に何かがこちら側へ向かっている。

 分からない。

 だからこそ、フラットの瞳が大きく開いた。

「……何ですか、これ」

 声に、抑えきれない好奇心が滲んでいた。

「下がれ」

 Ⅱ世が言う。

「まず観察する」

 フラットは返事をした。

 だが、身体はわずかに前へ傾いている。

 Ⅱ世はそれを見て眉を寄せた。

「近づくなと言っている」

「近づいてません」

「今にも近づきそうな顔をしている」

 フラットは少しだけ姿勢を戻した。

 それでも、視線だけは歪みから離れない。

 空間の揺らぎが、次第に深くなる。

 その向こう側に、何かの影が浮かんだ。

 最初に姿を現したのは、一羽の紙の鳥だった。

 折り重なった紙が翼を持ち、羽ばたきながら室内へ滑り込んでくる。

 フラットが息を呑んだ。

「紙の鳥……?」

 鳥は一度だけ部屋の中を旋回した。

 その飛び方には迷いがない。

 まっすぐ智世のところへ向かう。

「エリアスからだ」

 紙の鳥が智世の前で翼を畳む。

 すると、その身体が静かにほどけ始めた。

 紙の翼が細かな紙片へ。

 胴がほどけ、頭部が消える。

 舞い上がった紙片は床へ落ちることなく、

 一つの流れとなって智世の前へ集まっていった。

 やがて、それは一枚の紙になる。

 智世が手を伸ばして受け取った。

 Ⅱ世は、その一連の変化をじっと見ていた。

 フラットは言葉を失っている。

 自分が昨夜見たものとは、また違う。

 だが、共通しているのは、目の前で現象が成立しているという事実だけだった。

 紙が生き物の形を取り、その生き物の形を失うと同時に、一枚の紙へ戻る。

 術式の発動条件も、変形の原理も、今のフラットには分からない。

 昨夜の魔術ですら解析できなかった。

 それなのに、今度は別の術式が目の前に現れた。

 フラットの表情に、驚きと興味が入り混じる。

 分からない。

 だから、もっと見たい。

 そんな感情が隠しきれなくなっていた。

 智世は手紙を開いて、内容を読み始めている。

 その間に、再び空間が揺らいだ。

「……まだ来る」

 グレイが呟く。

 Ⅱ世がそちらを見る。

 今度は、紙ではなかった。

 黒い影が、歪みの向こうからゆっくりと現れる。

 翼。

 嘴。

 黒い羽根。

 一羽のカラスだった。

 カラスは羽ばたきながら室内へ入り、そのまま少し高度を下げていく。

 床へ降りる。

 爪が床に触れた。

 カツ、と小さな音がした。

 Ⅱ世の視線が動いた。

 ほんの僅かに硬い。

 だが、それだけだった。

 カラスは何事もなかったように首を傾げる。

 右へ。

 左へ。

 そして、室内にいる人間たちを順番に眺める。

 羽根を震わせる。

 嘴で胸元を整える。

 羽繕いをする仕草まで、ごく自然だった。

「……本物のカラス、ですよね?」

 グレイが小さく尋ねた。

 Ⅱ世は答えず、観察を続けている。

 胸が上下している。

 翼の動きも自然だ。

 足取りにも不自然なところはない。

 少なくとも、見た目だけなら完全に生きた鳥だった。

 しかし、Ⅱ世の中には小さな違和感が残っていた。

 先ほどの着地音。

 羽根が擦れたときの、ごく僅かな響き。

 そして、呼吸しているように見える胸の動きが、妙に一定だった。

 どれも単独なら、気のせいで片付けられる程度のものだ。

 だから、まだ結論は出さない。

 その横で、フラットはカラスから目を離せなくなっていた。

 紙の鳥とは違う。

 こちらは、生きているように見える。

 少なくとも、そう見える。

 カラスが首を傾げる。

 フラットも、それに合わせるように首を傾げた。

 まるで鳥のほうへ引き寄せられるように、視線が細部を追っていく。

 羽根。

 脚。

 翼。

 胸。

 嘴。

 どこを見ても普通のカラスにしか見えない。

 それなのに、何かが引っかかる。

 昨夜の魔術もそうだった。

 目の前にある。

 確かに現象は起きている。

 けれど、どこを見れば術式の核へ辿り着けるのかが分からない。

「……面白い」

 フラットが呟いた。

「フラット」

 Ⅱ世が制する。

「触るなよ」

「はい」

 返事は素直だった。

 だが、数秒もしないうちにフラットの身体が少し前へ動いた。

 カラスは逃げない。

 むしろ、フラットのほうへ首を向けた。

 フラットの手が伸びる。

「おい」

 Ⅱ世の声が飛ぶ。

 それでも、指先は止まらなかった。

 羽根へ触れる。

 ――カァ。

 カラスが鳴いた。

 その瞬間だった。

