『魔法使いの嫁 × ロード・エルメロイⅡ世の事件簿 ――魔法使いと魔術師、その隣人たち――』 作:丹波りん
荷物の整理が一段落したところで、グレイが先ほど届いた手紙へ目を向けた。
「そういえば、智世さん。先ほどの手紙には、何が書かれていたのですか?」
「えっと……近況報告みたいなものです」
智世は手紙を思い返しながら答えた。
裏道について新しいことが分かったわけではない。
ただ、智世たちが戻れなくなっていることを学院へも伝えてあること。
友人たちが心配していること。そして、戻ってきたら休んだ分の補習を受けること。
「学院にも、今のことを伝えてくれているみたいです」
「そうでしたか」
グレイが小さく頷く。
「それなら、皆さんも少し安心されたでしょうね」
「うん。でも、やっぱり心配してるみたいです」
智世は少し寂しそうに笑った。
「急にいなくなったから」
「それは心配しますよね」
グレイの声も穏やかだった。
「それから……」
智世は手紙の内容をもう一つ思い出す。
「シルキーも、私が帰らないから不機嫌みたいで」
「シルキーが?」
グレイが目を瞬く。
「はい。たぶん、寂しいんだと思います」
そう言って、智世は少しだけ嬉しそうに笑う。
「帰ったら、ちゃんと顔を見せてあげないと」
「そうですね」
グレイも穏やかに微笑んだ。
けれど、そのあとに続いた話を思い出したのか、智世の表情が少し曇る。
「……それと、補習があるみたいです」
「補習ですか?」
「はい。休んだ分、ちゃんと受けないといけないみたいで」
「それは……大変ですね」
「うん……」
智世は小さく頷いた。
手紙に書かれていたのは、そんな学院や家の近況だった。
今すぐ状況が変わるような知らせではない。
それでも、友人たちもシルキーも、自分がいないことを気にしてくれている。
そのことは、智世にとって嬉しかった。
「……でも、帰ったら補習かぁ」
最後だけは、どうしても嬉しそうにはならなかった。
そのとき――。
――ゴーン。
時計塔の鐘が鳴った。
「……もう時間ですね」
グレイが顔を上げる。
Ⅱ世も壁の時計へ目を向けた。
「講義の時間だな」
フラットが少し名残惜しそうに声を上げる。
「もう行くんですか?」
「君は学生だろう。行くに決まっている」
「ですよねえ」
フラットは肩を落とした。
グレイも席を立つ。
「拙も師匠と一緒に戻ります」
Ⅱ世は智世へ目を向けた。
「何かあれば、ここにいればいい。時計塔の中を一人で歩き回るのは避けてくれ」
「はい」
智世が頷く。
「それじゃあ、また後で」
扉が閉まり、廊下へ遠ざかっていく足音が聞こえなくなる。
静かになった部屋で、智世はしばらく扉を見つめていた。
そして、机の上へ視線を落とす。
「……補習」
ルツが顔を上げた。
「まだ気にしてるのか」
「だって……」
智世の肩が落ちる。
「帰ったら、今度は補習なんだよ?」
「まだ帰ってねえだろ」
「そうだけど……」
智世はますます項垂れた。
「帰る前から補習のこと考えるの、嫌だなぁ……」
「焦ったって、すぐ帰れるわけじゃねえだろ」
ルツは淡々と言った。
「だったら、今できることをやっとけ」
「勉強?」
「ああ」
ルツが荷物のほうへ目を向ける。
「宿題も入ってただろ」
「……あ」
智世も思い出した。
荷物の中には、学院の教科書やノート、それから休んだ分の課題も入っている。
「……エリアス、ちゃんと入れてくれたんだ」
「抜かりねえな」
「うん……」
智世は宿題を取り出した。
机の上へ置く。
しばらく見つめる。
「……やりたくない」
「おい」
「だって、補習なんだよ……」
智世は深いため息をついた。
「帰ってから全部やるよりはましだろ」
「それはそうだけど……」
それでも逃げるわけにはいかない。
智世は諦めたように椅子へ座った。
「……やろう」
「そうしろ」
最初に開いたのは、苦手な教科だった。
問題を見た瞬間、智世の眉間に皺が寄る。
「…………」
「どうした?」
「難しい」
「まだ一問目だぞ」
「一問目だから難しいの」
ルツは呆れたように鼻を鳴らした。
智世は唸りながら教科書をめくり、もう一度問題へ目を戻す。