 身体が僅かに震えた。

 フラットの指先に伝わった感触が、ほんの少しだけ硬かった。

「……?」

 フラットが目を細める。

 カラスは羽根を震わせた。

 その黒い表面に光が走る。

 ほんの一瞬。

 羽根の隙間から、鈍い銀色が覗いた。

 Ⅱ世の目が見開かれる。

「……今のは」

 カチ。

 小さな音がした。

 カラスの胸の奥から聞こえてくる。

 もう一度。

 カチ、カチ。

 歯車が噛み合うような音だった。

「……機械音?」

 グレイが呟く。

 フラットの表情が変わった。

 驚きが、そのまま歓喜へ変わっていく。

「これ……!」

 カラスの胸が再び上下する。

 だが、その動きが途中で止まった。

 ほんの一瞬だけ。

 そして、羽根の下から別の音が響いた。

 カチリ。

 黒い羽根の一枚が、ゆっくりと持ち上がった。

 落ちるのではない。

 根元から軸に沿って滑るように動く。

 その下から、薄い金属板が現れた。

「……金属」

 Ⅱ世の声が漏れた。

 次の瞬間、カラスが翼を広げた。

 羽根が一枚ずつ形を変えていく。

 黒い羽根の表面が硬質な光を帯び、

 羽根そのものが薄い金属板へと移り変わっていく。

 それらはばらばらに落ちることなく、互いに連動していた。

 細い軸が現れる。

 小さな歯車が噛み合う。

 翼を動かしていた構造が、そのまま精密な機構へ姿を変えていく。

「……!」

 Ⅱ世は言葉を失った。

 生き物の形をしたものが、目の前で機械へ変わっている。

 だが、それは破壊でも分解でもなかった。

 羽根が剥がれ落ちるわけではない。

 骨が砕けるわけでもない。

 生き物として存在していた各部が、

 その形を保ちながら、別の役割へと変わっていく。

 翼は展開機構へ。

 羽根は外装へ。

 骨格は細い金属フレームへ。

 脚は関節を持った支持機構へ。

 胸郭の内側から、複雑に組み合わされた金属と木の構造が姿を現す。

 それまで生き物として見えていた動きが、今度は機械として成立している。

 しかも、その動きは驚くほど滑らかだった。

「すごい……」

 フラットの声が震えた。

 驚きよりも、好奇心が勝っている。

「すごい、これ……どうなってるんだ?」

 フラットが一歩近づく。

 Ⅱ世も止めようとした。

 だが、その視線は自分自身も機構から離せない。

 嘴が僅かに開く。

 その内側にあった構造が、細かな金属部品へ変わっていく。

 黒い眼球に見えていた部分も、薄い硝子と金属の組み合わせへ変化する。

 首が回る。

 生き物のような滑らかな動作を保ったまま、

 その内部では複数の軸が噛み合っている。

「……生体を模倣しているのか?」

 Ⅱ世が呟く。

 しかし、すぐにその考えを修正する。

「いや……模倣というだけではない」

 カラスの動きそのものが、機構として成立していた。

 生き物らしく動くための構造が、最初から組み込まれている。

 フラットは夢中になっていた。

「羽ばたきの動きを、そのまま機械運動に変換してる……?」

 さらに目を凝らす。

「いや、待って。ここ、木だ。金属だけじゃない」

 内部の一部には、木材を加工した細かな部品が使われている。

 それらが金属の軸や歯車と噛み合い、滑らかに動いている。

「魔力の流れもある……?でも、普通の魔術回路とは違うような…」

「フラット、離れろ」

 Ⅱ世が言う。

「はい!」

 返事だけはいい。

 だが、離れながらも目は機構を追い続けている。

 機構はさらに形を変えていく。

 頭部が少しずつ胴体へ収まっていく。

 翼が折り畳まれる。

 脚が関節ごと内側へ回転する。

 細かな金属板が重なり、その隙間へ木製の部品が滑り込む。

 胸部が開いたかと思うと、その内部構造そのものが幾重にも折り重なった。

 カラスだったものが、小さくなっていく。

 それは崩れているのではない。

 すべての部品が、決められた位置へ戻っている。

 翼だったものが側面へ収まり、脚だったものが底面へ折り込まれる。

 首の機構が内部へ滑り込む。

 最後に外装が閉じた。

 カチ。

 小さな音がする。

 続いて、もう一度。

 カチリ。

 すべてが固定された。

 床に残ったのは、掌に乗るほどの小さな箱だった。

「…………」

 静寂が落ちた。

 Ⅱ世は、しばらく箱を見つめていた。

 数秒前まで、そこには一羽のカラスがいた。

 羽ばたき、鳴き、羽繕いをしていた。

 その生き物が、今は一つの箱になっている。

「……何だ、これは」

 低い声だった。

 驚きを隠せていない。

 グレイも箱を見つめている。

 フラットは違った。

 目を輝かせ、ほとんど箱へ吸い寄せられるように近づいていた。

「カラスが……」

 言葉を探す。

「機構になって……それから、箱に……」

 その声には、明らかな興奮があった。

「こんなの、どうやって作ったんだろう」

 Ⅱ世は答えられなかった。

 分からない。

 だが、それは未知の術式を前にしたときの、彼自身がよく知る感覚でもあった。

 ただ驚いているだけではない。

 構造を知りたい。

 何を基準にして動いているのか。

 どこまでが機械で、どこからが魔術なのか。

 そして、なぜ最初にカラスという生き物の形を取る必要があるのか。

 その疑問が次々と浮かんでくる。

 箱の上部が、僅かに開いた。

 Ⅱ世とフラットの視線が同時に向く。

 小さな蓋のような部分が持ち上がる。

 その内部から、白い球がふわりと浮かび上がった。

「……まだあるのか」

 Ⅱ世の声に、驚きが混じる。

 白い球は箱から離れ、床へ向かってゆっくり下降していった。

 箱から少し離れた場所へ落ちる。

 ころり、と小さく転がった。

 次の瞬間。

 床の上に光が広がった。

「……!」

 Ⅱ世が思わず身を起こす。

 フラットの顔が一気に明るくなる。

「また何か出てくる!」

 白い球を中心に、次々と物体が現れ始めた。

 衣類。

 植物。

 容器。

 素材。

 そして、それだけではない。

 かなりの量の荷物が、折り畳まれていた空間から展開されるように次々と姿を現していく。

 Ⅱ世は、箱と荷物を交互に見た。

 カラス。

 機構。

 箱。

 白い球。

 そして、物資。

 それぞれが別々の現象に見えて、実際には一つの輸送機構として繋がっている。

「……なるほど」

 Ⅱ世が低く呟く。

 まだ仕組みは分からない。

 だが、少なくとも目的の一端は見えてきた。

 あのカラスは、単なる使い魔ではない。

 荷物を運ぶための形態を持ち、目的地で機構へ戻り、その機構をさらに収納している。

 そして、最後に必要な物資を展開する。

 それが一つの流れとして設計されている。

「……アンジェリカさんも送ってくれたんだ」

 智世が、床に並んだ荷物を見ながら呟いた。

 その声には、嬉しさが滲んでいた。

 Ⅱ世が振り向く。

「……アンジェリカ」

「はい」

 智世は頷いた。

「この道具を作ってくれた人です」

 Ⅱ世は箱へ視線を戻した。

 昨日まで聞いていた名前。

 未知の素材。

 未知の技術。

 そして、それらを当然のように扱っている技師。

 その技師が作ったものが、今、目の前で一羽のカラスとして現れ、

 精密な機構へ変わり、最後には箱になった。

 そして、その箱から大量の物資が展開された。

 これまで聞いてきた話が、実物として目の前に並んでいる。

「……あの技師が、これを?」

「はい」

 智世は自然に答えた。

 その横では、フラットが箱の周囲を回っていた。

 触れたい。

 調べたい。

 分解してみたい。

 そんな考えが顔に出ている。

 Ⅱ世はそれを見て、すぐに釘を刺した。

「触るな」

「まだ何もしてません」

「しようとしているだろう」

「……はい」

 フラットは素直に手を引っ込めた。

 それでも、目は箱から離れない。

 内部にどんな構造があるのか。

 どのような術式が組み込まれているのか。

 考えていることが、表情から分かるほどだった。

 Ⅱ世もまた、箱へ目を向けた。

 時計塔で学んできた知識だけでは、まだ説明できない。

 魔術なのか。

 機械なのか。

 その両方なのか。

 あるいは、そもそも自分たちが知っている分類とは別の考え方で作られているのか。

 少なくとも、今の段階で断定することはできない。

 だが、一つだけ分かったことがある。

 智世の周囲にある未知の技術は、単なる奇抜な道具ではない。

 目的があり、それに合わせた構造があり、

 しかもそれらが一つの体系として組み上げられている。

 Ⅱ世は、箱を見つめた。

 そして、その隣ではフラットが、

 今まで見たことのないものを前にした子供のような目をしている。

「……すごいなあ」

 小さな声だった。

 その言葉だけでは、とても足りないほどだった。

 未知の機構。

 未知の術式。

 そして、それを作り上げた技師。

 フラットの好奇心は、もう抑えようがないところまで膨らんでいた。

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