しばらく考えて、ようやくペンを動かす。
「……これで合ってるかな」
「オレに聞いても分からねえよ」
「そうだった」
智世は小さく息を吐き、それでも書き進める。
一問終わる。
そして、次の問題を見る。
「…………」
「また難しいのか?」
「うん」
智世は机に突っ伏しそうになりながらも、なんとか顔を上げた。
「……帰ってから大変になるし、少しやっておこう」
そう呟いて、またペンを取る。
帰れる時期は分からない。
けれど、焦っても仕方がない。
ならば、その間にできることをしておくしかなかった。
智世は時々唸りながら、少しずつ課題を進めていった。
※
その日の夜。
時計塔での一日を終え、
智世が部屋で静かに過ごしていると、扉が軽く叩かれた。
「はい?」
「智世さん。拙です」
聞き慣れたグレイの声だった。
「どうぞ」
返事をすると、扉が開く。
入ってきたのは、グレイとライネスだった。
「こんばんは、智世」
「こんばんは、ライネスさん。グレイさんも」
「こんばんは」
グレイが小さく頭を下げる。
ライネスは部屋へ入ると、まず智世を見た。
それから、その隣で伏せているルツへ視線を移す。
黒い墓守犬は、ライネスの視線に気づいたように片目を開いた。
「さて」
ライネスが、いつものように穏やかな笑みを浮かべる。
「今日は智世と少し話をしたくてね」
「オレもいるだろ」
ルツが顔を上げる。
「もちろん知っているよ」
ライネスは笑った。
「だから、君には少し席を外してもらいたい」
「……なんでオレが」
「女同士で話したいことがあるからさ」
「女子会ってやつか?」
「そういうこと」
ライネスはあっさり頷いた。
冗談めいた言い方だったが、視線だけは笑っていなかった。
「それに、君がいると智世が話しにくいこともあるだろう?」
「……」
ルツが黙る。
「別に、聞かれちゃ困るようなことじゃねえだろ」
「そうとは限らないさ」
ライネスの声が、ほんの少しだけ低くなった。
「君は智世のことを大切に思っている。それは分かっているよ。
だからこそ、彼女が自分の言葉で話せる時間くらいは作ってあげたらどうだい?」
ルツはライネスを見た。
軽く返すこともできたはずなのに、今度はすぐに言い返さなかった。
ライネスが本気で言っていることが分かったのだろう。
「……チセは?」
結局、ルツは智世へ尋ねた。
「私?」
「ああ」
智世は少し考えた。
ライネスがわざわざ二人で来た理由も、なんとなく分かる。
それに、今のルツの顔を見ていると、
ここにいてもらえば結局ずっと気を遣わせてしまいそうだった。
「少しだけ、外にいてもらってもいい?」
「……チセがそう言うなら」
ルツは渋々立ち上がった。
「でも、何かあったら呼べよ」
「うん」
「すぐ戻る」
「分かった」
扉へ向かうルツを、ライネスが見送る。
「心配しなくても、智世を困らせたりはしないよ」
「お前がそう言うと、逆に心配になるんだけどな」
「おや。私を何だと思っているんだい?」
「……性格の悪い奴」
「随分とはっきり言うね」
ライネスが笑った。
ルツはそれ以上何も言わず、部屋の外へ出る。
扉が閉まる。
しばらくして、廊下から足音が遠ざかっていった。
ライネスはその音を聞き届けてから、ようやく椅子へ腰を下ろした。
「これで少しは話しやすくなったかな」
「ルツ、ちょっと不満そうでしたね」
「仕方ないさ」
ライネスは肩をすくめる。
「君のことになると、あれは随分と心配性だからね」
智世は少しだけ笑った。
「そうですね」
「まあ、私も人のことは言えないけれど」
ライネスはそう言って、グレイへ目を向けた。
グレイは小さく苦笑する。
「ライネス様も、心配になると先回りされますから」
「おや、グレイまで」
「……すみません」
智世は二人のやり取りを見て、思わず笑った。
ようやく部屋の空気が少しだけ緩む。
ライネスはそんな智世の顔を見てから、静かに本題へ入った。
「それでね」
声の調子が少し変わる。
「昼間の話を聞いてから、君に聞いてみたいことがあったんだ」
「昼間の……?」
「エリアスのことさ」
智世の表情が、わずかに止まった。
「……エリアスですか?」
「ああ」
ライネスは頷いた。
「君が結婚していることも、もちろん驚いたよ。でも、それ以上に気になったのは
――君が、彼のことをどう思っているのかということなんだ」
グレイも静かに智世を見る。
けれど、二人とも急かさない。
智世はしばらく考えていた。
エリアスのことを話すのは、嫌ではない。
ただ、改めて誰かに聞かれると、どこから話せばいいのか分からなくなる。
「……エリアスは」
ようやく口を開く。
「過保護です」
ライネスの口元が少し上がった。
「ほう」
グレイも僅かに目を瞬く。
「最初にそこが出てくるんですね」
「はい」
智世は頷いた。
「すごく心配するんです」
それは、困るほどだった。
少し疲れているだけでも気づく。
無理をしていれば止められる。
自分では大丈夫だと思っていることまで、危ないからと心配される。
それだけなら、優しい人なのだと思える。
けれど、エリアスにはもう一つ、困ったところがあった。
「それに……私に相談しないで、決めちゃうことがあります」
「君のことを?」
「はい」
智世は膝の上で指を組んだ。
「私が困らないようにって思ってくれているんだと思います。でも……」
そこで一度、言葉が止まる。
「私のことなのに、私に聞かないで決められると、やっぱり嫌です」
ライネスは何も言わずに聞いていた。
先ほどまでの軽い笑みも消えている。
「それは、ちゃんと本人に言ったのかい?」
「……言いました」
智世は少しだけ苦笑した。
「怒りましたから」
「なるほど」
ライネスが小さく頷く。
「君も怒るんだね」
「私だって怒ります」
智世は少しだけ頬を膨らませた。
グレイが小さく目を伏せる。
「それは……そうですよね」
智世は思わず笑った。
「はい」
そして、その笑みが少しずつ遠い記憶を思い出すようなものに変わっていく。
エリアスと喧嘩したときのこと。
自分のことを勝手に決められたことが嫌で、言いたいことを全部ぶつけた。
エリアスは最初、どうして自分が怒られているのか分からなかった。
自分はチセのためにした。
危険がないようにした。
困らないようにした。
だから、それが悪いことだとは思っていなかったのだろう。
「でも……話したんです」
智世は静かに言った。
「私がどうして嫌だったのか。それから、エリアスがどうしてそうしたのか」
「ちゃんと聞いたんだね」
グレイが言う。
「はい」
それは簡単ではなかった。
怒っているときは、自分の言いたいことだけを言いたくなる。
相手の話など聞きたくなくなることもある。
けれど、エリアスも逃げなかった。
自分の考えを話して、智世の言葉を聞いた。
「それで……これからは、ちゃんと話し合おうって約束しました」
ライネスが穏やかに目を細める。
「なるほどね」
それ以上、余計なことは言わなかった。
ただ、智世がその約束を大切にしていることだけは伝わっていた。
「私も、言い方がよくなかったところは謝りました」
「君も?」
「はい」
智世は頷く。
「エリアスだけが悪かったわけじゃなかったので」
その言葉に、グレイが少しだけ微笑んだ。
ライネスも何も言わず、頬杖をついた。
最初は夫への不満だった。
過保護で。
勝手に決めて。
相談してくれなくて。
それでも、その話をする智世の声には、いつの間にか棘がなくなっていた。
「……エリアスって、難しい人なんです」
智世がぽつりと言った。
「私も、エリアスのことを全部分かっているわけじゃないです」
少しだけ考える。
「たぶん、エリアスも私のことを全部分かっているわけじゃないと思います」
「それでも、一緒にいるんだね」
ライネスの問いは静かだった。
「はい」
智世は迷わず答えた。
その答えがあまりにも自然だったので、ライネスは少しだけ目を細めた。
「どうして?」
今度は、からかうためではない。
智世自身が、自分の気持ちを言葉にするための時間を待つ問いだった。
「……優しいから」
最初に出てきたのは、やはりそれだった。
「私が困っていると、すぐ気づいてくれます」
疲れていれば気づく。
落ち込んでいれば、何も言わずにそばにいる。
自分から何かを話したくないときには、無理に聞こうとしないこともある。
それでも、離れてはいかない。
「私が無理をしているときも、すぐ分かるんです」
「だから過保護なんだね」
ライネスが少し笑う。
「はい」
智世も笑った。
「そこは、ちょっと困ります」
けれど、その声には先ほどの不満とは違う柔らかさがあった。
「でも……」
智世は少しだけ視線を落とす。
「落ち込んでいるときは、そばにいてくれます」
グレイが静かに尋ねる。
「何か言ってくださるんですか?」
「何も言わないときもあります」
「それでも?」
「はい」
智世は頷いた。
「ただ、そばにいてくれるんです」
それだけで安心する。
何かを解決してくれるわけではない。
答えをくれるわけでもない。
それでも、隣にいる。
それが智世にとっては、大きなことだった。
「エリアスは……私を必要だって言ってくれた人なんです」
その言葉だけは、迷わずに出てきた。
ライネスの表情が少しだけ変わる。
グレイも、黙って智世を見ている。
「私がここにいていいって、思わせてくれました」
智世は窓の外へ目を向けた。
夜の時計塔が、静かに闇の中へ浮かんでいる。
「だから、私もエリアスのそばにいたいと思っています」
それは、師匠だからというだけではない。
夫だからというだけでもない。
もっと単純なことだった。
「一緒にいると、落ち着くんです」
智世は小さく笑った。
「家に帰ると、エリアスがいて、ルツがいて、シルキーがいて」
いつもの家。
いつもの時間。
一緒にご飯を食べる。
何でもない話をする。
時には料理を一緒に作る。
そんな時間が、智世は好きだった。
「魔法を教えてもらう時間も大切です」
智世は続ける。
「でも……普通に一緒にいる時間も好きです」
グレイの表情が、穏やかに和らいだ。
「それは、とても大切な時間ですね」
「はい」
智世は頷いた。
ライネスは、そんな智世をしばらく見ていた。
エリアスのことを話し始めたとき、智世は彼の困るところばかりを挙げていた。
けれど今は違う。
欠点があることを知っている。
腹が立つこともある。
実際に喧嘩もした。
それでも、それらを含めたうえで、一緒にいたいと思っている。
ライネスには、それで十分な答えに思えた。
「……君らしい答えだね」
「私らしい?」
「ああ」
ライネスは穏やかに笑った。
「完璧だから好き、という話ではないんだろう?」
「はい」
智世は素直に答えた。
「困るところもあります」
「それでも?」
「それでも……一緒にいたいです」
グレイが静かに微笑んだ。
「とても大切な方なんですね」
「はい」
智世は頷いた。
「私にとって、とても大切な人です」
それ以上、誰も言葉を重ねなかった。
しばらくして、智世は窓の外へ目を向ける。
エリアスは今、どうしているだろう。
きっと心配している。
もしかしたら、戻ってきたら何か言われるかもしれない。
また勝手に心配して、先回りしてしまうかもしれない。
そのときは、自分もちゃんと言おう。
勝手に決めないで。
ちゃんと私にも相談して。
そして、自分も話す。
今度は、二人で。
「……早く、帰れるといいな」
智世が小さく呟いた。
「はい」
グレイが頷く。
「きっと帰れます」
ライネスも穏やかに笑った。
「そうだね。君が帰りたいと思っているなら、帰るための方法を探せばいい」
その言葉には、ただ慰めるだけではない強さがあった。
智世は少しだけ笑う。
「はい」
そのとき、扉の向こうから小さく物音がした。
ルツが戻ってきたのだろう。
ライネスがそちらへ目を向ける。
「どうやら、女子会はここまでらしいね」
智世が小さく笑う。
「ルツ、ずっと待っていたのかな」
「たぶんね」
グレイも微笑んだ。
扉の向こうには、きっといつものようにルツがいる。
待っている者がいる。
帰りを待っている者がいる。
帰りたいと思える場所がある。
智世はそんなことを思いながら、もう一度だけ窓の外へ目を向けた。
まだ帰れない。
けれど、帰る場所を思い浮かべることはできる。
そのことだけで、今夜の寂しさが少しだけ軽くなった。